日比谷焼打事件(ひびややきうちじけん)は、当時は日比谷騒乱事件と呼ばれたが、これは「日露戦争後の賠償に対する不満から、1905年9月5日、東京市麹町区(現在の東京都千代田区)の日比谷公園で行われた集会をきっかけに起こった日本の暴動事件」だ。「群衆の怒りは講和を斡旋したアメリカにも向けられて米国公使館などが襲撃の対象となったことで、アメリカの世論は憤慨し黄色人種への人種差別感情をもとにした黄禍論の高まりと共に、対日感情が悪化してアメリカ国内で日本人排斥運動が沸き起こる一因となり、後の第二次世界大戦を引き起こす日米対立に繋がってい」ったようだ。
決起集会の呼びかけ人の中には小川平吉(宮沢喜一首相の外祖父:母親の親父)、五百木良三(1871‐1937)らも
五百木は正岡子規の友人であり、対露同志会に属する大物国粋主義者であった。半藤一利は「国家興亡40年説」の中で日露戦争後の日本を破滅に導いた張本人の一人(我が国を日韓併合、満州侵略に誘導した黒幕)としてこの人物を名指ししている。
尾崎行雄と並び「憲政の神」と呼ばれた犬養毅、古島はその秘書。
松井茂は広島県出身の警察(内務)官僚。本書の刊行者代表は内務官僚としての後輩に当たる丸山鶴吉。
松井茂の静岡県知事時代に丸山の盟友田澤 義鋪(よしはる1885-1944) は静岡県安倍郡長だった。
松井は日比谷騒乱事件発生時(明治38年)の警視庁第一部長で暴徒の鎮圧指揮にあたった。丸山は明治43年暮れに警視庁方面監察官(・・・・大正2年警視庁特高課長)となり第二次焼打ち事件の鎮圧に関わっている。
本書は日比谷騒乱事件の警視庁側の史料だ。丸山は自伝において警察はいやでいやでしょうがなかったと書いているが、おそらくそれはある程度本音だろ。しかし、その思いに反するように彼は終生警察官僚、警察官僚OBとして生きた。
決起集会の呼びかけ人の中には小川平吉(宮沢喜一首相の外祖父:母親の親父)、五百木良三(1871‐1937)らも
五百木は正岡子規の友人であり、対露同志会に属する大物国粋主義者であった。半藤一利は「国家興亡40年説」の中で日露戦争後の日本を破滅に導いた張本人の一人(我が国を日韓併合、満州侵略に誘導した黒幕)としてこの人物を名指ししている。
尾崎行雄と並び「憲政の神」と呼ばれた犬養毅、古島はその秘書。
松井茂は広島県出身の警察(内務)官僚。本書の刊行者代表は内務官僚としての後輩に当たる丸山鶴吉。
松井茂の静岡県知事時代に丸山の盟友田澤 義鋪(よしはる1885-1944) は静岡県安倍郡長だった。
松井は日比谷騒乱事件発生時(明治38年)の警視庁第一部長で暴徒の鎮圧指揮にあたった。丸山は明治43年暮れに警視庁方面監察官(・・・・大正2年警視庁特高課長)となり第二次焼打ち事件の鎮圧に関わっている。
本書は日比谷騒乱事件の警視庁側の史料だ。丸山は自伝において警察はいやでいやでしょうがなかったと書いているが、おそらくそれはある程度本音だろ。しかし、その思いに反するように彼は終生警察官僚、警察官僚OBとして生きた。