これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

官僚について (その1)

2022-01-08 09:06:03 | 政治
【はじめに】
 為政者(大臣等)と官僚の役割分担を理解出来ていない政治家がいます。私の独断と偏見ですが、麻生太郎氏が典型的な例だと思います。 麻生氏が財務大臣だった時、主客転倒もはなはだしい『官僚の代弁者』の様に見えました。

 「日本を○○にしたい」、「その為には、××法を△△に変えたい」と言う様な考えを持った政治家が大臣になるべきです。 大臣になったら官僚に考え方を示して、官僚に問題点を抽出して貰い/細部を検討して貰って、法律の制定や改正に着手すべきです。

 大臣に就任したら、それまで考えていなかった問題点について決断が要求されるケースが多々有ると思われます。そんな場合は、その分野に詳しい方や、官僚の意見を聞いて自分なりの判断をしなければなりません。

 野党合同ヒヤリングを見ていると、野党議員が官僚を吊るし上げるシーンが多々有りました。政治家と官僚の関係を全く理解していない議員が多いいのですね! 国を運営する為には、官僚は重要です。現在の日本の官僚制度がどの様にして出来たのか?どんな問題が有るのか?等について、何回かに分けて投稿する事にしました。

【豆知識 :官僚】
 昔は『役人』と呼んでいました。 『官僚』と『官吏(かんり)』は同じ意味です。『官』は上級の役人のことで、『僚』と『吏』は下級役人です。

 小さな組織を運営するケースでは、ボス(A氏)がメンバー(社員)を直接指示して働かせる事が出来ます。 組織(国)が大きくなると、A氏は直属の部下(B1氏、B2氏、B3氏・・・)に基本的方針を伝えます。 B1氏は部下(B11氏、B12氏、B13氏・・・)に具体的な命令を出して、彼らを動かします。

 初期の国家は、ボスも直属の部下も世襲の貴族で、貴族が役人の上層部を独占しました。 国家が更に大きくなり、近隣の国と争う様になると、ボンクラの貴族の役人は役に立たなくなってきます。

 昔の中国では、役人を筆記試験『科挙(かきょ)』で選抜しました。日本では平安時代に科挙制度が導入されましたが、上級の役人は世襲の貴族が独占しました。 換言すると、日本の科挙制度は『僚』や『吏』に相当する役人(下級役人)を登用する制度だったのです。

 中国や朝鮮半島では、科挙を行政を担当する『文官』と軍事を担当する『武官』に分けて行う様になりました。 日本では、武官の採用試験は行われず、世襲の武士集団が誕生し、人数が増加し、力が増大してきましたした。→→鎌倉幕府が誕生し、→→封建制度の国になって行ったのです。

(補足 :封建制度) 王(将軍)の下に諸侯(藩主)がいて、国土を分割して諸侯に与え、与えられたそれぞれの土地を治めさせる制度を『封建制度』と呼びます。鎌倉時代から江戸時代まで、日本は封建制度の国でした。 昔の中国やヨーロッパにも有った制度です。 日本独自な点は、政治の実権を持たない『天皇』が、形式的に将軍の上にいた事です。

(私の造語 :文官僚と武官僚) 官僚のイメージは「省庁に勤める人」で、地方公共団体に務める人は「役人」だと思います。そんな役人の事を『文官僚』、自衛官を『武官僚』と呼んで区別する事にします。

【江戸時代の統治体制と武士】
 『将軍』は、天皇から軍(武士集団)の司令官に与えられた称号です。平安時代から(8世紀から)武士集団が徐々に力を付けて、朝廷の力は衰退してきました。 江戸時代には、朝廷は飾り物の様な存在になり、徳川家は「天皇から唯一認められた武士の統領であるから、諸侯は徳川家に従え」と言う形にして国を治めました。

 徳川幕府の老中は、各藩の家老に相当します。時々、老中の上に大老職を設けました。大老では井伊直弼が有名ですが、井伊家(6人)、酒井家(4人)、土井家(1人)、堀田家(1人)から12人が就任しています。

 将軍と大老や老中の取次役が『側用人』です。江戸時代初期には御近習出頭役と呼ばれ、1680年から側用人制度が始まった様です。複数いた事も有りますが、側用人を置かなかった時代も有ります。大きな権限を有する、重要な職でしたから、高禄の旗本の中から優秀な人材を登用した様です。田沼意次(1719年~88年)は旗本でしたが、側用人になり、大出世して老中・大名になりました。

 徳川幕府には(下に列記する様に)種々の役職が有りました。初期の頃は、役職に就いても給料は上がりませんでしたが、有能な人材を登用する為に、役職手当(役料、足高、役金)を支給する様になりました。 役職によって役高を決めました。勘定奉行の役高は3,000石でしたが、3,000石以上の旗本が就任した時は給料は上がりませんが、2,000石の旗本だと1,000石アップする制度でした。

 皆さん良くご存じの大岡忠相(1677年~1752年)は1,920石の旗本でした。1702年に書院番→→1708年に目付→→1712年に遠国奉行の一つ山田奉行→→1716年に普請奉行→→1717年に江戸町奉行(南町奉行)→→1725年に加増され3,920石→→1736年に寺社奉行(加増され5,920石)に就任しました。

 寺社奉行は譜代大名が就任する事になっていたので、足高分として4,080石加増されて一万石になりました。そして、1748年に一万石の大名(三河国西大平藩)になりました。そして、西大平藩は明治維新まで存続しました。

 徳川幕府には、旗本が5,200名、御家人が17,400名いて、さらに陪臣(旗本や御家人の家来)がいました。幕末の大名の数は、281藩でした。幕末の人口は3,200万人ほどで、武士は220万人ほどだった様です。

① 天皇と貴族
② 将軍
③ (大老)、老中・・・大藩の譜代大名が就任しました。
④ 若年寄 :旗本と御家人の支配・・・小藩の譜代大名が就任しました。
⑤ 側用人 :将軍と老中などの取次役・・・高禄の旗本から登用されました。
⑥ 郡方奉行の下に郡代(支配地 10万石以上)と代官(5~10万石)・・・直轄地の支配
⑦ 大目付 :大名や朝廷などの監視・・・高禄の旗本が就任した。
⑧ 目付+徒目付+小人目付 :旗本と御家人の監視、役人の監視/監督
⑨ 奉行
 ★ 寺社奉行 :寺と神社を支配するのが役目で、譜代大名が就任しました。
 ★ 勘定奉行 :幕府の財政と直轄地の支配が担当でしたが、幕末には外交にも関与しました。
 ★ 道中奉行 :五街道の整備/管理、宿場の取り締まりなどなど。
 ★ 町奉行 :単に町奉行と言うのは、江戸に有った北町奉行と南北町奉行を指します。 大阪と京都にも町奉行所がそれぞれ二カ所設けられていました。土地の名前を付けて大阪町奉行(東の御番所、西の御番所)、京都町奉行(東御役所、西御役所)と呼ばれていました。
 ★ 遠国奉行 :重要な直轄地に置かれた。 幕末の遠国奉行には京都町奉行、大阪町奉行、駿府町奉行、長崎奉行、伏見奉行、山田奉行、日光奉行、奈良奉行、堺奉行、佐渡奉行、浦賀奉行、下田奉行、新潟奉行、箱館奉行・神奈川奉行、兵庫奉行が有りました。
 ★ 作事奉行 :建築や修理が仕事。
 ★ 普請奉行 :上水の管理や土木工事が仕事。
 ★ 小普請奉行 :江戸城、寛永寺、増上寺などの建築/管理が仕事。
 ★ 吹上添奉行 :吹上御苑の管理
 ★ 寄場奉行 :石川島の人足寄場を支配するのが仕事。
 ★ 書物奉行 :江戸城内に有った御文庫(紅葉山文庫)の管理と図書の収集などが仕事。
 ★ 腰物奉行 :将軍家の刀などを管理するのが仕事で、罪人を切って試し切りもした。

【江戸時代の役人】
 勿論・武士は世襲で、何も問題を起こさなければ石高も相続出来ました。こんな体制で江戸幕府は約270年間程も存続出来ました。幕府も各藩も、❶ボンクラの武士を重職に任命しなかった、❷外敵の侵入が無かった、➌経済が発展した事で幕藩体制を長く続けられたのだと思います。

 江戸時代に例外的な採用試験が有りました。勘定奉行が支配した勘定所は財政と民政を担当し、重要な職務になって来て、定員を増やしました。勘定所ではボンクラは勤まりません。それで、『筆算吟味』と呼ばれる採用試験をするようになりました。

 「素読吟味」と「学問吟味」と言う試験も有りましたが、役職への登用試験では有りませんでした。江戸時代の官僚は家格(かかく)によって採用されましたが、例外は側用人と勘定方でした。

 幕末には新しい考え方を持った人材が必要になってきました。その典型が勝海舟です。勝家は旗本でしたが、禄高は41石しか有りませんでした。勝海舟の活躍と立身出世の話は、皆さん良くご存じだと思うので省略します。

(豆知識 :旗本と御家人) 一般に旗本の方が御家人よりも高禄ですが、勝家の様に僅か41石しか貰っていない貧乏な旗本もいました。旗本は将軍に拝謁する(会う)事が出来ましたが、旗本は出来ませんでした。

【幕末の幕府の軍事改革】
 イギリス軍(1.9万人)と清国軍(20万人)が戦って、イギリス軍が勝利したと言う情報が日本に伝わって来ました。・・・アヘン戦争

 幕府は海外の情報を入手していたので、欧米諸国の脅威に対処する為に、諸藩に先立って軍事改革に着手しました。1845年に海軍を創設して、49年に和洋折衷の小型の『蒼隼丸(そうしゅんまる)』を作りました。54年には洋式の大型軍艦『鳳凰丸(ほうおうまる)』が建造されました。そして、オランダから蒸気船の咸臨丸(かんりんまる)を購入しました。その後も多数の軍艦と輸送船を建造/購入しました。

 ライフル銃と鉄製の大砲を装備した陸軍を創設しました。大政奉還した年(1867年)の幕府陸軍の兵員数は27,000人ほども有ったので、薩長が連合軍を組織していても、幕府陸軍には勝てなかったと私は思います。

★ アヘン戦争 :1840年~42年・・・イギリスと清国の戦争
★ 幕府海軍 :1845年~69年
★ 黒船来航 :1854年
★ 長崎海軍伝習所 :1855年~59年・・・海軍士官養成機関
★ 咸臨丸(かんりんまる) :1857年・・・オランダ製
★ 関口製造所 :1862年・・・銃の製造(ライフル銃)、後に鉄製の大砲も製造した。
★ 幕府陸軍 :1862年~69年
★ 薩英戦争 :1863年・・・引き分け(講和)
★ 下関戦争 :1863年、64年・・・長州藩がイギリス、フランス、オランダ、アメリカと戦った。
★ 滝野川反射炉 :1864年・・・大砲用の鉄を製造
★ 神戸海軍伝習所 :1864年~65年・・・海軍士官養成機関
★ 第一次長州征討 :1864年
★ 第二次長州征討 :1866年

【李氏朝鮮と江戸幕府の比較】
 李氏朝鮮は、文官も武官も筆記試験(科挙)で選びました。江戸時代の日本には科挙制度は無く、役人は世襲の武士でした。単純に考えると統一国家だった李氏朝鮮の方が国家が繁栄しそうに思われますが、現実は真逆でした。 頭脳明晰な人間を上級役人にするだけでは、国家は発展しません。官僚の上に立つ政治家の政策が、国家の繁栄に大きく寄与するのです。

 現在の日本にとって、李氏朝鮮は『反面教師』として重要だと考えます。優秀で志の有る人が大臣になって、不正を行わない官僚の協力を得て国を統治する事が肝要だと思います。

 李氏朝鮮は、1392年の建国以来500年以上に亘って朝鮮半島を支配しましたが、経済は発展せず、停滞してしまいました。徳川幕府は高額の貨幣を発行したりして、全国的に商売が出来る体制を構築したので、経済が発展しました。 巨額の蓄財をした商人が誕生して、明治維新を行う『金』が捻出出来たのです。 李氏朝鮮は銭貨さえ発行せず、物納/物々交換を続けたので経済は停滞してしまったのです。(李氏朝鮮の都市部では中国や日本の銭貨が流通していた様です。)

 李氏朝鮮は統一国家でしたが、江戸時代の日本は封建制度の国でした。江戸幕府が直接統治していたのは全国の僅かな地域でした。それでも、全国で流通する高額貨幣を発行した効果は非常に大きかったのです。 例えば、全国に宿場町が有りましたが、高額貨幣が無かったら旅行が出来ませんから、宿場町は発展出来なかったのです。銭貨だけだったら、ドンナ事になるか?想像して見て下さい。1両(≒13万円)は4,000文(=4貫文≒15kg)だったのです。 10両(≒130万円)持って旅に出る為には、銭貨だと150kgになりますから、二、三頭の馬を連れて行く必要が有ります。

(注記 :1両の質量) 江戸時代に小判は10種類発行されました。1両の質量は4.76匁(=17.85g)~0.88匁(3.3g)です。 10両でも懐(ふところ)に入れられたのです。

 加賀藩が1808年の参勤交代で必要だった費用は片道で5,500両だったと言う記録が有ります。当時流通していたのは『元文小判』で、5,500両は72kgほどですから、馬1~2頭で運べます。5,500両は銭貨だと83トンほどになるので、馬で運ぶ為には1,500頭ほど必要です。

(余談 :恐怖政治の威力) 李氏朝鮮時代、国民は貧しい生活を送り続けましたが、(現在の北朝鮮の様な)連座制による恐怖政治で、500年間も何とか国を統治したのです。 現在の北朝鮮は77年間も連座制による恐怖政治を続けています。北朝鮮の民衆は貧しい生活を余儀なくされていますが、李氏朝鮮時代と同じほど貧しいのだと私には思えます。

 髙英起(コウ・ヨンギ)氏は連日の様に北朝鮮の惨状を報じています。話半分だとしても、志の有る将軍がクーデターを起こすか、民衆が蜂起しそうに思いますが、中国共産党が崩壊して→→韓国が手を差し伸ばさない限り、金王朝は存続すると私は見ています。連座制による恐怖政治の威力を甘く見てはいけません!

(余談 :韓国の時代劇) 妻の友人に韓国の時代劇に填まってしまった方がいます。李氏朝鮮の時代は、庶民は非常に貧しい生活をしており、両班(支配階級)が庶民に略奪を繰り返し、連座制による恐怖政治をしていました。韓国の人達は、宮廷の外での悲惨な庶民の生活を受け入れる事が出来ない様です。その為に、庶民の生活を映像化する時は、現実とは掛離れた物語にする必要が有ります。 (国民の多くが『小中華思想』を持っている韓国では、李氏朝鮮時代の庶民の悲惨な状態を学校で学ぶ事が出来ません。)

★ 統治体制 :日本は封建制度でしたが、李氏朝鮮は統一国家でした。

★ 鎖国政策 :両国とも鎖国政策を取りましたが、日本はオランダ。中国とは限定的な貿易をしました。李氏朝鮮は中国と日本以外には厳格な鎖国政策を守りました。 江戸時代後半になると、薩摩藩などは密貿易をして、ある程度西洋文明(科学/技術)を知る事が出来ました。

★ 独立国家? :日本は独立国家でした。李氏朝鮮は明朝の支援を受けて建国し、清朝になっても属国の状態が続きました。

★ 貨幣経済 :徳川幕府は、重さを一々測らなくてよい高額の硬貨(小判、二分金、一分金、二朱金、一朱金、一分銀、一朱銀)を発行しました。(銭貨も発行しました。) 高麗の時代には一時期・銭貨を発行しましたが、旨く流通しませんでした。李氏朝鮮の時代には銭貨も発行せず、物納/物々交換の経済を続けたのです。

★ 役人 :李氏朝鮮では科挙で文官と武官を採用しました。 実際の行政を行うには役に立たない儒学の知識を問う難問の試験だった様です。 江戸時代は幕府と各藩には(原則として)文官僚の登用試験は無く、世襲制の武士が行政を担当しました。

★ 治安の維持 :李氏朝鮮では『連座制による恐怖政治』で国民の不満を抑え付けました。両班が庶民を略奪する事件が度々発生した様です。両班の犯罪は『義禁府』が担当する事になっていましたが、両班が庶民から金や物を奪い取る行為は取り締まらなかった様です。貨幣経済が未発達のうえに、両班が略奪したので、豪商が育たなかったのです!

★ 身分制度 :大別すると、厳格な4つの身分があり、1894年まで維持されました。人口の大半は農民でした。 ❶両班(官僚になれる身分)、❷中人(下級役人になれる身分)、➌常人(農・工・商)、➍賎人(農・工・商=公賎と私賎) 賎人は一種の奴隷で、販売される事も有りました。 賎人の最下層を『白丁』と言って、人間として認められていませんでした。僧侶、巫俗(ふぞく=シャーマン)、芸人、娼婦も賎人に含まれていました。


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