【はじめに】
今回は幕末から明治初期までの改革について書きます。
先週、幕府の軍事改革について書きましたが、島津斉彬が薩摩藩で西洋技術を研究して富国強兵政策を進めました。明治になって、紀州藩では、たった3年間で藩政と兵制の大改革を断行しました。 やろうと思えば日本人も短時間に大改革が出来るのです! 「現在は選挙の有る民主主義国家だから、島津斉彬や紀州藩の津田出の様な事は出来ない!」と政治家や官僚は言ってはいけません。
【薩摩藩の改革】
長州藩は尊王攘夷の急進派が主流になっていましたが、1863年に伊藤博文ら5人がイギリスに留学しました。イギリスの国力を見て「攘夷などはトンデモナイ」と気付き、伊藤博文と井上馨は急遽・64年に帰国しました。伊藤博文の奔走も空しく、連合艦隊を砲撃しました。・・・下関戦争→その後、長州は攘夷思想から脱却出来たのだと思います。
1851年に島津斉彬(なりあきら)が薩摩藩主になり、西洋文明/技術を取り入れた富国強兵政策を始めました。斉彬は尊王攘夷とは真逆の考え方を持っていました。 幕府と協力して富国強兵を図ろうとしたのです。 そして、小禄の西郷隆盛を重用しました。
58年に斉彬が急逝した為、斉彬の異母弟の久光(忠教)の長男・忠義(18歳ほど)が藩主になりました。父・久光が薩摩藩の実権を握りました。久光は斉彬が始めた改革を進めました。小禄の大久保利通等々を抜擢して、薩摩藩が幕末を主導する元を作ったのです。 1862年には、寺田屋に集結していた尊王攘夷派の薩摩武士を殺害しました。これが、第1回目の寺田屋事件です。
当初の久光の考え方は「雄藩連合・公武合体」でしたが、幕府に見切りを付けて「鳥羽伏見の戦い」→「戊辰戦争」を断行しました。
そして、明治新政府では薩摩藩出身者が沢山活躍する事になったのです。①西郷隆盛、②大久保利通、③小松帯刀(1870年歿)、④寺島宗則、⑤川路利良、⑥大山巌、⑦東郷平八郎、⑧黒田清隆、⑨松方正義、⑩五代友厚・・・
★ 藩主=斉彬 :1851年~58年
★ 国父=久光 :1858年~
★ 薩英戦争 :1863年・・・引き分け(講和)
(注記 :寺田屋事件) 寺田屋事件は2回有りました。2回目が、1866年に幕府の伏見奉行が坂本龍馬を襲撃した事件です。67年に坂本龍馬が暗殺されたのは近江屋事件です。
(注記 :小松帯刀) 小松帯刀は、幕末から明治初期に活躍しましたが、高禄の武士でした。5,500石の肝付家の四男で、後に2,600石の小松家の養子になりました。
【戊辰戦争と銃】
歴史が大転換する時には、戦争のやり方や武器の進歩が関係します。それで、私は若い頃から武器の進歩に興味が有りました。幕末から戊辰戦争までは、欧米で銃の目覚ましい進歩が有りました。日本にも種々の銃が入ってきました。戊辰戦争では新旧・様々な銃が使用されました。
一方、新島八重にも興味があり、NHKの大河ドラマは殆ど見ないのですが、2013年の『八重の桜』は見ました。会津若松城籠城戦のシーンで八重が使用していた銃が、アメリカで1860年~69年に製造されたスペンサー騎兵銃です。射程距離は180m程しか有りませんが、7連発式で一分間に20発以上撃てる最新の銃だったのです。この銃は幕府軍の一部が採用しましたが、高価だったのと、銃弾の国産化が出来なかった等の理由で主流にはなりませんでした。
戊辰戦争では、東北の藩では火縄銃も使用した様です。先込め銃/元込め銃、ライフル有り/無し、ほとんど単発銃でしたが連発銃も使用され、射程距離も様々な銃が使用されました。銃の見本市の様な戦いでした。
【明治新政府の問題点】
新政府には2つの重大な問題が有りました。❶金が無かった、❷手前の(自分の)軍隊を持っていなかった。金は徳川家の領地の大半を没収して、豪商から支援を受けるなどの工夫をしましたが、十分とは言えませんでした。→→廃藩置県が必要だったのです。
自前の軍隊を持つ事については、長州は『徴兵制の軍隊案』でしたが、薩摩は『武士を主体にした、各藩の藩兵を新政府に差し出す案』でした。両藩の話し合いは決着しませんでした。
明治2年(1869年)から下に述べる紀州藩の改革が始まりました。西郷隆盛は、弟(後の西郷従道)に紀州藩の近代的な軍隊を視察させました。その後、薩摩藩は『徴兵制の軍隊案』に同意して、1873年に徴兵令を布告しました。
★ 1869年(明治2年) :版籍奉還
★ 1870年(明治3年) :各藩が持つべき軍隊の規模(常備定員)を指示した。
★ 1871年(明治4年) :薩摩・長州・土佐の兵(≒6,000名)を新政府の支配下に置いた。・・・新政府が軍隊を持ったのです。
★ 1871年(明治4年) :廃藩置県
★ 1872年(明治5年) :紀州藩の軍隊は新政府の命令で解散し、歩兵一大隊と砲兵一大隊が政府軍に入りました。
★ 1873年(明治6年) :徴兵令
【徴兵制は武士身分の廃止を意味しました】
徴兵制の軍隊にする事は、世襲/家柄による武士の制度を根本的に破壊する事を意味します。(徴兵制で集められた兵隊は、世襲では無くて、任期が終わると”お役御免”になります。)
江戸時代には戦争になると、(武士の)当主が石高によって決められた陪臣を伴って参戦する事になっていました。然し、幕末には、刀、槍、火縄銃を持って参戦する時代では無くなっていました。
戊辰戦争で西洋式の軍隊の威力を実地で学んだのだと思われます。西洋式軍隊とは、同じ銃を持った兵隊達が沢山いて、その上に指揮官がいる軍隊です。幕府も各藩でも、武士の禄高と家格(かかく)が細かく分かれていて、身分差が有りました。 西洋式軍隊では、兵隊は同等でなければなりません。 兵隊達の間で、「俺は直参だが、お前は陪臣だ!」、「俺の禄高の方が10石多いい!」などと威張る事は許されません。
【紀州藩の改革】
明治政府が統一国家を想像以上にスンナリと樹立出来たのは、❶廃藩置県を断行した、❷政府の政策を全国で実施する行政組織を作った、➌近代兵器を装備した軍隊を創設した・・・などを短期間に実行した事が要因だったと思います。
最初に近代国家の有り方を考えて実行したのは、薩長土肥の武士達では有りません。紀州藩だったのです。 紀州藩は御三家の一つでしたから、徳川幕府が崩壊して難しい立場になってしまいました。新政府から三回多額の金(合計16万両ほど)を要求され、存亡の危機に有りました。 新政府に恭順を示すと同時に、1968年(明治元年)に津田出(いずる)に命じて藩政の改革案を検討させました。
津田出は、紀州藩出身の勤王の志士だった陸奥宗光に❶郡県制度、❷徴兵制度などの改革案を伝えました。陸奥は1869年に新政府に「廃藩置県の意見書」を提出しましたが、受け入れられませんでした。 それで、陸奥は官職を辞して紀州に帰り、津田と藩政改革に着手したのです。
武士の家禄を90%カットして金を捻出し、身分によらない徴兵制を採用し、プロイセン王国式の軍隊を創設しました。武士の特権の一つで有った『武力』を、徴兵制による近代的な軍隊に変えたのです。
1869年(明治2年)から改革を始めました。初年度の徴兵は、職を失う武士の子弟を救済する為に実質的に応募兵制にし、翌年から身分を問わない(四民平等の)徴兵制が実施されました。
1870年3月時点には、常備兵7,311人、馬260頭も有りました。(1873年の日本陸軍の常備兵は46,350人でした。) たった2年で、歩兵6連隊、騎兵大隊、工兵隊、輜重(しちょう)隊(輸送が任務)、兵学寮(兵隊の学校)、病院、火薬兵器司を設けた、本格的な軍隊を整備したのです。
1871年(明治4年)に新政府の命令で軍隊を解散しました。翌年、歩兵一大隊(600名)と砲兵一大隊(300名ほど)が政府軍に入りました。
津田出は、藩士に藩財政が逼迫している事実を明確に示しました。 家禄を1/10にカットされた藩士達には、登城する必要が無い、内職/アルバイトの自由、移転の自由、農民/商人/職人になる自由を与えました。(「家禄の10%の金を毎年支給するから、自分達で何とか仕事を見つけて、生きてくれ」と言ったのです。)
江戸時代の各藩では、藩の支出は「藩主の生活費」と「武士達の給料、行政費」が区別されていませんでした。 紀州藩は、藩主に渡す分を明確に区別し、藩から月給を貰う様な形態にしたのです。そして、今で言う『役人』が藩の行政を行う様に変更しました。従来の世襲では無く、役人の人材登用にも力を入れました。
(教訓) 紀州藩の改革は、有能で信頼のおける官僚に全権を委任したら、大きな事が出来る事を証明しています。
(余談) 私の故郷は紀州です。平地は少ないですが、魚介類が豊富な海が有り、雨が沢山降るので開墾すれば畑が出来、植林に適した山林が多いいなど、食べるだけだと何とかなります。紀州藩の武士達は家禄を90%もカットされましたが、飢える事無く何とか耐えられたのではと想像します。
国が大混乱に陥って、就職口が殆ど無くなったとします。 会社が貴方に、「会社が大変な状況になったので、明日から出社しなくて良いが、給料は90%カットする。その代わり、自由にアルバイトし良い。」と言ったとします。紀州藩の武士達は、反乱を起こすことなく、藩命に従ったのです。 私の父は職業軍人でした、終戦の翌年に家族7人で紀州の故郷に帰って、山林と木材の商売をし/山を開墾して何とか生き延びました。
(余談 :紀州藩) 御存じの様に紀州藩は御三家の一つです。石高は55万5千石で、紀伊一国37万石と伊勢の一部17万9千石を支配しました。その一部を付家老の安藤家(紀伊田辺藩)(3万8千石)と水野家(紀伊新宮藩)(3万5千石)が治めました。
【明治維新の富国強兵政策】
明治維新では、何故?スンナリと封建体制から統一国家に移行出来たのでしょうか?! 幕府と各藩の武士達が『文官僚』と『武官僚』を兼ねていたからだと私は思います。
幕末の志士達は「尊王攘夷」と言う思想で立ち上がった分けですが、戊辰戦争中に主だった志士達が、「攘夷」なんてトンデモナイ事だと気付いたのだと想像します。 武士には間違いを改める柔軟性が有った様に思います。
戊辰戦争に勝利した薩長土肥の上級武士達は、(攘夷思想とは真逆に)金を工面して外国人の顧問、教育者、技術者を沢山雇入れて、種々の分野で強力に近代化を推進しました。
維新後に活躍した為政者(大臣等)と官僚達は高等教育を受けていませんが、以下に示す様に、矢継ぎ早に改革/近代化を進めました。現在の為政者と官僚達はほぼ全員が高等教育を受けていますが❕❕
★ 戊辰戦争 :1868年(明治元年)
★ 廃藩置県 :1871年(明治4年)
★ 東京砲兵工廠 :1871年(明治4年)・・・小銃の製造
★ 貨幣を発行 :1871年(明治4年)
★ 紙幣を発行 :1872年(明治5年)・・・明治通宝(政府が発行した紙幣)
★ 富岡製糸場 :1872年(明治5年)
★ 新橋―横浜間の鉄道 :1872年(明治5年)
★ 横浜にガス会社 :1872年(明治5年)・・・日本初のガス灯が灯りました。
★ 国立銀行 :1873年(明治6年)・・・紙幣発行・・・民営の銀行
★ 大阪―神戸間の鉄道 :1874年(明治7年)
★ 有恒社 :1874年(明治7年)・・・日本で初めて洋紙の生産を行った。
★ 東京帝国大学 :1877年(明治10年)
★ 日本銀行 :1882年(明治15年)・・・紙幣発行
★ 釜石鉱山田中製鉄所 :1887年(明治20年)・・・民営企業
★ 琵琶湖疏水 :1890年(明治23年)・・・琵琶湖の水を京都へ
★ 蹴上(けあげ)発電所 :1891年(明治24年)・・・日本最初の水力発電所
(余談 :石炭) 石炭の採掘は江戸時代から行われて来ました。18世紀の初頭に瀬戸内地方の製塩業者が安価な石炭を使う様になって、石炭の採掘が盛んになったと言われています。長崎のグラバー邸で有名なトーマス・グラバーと佐賀藩が、1968年に高島炭坑の開発に着手しました。明治時代になって石炭産業は国家として重要になり→→花形産業になりました。
三井、三菱、住友などの財閥系石炭会社には、東大、九大、北大などから優秀な技術者が集まりました。然し、戦後は斜陽産業になってしまいました。1980年頃・私は、東京の旧丸ビルに本社の有った三菱石炭鉱業(株)を数回訪問して高価な設備を買って頂きました。打ち合わせに数人出られましたが、皆さん旧帝大卒の定年間近の紳士でした。この時は「将来、私も紳士になろう!」と考えたのですが、粗雑な私には無理でした。
【旧態依然とした清朝】
幕末から明治時代の清朝は、『反面教師』として参考になります。明治になって、日本は国を挙げて近代化/富国強兵政策を進めましたが、清国は旧態依然でした。
先週・書いた様に、1840年~42年に発生したアヘン戦争では、イギリス軍は10倍以上の清国軍を相手に戦いました。旧式な武器しか持っていなかった清国軍は”こてんぱん”にやられました。 それでも清国は、日本ほどには近代化を行いませんでした。
アヘン戦争から53年後の1895年(明治28年)に日本と清国が戦いました(日清戦争)。 兵員数では清国の方が約3倍も多かったのですが、海軍力が日本の方が優勢で、日本の陸軍は良く訓練されていた事と近代的な銃と重火器を整備していたので、日本が勝てたのだと私は思います。
・・・ アヘン戦争(1840年~42年) ・・・ 出典:ウイキペディア
★ イギリス軍≒1.9万人(イギリス陸軍≒0.5万人、インド陸軍≒0.7万人、イギリス海軍≒0.7万人)
★ 清国軍≒20万人
● イギリス軍の死傷者=520人(内戦死=69人)
● 清国軍の死傷者≒1.8万人~2万人
・・・ 日清戦争(1895年) ・・・ 出典:ウイキペディア
★ 日本軍≒24万人
★ 清国軍≒63万人
● 日本軍の戦傷病≒0.38万人(内戦死≒1,132人)・・・病死者≒1.2万人
● 清国軍の死傷者≒3.5万人
【アフガニスタンの教訓】
昨年(2021年)アメリカ軍が撤退したあと、タリバンがアフガニスタンを統治する事になりました。然し、タリバンはゲリラ部隊で、高等教育を受けたメンバーが少なく、文官の経験者は非常に少ないと思われます。更に、タリバン兵には文字の読めない人もいる様です。 「こんな状態で、タリバンは何年掛けて国を運営出来る様になるのか?」私は注目しています。
国を運営する為には『文官僚』と『武官僚』の両方が必要不可欠です。そして、軍隊は文民統制も不可欠です。旧民主党政権では、『文官僚』と『武官僚』の協力が十分得られ無かったと私は思いました。立憲民主党が国民の支持を拡大する為には、党員達が勉強して官僚と一緒にヤッテイケル事を国民に示す必要が有ります。
立憲民主党の党首が泉健太氏に代わりましたが、現在の立憲民主党達ではハトポッポの様に詳細な検討もせず/根回もしないで、無責任に「せめて県外」などと発言しそうに私には見えます。
【ミャンマーの教訓】
官僚を使った国家の統治について考える場合、現在のミャンマーは『反面教師』として貴重です。 国家に金がないから、軍隊に「食糧や金は自分達で何とか工面しろ」と命じたとします。町工場を作ったり、商店を経営して成功すると、大きな工場や大きな店を運営し、外国企業がミャンマーに進出したいと言って来たら「軍と合弁にしろ!」、「賄賂を出せ!」・・・と要求する様になります。
国家から軍が金を貰わなくてもヤッテイケル様になると、軍が有利な様に憲法を改悪しました。 昨年になって、軍が国家権力を掌握すると、ミャンマーの市民は大変な事になっている事に気付き、反政府運動を始めました。 既に、軍の後ろには中国が付いています。
いくら国に金が無くても、軍隊に金を稼がせては駄目です。 軍が憲法を改悪しようとした時に、反軍運動を起こすべきでした! 今になっては反軍運動をするのは、「別れる、切れるは芸者の時に言う言葉」の様なものです。 国民の多くが政治に無関心だったら、日本もミャンマーの様になってしまいます。
今回は幕末から明治初期までの改革について書きます。
先週、幕府の軍事改革について書きましたが、島津斉彬が薩摩藩で西洋技術を研究して富国強兵政策を進めました。明治になって、紀州藩では、たった3年間で藩政と兵制の大改革を断行しました。 やろうと思えば日本人も短時間に大改革が出来るのです! 「現在は選挙の有る民主主義国家だから、島津斉彬や紀州藩の津田出の様な事は出来ない!」と政治家や官僚は言ってはいけません。
【薩摩藩の改革】
長州藩は尊王攘夷の急進派が主流になっていましたが、1863年に伊藤博文ら5人がイギリスに留学しました。イギリスの国力を見て「攘夷などはトンデモナイ」と気付き、伊藤博文と井上馨は急遽・64年に帰国しました。伊藤博文の奔走も空しく、連合艦隊を砲撃しました。・・・下関戦争→その後、長州は攘夷思想から脱却出来たのだと思います。
1851年に島津斉彬(なりあきら)が薩摩藩主になり、西洋文明/技術を取り入れた富国強兵政策を始めました。斉彬は尊王攘夷とは真逆の考え方を持っていました。 幕府と協力して富国強兵を図ろうとしたのです。 そして、小禄の西郷隆盛を重用しました。
58年に斉彬が急逝した為、斉彬の異母弟の久光(忠教)の長男・忠義(18歳ほど)が藩主になりました。父・久光が薩摩藩の実権を握りました。久光は斉彬が始めた改革を進めました。小禄の大久保利通等々を抜擢して、薩摩藩が幕末を主導する元を作ったのです。 1862年には、寺田屋に集結していた尊王攘夷派の薩摩武士を殺害しました。これが、第1回目の寺田屋事件です。
当初の久光の考え方は「雄藩連合・公武合体」でしたが、幕府に見切りを付けて「鳥羽伏見の戦い」→「戊辰戦争」を断行しました。
そして、明治新政府では薩摩藩出身者が沢山活躍する事になったのです。①西郷隆盛、②大久保利通、③小松帯刀(1870年歿)、④寺島宗則、⑤川路利良、⑥大山巌、⑦東郷平八郎、⑧黒田清隆、⑨松方正義、⑩五代友厚・・・
★ 藩主=斉彬 :1851年~58年
★ 国父=久光 :1858年~
★ 薩英戦争 :1863年・・・引き分け(講和)
(注記 :寺田屋事件) 寺田屋事件は2回有りました。2回目が、1866年に幕府の伏見奉行が坂本龍馬を襲撃した事件です。67年に坂本龍馬が暗殺されたのは近江屋事件です。
(注記 :小松帯刀) 小松帯刀は、幕末から明治初期に活躍しましたが、高禄の武士でした。5,500石の肝付家の四男で、後に2,600石の小松家の養子になりました。
【戊辰戦争と銃】
歴史が大転換する時には、戦争のやり方や武器の進歩が関係します。それで、私は若い頃から武器の進歩に興味が有りました。幕末から戊辰戦争までは、欧米で銃の目覚ましい進歩が有りました。日本にも種々の銃が入ってきました。戊辰戦争では新旧・様々な銃が使用されました。
一方、新島八重にも興味があり、NHKの大河ドラマは殆ど見ないのですが、2013年の『八重の桜』は見ました。会津若松城籠城戦のシーンで八重が使用していた銃が、アメリカで1860年~69年に製造されたスペンサー騎兵銃です。射程距離は180m程しか有りませんが、7連発式で一分間に20発以上撃てる最新の銃だったのです。この銃は幕府軍の一部が採用しましたが、高価だったのと、銃弾の国産化が出来なかった等の理由で主流にはなりませんでした。
戊辰戦争では、東北の藩では火縄銃も使用した様です。先込め銃/元込め銃、ライフル有り/無し、ほとんど単発銃でしたが連発銃も使用され、射程距離も様々な銃が使用されました。銃の見本市の様な戦いでした。
【明治新政府の問題点】
新政府には2つの重大な問題が有りました。❶金が無かった、❷手前の(自分の)軍隊を持っていなかった。金は徳川家の領地の大半を没収して、豪商から支援を受けるなどの工夫をしましたが、十分とは言えませんでした。→→廃藩置県が必要だったのです。
自前の軍隊を持つ事については、長州は『徴兵制の軍隊案』でしたが、薩摩は『武士を主体にした、各藩の藩兵を新政府に差し出す案』でした。両藩の話し合いは決着しませんでした。
明治2年(1869年)から下に述べる紀州藩の改革が始まりました。西郷隆盛は、弟(後の西郷従道)に紀州藩の近代的な軍隊を視察させました。その後、薩摩藩は『徴兵制の軍隊案』に同意して、1873年に徴兵令を布告しました。
★ 1869年(明治2年) :版籍奉還
★ 1870年(明治3年) :各藩が持つべき軍隊の規模(常備定員)を指示した。
★ 1871年(明治4年) :薩摩・長州・土佐の兵(≒6,000名)を新政府の支配下に置いた。・・・新政府が軍隊を持ったのです。
★ 1871年(明治4年) :廃藩置県
★ 1872年(明治5年) :紀州藩の軍隊は新政府の命令で解散し、歩兵一大隊と砲兵一大隊が政府軍に入りました。
★ 1873年(明治6年) :徴兵令
【徴兵制は武士身分の廃止を意味しました】
徴兵制の軍隊にする事は、世襲/家柄による武士の制度を根本的に破壊する事を意味します。(徴兵制で集められた兵隊は、世襲では無くて、任期が終わると”お役御免”になります。)
江戸時代には戦争になると、(武士の)当主が石高によって決められた陪臣を伴って参戦する事になっていました。然し、幕末には、刀、槍、火縄銃を持って参戦する時代では無くなっていました。
戊辰戦争で西洋式の軍隊の威力を実地で学んだのだと思われます。西洋式軍隊とは、同じ銃を持った兵隊達が沢山いて、その上に指揮官がいる軍隊です。幕府も各藩でも、武士の禄高と家格(かかく)が細かく分かれていて、身分差が有りました。 西洋式軍隊では、兵隊は同等でなければなりません。 兵隊達の間で、「俺は直参だが、お前は陪臣だ!」、「俺の禄高の方が10石多いい!」などと威張る事は許されません。
【紀州藩の改革】
明治政府が統一国家を想像以上にスンナリと樹立出来たのは、❶廃藩置県を断行した、❷政府の政策を全国で実施する行政組織を作った、➌近代兵器を装備した軍隊を創設した・・・などを短期間に実行した事が要因だったと思います。
最初に近代国家の有り方を考えて実行したのは、薩長土肥の武士達では有りません。紀州藩だったのです。 紀州藩は御三家の一つでしたから、徳川幕府が崩壊して難しい立場になってしまいました。新政府から三回多額の金(合計16万両ほど)を要求され、存亡の危機に有りました。 新政府に恭順を示すと同時に、1968年(明治元年)に津田出(いずる)に命じて藩政の改革案を検討させました。
津田出は、紀州藩出身の勤王の志士だった陸奥宗光に❶郡県制度、❷徴兵制度などの改革案を伝えました。陸奥は1869年に新政府に「廃藩置県の意見書」を提出しましたが、受け入れられませんでした。 それで、陸奥は官職を辞して紀州に帰り、津田と藩政改革に着手したのです。
武士の家禄を90%カットして金を捻出し、身分によらない徴兵制を採用し、プロイセン王国式の軍隊を創設しました。武士の特権の一つで有った『武力』を、徴兵制による近代的な軍隊に変えたのです。
1869年(明治2年)から改革を始めました。初年度の徴兵は、職を失う武士の子弟を救済する為に実質的に応募兵制にし、翌年から身分を問わない(四民平等の)徴兵制が実施されました。
1870年3月時点には、常備兵7,311人、馬260頭も有りました。(1873年の日本陸軍の常備兵は46,350人でした。) たった2年で、歩兵6連隊、騎兵大隊、工兵隊、輜重(しちょう)隊(輸送が任務)、兵学寮(兵隊の学校)、病院、火薬兵器司を設けた、本格的な軍隊を整備したのです。
1871年(明治4年)に新政府の命令で軍隊を解散しました。翌年、歩兵一大隊(600名)と砲兵一大隊(300名ほど)が政府軍に入りました。
津田出は、藩士に藩財政が逼迫している事実を明確に示しました。 家禄を1/10にカットされた藩士達には、登城する必要が無い、内職/アルバイトの自由、移転の自由、農民/商人/職人になる自由を与えました。(「家禄の10%の金を毎年支給するから、自分達で何とか仕事を見つけて、生きてくれ」と言ったのです。)
江戸時代の各藩では、藩の支出は「藩主の生活費」と「武士達の給料、行政費」が区別されていませんでした。 紀州藩は、藩主に渡す分を明確に区別し、藩から月給を貰う様な形態にしたのです。そして、今で言う『役人』が藩の行政を行う様に変更しました。従来の世襲では無く、役人の人材登用にも力を入れました。
(教訓) 紀州藩の改革は、有能で信頼のおける官僚に全権を委任したら、大きな事が出来る事を証明しています。
(余談) 私の故郷は紀州です。平地は少ないですが、魚介類が豊富な海が有り、雨が沢山降るので開墾すれば畑が出来、植林に適した山林が多いいなど、食べるだけだと何とかなります。紀州藩の武士達は家禄を90%もカットされましたが、飢える事無く何とか耐えられたのではと想像します。
国が大混乱に陥って、就職口が殆ど無くなったとします。 会社が貴方に、「会社が大変な状況になったので、明日から出社しなくて良いが、給料は90%カットする。その代わり、自由にアルバイトし良い。」と言ったとします。紀州藩の武士達は、反乱を起こすことなく、藩命に従ったのです。 私の父は職業軍人でした、終戦の翌年に家族7人で紀州の故郷に帰って、山林と木材の商売をし/山を開墾して何とか生き延びました。
(余談 :紀州藩) 御存じの様に紀州藩は御三家の一つです。石高は55万5千石で、紀伊一国37万石と伊勢の一部17万9千石を支配しました。その一部を付家老の安藤家(紀伊田辺藩)(3万8千石)と水野家(紀伊新宮藩)(3万5千石)が治めました。
【明治維新の富国強兵政策】
明治維新では、何故?スンナリと封建体制から統一国家に移行出来たのでしょうか?! 幕府と各藩の武士達が『文官僚』と『武官僚』を兼ねていたからだと私は思います。
幕末の志士達は「尊王攘夷」と言う思想で立ち上がった分けですが、戊辰戦争中に主だった志士達が、「攘夷」なんてトンデモナイ事だと気付いたのだと想像します。 武士には間違いを改める柔軟性が有った様に思います。
戊辰戦争に勝利した薩長土肥の上級武士達は、(攘夷思想とは真逆に)金を工面して外国人の顧問、教育者、技術者を沢山雇入れて、種々の分野で強力に近代化を推進しました。
維新後に活躍した為政者(大臣等)と官僚達は高等教育を受けていませんが、以下に示す様に、矢継ぎ早に改革/近代化を進めました。現在の為政者と官僚達はほぼ全員が高等教育を受けていますが❕❕
★ 戊辰戦争 :1868年(明治元年)
★ 廃藩置県 :1871年(明治4年)
★ 東京砲兵工廠 :1871年(明治4年)・・・小銃の製造
★ 貨幣を発行 :1871年(明治4年)
★ 紙幣を発行 :1872年(明治5年)・・・明治通宝(政府が発行した紙幣)
★ 富岡製糸場 :1872年(明治5年)
★ 新橋―横浜間の鉄道 :1872年(明治5年)
★ 横浜にガス会社 :1872年(明治5年)・・・日本初のガス灯が灯りました。
★ 国立銀行 :1873年(明治6年)・・・紙幣発行・・・民営の銀行
★ 大阪―神戸間の鉄道 :1874年(明治7年)
★ 有恒社 :1874年(明治7年)・・・日本で初めて洋紙の生産を行った。
★ 東京帝国大学 :1877年(明治10年)
★ 日本銀行 :1882年(明治15年)・・・紙幣発行
★ 釜石鉱山田中製鉄所 :1887年(明治20年)・・・民営企業
★ 琵琶湖疏水 :1890年(明治23年)・・・琵琶湖の水を京都へ
★ 蹴上(けあげ)発電所 :1891年(明治24年)・・・日本最初の水力発電所
(余談 :石炭) 石炭の採掘は江戸時代から行われて来ました。18世紀の初頭に瀬戸内地方の製塩業者が安価な石炭を使う様になって、石炭の採掘が盛んになったと言われています。長崎のグラバー邸で有名なトーマス・グラバーと佐賀藩が、1968年に高島炭坑の開発に着手しました。明治時代になって石炭産業は国家として重要になり→→花形産業になりました。
三井、三菱、住友などの財閥系石炭会社には、東大、九大、北大などから優秀な技術者が集まりました。然し、戦後は斜陽産業になってしまいました。1980年頃・私は、東京の旧丸ビルに本社の有った三菱石炭鉱業(株)を数回訪問して高価な設備を買って頂きました。打ち合わせに数人出られましたが、皆さん旧帝大卒の定年間近の紳士でした。この時は「将来、私も紳士になろう!」と考えたのですが、粗雑な私には無理でした。
【旧態依然とした清朝】
幕末から明治時代の清朝は、『反面教師』として参考になります。明治になって、日本は国を挙げて近代化/富国強兵政策を進めましたが、清国は旧態依然でした。
先週・書いた様に、1840年~42年に発生したアヘン戦争では、イギリス軍は10倍以上の清国軍を相手に戦いました。旧式な武器しか持っていなかった清国軍は”こてんぱん”にやられました。 それでも清国は、日本ほどには近代化を行いませんでした。
アヘン戦争から53年後の1895年(明治28年)に日本と清国が戦いました(日清戦争)。 兵員数では清国の方が約3倍も多かったのですが、海軍力が日本の方が優勢で、日本の陸軍は良く訓練されていた事と近代的な銃と重火器を整備していたので、日本が勝てたのだと私は思います。
・・・ アヘン戦争(1840年~42年) ・・・ 出典:ウイキペディア
★ イギリス軍≒1.9万人(イギリス陸軍≒0.5万人、インド陸軍≒0.7万人、イギリス海軍≒0.7万人)
★ 清国軍≒20万人
● イギリス軍の死傷者=520人(内戦死=69人)
● 清国軍の死傷者≒1.8万人~2万人
・・・ 日清戦争(1895年) ・・・ 出典:ウイキペディア
★ 日本軍≒24万人
★ 清国軍≒63万人
● 日本軍の戦傷病≒0.38万人(内戦死≒1,132人)・・・病死者≒1.2万人
● 清国軍の死傷者≒3.5万人
【アフガニスタンの教訓】
昨年(2021年)アメリカ軍が撤退したあと、タリバンがアフガニスタンを統治する事になりました。然し、タリバンはゲリラ部隊で、高等教育を受けたメンバーが少なく、文官の経験者は非常に少ないと思われます。更に、タリバン兵には文字の読めない人もいる様です。 「こんな状態で、タリバンは何年掛けて国を運営出来る様になるのか?」私は注目しています。
国を運営する為には『文官僚』と『武官僚』の両方が必要不可欠です。そして、軍隊は文民統制も不可欠です。旧民主党政権では、『文官僚』と『武官僚』の協力が十分得られ無かったと私は思いました。立憲民主党が国民の支持を拡大する為には、党員達が勉強して官僚と一緒にヤッテイケル事を国民に示す必要が有ります。
立憲民主党の党首が泉健太氏に代わりましたが、現在の立憲民主党達ではハトポッポの様に詳細な検討もせず/根回もしないで、無責任に「せめて県外」などと発言しそうに私には見えます。
【ミャンマーの教訓】
官僚を使った国家の統治について考える場合、現在のミャンマーは『反面教師』として貴重です。 国家に金がないから、軍隊に「食糧や金は自分達で何とか工面しろ」と命じたとします。町工場を作ったり、商店を経営して成功すると、大きな工場や大きな店を運営し、外国企業がミャンマーに進出したいと言って来たら「軍と合弁にしろ!」、「賄賂を出せ!」・・・と要求する様になります。
国家から軍が金を貰わなくてもヤッテイケル様になると、軍が有利な様に憲法を改悪しました。 昨年になって、軍が国家権力を掌握すると、ミャンマーの市民は大変な事になっている事に気付き、反政府運動を始めました。 既に、軍の後ろには中国が付いています。
いくら国に金が無くても、軍隊に金を稼がせては駄目です。 軍が憲法を改悪しようとした時に、反軍運動を起こすべきでした! 今になっては反軍運動をするのは、「別れる、切れるは芸者の時に言う言葉」の様なものです。 国民の多くが政治に無関心だったら、日本もミャンマーの様になってしまいます。