これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

私の貧乏学生時代

2020-07-11 11:19:53 | 勉強
 私は、「学生時代に幸運を使い切ってしまったのではないか?」と思えるほど、ラッキーな出来事が続いて起こりました。 それで、貧しかったですが、楽しい学生生活を送る事が出来ました。

【学資の目途は付いていませんでした】
 1967年~71年に学生でした。 私は小さい頃から「大学で勉強したい」と考えて来たのです。年老いた(当時、既に66才の)父が、「月・12,000円仕送りする」と言ってくれたので、それでは足りないのを承知で入学したのです。4年間は無理でも、やれる所までやって見ようと考えました。 (1967年の大学への進学率は13%ほどでした。2019年は54%ほどです。)

【家庭教師 :最初の幸運】
 奨学金とアルバイトで不足分を補う必要が有りましたが、大学は仙台でしたので、アルバイト口が殆ど無かったのです。 (まだ、コンビニもスーパーも有りませんでした。)

 大学が家庭教師の紹介をしていました。 入学して直ぐに申し込んだのですが、高学年優先の抽選制で、係の方から「一年生は当たりませんよ」と言われたのですが、二、三回申し込んだらラッキーにも当たったのです。 当時の家庭教師代は安かったので、一か所では食べていけません。 何回も紹介の担当者を訪ねて、「もう一か所紹介して欲しい」と頼んだら、「女の子の家庭教師なら紹介します」と言ってくれました。

 女の子の家庭教師には女子大生を紹介していたのですが、私の大学には女子大生が少なく、ほぼ抽選無しの状態でした。 多分、係の方は「私が真面目人間で、女の子にイタズラをしない」と判断してくれたのだと、勝手に思いました。

【下宿代】
 私は、大工の棟梁が自宅を増築して始めた下宿に入りました。 私が入居第1号だったのです。 大学から遠かったので、その近辺には下宿屋は無くて、下宿代を安く設定して始めた様でした。朝夕・二食付き、4.5畳で一万円でした。夏休みまでには六室中に四室が入居していました。

 秋になって、小母さんが「1.1万円に値上げしたい」と言い出したので、私は「卒業するまで値上げしないなら、1.2万円だす」と言うと、了解してくれたのです。当時、毎年・物価は数%上昇していたので、下宿代は毎年1,000円以上高くなりました。 小母さんは約束を守ってくれたのですが、下宿代を渡すたびに、「貴方に騙された」と言い続けました。 (私は、下宿代の値上がりを心配しなくて良くなったのです!)

(余談) フォークソングの『神田川』に「三畳一間の小さな下宿」とありますが、友人の下宿がそうでした。畳は三枚敷いているのですが、半畳の押し入れが天井から釣り下がっていて、下に60センチ程の空間がありました。布団の一部を、その空間に敷いて寝るのです。当時の学生は、そんな環境で頑張って勉強していたのです。

(余談) 小母さんの料理は最高に美味しかったです。4年間に十人以上の出入りが有りましたが、料理に文句を言った下宿人はいませんでした。 毎年・11月になると、多量に白菜を買って、4種類の白菜の漬物を作ってくれました。これは、本当に美味でした。他にも、ニラを多量に入れた”おすまし”とか、カレーとか、金も儲けでは無く真心を込めて作ってくれました。 私は、四年間小母さんのお世話になりました。

【大学の授業料】
 1967年~71年の国立大学の授業料は、なんと『12,000円/年』で、公立高校の授業料より安かったのです。 そして、4年間値上がりしませんでした。 私が卒業した後から急激に高くなりました。 この点でも、私は幸運だったのです!

 近年の国立大学の授業料は『535,000円/年』ですから、幾ら勉強したくても、私の様な貧乏な家の子供が国立大学に入るのは非常に難しいと思われます。

(余談) 大学の無償化が議論されていますが、勉強が嫌いな子供が入る大学の無償化には反対です。中小企業に出向した時、簡単な仕事以外は担当させられない社員がいたのですが、彼は『大学卒』がばれてしまいました。「学歴詐称で首にすべきだ」と言うのを、私は止めました。 『鉄は熱いうちに打て』と言いますから、「彼が高校を出て直ぐに仕事を始めていたら、もう少し正面(まとも)に仕事が出来たのでは」と思いました。 国も貧しくなってきていますから、有効な金の使い方を考えるべきです。

【全学連の学生運動】
 私の学生時代は、全学連の学生運動が盛んな時期でした。私の大学には活動家は少なかったと思いますが、東京から沢山遠征して来ました。 リーダーは殆ど東京の学生だった様です。 彼等は、屋外ではヤジ演説をしませんでした。

 授業が始まると、三、四人の暴力学生が侵入して来て、教室を乗っ取るのです。リーダー以外はヘルメットをかぶり、顔を手拭いで隠して、鉄パイプを持っていました。大学の授業は100分単位でしたが、その間、馬鹿馬鹿しいリーダーのアジ演説をジット我慢して聞く以外には無かったのです。 寝たり、読書をすると、鉄パイプで思い切り殴られるのです。 (私は、殴られて頭に大きな瘤(こぶ)が出来たのを何回か見ました。)

 私が入学する前に、「出ていけ!」と叫んだ先生がおられたそうですが、鉄パイプでコテンコテンにやられたそうです。 先生達は椅子に座る事も許され無くて、100分間立ち続けました。

 教養部では、10%以上の授業が出来ませんでした。 不思議に、彼等はテスト中はお休みでした。多分、彼等もテストを受けていたのだと思います。 先生達は授業の進捗状況に関わらず、予定通りに授業をしたと言う内容の問題を出しました。

 工学部は幸いにも山の上に有ったので、殆ど暴力学生は来ませんでした。 私のゼミ担当の教授は、前年に全学連の学生の被害に遭った(?)らしくて、全く講義をされず、ゼミは助教授に押し付けていました。 教授は授業をし無かったのに、テストだけはやりました。

(余談 :疑問に思う事) 「学問の自由、言論の自由が最も大切だ!」と言う理由付けで、全学連の横暴を大学側は許容していた様でした。 然し、暴力は犯罪で、刑事罰の対象です。 金額は少なかったですが授業料を払っていたのですから、学生には授業を受ける権利が有ります。 自分の考えを、暴力を使って無理やり相手に聞かせることが、『言論の自由』だと皆さんは思われますか? 「警察の力を借りてでも、全学連を学外に退去させるべきだ」と思いました。

【教科書】
 仙台には古本屋が数軒並んだ通りが有りました。 先生達は毎年同じ教科書を使うので、全ての教科書が格安の値段で入手出来ました。 教科書以外の本も、古本屋で買いました。

(余談 :一万円) 使い込んだ・箱付きの独和辞典を買ったのですが、”なんと”一万円札が挟まれていました。「奥さんが絶対に手を出さない本を選んで、旦那が臍繰りを隠していたのだ」と想像しました。

(余談 :カフカ) 一年生の時に難解で有名なフランツ・カフカの『歌姫ヨゼフィーネ』の文庫本を古本屋で買いました。 和訳してくれてもカフカは難しいですね! (この文庫本は当時は絶版になっていたと思います。) 殆ど読まないで放置していたのですが、二年生のドイツ語のテキストが『歌姫ヨゼフィーネ』だったのです。 私は翻訳本を参考にして予習していたのですが、教授は毎回・一回は私を指名しました。 「君の訳は素晴らしい!」と褒めてくれましたが、凄く”後ろめたかった”です。

【娼婦のお蔭で、卒業までやって行ける目途が付きました】
 1年の夏休みが始まると、早々に東京の姉の家に転がり込んで、途中・畑の畦道を通ると30分弱で行ける豊島園でアルバイトをしました。 (豊島園は今年閉園しました。)

 沢山・学生アルバイトがいましたが、徒歩通勤は私だけでした。 私は電車の最終時間以降も働けたので、チケット売りだけでなく、閉園後に残ったお客さんに帰って頂く仕事もさせて頂きました。 アフリカやエスキモーの住居を真似た小さな小屋が点在していたのですが、担当の方と手分けして内部を確認して回る仕事でした。殆どの小屋にアベックが残っていて、ラブホテルと勘違い?していました。時々、真っ裸のカップルさえいました。 一、二回注意しても帰らないカップルもいて、2時間以上残業?する日も有りました。

 担当の方と親しくなって、3日ほど後に、「明日から素晴らしい売り場に廻してあげる」と言ってくれました。 人気のお化け屋敷のチッケット売り場で、売り子が一人しか入れない小さな建物でした。 毎日朝11時頃になると、厚化粧で/ど派手な服を着た二十歳前後の女性達が集まってきて、その頃から米兵と思われる青年達も集まって来ました。

 彼女達は結構流暢な英語で商談を始め、成立すると青年がチケットを千円札で2枚買いました。 大抵、釣銭を取らずに行ってしまうのです。 中には、五千円札や一万円札を出して、釣り銭を取らない青年もいました。 売り子は私一人ですから、追っ掛ける分けには行きません。 持って行かなかった釣銭は別に取っておいて、閉園後に担当の方に相談すると、「その金を会社に入れると経理処理が難しいので、君が貰っておいて下さい」と言ってくれました。 担当者が『素晴らしい売り場』と言った意味が分かりました!

 田舎で待っている両親に会うための往復の旅費を稼ぐためにアルバイトしたのですが、20日強働いて予定を遥かに超えるお金を得る事が出来ました。なんと!十万円以上・貯金が貯まり、ほぼ四年間やって行ける目途が立ちました。

【蔵王でスキー】
 豊島園のアルバイトで得た金で、スキー用具を一式買いました。 大学主催の格安のスキー教室が、毎年二、三回蔵王温泉で有ったので、1年生と2年生の時は毎回参加しました。安い!安い!旅館に二泊した様に記憶しています。 (この費用も、豊島園で得た金を当てました。)

 パラレル・クリスチャニアが出来る様になってからは、安い宿を探して、自分一人か友人と二人で出掛けました。 皆さん!蔵王地蔵尊に行って、樹氷を見て下さい! 素晴らしいです! 学生時代の最も楽しかった思い出です。

【おかき屋さんのアルバイト】
 1年生の冬休みに”おかき屋”さんのアルバイトを見付けました。 御主人に気に入ってもらえたので、休みの前になると、御主人が下宿までこられて「何時から来てくれるか?」と言って頂きました。 当時の仙台にはアルバイト口が少なかったので有難かったです。

(余談 :松の葉) この店では、一年に一回だけ見事な”おかき”を作りました。 最高の糯米を弐升ほど、入念に餅にして→硬くなったのをマッチ棒程に切り→乾燥させて→醤油に砂糖を加えて煮た液体を餅に絡め→二本をクロスさせ→青海苔の粉を塗し(まぶし)て出来上がりです。 (想像して見て下さい!)色も形も松の葉の様に仕上がりました。 膨大な手間が掛かるだけでなく、歩留まりが非常に悪く(作業中に餅が壊れてしまう等)、とんでもない金額で売らないと利益が出ない逸品でした。 仙台で有名な茶道の先生方に、日頃のお礼として配っていた様でした。

【工場実習】
 3年生の夏休みに大手鉄鋼会社(S社)の尼崎工場で、2週間ほどの工場実習の応募が有りました。宿/食事付き、日当有り、その上・仙台から大阪までの往復旅費付きでした。毎年・夏休みに、紀州に帰省していたので、私にとっては願っても無いアルバイトだったのです。

(余談 :国鉄のキップ) 仙台から紀州の実家に帰省する時は、乗車券を「東北線→東海道線→大阪→紀勢線→名古屋」にすると安かったです。当時、新宮から東京までの夜行列車が有り、安かったので何時も利用しました。 『青春18キップ』はまだ発売されていなかったと思います。

(余談 :工場の昼食) 工場の食堂で昼食を頂いたのですが、病院食より酷い味でした。S社は求人の一環として工場実習をやったのだと思いますが、「一生不味い昼食を食べるのか?」と考えたら、S社に就職する気にはなれませんでした。 一般に・どの会社も業者に社員食堂を利用させませんが、私は設備診断、自動化のアドバイスなどで全国の会社を訪問したので、特別に社員食堂の利用を許してくれました。 2000年代になってもS社の時と同様に、「二度と食べたく無い」と思う会社が多々有りました。

【就職が決まった会社からの奨学金】
 私が4年生になった年は、多分、戦後最も求人難だったのではと思います。当時は、4年生になって就職活動しました。 私は工学部でした。 各科に就職担当の教授がおられ、その方から推薦状を頂かないと、企業に応募出来ませんでした。 理由は今でも分かりませんが、「(ゴーン氏が務めていた)N自動車会社以外には推薦状を出さない」と言われました。

 私は自動車関係の仕事はしたく無かったので、何回も、何回も、教授室に行って「他の会社への推薦状を書いて下さい」とお願いしましたが、「N社以外は絶対だめだ」の一点張りでした。ゼミの教官に相談すると、「N社にはペーパーテストが有るから落第点をとれ、探偵社が身辺調査をするから、下宿の小母さんに適当に言ってもらえ」とアドバイスして頂きました。

 N社は東京往復の旅費を支給して、旅館も手配してくれました。 試験の問題は非常に簡単で、白紙で出してはいけないとアドバイスして貰っていたので、(無い知恵を絞って)試験官が思わず笑ってしまう回答を書きました。 貴方は、落第点を取るための試験を受けた事が有りますか?! 結構、楽しかったです!

 毎年・雪掻きを一緒にやった隣の若い奥さんと、下宿の小母さんに、「探偵社が来たら、女好きで、酒飲み・・・」と言って欲しいとお願いして置きました。 本当に探偵社が来ました。

 N社から(嬉しい)不合格の連絡があって、教授から希望企業(K社)への推薦状を頂いたのが7月の始めでした。 友達は皆、既に就職先が決まっていました。 K社の学生向けパンフレットを見ると、以前には無かった「一年間、月一万円の返却不要の奨学金を支給する」と言う紙が入っていました。 (すんなりと、推薦状を貰っていたら、奨学金は貰えなかったのです!) 応募すると数日で内示を頂き、その月から奨学金が振り込まれました。

 この奨学金は非常に有難かったです。4年生になると、卒業実験とゼミの担当教官から渡された沢山の論文を纏めた報告書の作成等々で、家庭教師をする時間を取るのが難しい状態だったのです。

(余談) K社からの、ある月の振り込みが『100万円』と通帳に記載されました。天の恵みか! 一万円だけ出して、残りはそのままにして置きました。 仙台を去る前に全額引出しに行ったら、長いこと待たされて、支店長が出てきて、「この100万円はミスでした」と言われて、結局数百円引き出しました。

【勉強と遊び】
 私の学生時代のモットーは「よく遊び、そこそこ勉強する」でした。 2年生の2学期から機械工学の勉強が始まり、授業の他に設計/製図やレポートの作成やらで、要領よく勉強しないと遊ぶ時間が出来ない状態になりました

 私は、「大学は学問の基礎を学ぶ所だ」と今でも思っています。 日本は幸いにも大学の成績が、アメリカや韓国の様に入社の合否判定にも、昇格にも関係しません。 仕事に必要な知識は、大学で勉強した学問の範囲に収まりません。 そして、もっと広く/深い知識が必要になります。 会社で一流と言われる技術者達は、入社後に本格的に勉強した人達です。

 スキー、マージャン、囲碁、クラシック音楽等に結構・時間を割きました。クラスで何かする時は必ず参加しました。勿論、飲み会にも! 入社して仕事に必要な工学的な勉強に取り組みましたが、大学で勉強した時よりも、格段に身に付きました。 次回は、社会人になってからの勉強について書きます。


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