人生の中で、さまざまな問題や困難に出くわし、悩み苦しんだ時に誰かから聞いたり何かの本で読んだ話がヒントになり、苦境を脱したと言う経験を持つ人も多いと思うが、そうした話が「道話」、つまり生きてゆく上での道しるべとなる話だ。
そういう話をしながら全国行脚した人物の一人に西川光二郎がいた。
道話には中世の御伽草紙から江戸時代の「心学」道話などいろいろ系統があるようだ。西川は常設の演芸場で寄席形式行うのではなく、出張講話をしたようだ。学校建設資金を得るために行われた妖怪学の井上円了と同じやり方だ。農村行脚を行った山崎延吉もそうだった。高島平三郎の場名は文部省から委嘱され「修養」関係の講演活動を全国各地の学校などを回りながら行っている。
西川光二郎の遺著「入神第一」中に夫人の文子が書いた知人・恩人の短文があって、その中に明治43年西川が「心懐語」を出し、それを読んだ高島が河本亀之助を頼んで、自宅への招待と「楽之会」での講演依頼をしたことが記述されている。西川にとって高島平三郎と松村介石・恩師新渡戸稲造は恩人だった。
そういう話をしながら全国行脚した人物の一人に西川光二郎がいた。
道話には中世の御伽草紙から江戸時代の「心学」道話などいろいろ系統があるようだ。西川は常設の演芸場で寄席形式行うのではなく、出張講話をしたようだ。学校建設資金を得るために行われた妖怪学の井上円了と同じやり方だ。農村行脚を行った山崎延吉もそうだった。高島平三郎の場名は文部省から委嘱され「修養」関係の講演活動を全国各地の学校などを回りながら行っている。
西川光二郎の遺著「入神第一」中に夫人の文子が書いた知人・恩人の短文があって、その中に明治43年西川が「心懐語」を出し、それを読んだ高島が河本亀之助を頼んで、自宅への招待と「楽之会」での講演依頼をしたことが記述されている。西川にとって高島平三郎と松村介石・恩師新渡戸稲造は恩人だった。