これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

紙の話し (その2-2)

2019-08-24 00:28:58 | 工業技術
 前回に引き続き、紙を綿にする機械(エコパルパー)と有機肥料を作る”植繊機”の開発についての話しです。開発を途中で終わってしまったので、何方かが一つでも実現してくれる事を期待して書きます。

【エコパルパー】
 エコパルパーで作った紙綿の特性についても研究したのですが、当時世界一と言われていたアメリか製の機械で作った紙綿を入手して比較しましたが、私の綿の方が種々の点で優れていました。何社かから引き合いが有りましたが、(システムで販売する計画でしたので)機械単体で売る許可が得られず、エコパルパーは一台も販売せずに開発は終了しました。

(余談) 私が定年退職したら、(特許も切れるから)静岡県に有った山本百馬製作所さんに設計ノーハウを伝授しようと考えていたのですが、残念なことに倒産していました。山本百馬さんの機械は、原理を解明しないで設計した様で、不必要な個所が頑丈になっていて、騒音が大きく、大きなエネルギー(電力)が必要でした。

【牛乳パックの紙綿】
 牛乳パックから紙綿を作って欲しいと言う話が入りました。当時、牛乳パックは古紙屋から入手出来無かったので、工場の各部署に、「牛乳パックを持って来て頂きたい!」と言う、回覧を廻しました。直ぐに、沢山持って来て頂けました。本当にありがたかったです!

 真っ白い、フワフワの綿が出来ました。(インクの量は予想以上に少なかったので、綿は白かったのです。)パックの内側に薄い樹脂膜があるらしいのですが、顧客から「その膜も粉砕された様で確認できなかった」と報告が有りました。

【紙綿の利用 :1】
 大手商社のM社から、ドイツ(?)で開発された「アスファルトに紙綿を混ぜる技術」の話しが舞い込みました。道路に敷かれたアスファルトが水を通す様になって、大雨時でも水溜まりが出来にくくなる為にスリップ事故が減少し、車のタイヤが発生する騒音も低下出来ると言うメリットが有りました。

 私は、必要な機械の検討をして、上司とM社の担当者が当時の運輸省に説明に行きました。なんと、運輸省はその技術を知っていたのです。「この技術については他言無用!」と厳しく言われたそうです。当時、市街地を走る高速道路の騒音訴訟が多数争われており、この技術を導入する計画を進めていたのです。一度に施工する予算が取れないので、効果は秘密にして、少しずつ進める腹積もりだったのです。

 現在では、皆さんの身近の道路でも、この技術が採用されています。スリップ事故も車の騒音も、かなり減少していると思われますが、気付かれていますか?

【紙綿の利用 :2 パルプモールド】
 現在、卵(玉子)はプラスチックの容器に入れて販売されていますが、昔一時期、グレーの紙製の容器に入れていました。あの容器がパルプモールド製です。古紙を水の中で繊維状にし、そのドロドロの液を、金網製の型に流し込んで、成形品を作るのです。

 パルプモールドを手掛けている大手の会社に、紙綿を持ち込んで実験してもらいました。水の切れが信じられないほど良いのです。(肉厚の成形品を短時間に製造出来る事になります。) 私の紙綿を水に入れて攪拌しても、繊維の表面に空気が残るので、水切れが良いのだと私は考えています。

【紙綿の利用 :3 藍の茎の無臭発酵】
 藍染の染料は藍の葉を発酵させて作り、茎は不要物です。茎には窒素分が多いいので、腐ると悪臭を発する様です。徳島県の農家から、堆肥化実験の依頼が有りました。彼が待ち合わせ場所に指定したコンビニに、(前稿に書いた町の発明家の)H氏と植繊機、発酵槽そして紙綿を持って行きました。

 彼は、軽トラに藍の茎を満載してやって来ました。 「コンビニの駐車場で処理して、発酵槽をコンビニの出入口から3メートル程の所に設置してくれ」と言うのです。「臭いが出ないのだったら、コンビニの出入口に置いても問題ないはずだ」と言うのです。(24時間営業ですから、悪臭の有無を確認するには最適の場所です。)

 藍の茎は予想に反して水分が少なかったので、殆ど紙綿を添加する必要が有りませんでした。2週間程して、結果を確認に行きました。コンビニの店長から、「臭いは全く出なかった」と聞いて安心しました。発酵槽を開けて見ると、一面に大きなキノコが生えて、発酵はほぼ終了していました。実験は大成功だったのです!

(私の目論見) 神戸港には、野菜や果物が海外から多量に入って来ますが、数パーセントは廃棄されているとの情報が有りました。野菜や果物には水分が多いいので、紙綿を添加して植繊機で混錬したら、無臭発酵する事を既に確認済みでした。私は、神戸港を有機肥料の製造地にしようと考えていたのです。

【紙綿の利用 :4 魚の腸を有機肥料に】
 魚の腸(はらわた)が腐ると酷い臭いを出しますが、植繊機に腸と適量の紙綿を加えて混錬し、紙綿に水分を吸収させると殆ど臭いを出さずに(短時間に)発酵させる事が出来ました。植繊機が排出した処理物は外気より20度ほど高温になりますが、(真冬に行った実験でも)処理物の温度は低下せずに、逆に徐々に上昇し発酵が直ぐに始まる事を確認しました。

 有機物を腐らせる菌には、好気性菌と嫌気性菌があります。腐敗時に悪臭を発生するのは嫌気性菌による腐敗です。好気性菌が有利になる環境にしてやれば、臭いは殆ど出ません。有機物を腐らせて有機肥料を作る時、悪臭が出ると、貴重な窒素分がガスになって飛んでしまいます。

 1990年頃、関西の大手魚屋等から出る魚の腸は、専用のトラックで関西空港の近くの焼却設備に運んで燃やしていました。私達が考案した方法で有機肥料化したら、繊維が沢山入った養分タップリの有機肥料を、安価に製造出来るという確信がありました。(魚粉肥料に繊維を加えた様な、新種のミネラルたっぷりの肥料が出来ると考えたのです。)

 ”甘い桃”や”甘い蜜柑”の農家を、それと無く調べて見ました。(そう言う農家は、栽培ノーハウを秘伝にしていて、詳細は絶対に聞き出せませんでした。)苦汁(にがり)を種々の有機肥料に混ぜたり、魚粉肥料を使用している様でした。「ミネラルが果実を甘くすののでは?」と私は考えています。

(余談) 我が家の庭にユスラウメ(山桜桃梅)を植えていました。魚粉肥料を使ってみると、山形の”さくらんぼ”に近い甘さになりました。散歩する大人達に試食してもらいましたが、「子供の頃に食べたユスラウメより、ずっと甘い」と何人かが言ってくれました。

(余談) イチゴは海に近い畑で育てると、実が甘くなると言う話を聞いた事が有ります。私は、風が海のミネラルを運んで来るからでは?と考えています。

【籾殻粉砕機】
 若い人達の為に(老婆心ながら)、白い米をどんなにして作るか?書いておきます。①稲の実が付いている所を”稲穂(いなほ)”と呼びます。→②稲穂から実を外す事を”脱穀と呼び、”籾(もみ)”なります。→③籾の表面を覆う殻を”籾殻”と呼び、籾殻を除去したら”玄米”になります。→④玄米の表面を削る事を”精米”と呼び、”精白米”と”米ぬか”が出来ます。精白米を袋に入れて、スーパーなどで販売しているのです。

 脱穀は稲穂を扱(しご)いたり、叩いたりしても出来ますが、私が子供の頃は、どの家にも木製の足踏み式脱穀機が有りました。

 精米は、一升瓶に籾を入れて木の棒で根気よく突いても出来ます。私が育った集落に、田畑を所有しない(よそ者の)独身の男性が住んでいました。彼の家が火事で半焼した時、一升瓶に籾を入れて精米途中だったのです。彼は、夜中に他人の田から、籾を盗んで来て米を得ていたのです。集落の人達は、雀が食べるていると思い込んで、愉快な案山子を作ったり、色とりどりのテープは張ったり、雀除対策の競争をしていたので、一升瓶を見て皆で大笑いしました。彼は、その後も盗みをしましたが、集落では許容していました。私の父は雀対策競争には参加しなかたので、多分、彼が犯人だと知っていたと思います。(籾の被害は夜に発生しましたが、雀は夜は寝ています。) 集落の各家から建材を持ち寄って、総出で彼の家を建て直しました。小さな家でしたから、二三日で完成しました。

 子供の頃、足踏み精米機を使用している農家が有りました。精米は子供の仕事でしたから、その家の子供と遊ぶためには、私も手伝う必要が有りました。水車精米機も動いていました。どちらも、石臼に籾を入れて、太い棒を上下させて、籾を突いて精米をするのです。

 村に一軒、モータ駆動の精米機を置いた店が有りました。我が家はそこで精米してもらいましたが、”精白米”と”こめ糠”だけでなく、籾殻も持ち帰らなければなりませんでした。籾殻は結構厄介ものなのです!

 もみ殻は軽い上に、なかなか腐りません。田にすき込んでも、水を張ると浮上して、排水口や排水溝を詰まらせてしまいます。昔から、全国の農家では籾殻は焼却していました。然し、チョロチョロとしか燃えてくれず、その上煙が酷いのです。長野オリンピックの時に、「信州では籾殻の焼却は禁止された」と言う記事を読みました。その頃から、全国的に焼却は難しくなって行きました。

 植繊機の販売を始めた頃、「某JAの籾殻倉庫が満杯になっているので処理してやって欲しい」と言うので、トラクターと植繊機を持って行きました。真新しい大きな倉庫が、ほぼ満杯になっていました。処理(粉砕)を始めると、農家の方が沢山集まってこられて、見物されていました。粉砕した籾殻が吸水するか?等実験していたら、「貰っても良いか?」と言われる方がいて、「どうぞ」と答えると、皆さんが軽トラに積み始めました。

 植繊機は試作1号機から、籾殻の様に硬い物でも処理出来る様に、摩耗が激しいと予想される個所には硬度の高い材料を使用し、その部分だけ取り替えられる構造にしていました。電動の植繊機は、籾殻粉砕機として、今でも販売されているようです。

【町の発明家】
 この開発をやっていた頃、3人の町の発明家と時々話をする様になりました。皆さん、それぞれ独特の個性が有って、(普通の正常な人は付き合いきれないと思われますが)私にとっては愉快な方々でした。

 A方式が良いか?B方式が良いか?議論していたとします。町の発明家はA方式が良い、私はB方式の方だと言ったとします。暫くすると、彼は「君はA方式が良いと言ったが、君は馬鹿だ!絶対にB方式で無いとだめだ!」と言い出します。「貴方がA方式と言いましたよ」と言うと、二度と会ってくれなくなるのです。そういう性格だから、次々とアイディアが湧くのでしょう。

 その後、新たな町の発明家3人の面識を得ました。6人に共通していたのは、特許権を数件取得して、その内の1件か2件で纏まった金を手に入れましたが、金を使い切って、私がお会いした頃は夢を追って生きていました。町工場の社長さんだったりで、生活に困っている方はいませんでした。

(余談) 終戦直後、瀬戸内海には海賊が出没して、闇物資を輸送する船から法外な通行料を取ったそうです。海賊は、旧海軍の機関銃付き小型船を使用していたそうです。町の発明家の一人から、「旧海軍の小型高速船を入手して、四国から大阪・神戸に闇物資を運んで大儲けした」と言う話を、よく聞かされました。

【エピローグ】
 1993年に阪神淡路大震災が発生し、会社の設備が多数破損しました。会社の経営が苦しくなって、開発費の大幅削減が始まりました。その為に、私達の開発は1995年度で終了する事になってしまいました。会社での仕事はエコパルパーと植繊機が最後の仕事になりました。そして、私は出向する事になったのです。

 私は技術屋として自信が有ったので、”武者修行”の様に、会社とは取引の無い企業に出向して、全く経験の無い分野で”力試し”をしたいと申し入れました。色々有りましたが、最後には私の希望を認めて頂きました。

 最初は製紙機械の設計/製造の技術志向の小さな会社に出向したのですが、私の会社の理不尽な命令で別の会社に回され→・・・結局定年までの10年間で5社に出向しました。製紙機械、製薬機械、食品機械、フィルムの機械、熱交換器など・・・。数学、機械工学だけで無く、電気工学の知識が必要な機械も担当しました。技術屋としては、出向してからの方が、充実した楽しい日々を過ごす事が出来ました。武者修行に出て、大正解だったのです!


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(余談) 私の長男には、安倍晋三氏と同じようなアレルギー性の持病が有ります。「無農薬有機野菜だとアレルギーの発症を抑えられるかも?」と言う記事を読んで、(会社では誰にも言いませんでしたが、)有機農業の研究に取り組んだのです。開発終了が決定する数週間前に、息子さんが米アレルギーで大吟醸酒を作る米しか食べられない母親から、「家庭で大吟醸酒米が作れる、手頃な価格の精米機を開発して欲しい」と言う手紙が来ました。

 当時、息子は少し病状が良くなっていましたが、具の入っていない小さな”おにぎり”を一日に一個しか食べられませんでした。自分事の様に思えたので、早速、家庭用精米機のメーカーを調査し、何とか出来ないか?検討しました。結局時間切れで、開発出来ませんでした。今でも、心残りです。


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