一般社団法人日本経済団体連合会、略して経団連の現会長は、米倉弘昌氏(住友化学会長)です。彼は、時々テレビのニュースの画面にひょっこりと現れては、「法人税を上げると、企業が国内から出て行く。だからダメ。増税は消費税で。TPP参加賛成絶対賛成」と呪文を唱えてすぐに姿を消します。また、「民主党もようやく責任政党として現実的になってきた」と言って、彼の元を訪ねてきた菅元総理や枝野経済産業大臣を頭をなでるようにして褒めたりする場面も見かけたことがあります。
Wikipediaによれば、「もともと、経団連は日本の経済政策に対する財界からの提言及び発言力の確保を目的として(1948年3月にー引用者補)結成された組織であり、日経連は労働問題を大企業経営者の立場から議論・提言する目的で(同じく1948年3月にー引用者補)結成された組織であって健全な労使関係を哲学としていた。加盟企業のほとんどが両者で重複しており、日経連は労使間の対立の収束とともに役割を終えつつあるとの理由から(2002年5月にー引用者補)統合された。」とあります。
だから、米倉会長がテレビの画面に出てきて、大企業の代表者として世論や政府の経済政策に影響を与えようとするのは、ごく自然なことなのでしょう。と、素直に引き下がれないのが、私の性分で、彼があのトボけた顔で何かを言うと、私は決まってムッとしてしまうのです。「商人ふぜいが何を偉そうにいっていやがるんだ」と。
松下幸之助の経営哲学が代表例として挙げられると思うのですが、かつての日本の大企業のトップの多くは、自社が発展するには、自社の社員やさらには一般国民が豊かになることが必要であるという考え方をしていました。そうなれば、社員や一般国民から、会社の作ったモノをどんどん買ってもらえるからですね。もちろん、そうではない経営者も少なからずいたとは思いますが、そういう考え方が、少なくとも日本の高度成長期から80年代の後半まで主流だったことはおおむね肯っていただけるのではないかと思います。一般社員と取締役との給料の格差がアメリカに比べたら著しく小さいことが、日本的経営の強みとして称揚されたことも記憶に新しいところです。会社のそういう基本姿勢を信頼して、自分の一生を会社に捧げたかつての社員たちの心意気が、会社の発展と日本の経済発展とを大きく支えたことは間違いないのではないでしょうか。若い人は信じられないかもしれませんが、不況がどれほど続こうとも、社員の首を切らない会社がいい会社である、というのが当時の通念だったのです。
岡林信康の『山谷ブルース』の中の「オレたちがいなきゃ、ビルも道路もできゃあしねぇ」というフレーズは、下層労働者だけのものではなかったのです。そういう生真面目な生き方がもたらす避けようのない鬱屈感を晴らそうとして、彼らは、クレージー・キャッツの人気者・植木等の演じる、無責任だがなんとなく全てがうまくいってしまうサラリーマンの飄逸な姿を見て笑い転げたり、渥美清の演じる寅さんの風来坊としての気ままでちょっと切ない暮らしぶりにつかの間の解放感を味わったり、しんみりしたりしたのでしょう。
ところが、1991年にバブルがはじけてからしばらくして、会社のイメージをめぐる様相が変わってきました。
その話の後を続ける前に、そのときの日銀の急激な金融引き締めについてちょっと触れておきます。
先日の15日に死去した三重野康氏は、バブルの絶頂期の1989年12月に日銀総裁に就任。その直後から、バブルに終止符を打とうとして急激な金融引き締めに踏み切りました。公定歩合(当時の政策金利、いまは基準利率)を3.75%から4.25%に引き上げたのです。その後、さらに、90年3月に5.25%、8月には6%に「これでもか、これでもか」と矢継ぎ早に引き上げました。バブル退治に邁進する姿はその峻厳な風貌と相まって「平成の鬼平」と当時もてはやされたものでした。
日銀の大幅利上げ断行で、株価も地価も下落に転じます。日経平均株価は90年に入ると急落、10月1日には一時2万円を割り込むことに。地価も騰勢が鈍化、91年をピークに長期の下落基調に。狂乱のバブルはついに崩壊したのです。
しかし、今度は、バブル崩壊の副作用が日本経済を襲います。不動産担保の融資は担保割れし、銀行の不良債権が急増しました。91年7月に日銀は利下げに転じましたが、坂道を転げ始めた資産価格の下落は止まりません。金融が目詰まりを起こし、日本経済は現在に続く低迷期に入ります。(白川総裁は、三重野元総裁のインフレ潰しをめぐる「かたくななDNA」の「最良」の引き継ぎ手です。つまり、三重野総裁の采配はバランスを失していました。バブルは道徳的な悪ではありません。資産価値が上がって国富が増加しているのですから経済的相対的善です。だから、行き過ぎた部分を丸めるソフト・ランディグを目指すべきだったのです)
そうなると、資産デフレの主導する、出口の見えない景気の低迷にどう対処するかが、経営陣にとっての頭痛の種となります。沈みそうな船から、余計なものをドンドン捨てて危機を乗り切ろうとする「減量経営」の掛け声のもと、社員の首をためらうことなくスパッスパッと切ることのできる会社こそがいい会社である、となったのです。逆に、あくまでも社員を抱え込もうとする会社は非効率的で悪い会社である、と。社員にとってリストラの嵐が吹き荒れる受難の時代の始まりです。80年代とは隔世の感があります。戦後日本のいわば牧歌時代は、完全に終わりを告げたのです。日本人の気質もここではっきりと変わりました。私のような牧歌時代を知る者にはどうにも居心地の悪い独特の酷薄で個人原理主義的な傾向がはびこりだしたのはこのあたりからですね。
さらに、金融自由化の波が押し寄せて、これからはグローバリズムの時代だ、ということになると、国内企業が手強い海外企業に打ち勝つためには、どうしても価格競争力をつけなければなりませんから、手っ取り早い話、人件費を削るほかなくなるわけです。そのときまでに、従業員たちの抵抗力は、リストラの暴力によって十分に低下していましたから、不満を抱きながらも、彼らはそれを甘受しました。そうしなければ、会社から「じゃあ、辞めれば」と言われるだけですからね。
事実、グローバル化の大波が押し寄せはじめた1997年を基準にすると、輸出総額は08年に1.8倍にまで増加しているのに対して、一人当たりの給与は下がり続けて0.9倍以下にまで落ち込んでいるし、資本金10億円以上の大企業の労働分配率(会社が儲けた分のうちの従業員の取り分)は、97年に55%だったのが、途中最悪の45%にまで落ち込んで結局08年に50%になっているのです。(京都大学藤井聡研究室作成資料より 財務省法人企業統計年報、内閣府国民経済計算、国税庁民間給与実態統計調査を元に作成)
とするならば、2002年の2月から07年の10月までの、いざなぎ景気の57ヶ月を超える69ヶ月の戦後最長の景気回復期が、いまだに名前をつけられらず「実感なき景気回復」とだけ言われるのは、十分に根拠のあることなのです。
ここで、確認しなければならないのは、海外に打って出る日本のグローバル企業の利益と、国民経済の利益とは、鋭く対立するということです。そうして、いわゆる「国益」がどちらの側に就くかは自明です。国民経済の側に決まっていますね。
(一応、念のために申し上げておきます。私は、別に、「資本家は労働者を搾取する」というマルクス主義的な認識を披露しようとしているわけではありません。グローバル企業の不可避的な傾向を指し示しているのです。グローバル企業が、社の方針を内需拡大路線に大きく変更したならば、そういう対立的な要素はずいぶんと緩和されることになります)
とするならば、グローバル企業の代表が、公共的な電波を使っておこがましくもわれわれ国民の前で、国民経済の代表者を僭称して、自分たちの反国益的、つまり、反国家的な利益の追及を堂々と主張するのは、許しがたい悪業である、という認識に至るのは、あまりにも当然のことではないでしょうか。
そんなわけで、私は、あのふぐ面・たぬき面をながめながら、「商人ふぜいが何を偉そうにいっていやがるんだ」と毒づくことになってしまうのです。
そんなスネ者の私の目に、ちょっと前のものになりますが、たまたま4月17日の読売新聞の、「2050年、日本のGDP9位転落も」という見出しが触れることになりました。これは、4月16日に経団連の研究機関、21世紀政策研究所(森田富治郎所長)によって発表された「グローバルJAPAN 2050年シミュレーションと総合戦略」の解説記事です。
「少子高齢化が進む日本経済の行方に危機感を示し、効率的な成長戦略や財政の立て直しなどに早急に取り組まねば、経済一流国の座から転落しかねないと警鐘を鳴らした」というリードを読んで、早くも亡国ゲームの臭みがブンブンとしてきたので、すわ、これは一大事というわけで、21世紀政策研究所のHPを開いてみたところ、やおら読み進むうちに、その立論のいい加減さと悪質さとで頭がくらくらしてきたのでした。一流大学の経済学部のエライ先生方が雁首をそろえてなにをやっているのだ、バカヤロウどもが、とは思います。その具体的なお話は、次のお楽しみということで。
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では、経団連の研究機関である21世紀政策研究所が4月1日に発表した「グローバルJAPAN 2050年シミュレーションと総合戦略」の内容のポイントを紹介しながら、その都度コメントしましょう。
この報告書は、昨年の1月から、「学会、経済界、官界の英知を結集し、経済・産業・雇用、税・財政・社会保障、外交・安全保障の各分野において、各界の有識者との議論や、海外調査等を精力的に行」って作成されたものであるとのこと。大変な力の入れようです。もっとも、私はこういう権威主義的な物言いをあまり好まない質(たち)で、誰が作成しようと、内容が優れているかどうかが全てであると考えます。
冒頭の「先進国から転落の危機に立つ日本」から引用しましょう。
わが国は、名目GDPがおよそ20年前の水準に止まるという「成長なき経済」に陥っている。政府債務はGDP比約200%に達し、財政や社会保障が危機に瀕している。2011年3月には、未曾有の東日本大震災に見舞われ、長期的なエネルギー制約の問題も浮上した。さらに、わが国が位置する東アジア地域には、安全保障上の緊張も存在する。このような状況下で、わが国は今後、本格的な人口減少社会に突入する。世界最速での少子高齢化・人口減少の進行は、経済社会全体に甚大な影響を及ぼす。このままでは、先進国としての地位から転落し、極東の一小国に逆戻りしかねない恐れすらある。
この文章を虚心に読めば、今日の危機的な諸状況の根本原因は「名目GDPがおよそ20年前の水準に止ま」っていることであると、とりあえず解することができます。少子化問題とエネルギー問題は、それらが仮に大きな問題であるにしても今後に関わることなので、とりあえず置いておくのが妥当ですね。過去の集積として現在があり、現在に困ったことがある場合、過去にその原因を求め、そのなかで主たる原因を割り出すことで現状を打破しようとするのがまっとうな思考の形である、というわけです。
図式的に言えば、名目GDPの停滞→税収減→政府債務の対GDP比上昇→財政・社会保障の危機的状況の招来→東日本大震災による名目GDP停滞の深刻化→さらなる税収減・・・という悪循環のループです。名目GDPの停滞が諸問題の起点になっていることがお分かりいただけるでしょう。
とするならば、次に問題になるのは、何故名目GDPの停滞が20年間も続いているのか、です。
報告は、「危機克服のチャンスは目の前にある」で、それに関連して次のように述べます。
まずはわが国が置かれた状況を虚心坦懐に直視した上で、山積する諸課題の解決に国を挙げて取り組む必要がある。デフレからの脱却は当面の課題であるが、中長期的には改革を進めることで経済の潜在成長率を引き上げていくことが本質的な課題である。国民一人ひとりが「がんばる」ことのできる環境を作るとともに、躍動するアジア太平洋地域の活力を取り込むことは不可欠である。これらにより、子子孫孫に課題を先送りせず、豊かで魅力ある日本を引き継いでゆかねばならない。
ここを読んで、私は目を疑いました。これでは、解決の方向性がまったく逆ではないか、「学会、経済界、官界の英知を結集」したのに、こんなトンチンカンな総括しかできなかったのか、と。さらに、問題のすり替えをしている疑いさえ濃厚です。それは、こういうわけです。
このブログでたびたび強調してきたように、名目GDPが20年間も停滞し続けてきた原因は、日本経済が1991年のバブル崩壊をきっかけにデフレに陥ったまま、そこから脱却できていないことです。
デフレ、すなわち物価が継続して下落する現象の原因は、デフレ・ギャップが生じることです。デフレ・ギャップとは、社会全体の商品の供給能力に対して需要の総量(有効需要あるいは貨幣の供給量)が不足することです。供給過剰は、物価にとって下方圧力となるのですね。それが、デフレ・スパイラルの起点となりますし、デフレ・ギャップが埋められない限り、どうしても回り回ってその起点に戻ってきてしまうことになります。その循環を繰り返すうちに、経済全体の規模は少しづつ縮小していくのです。働きがいを失いながら、みんなで少しづつ貧乏になっていくのです。それが、デフレの恐ろしさです。
とするならば、デフレを克服するには、デフレ・ギャップを埋めることが必須であるということになります。
ところで、民間では、それは原理的に実現できません。なぜなら、デフレとは貨幣の価値が上昇し続けることなので、企業からずれば、投資をするよりも内部留保を増やす方が有利ですし、家計にとっても、手持ちの貨幣を減らす消費を手控えて貨幣を貯蔵する方が有利だからです。つまり、民間が合理的に行動すれば、貨幣の価値は上昇し続ける、つまりデフレからの脱却は不可能となります。つまり、民間の理性は、デフレの継続を選択するのです。民間のひとりひとりは合理的に振舞っているのですが、社会全体としては、経済規模の縮小という非合理的な結果が生じるわけです。
そこで、政府の役割がスポット・ライトを浴びることになります。つまり、政府は、中央銀行を通じて貨幣を新たに十分に民間に供給し、投資や消費のインセンティヴを高める。あるいは、公共投資を通じて有効需要を作り出す。つまり、政府の大胆な金融政策と財政政策とによって、民間によっては実現不可能であったデフレギャップの埋め合わせが可能となるのです。デフレ不況時において、政府がやらなければならないことの核心は、これに尽きます。政府のタイムリーな経済政策によって、お金が民間に潤沢に回るようになり、民間は活気づき、やがて自力でデフレ不況から這い上がることになるのです。
報告は、一応「デフレ脱却は当面の課題」と触れていますが、すぐその後に「中長期的には改革を進めることで経済の潜在成長率を引き上げていくことが本質的な課題」と述べて話の重心を移し、その後の100ページ以上におよぶ展開において、デフレ脱却に向けての具体的な方策に触れることはまったくありません。
ということは、論理的に考えて、「改革を進めることで経済の潜在成長率を引き上げていく」という中長期的な課題を解決すれば、デフレは自ずと解決される、あるいは、解決されなくても大きな問題はないと判断していることになるでしょう。繰り返しますが、デフレ脱却に向けての具体的な方策については一行たりとも触れていないのですから、そう判断するよりほかに仕方がありません。ただし、報告が、デフレが解決されなくても大きな問題はないと判断しているとすれば、これはお話にならないほどの馬鹿げたことですから、論外とします。
では、「改革を進めることで経済の潜在成長率を引き上げていく」という中長期的な課題を解決することによって、果たしてデフレ脱却という当面の課題が解決されるのかどうかが最大のポイントになってきます。
それについて論を展開するまえに、報告の「中長期」という言葉の使い方について、ちょっと一言。文脈から判断するに、デフレ脱却は、「当面の課題」すなわち「短期的な課題」と読めますが、これは明らかにおかしい。デフレは、20年に及ぶ現象です。ところで、経済学や経営計画で「中長期」といえば、普通3年から5年、長くても10年のタイム・スパンを指します。だから、20年来の課題であるデフレ脱却は、十二分に「中長期的な課題」なのです。それをあたかも短期的な課題であるかのように読める書き方をしているのは、この課題の重量をなるべく軽く見積もろう、さらには、そう印象づけようとしている可能性が高い。とするならば、ここには看過できない作為がある、となります。とりあえず、ここで止めておきましょう。
では、先ほどの「最大のポイント」に話を戻しましょう。
報告が、キーワードにしている「潜在成長率」とは、なんなのでしょう。特段の注釈がないので、通常の意味で使っていると判断するのが妥当でしょう。潜在成長率は、一般に、生産活動に必要な3要素である資本・労働・生産性(技術革新や技術の活用法の進歩、労働や資本の質向上等)を使った場合に、GDP(国内総生産)を生み出すのに必要な供給能力を毎年どれだけ増やせるかを推計した指標をいいます。いいかえれば、国や地域が中長期的にどれだけの経済成長が達成できるかを供給サイドから推計した指標であり、GDPの伸び率が、個人消費や企業の設備投資といった需要サイドから見た結果的な増加率なのと対照をなします。また、GDPと異なり、短期的な景気循環は直接反映されず、中長期的に持続可能な経済成長率を示します。 なお、実際の成長率が潜在成長率を下回ることが続く場合にはデフレや失業率の上昇などが起き、一方で上回る状態が継続する場合にはインフレが起こると言われます。(分かりにくい方、ここの段落は読み飛ばしていただいて一向に構いません)
とするならば、報告は理論上、潜在成長率をできるだけ伸ばして供給能力を高めることによって、デフレは解決されると述べていることになります。
簡単な数式を使うと、こうなります。デフレ・ギャップ=供給能力-現実の総需要量のうち、供給能力を高めるわけですから、報告は、デフレ・ギャップをさらに大きくすることが中長期的にはデフレを克服すると述べているわけです。
普通、逆に考えますね。図式で表すと、現実の総需要量を高めること→デフレ・ギャップの解消→デフレの脱却、という道筋です。そうして、デフレを脱却するには、これ以外にないことは自明の理です。
つまり、報告が主張する方策は、デフレを悪化させることはあっても、その方策によってデフレから脱却する可能性は理論上ゼロである、という恐ろしい結論が得られます。何故、恐ろしいのでしょうか。それは、経済界の権力を握る人々が、間違った理論を信じこむことによって、国民経済が地獄への道をひた走る可能性が大きいから恐ろしいのです。それともう一つ。曲がりなりにも、報告が「学会、経済界、官界の英知」と胸を張って賞賛した識者30人が、1年以上をかけた末に理論的に完全に間違った方策しか作り上げることしかできなかったから恐ろしいのです。御用学者でもなんでも構わないから、正しい理論を導き出して、経済界のじいさんたちに吹き込んでもらわなくては困るのです。間違った理論の災いは、孫子末代に及ぶのです。最新の理論を知っていることは、頭がまともに働くことをまったく保証しない、という痛ましい例です。痛ましいとは思いますが、この災いの理論をいい気になって主導した識者には、天誅を下すべきです。
私は、この喜悲劇の黒子はおそらく財務官僚ではないかと睨んでいます。
この間違った理論的前提から、馬鹿げた分析結果と悪夢のような14の提言がなされます。それについては、次回に。
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前回は、経団連の研究機関である21世紀政策研究所が4月1日に発表した「グローバルJAPAN 2050年シミュレーションと総合戦略」の総論にあたる部分を取り上げました。そうして、当報告書が強調するように「改革を進めることで経済の潜在成長率を引き上げていく」という中長期的な「本質的課題」を解決することによっては、「デフレ脱却という当面の課題」は決して解決されえないことを述べました。
デフレ脱却が解決されない限り、実際の成長率が潜在成長率を下回る事態が続くのですから、このシミュレーションは画餠に帰することになります。
これでおしまい、と言いたいところですが、この報告書が経済社会に与える深甚なマイナスの影響を思うと、この際、自分の非力を顧みず徹底的に批判しておこうと腹を決めました。
まずは、報告書のシミュレーションの分析内容と結果についてしばらく耳を傾けてください。詳細についてはなるべく省いて、大きくつかまえるよう心がけますので。
報告書の前提として、消費税は財務省が予定している通りに、税率が2014年の4月に8%に、2015年の10月に10%にアップされることになっています。また、プライマリー・バランスは2020年までに黒字になるものと仮定します。これも、財務省の目標通りです。
報告は、次の四通りのシナリオを立てます。明示されてはいませんが、これらのシナリオの背後には、「潜在経済成長率=労働力率×資本ストック伸び率×生産性上昇率」という式が想定されています。それぞれの上昇率の掛け算で潜在経済成長率が推定されるわけです。それぞれの上昇率は複雑な計算で割り出されるのでしょうが、基本の考え方はそういうことです。(分かりにくければこの式は無視してください.。また、煩わしければ、以下の青文字の部分はナナメ読みをしていただいてもけっこうです)
①基本1:生産性上昇率は先進国平均並みの1.5%のケース。
②基本2:「失われた20年」が継続するケース。つまり、日本の過去20年間の生産性上昇率0.5%が継続した場合です。
③悲観:財政悪化による成長率の下振れが起きるケース
④労働力率改善:2040年までに女性労働力率がスウェーデン並みになるケース(30~49歳で、日本は70%前後、スウェーデンは90%弱 2008年)
シミュレーションの結果は、以下の通りです。
①基本1:人口減、投資減によりGDP成長率は2011-2020年は平均0.43%、2030年以降はマイナス成長。この結果、GDPは中国、アメリカ、インドに次いで世界第4位。一人当たりGDPは 韓国に抜かれ世界第18位。
②基本2:GDP成長率は2011-2020年は平均0.17%であるが、2020年代はマイナス成長となり、2041-2050年は▲0.86%。GDPはブラジルに次いで世界第5位。一人当たりGDPは世界第21位へ転落。
③悲観:政府債務残高のさらなる積み上がりが経済成長の重石となり、2010年代以降マイナス成長となり、世界のトップ・グループから完全に転落。GDPは世界第9位、一人当たりGDPは世界第28位。
④労働力率改善:2050年時点のGDPは基本シナリオ1より2.8%増加。GDP・一人当たりGDPの順位は基本1と同じ。高齢者の労働力率向上の上積みがあれば、さらなる改善が見込まれる。
報告は、これらの4パターンを次のように総括します。
①実質GDP成長率
生産性が回復しても少子高齢化の影響が大きく、2030年代以降の成長率はマイナスに。万が一財政破綻が生じれば、恒常的にマイナス成長の恐れ。
②GDP成長率の寄与分析
日本は人口減少の影響を甚大に被り、中長期的に労働・資本の2要素により、成長率の下押し圧力に恒常的にさらされる。
③GDP
中国、米国、次いでインドが世界超大国の座に。日本のGDPは2010年規模を下回り、(最高でもー引用者補)第4位。それでも、中国・米国の六分の1、インドの3分の1以下の規模となり、存在感は著しく低下。
さらに報告書は、財政についても、以上を踏まえたうえで次のようなシミュレーションを提示します。
2015年までに消費税を10%に引き上げても、その後2050年までさらなる収支改善をしなければ2050年の政府債務残高は対GDP比約600%へ。
政府方針である2020年以降の債務残高安定化(対GDP比約200%維持-引用者注)のためには、さらに2016年以降10年間にわたり毎年GDP比1%(2011年価格で5兆円規模)、計9.5%の収支改善が必要。(仮に消費税率のみにより同様の目標を達成するために必要な上げ幅を機械的に計算すると、24.7%ポイントの引き上げに相当)歳出削減や他の税で対応すれば消費税率引き上げ幅は抑制可能。
ずいぶんとわれわれを暗い気分にさせるシミュレーションですね。いやになってしまいます。なんだか宿命論者になってしまいそうです。
しかし、大丈夫です。これらの議論は突っ込みどころ満載ですから。
まずは、潜在成長率について。もっともらしく推計していますが、その推計の根拠になっているデータは、全て「失われた20年」という過去に基づいているものであることにご注意願います。〔基本2〕はその典型ですし、〔基本1〕も生産性だけは過去のものよりややアップさせた形ですが、ほかのデータは〔基本2〕と同様です。また、〔悲観〕は〔基本2〕に財務省の大好きな「財政悪化」を組み合わせたものです。財政悪化は、名目GDPの成長率と強い相関関係があるので、それを独立変数的に取り扱うのは「タメにする議論」のように感じます。もちろん、財務省の増税のタメに、です。また、田村秀男氏によれば、「政府債務が増えるほど、現役世代は消費を抑える傾向がある」というのは御用学者・御用エコノミストの新手法的なデマだそうです。消費者が消費を抑えるのは、デフレで可処分所得が目減りしているからに決まっていますよね。後は、〔労働力率改善〕ですか。これは、〔基本1〕べースのGDPをアップさせるために、子育てに手のかかる30歳代~40歳代の女性たちと、老後を楽しもうとしているじいさんばあさんを仕事に駆り出すといういささか酷で小首をかしげる条件を付け加えているわけですね。私はあまり気が進みませんねぇ、こんなハードなのは。
過去の延長線上に未来を思い描くのは、人間にとって避けられないところがあります。しかし、これからの28年間が、過去20年間の傾向をそのまま引きずったものになるのか、それとも、コペ・テン的な変革があるのか、それは本当に神のみぞ知るの領域です。少子化に関して、報告は、4つのケースにおいて、その傾向がどんどん進展するという共通の前提で話を進めていますが、それだってどうなるか分かったものではありません。私は、この20年間の経済的な停滞と少子化の進展との間には一定の関係があると思っています。少なくとも、経済状態が大きく好転して社会に明るい雰囲気が漂い出したら、その傾向がどうなるか予想がつかないところがあるとは言えるでしょう。
次に、経済成長率を少子高齢化によって規定されたものとして語ることの是非について。過去20年間のデフレからデフレ不況への進展は、少子化がもたらしたものではありません。端的に政府・日銀の財政・金融政策の根本的な誤りが原因であると私は考えています。つまりまったくの人災であって、豊かな社会の宿命なんかではありえないのです。このことについては、何度も触れたことがあるので、ごく手短に言いましょう。政府については、橋本内閣の行政改革と小泉内閣の構造改革というインフレ時に実行するべき政策をデフレ下で断行してしまったことと、自民党の改革路線と民主党政権の「コンクリートから人へ」の路線によって、GDPを押し上げる公共事業を極端に削減しつづけたこととが致命的な誤りです。「ムダを省くと経済成長する」というのは、この20年間のいわば迷信だったのです。それは、ありえないことです。「ムダをすると経済成長する」と言ったほうがむしろ真実に近いのです。それに毅然として立ち向った政治家は、麻生さんと小渕さんくらいでした。残念ながら、いずれも短命な政権で終わってしまいましたけれど。また、いずれも、マスコミと世論によって石を投げ続けられたことは記憶に新しいのではないでしょうか。馬鹿なことをしたものです。
また、日銀については、これも何度も触れたことなので、ごく手短に言えば、インフレに対する恐怖からデフレを維持しようとしているとしか思えないような、中途半端な金利政策と消極的な金融緩和政策とを延々と続けてきたことが致命的な誤りです。
私は、20年間という、いわば超長期に渡って、デフレが続いてきた原因が、政策上の失敗という完全に人為的なものであって、少子化などという社会自然的なものなどではないと言いたいのです。よく引き合いに出される例なのですが、目を世界に転じてみると、台湾や韓国や香港は日本以上に少子化が進んでいるのにデフレになっていません。また、ドイツやロシアの人口減少率は日本の比ではないのにもかかわらず、デフレになっていないどころか順調にGDPを伸ばしています。長期に渡ってデフレで苦しんでいる先進国は日本しかないのです。日本以外の先進国はリーマン・ショックまでは順調に経済成長を成し遂げてきたのです。だから、経済成長率の停滞が豊かな社会の宿命だなんて事実としてあり得ません。
だから、これから先の20数年間について少子化あるいは少子高齢化が、低成長をもたらすという考え方は、その原因を見誤った過去20年間の停滞を、これから先の20数年間にいわば無造作に投影した本質的に愚かしい思考法であると私は考えます。前提が間違っていても、高等数学や統計学的な手法を駆使すれば、それなりに精緻めかした議論を展開するのは可能ですが、それは所詮は砂上の楼閣、虚しい所業です。というか、そういう戯論(けろん)を弄ぶ輩は、病人に毒を薬だと言い含めて服用させるとんだヤブ医者なのです。この笑うに笑えない惨状には、若い優秀な経済学者の頭脳を占めているのは、政府の役割を強調するデフレ退治のケインズ経済学ではなく、政府の役割をなるべく小さく見積もろうとするインフレ退治の新自由主義経済学の知識である、という深刻な事情がどうやら一枚噛んでいそうです。
次に、財政シュミレーションについて。「2015年までに消費税を10%に引き上げても、その後2050年までさらなる収支改善をしなければ2050年の政府債務残高は対GDP比約600%」になってしまう、だから、消費増税は10%で終わらせるわけにはいかない、というわけです。これでは、まったく財務官僚の言い草ですね。おそらく、これは財務省寄りの御用学者が、財務省に取り入るために差し挟んだ文言でしょう。財界も、財務官僚を敵に回すのは得策ではないと判断して媚を売っているのでしょう。財務官僚の権力は絶大ですから。また、財務官僚の入れ知恵をすんなりと学者たちが受け入れるのは、やはり彼らの優秀な頭脳に、デフレを軽視しがちな新自由主義経済学が詰め込まれているから、という事情がありそうです。
これも、これまで散々言ってきたことなので、手短に言いますが、デフレ下で逆進性の高い消費税の税率を上げることは、デフレをさらにこじらせて名目GDPの低下をもたらす危険性が高いのです。これは、橋本デフレですでに実験済みです。とすると、名目GDPの低下は税収の低下をもたらします。つまり、増収のために増税したのに、増税がかえって税収減をもたらすのです。そこで、また増税と。これは、国を滅ぼす所業です。その亡国のループのなかで、「政府債務残高は対GDP比約600%」とか、「消費税率24.7%のさらなる引き上げ」などという途方もない数字が登場するのです。
ついでながら、敵さんがしつこいのでこちらもしつこく指摘しておきますが、100%自国通貨建ての日本が「財政破綻」=デフォルトすることは絶対にありません!自国通貨建てで国債が発行できるという恵まれた国は、世界広しといえども、アメリカ・イギリス・スイスそして日本ぐらいしかないのです。そこまで国力を充実させてきた一般国民に、財務官僚は感謝すべきであると私は考えます。
さて、税収を引き上げるには、名目GDPの成長率を高めるほかはありません。なぜなら、基本は、「税収=名目GDP×税率」だからです(税収弾性値の議論は略します)。デフレ下で税率を上げても税収は上がらないことはすでに述べました。
次に、名目GDPの成長率を高めるのは、政府・日銀の適切でタイムリーな財政・金融政策によるほかありません。これは、デフレから脱却するために必要なものでもあります。
ここで、話は一巡します。報告の根本的な欠陥は、その冒頭で、「デフレ脱却は当面の課題」と触れていながらも、すぐその後に「中長期的には改革を進めることで経済の潜在成長率を引き上げていくことが本質的な課題」と述べて話の重心を移したことにあったのです。あたかもこの「中長期的で本質的な課題」が解決されさえすれば、「デフレ脱却という当面の課題」が自ずと解決されるかのような印象を与えたことにあったのです。つまり、デフレの克服という、当面の課題でもあり、超長期的な課題でもある重大事を放置したことにあったのです。
報告書は、デフレの克服を、ほかの何をおいても全力をあげて取り組むべき課題とすべきだったのです。それ以外にいまやるべきことはありません。それを完全に克服するには約10年かかるものと思われますが、そのときには、名目GDPは最低でも600兆円、最大で900兆円に達しています。(これについては後日説明します)その過程で、税収の自然増が実現され、財政再建は自ずと成し遂げられることになります。20年先、30年先を暗い顔して思いあぐねている場合ではないのです。
では、報告は何故デフレの克服を正面に据え、それとがっぷり四つで取り組もうとしなかったのでしょう。私見によれば、それは、経団連が政府・日銀との全面対決を避けようとしたからです。
デフレの克服を本気になって成し遂げようとすれば、この20年間の政府・日銀の財政・金融政策の根本的再検討は避けて通れません。その作業をきっちりとしようとすると、どうしても、これまでの政策の全面否定という結論に達してしまいます。日銀には日銀法の改正を求めるよりほかなくなってきます。
経団連は、どうしてそれができないのか。それは、彼らが国民経済の代表者としての気概を失っているからです。そういう気概があれば、彼らは万難を排して、政府・日銀にこれまでの政策の全面破棄と適切な政策の即時断行を当然のことながら厳しく求めるはずです。
では、何故経団連は、国民経済の代表者としての気概を失ったのでしょうか。それは、端的に言えば日本の大企業がグローバル企業に変貌を遂げてしまったからです。前々回で申し上げたように、グローバル企業の利害と国民経済の利害とは鋭く対立します。グローバル企業は国民経済の代表者たりえないのです。
グローバル企業は、自分たちの存続・発展を最優先しますから、法人税はなるべく下げて、消費税増税という形で国民経済にしわ寄せをしようとしますし、そのことでデフレ・円高が進めば、ヒョイと海外移転をすれば済むわけです。また、そのように「日本を出るぞ出るぞ」と政府を脅して法人税を上げないように圧力をかけるわけです。
グローバル企業は、出自は日本ですが、その魂はすでに無国籍空間を漂っているのです。だから、その意味でも、グローバル企業は国民経済の代表者たりえないのです。
ところで、振り返ってみるに、グローバル企業はなにゆえグローバル企業たりえたのでしょうか。それは、口うるさくて目の肥えた日本の消費者によって徹底的に鍛え上げられ、そのなかで獲得したほかのどの海外企業にも負けない技術力を武器にすることができたからです。その武器を手に、彼らは海外に雄飛し続けてきたのですね。
つまり、日本経済の懐がグローバル企業の産みの親であったし、いまでもあり続けているのです。その、自分を自分たらしめ、自分に力を与えてくれる源泉を枯渇させるような振る舞いを、いまグローバル企業は国民経済に対して、政府・日銀とグルになってしています。とんでもないことです。
だから、私は、経団連に対して、日本経済団体連合会という正式名称から、「日本」を削り取って、単に「経済団体連合会」とするか、「無国籍経済団体連合会」あるいは「グローバル経済団体連合会」とするべきであると主張するのです。今のままの経団連に「日本」を僭称されるのは、片腹痛いこと限りない思いでいっぱいです。
実は日本は、喧伝されているような貿易立国ではありません。アメリカについで、外需依存度の低い堂々たる内需大国なのです。韓国や中国とは経済の構造が違うのです。経団連が「アジアの成長を取り込め」などとさもしいことをうわ言のように言い続けるのは、長らくのデフレで自信を喪失しているからでしょう。「もう日本はダメだ」と。
馬鹿なことを言ってはいけません。日本はまだまだ横綱相撲が取れる国なのです。つまり、政府・日銀が、適切な財政・金融政策さえ施せば、内需はさらに充実し、輸入は大いに増えます。日本には、リーマン・ショック後の不安定な世界経済を下支えする大きな潜在力があるのです。デフレを脱却すれば、為替相場は円安傾向に転じますから、輸出産業も息を吹き返します。
経団連が、国民経済の代表者として、デフレ脱却をきっぱりと政府・日銀に求め、日本の潜在力に深く立脚する堂々たる姿を、私は見たいと思っています。そのときまで、私の心のなかで経団連から「日本」の文字は削ったままにしておきましょう。いまの変に空威張りした彼らの姿はみすぼらしくて見たくありません。
経団連が、そういう責任感にあふれた勇姿をわれわれに見せてくれなかったならば、報告の暗いシナリオが現実のものになってしまうかもしれません。しかし、それはいわば経団連の自作自演です。
自作自演といえば、私は、オウム真理教を思い浮かべます。この教団の矯激で反社会的な振る舞いは、自分たちが勝手に妄想をふくらませて作り出した閉塞的な擬似的社会空間の産物でした。今の、人為的なデフレによって呪縛された日本社会も、「オウム的」な振る舞いでいっぱいです。ほかの誰よりも、財務省と日銀と経団連という国政に事実上最も責任を持った存在こそが、自分たちが作り出したデフレに、その思考が振り回されて、デフレという冷たい火に消費増税という重油を注ごうとしているのですから、まったくそうです。つまり、恐ろしいことに、優秀であったはずのパワー・エリートたちが、いまや思考停止に陥った末期のオウムのような存在に成り下がってしまっているのです。その事実を、われわれ一般国民は、好むと好まざるとにかかわらず、真摯に受け止めるよりほかにない段階に差し掛かっているようです。
ということは、主権者たる一般国民が目を覚ますよりほかにすべがない、という結論に至ることになってしまいます。それは、ボロクソに言われ続けてきた戦後民主主義が、ポピュリズムから身をかわしつつ、まだかろうじて命脈を保っているのかどうかの問いが国民に対して最終的に突きつけられているとも、申せましょう。
報告の、変に高飛車で、どこかしらうわ言のような「14の提言」が残ってしまいましたが、それについてはいずれ触れることもあるでしょう。
Wikipediaによれば、「もともと、経団連は日本の経済政策に対する財界からの提言及び発言力の確保を目的として(1948年3月にー引用者補)結成された組織であり、日経連は労働問題を大企業経営者の立場から議論・提言する目的で(同じく1948年3月にー引用者補)結成された組織であって健全な労使関係を哲学としていた。加盟企業のほとんどが両者で重複しており、日経連は労使間の対立の収束とともに役割を終えつつあるとの理由から(2002年5月にー引用者補)統合された。」とあります。
だから、米倉会長がテレビの画面に出てきて、大企業の代表者として世論や政府の経済政策に影響を与えようとするのは、ごく自然なことなのでしょう。と、素直に引き下がれないのが、私の性分で、彼があのトボけた顔で何かを言うと、私は決まってムッとしてしまうのです。「商人ふぜいが何を偉そうにいっていやがるんだ」と。
松下幸之助の経営哲学が代表例として挙げられると思うのですが、かつての日本の大企業のトップの多くは、自社が発展するには、自社の社員やさらには一般国民が豊かになることが必要であるという考え方をしていました。そうなれば、社員や一般国民から、会社の作ったモノをどんどん買ってもらえるからですね。もちろん、そうではない経営者も少なからずいたとは思いますが、そういう考え方が、少なくとも日本の高度成長期から80年代の後半まで主流だったことはおおむね肯っていただけるのではないかと思います。一般社員と取締役との給料の格差がアメリカに比べたら著しく小さいことが、日本的経営の強みとして称揚されたことも記憶に新しいところです。会社のそういう基本姿勢を信頼して、自分の一生を会社に捧げたかつての社員たちの心意気が、会社の発展と日本の経済発展とを大きく支えたことは間違いないのではないでしょうか。若い人は信じられないかもしれませんが、不況がどれほど続こうとも、社員の首を切らない会社がいい会社である、というのが当時の通念だったのです。
岡林信康の『山谷ブルース』の中の「オレたちがいなきゃ、ビルも道路もできゃあしねぇ」というフレーズは、下層労働者だけのものではなかったのです。そういう生真面目な生き方がもたらす避けようのない鬱屈感を晴らそうとして、彼らは、クレージー・キャッツの人気者・植木等の演じる、無責任だがなんとなく全てがうまくいってしまうサラリーマンの飄逸な姿を見て笑い転げたり、渥美清の演じる寅さんの風来坊としての気ままでちょっと切ない暮らしぶりにつかの間の解放感を味わったり、しんみりしたりしたのでしょう。
ところが、1991年にバブルがはじけてからしばらくして、会社のイメージをめぐる様相が変わってきました。
その話の後を続ける前に、そのときの日銀の急激な金融引き締めについてちょっと触れておきます。
先日の15日に死去した三重野康氏は、バブルの絶頂期の1989年12月に日銀総裁に就任。その直後から、バブルに終止符を打とうとして急激な金融引き締めに踏み切りました。公定歩合(当時の政策金利、いまは基準利率)を3.75%から4.25%に引き上げたのです。その後、さらに、90年3月に5.25%、8月には6%に「これでもか、これでもか」と矢継ぎ早に引き上げました。バブル退治に邁進する姿はその峻厳な風貌と相まって「平成の鬼平」と当時もてはやされたものでした。
日銀の大幅利上げ断行で、株価も地価も下落に転じます。日経平均株価は90年に入ると急落、10月1日には一時2万円を割り込むことに。地価も騰勢が鈍化、91年をピークに長期の下落基調に。狂乱のバブルはついに崩壊したのです。
しかし、今度は、バブル崩壊の副作用が日本経済を襲います。不動産担保の融資は担保割れし、銀行の不良債権が急増しました。91年7月に日銀は利下げに転じましたが、坂道を転げ始めた資産価格の下落は止まりません。金融が目詰まりを起こし、日本経済は現在に続く低迷期に入ります。(白川総裁は、三重野元総裁のインフレ潰しをめぐる「かたくななDNA」の「最良」の引き継ぎ手です。つまり、三重野総裁の采配はバランスを失していました。バブルは道徳的な悪ではありません。資産価値が上がって国富が増加しているのですから経済的相対的善です。だから、行き過ぎた部分を丸めるソフト・ランディグを目指すべきだったのです)
そうなると、資産デフレの主導する、出口の見えない景気の低迷にどう対処するかが、経営陣にとっての頭痛の種となります。沈みそうな船から、余計なものをドンドン捨てて危機を乗り切ろうとする「減量経営」の掛け声のもと、社員の首をためらうことなくスパッスパッと切ることのできる会社こそがいい会社である、となったのです。逆に、あくまでも社員を抱え込もうとする会社は非効率的で悪い会社である、と。社員にとってリストラの嵐が吹き荒れる受難の時代の始まりです。80年代とは隔世の感があります。戦後日本のいわば牧歌時代は、完全に終わりを告げたのです。日本人の気質もここではっきりと変わりました。私のような牧歌時代を知る者にはどうにも居心地の悪い独特の酷薄で個人原理主義的な傾向がはびこりだしたのはこのあたりからですね。
さらに、金融自由化の波が押し寄せて、これからはグローバリズムの時代だ、ということになると、国内企業が手強い海外企業に打ち勝つためには、どうしても価格競争力をつけなければなりませんから、手っ取り早い話、人件費を削るほかなくなるわけです。そのときまでに、従業員たちの抵抗力は、リストラの暴力によって十分に低下していましたから、不満を抱きながらも、彼らはそれを甘受しました。そうしなければ、会社から「じゃあ、辞めれば」と言われるだけですからね。
事実、グローバル化の大波が押し寄せはじめた1997年を基準にすると、輸出総額は08年に1.8倍にまで増加しているのに対して、一人当たりの給与は下がり続けて0.9倍以下にまで落ち込んでいるし、資本金10億円以上の大企業の労働分配率(会社が儲けた分のうちの従業員の取り分)は、97年に55%だったのが、途中最悪の45%にまで落ち込んで結局08年に50%になっているのです。(京都大学藤井聡研究室作成資料より 財務省法人企業統計年報、内閣府国民経済計算、国税庁民間給与実態統計調査を元に作成)
とするならば、2002年の2月から07年の10月までの、いざなぎ景気の57ヶ月を超える69ヶ月の戦後最長の景気回復期が、いまだに名前をつけられらず「実感なき景気回復」とだけ言われるのは、十分に根拠のあることなのです。
ここで、確認しなければならないのは、海外に打って出る日本のグローバル企業の利益と、国民経済の利益とは、鋭く対立するということです。そうして、いわゆる「国益」がどちらの側に就くかは自明です。国民経済の側に決まっていますね。
(一応、念のために申し上げておきます。私は、別に、「資本家は労働者を搾取する」というマルクス主義的な認識を披露しようとしているわけではありません。グローバル企業の不可避的な傾向を指し示しているのです。グローバル企業が、社の方針を内需拡大路線に大きく変更したならば、そういう対立的な要素はずいぶんと緩和されることになります)
とするならば、グローバル企業の代表が、公共的な電波を使っておこがましくもわれわれ国民の前で、国民経済の代表者を僭称して、自分たちの反国益的、つまり、反国家的な利益の追及を堂々と主張するのは、許しがたい悪業である、という認識に至るのは、あまりにも当然のことではないでしょうか。
そんなわけで、私は、あのふぐ面・たぬき面をながめながら、「商人ふぜいが何を偉そうにいっていやがるんだ」と毒づくことになってしまうのです。
そんなスネ者の私の目に、ちょっと前のものになりますが、たまたま4月17日の読売新聞の、「2050年、日本のGDP9位転落も」という見出しが触れることになりました。これは、4月16日に経団連の研究機関、21世紀政策研究所(森田富治郎所長)によって発表された「グローバルJAPAN 2050年シミュレーションと総合戦略」の解説記事です。
「少子高齢化が進む日本経済の行方に危機感を示し、効率的な成長戦略や財政の立て直しなどに早急に取り組まねば、経済一流国の座から転落しかねないと警鐘を鳴らした」というリードを読んで、早くも亡国ゲームの臭みがブンブンとしてきたので、すわ、これは一大事というわけで、21世紀政策研究所のHPを開いてみたところ、やおら読み進むうちに、その立論のいい加減さと悪質さとで頭がくらくらしてきたのでした。一流大学の経済学部のエライ先生方が雁首をそろえてなにをやっているのだ、バカヤロウどもが、とは思います。その具体的なお話は、次のお楽しみということで。
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では、経団連の研究機関である21世紀政策研究所が4月1日に発表した「グローバルJAPAN 2050年シミュレーションと総合戦略」の内容のポイントを紹介しながら、その都度コメントしましょう。
この報告書は、昨年の1月から、「学会、経済界、官界の英知を結集し、経済・産業・雇用、税・財政・社会保障、外交・安全保障の各分野において、各界の有識者との議論や、海外調査等を精力的に行」って作成されたものであるとのこと。大変な力の入れようです。もっとも、私はこういう権威主義的な物言いをあまり好まない質(たち)で、誰が作成しようと、内容が優れているかどうかが全てであると考えます。
冒頭の「先進国から転落の危機に立つ日本」から引用しましょう。
わが国は、名目GDPがおよそ20年前の水準に止まるという「成長なき経済」に陥っている。政府債務はGDP比約200%に達し、財政や社会保障が危機に瀕している。2011年3月には、未曾有の東日本大震災に見舞われ、長期的なエネルギー制約の問題も浮上した。さらに、わが国が位置する東アジア地域には、安全保障上の緊張も存在する。このような状況下で、わが国は今後、本格的な人口減少社会に突入する。世界最速での少子高齢化・人口減少の進行は、経済社会全体に甚大な影響を及ぼす。このままでは、先進国としての地位から転落し、極東の一小国に逆戻りしかねない恐れすらある。
この文章を虚心に読めば、今日の危機的な諸状況の根本原因は「名目GDPがおよそ20年前の水準に止ま」っていることであると、とりあえず解することができます。少子化問題とエネルギー問題は、それらが仮に大きな問題であるにしても今後に関わることなので、とりあえず置いておくのが妥当ですね。過去の集積として現在があり、現在に困ったことがある場合、過去にその原因を求め、そのなかで主たる原因を割り出すことで現状を打破しようとするのがまっとうな思考の形である、というわけです。
図式的に言えば、名目GDPの停滞→税収減→政府債務の対GDP比上昇→財政・社会保障の危機的状況の招来→東日本大震災による名目GDP停滞の深刻化→さらなる税収減・・・という悪循環のループです。名目GDPの停滞が諸問題の起点になっていることがお分かりいただけるでしょう。
とするならば、次に問題になるのは、何故名目GDPの停滞が20年間も続いているのか、です。
報告は、「危機克服のチャンスは目の前にある」で、それに関連して次のように述べます。
まずはわが国が置かれた状況を虚心坦懐に直視した上で、山積する諸課題の解決に国を挙げて取り組む必要がある。デフレからの脱却は当面の課題であるが、中長期的には改革を進めることで経済の潜在成長率を引き上げていくことが本質的な課題である。国民一人ひとりが「がんばる」ことのできる環境を作るとともに、躍動するアジア太平洋地域の活力を取り込むことは不可欠である。これらにより、子子孫孫に課題を先送りせず、豊かで魅力ある日本を引き継いでゆかねばならない。
ここを読んで、私は目を疑いました。これでは、解決の方向性がまったく逆ではないか、「学会、経済界、官界の英知を結集」したのに、こんなトンチンカンな総括しかできなかったのか、と。さらに、問題のすり替えをしている疑いさえ濃厚です。それは、こういうわけです。
このブログでたびたび強調してきたように、名目GDPが20年間も停滞し続けてきた原因は、日本経済が1991年のバブル崩壊をきっかけにデフレに陥ったまま、そこから脱却できていないことです。
デフレ、すなわち物価が継続して下落する現象の原因は、デフレ・ギャップが生じることです。デフレ・ギャップとは、社会全体の商品の供給能力に対して需要の総量(有効需要あるいは貨幣の供給量)が不足することです。供給過剰は、物価にとって下方圧力となるのですね。それが、デフレ・スパイラルの起点となりますし、デフレ・ギャップが埋められない限り、どうしても回り回ってその起点に戻ってきてしまうことになります。その循環を繰り返すうちに、経済全体の規模は少しづつ縮小していくのです。働きがいを失いながら、みんなで少しづつ貧乏になっていくのです。それが、デフレの恐ろしさです。
とするならば、デフレを克服するには、デフレ・ギャップを埋めることが必須であるということになります。
ところで、民間では、それは原理的に実現できません。なぜなら、デフレとは貨幣の価値が上昇し続けることなので、企業からずれば、投資をするよりも内部留保を増やす方が有利ですし、家計にとっても、手持ちの貨幣を減らす消費を手控えて貨幣を貯蔵する方が有利だからです。つまり、民間が合理的に行動すれば、貨幣の価値は上昇し続ける、つまりデフレからの脱却は不可能となります。つまり、民間の理性は、デフレの継続を選択するのです。民間のひとりひとりは合理的に振舞っているのですが、社会全体としては、経済規模の縮小という非合理的な結果が生じるわけです。
そこで、政府の役割がスポット・ライトを浴びることになります。つまり、政府は、中央銀行を通じて貨幣を新たに十分に民間に供給し、投資や消費のインセンティヴを高める。あるいは、公共投資を通じて有効需要を作り出す。つまり、政府の大胆な金融政策と財政政策とによって、民間によっては実現不可能であったデフレギャップの埋め合わせが可能となるのです。デフレ不況時において、政府がやらなければならないことの核心は、これに尽きます。政府のタイムリーな経済政策によって、お金が民間に潤沢に回るようになり、民間は活気づき、やがて自力でデフレ不況から這い上がることになるのです。
報告は、一応「デフレ脱却は当面の課題」と触れていますが、すぐその後に「中長期的には改革を進めることで経済の潜在成長率を引き上げていくことが本質的な課題」と述べて話の重心を移し、その後の100ページ以上におよぶ展開において、デフレ脱却に向けての具体的な方策に触れることはまったくありません。
ということは、論理的に考えて、「改革を進めることで経済の潜在成長率を引き上げていく」という中長期的な課題を解決すれば、デフレは自ずと解決される、あるいは、解決されなくても大きな問題はないと判断していることになるでしょう。繰り返しますが、デフレ脱却に向けての具体的な方策については一行たりとも触れていないのですから、そう判断するよりほかに仕方がありません。ただし、報告が、デフレが解決されなくても大きな問題はないと判断しているとすれば、これはお話にならないほどの馬鹿げたことですから、論外とします。
では、「改革を進めることで経済の潜在成長率を引き上げていく」という中長期的な課題を解決することによって、果たしてデフレ脱却という当面の課題が解決されるのかどうかが最大のポイントになってきます。
それについて論を展開するまえに、報告の「中長期」という言葉の使い方について、ちょっと一言。文脈から判断するに、デフレ脱却は、「当面の課題」すなわち「短期的な課題」と読めますが、これは明らかにおかしい。デフレは、20年に及ぶ現象です。ところで、経済学や経営計画で「中長期」といえば、普通3年から5年、長くても10年のタイム・スパンを指します。だから、20年来の課題であるデフレ脱却は、十二分に「中長期的な課題」なのです。それをあたかも短期的な課題であるかのように読める書き方をしているのは、この課題の重量をなるべく軽く見積もろう、さらには、そう印象づけようとしている可能性が高い。とするならば、ここには看過できない作為がある、となります。とりあえず、ここで止めておきましょう。
では、先ほどの「最大のポイント」に話を戻しましょう。
報告が、キーワードにしている「潜在成長率」とは、なんなのでしょう。特段の注釈がないので、通常の意味で使っていると判断するのが妥当でしょう。潜在成長率は、一般に、生産活動に必要な3要素である資本・労働・生産性(技術革新や技術の活用法の進歩、労働や資本の質向上等)を使った場合に、GDP(国内総生産)を生み出すのに必要な供給能力を毎年どれだけ増やせるかを推計した指標をいいます。いいかえれば、国や地域が中長期的にどれだけの経済成長が達成できるかを供給サイドから推計した指標であり、GDPの伸び率が、個人消費や企業の設備投資といった需要サイドから見た結果的な増加率なのと対照をなします。また、GDPと異なり、短期的な景気循環は直接反映されず、中長期的に持続可能な経済成長率を示します。 なお、実際の成長率が潜在成長率を下回ることが続く場合にはデフレや失業率の上昇などが起き、一方で上回る状態が継続する場合にはインフレが起こると言われます。(分かりにくい方、ここの段落は読み飛ばしていただいて一向に構いません)
とするならば、報告は理論上、潜在成長率をできるだけ伸ばして供給能力を高めることによって、デフレは解決されると述べていることになります。
簡単な数式を使うと、こうなります。デフレ・ギャップ=供給能力-現実の総需要量のうち、供給能力を高めるわけですから、報告は、デフレ・ギャップをさらに大きくすることが中長期的にはデフレを克服すると述べているわけです。
普通、逆に考えますね。図式で表すと、現実の総需要量を高めること→デフレ・ギャップの解消→デフレの脱却、という道筋です。そうして、デフレを脱却するには、これ以外にないことは自明の理です。
つまり、報告が主張する方策は、デフレを悪化させることはあっても、その方策によってデフレから脱却する可能性は理論上ゼロである、という恐ろしい結論が得られます。何故、恐ろしいのでしょうか。それは、経済界の権力を握る人々が、間違った理論を信じこむことによって、国民経済が地獄への道をひた走る可能性が大きいから恐ろしいのです。それともう一つ。曲がりなりにも、報告が「学会、経済界、官界の英知」と胸を張って賞賛した識者30人が、1年以上をかけた末に理論的に完全に間違った方策しか作り上げることしかできなかったから恐ろしいのです。御用学者でもなんでも構わないから、正しい理論を導き出して、経済界のじいさんたちに吹き込んでもらわなくては困るのです。間違った理論の災いは、孫子末代に及ぶのです。最新の理論を知っていることは、頭がまともに働くことをまったく保証しない、という痛ましい例です。痛ましいとは思いますが、この災いの理論をいい気になって主導した識者には、天誅を下すべきです。
私は、この喜悲劇の黒子はおそらく財務官僚ではないかと睨んでいます。
この間違った理論的前提から、馬鹿げた分析結果と悪夢のような14の提言がなされます。それについては、次回に。
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前回は、経団連の研究機関である21世紀政策研究所が4月1日に発表した「グローバルJAPAN 2050年シミュレーションと総合戦略」の総論にあたる部分を取り上げました。そうして、当報告書が強調するように「改革を進めることで経済の潜在成長率を引き上げていく」という中長期的な「本質的課題」を解決することによっては、「デフレ脱却という当面の課題」は決して解決されえないことを述べました。
デフレ脱却が解決されない限り、実際の成長率が潜在成長率を下回る事態が続くのですから、このシミュレーションは画餠に帰することになります。
これでおしまい、と言いたいところですが、この報告書が経済社会に与える深甚なマイナスの影響を思うと、この際、自分の非力を顧みず徹底的に批判しておこうと腹を決めました。
まずは、報告書のシミュレーションの分析内容と結果についてしばらく耳を傾けてください。詳細についてはなるべく省いて、大きくつかまえるよう心がけますので。
報告書の前提として、消費税は財務省が予定している通りに、税率が2014年の4月に8%に、2015年の10月に10%にアップされることになっています。また、プライマリー・バランスは2020年までに黒字になるものと仮定します。これも、財務省の目標通りです。
報告は、次の四通りのシナリオを立てます。明示されてはいませんが、これらのシナリオの背後には、「潜在経済成長率=労働力率×資本ストック伸び率×生産性上昇率」という式が想定されています。それぞれの上昇率の掛け算で潜在経済成長率が推定されるわけです。それぞれの上昇率は複雑な計算で割り出されるのでしょうが、基本の考え方はそういうことです。(分かりにくければこの式は無視してください.。また、煩わしければ、以下の青文字の部分はナナメ読みをしていただいてもけっこうです)
①基本1:生産性上昇率は先進国平均並みの1.5%のケース。
②基本2:「失われた20年」が継続するケース。つまり、日本の過去20年間の生産性上昇率0.5%が継続した場合です。
③悲観:財政悪化による成長率の下振れが起きるケース
④労働力率改善:2040年までに女性労働力率がスウェーデン並みになるケース(30~49歳で、日本は70%前後、スウェーデンは90%弱 2008年)
シミュレーションの結果は、以下の通りです。
①基本1:人口減、投資減によりGDP成長率は2011-2020年は平均0.43%、2030年以降はマイナス成長。この結果、GDPは中国、アメリカ、インドに次いで世界第4位。一人当たりGDPは 韓国に抜かれ世界第18位。
②基本2:GDP成長率は2011-2020年は平均0.17%であるが、2020年代はマイナス成長となり、2041-2050年は▲0.86%。GDPはブラジルに次いで世界第5位。一人当たりGDPは世界第21位へ転落。
③悲観:政府債務残高のさらなる積み上がりが経済成長の重石となり、2010年代以降マイナス成長となり、世界のトップ・グループから完全に転落。GDPは世界第9位、一人当たりGDPは世界第28位。
④労働力率改善:2050年時点のGDPは基本シナリオ1より2.8%増加。GDP・一人当たりGDPの順位は基本1と同じ。高齢者の労働力率向上の上積みがあれば、さらなる改善が見込まれる。
報告は、これらの4パターンを次のように総括します。
①実質GDP成長率
生産性が回復しても少子高齢化の影響が大きく、2030年代以降の成長率はマイナスに。万が一財政破綻が生じれば、恒常的にマイナス成長の恐れ。
②GDP成長率の寄与分析
日本は人口減少の影響を甚大に被り、中長期的に労働・資本の2要素により、成長率の下押し圧力に恒常的にさらされる。
③GDP
中国、米国、次いでインドが世界超大国の座に。日本のGDPは2010年規模を下回り、(最高でもー引用者補)第4位。それでも、中国・米国の六分の1、インドの3分の1以下の規模となり、存在感は著しく低下。
さらに報告書は、財政についても、以上を踏まえたうえで次のようなシミュレーションを提示します。
2015年までに消費税を10%に引き上げても、その後2050年までさらなる収支改善をしなければ2050年の政府債務残高は対GDP比約600%へ。
政府方針である2020年以降の債務残高安定化(対GDP比約200%維持-引用者注)のためには、さらに2016年以降10年間にわたり毎年GDP比1%(2011年価格で5兆円規模)、計9.5%の収支改善が必要。(仮に消費税率のみにより同様の目標を達成するために必要な上げ幅を機械的に計算すると、24.7%ポイントの引き上げに相当)歳出削減や他の税で対応すれば消費税率引き上げ幅は抑制可能。
ずいぶんとわれわれを暗い気分にさせるシミュレーションですね。いやになってしまいます。なんだか宿命論者になってしまいそうです。
しかし、大丈夫です。これらの議論は突っ込みどころ満載ですから。
まずは、潜在成長率について。もっともらしく推計していますが、その推計の根拠になっているデータは、全て「失われた20年」という過去に基づいているものであることにご注意願います。〔基本2〕はその典型ですし、〔基本1〕も生産性だけは過去のものよりややアップさせた形ですが、ほかのデータは〔基本2〕と同様です。また、〔悲観〕は〔基本2〕に財務省の大好きな「財政悪化」を組み合わせたものです。財政悪化は、名目GDPの成長率と強い相関関係があるので、それを独立変数的に取り扱うのは「タメにする議論」のように感じます。もちろん、財務省の増税のタメに、です。また、田村秀男氏によれば、「政府債務が増えるほど、現役世代は消費を抑える傾向がある」というのは御用学者・御用エコノミストの新手法的なデマだそうです。消費者が消費を抑えるのは、デフレで可処分所得が目減りしているからに決まっていますよね。後は、〔労働力率改善〕ですか。これは、〔基本1〕べースのGDPをアップさせるために、子育てに手のかかる30歳代~40歳代の女性たちと、老後を楽しもうとしているじいさんばあさんを仕事に駆り出すといういささか酷で小首をかしげる条件を付け加えているわけですね。私はあまり気が進みませんねぇ、こんなハードなのは。
過去の延長線上に未来を思い描くのは、人間にとって避けられないところがあります。しかし、これからの28年間が、過去20年間の傾向をそのまま引きずったものになるのか、それとも、コペ・テン的な変革があるのか、それは本当に神のみぞ知るの領域です。少子化に関して、報告は、4つのケースにおいて、その傾向がどんどん進展するという共通の前提で話を進めていますが、それだってどうなるか分かったものではありません。私は、この20年間の経済的な停滞と少子化の進展との間には一定の関係があると思っています。少なくとも、経済状態が大きく好転して社会に明るい雰囲気が漂い出したら、その傾向がどうなるか予想がつかないところがあるとは言えるでしょう。
次に、経済成長率を少子高齢化によって規定されたものとして語ることの是非について。過去20年間のデフレからデフレ不況への進展は、少子化がもたらしたものではありません。端的に政府・日銀の財政・金融政策の根本的な誤りが原因であると私は考えています。つまりまったくの人災であって、豊かな社会の宿命なんかではありえないのです。このことについては、何度も触れたことがあるので、ごく手短に言いましょう。政府については、橋本内閣の行政改革と小泉内閣の構造改革というインフレ時に実行するべき政策をデフレ下で断行してしまったことと、自民党の改革路線と民主党政権の「コンクリートから人へ」の路線によって、GDPを押し上げる公共事業を極端に削減しつづけたこととが致命的な誤りです。「ムダを省くと経済成長する」というのは、この20年間のいわば迷信だったのです。それは、ありえないことです。「ムダをすると経済成長する」と言ったほうがむしろ真実に近いのです。それに毅然として立ち向った政治家は、麻生さんと小渕さんくらいでした。残念ながら、いずれも短命な政権で終わってしまいましたけれど。また、いずれも、マスコミと世論によって石を投げ続けられたことは記憶に新しいのではないでしょうか。馬鹿なことをしたものです。
また、日銀については、これも何度も触れたことなので、ごく手短に言えば、インフレに対する恐怖からデフレを維持しようとしているとしか思えないような、中途半端な金利政策と消極的な金融緩和政策とを延々と続けてきたことが致命的な誤りです。
私は、20年間という、いわば超長期に渡って、デフレが続いてきた原因が、政策上の失敗という完全に人為的なものであって、少子化などという社会自然的なものなどではないと言いたいのです。よく引き合いに出される例なのですが、目を世界に転じてみると、台湾や韓国や香港は日本以上に少子化が進んでいるのにデフレになっていません。また、ドイツやロシアの人口減少率は日本の比ではないのにもかかわらず、デフレになっていないどころか順調にGDPを伸ばしています。長期に渡ってデフレで苦しんでいる先進国は日本しかないのです。日本以外の先進国はリーマン・ショックまでは順調に経済成長を成し遂げてきたのです。だから、経済成長率の停滞が豊かな社会の宿命だなんて事実としてあり得ません。
だから、これから先の20数年間について少子化あるいは少子高齢化が、低成長をもたらすという考え方は、その原因を見誤った過去20年間の停滞を、これから先の20数年間にいわば無造作に投影した本質的に愚かしい思考法であると私は考えます。前提が間違っていても、高等数学や統計学的な手法を駆使すれば、それなりに精緻めかした議論を展開するのは可能ですが、それは所詮は砂上の楼閣、虚しい所業です。というか、そういう戯論(けろん)を弄ぶ輩は、病人に毒を薬だと言い含めて服用させるとんだヤブ医者なのです。この笑うに笑えない惨状には、若い優秀な経済学者の頭脳を占めているのは、政府の役割を強調するデフレ退治のケインズ経済学ではなく、政府の役割をなるべく小さく見積もろうとするインフレ退治の新自由主義経済学の知識である、という深刻な事情がどうやら一枚噛んでいそうです。
次に、財政シュミレーションについて。「2015年までに消費税を10%に引き上げても、その後2050年までさらなる収支改善をしなければ2050年の政府債務残高は対GDP比約600%」になってしまう、だから、消費増税は10%で終わらせるわけにはいかない、というわけです。これでは、まったく財務官僚の言い草ですね。おそらく、これは財務省寄りの御用学者が、財務省に取り入るために差し挟んだ文言でしょう。財界も、財務官僚を敵に回すのは得策ではないと判断して媚を売っているのでしょう。財務官僚の権力は絶大ですから。また、財務官僚の入れ知恵をすんなりと学者たちが受け入れるのは、やはり彼らの優秀な頭脳に、デフレを軽視しがちな新自由主義経済学が詰め込まれているから、という事情がありそうです。
これも、これまで散々言ってきたことなので、手短に言いますが、デフレ下で逆進性の高い消費税の税率を上げることは、デフレをさらにこじらせて名目GDPの低下をもたらす危険性が高いのです。これは、橋本デフレですでに実験済みです。とすると、名目GDPの低下は税収の低下をもたらします。つまり、増収のために増税したのに、増税がかえって税収減をもたらすのです。そこで、また増税と。これは、国を滅ぼす所業です。その亡国のループのなかで、「政府債務残高は対GDP比約600%」とか、「消費税率24.7%のさらなる引き上げ」などという途方もない数字が登場するのです。
ついでながら、敵さんがしつこいのでこちらもしつこく指摘しておきますが、100%自国通貨建ての日本が「財政破綻」=デフォルトすることは絶対にありません!自国通貨建てで国債が発行できるという恵まれた国は、世界広しといえども、アメリカ・イギリス・スイスそして日本ぐらいしかないのです。そこまで国力を充実させてきた一般国民に、財務官僚は感謝すべきであると私は考えます。
さて、税収を引き上げるには、名目GDPの成長率を高めるほかはありません。なぜなら、基本は、「税収=名目GDP×税率」だからです(税収弾性値の議論は略します)。デフレ下で税率を上げても税収は上がらないことはすでに述べました。
次に、名目GDPの成長率を高めるのは、政府・日銀の適切でタイムリーな財政・金融政策によるほかありません。これは、デフレから脱却するために必要なものでもあります。
ここで、話は一巡します。報告の根本的な欠陥は、その冒頭で、「デフレ脱却は当面の課題」と触れていながらも、すぐその後に「中長期的には改革を進めることで経済の潜在成長率を引き上げていくことが本質的な課題」と述べて話の重心を移したことにあったのです。あたかもこの「中長期的で本質的な課題」が解決されさえすれば、「デフレ脱却という当面の課題」が自ずと解決されるかのような印象を与えたことにあったのです。つまり、デフレの克服という、当面の課題でもあり、超長期的な課題でもある重大事を放置したことにあったのです。
報告書は、デフレの克服を、ほかの何をおいても全力をあげて取り組むべき課題とすべきだったのです。それ以外にいまやるべきことはありません。それを完全に克服するには約10年かかるものと思われますが、そのときには、名目GDPは最低でも600兆円、最大で900兆円に達しています。(これについては後日説明します)その過程で、税収の自然増が実現され、財政再建は自ずと成し遂げられることになります。20年先、30年先を暗い顔して思いあぐねている場合ではないのです。
では、報告は何故デフレの克服を正面に据え、それとがっぷり四つで取り組もうとしなかったのでしょう。私見によれば、それは、経団連が政府・日銀との全面対決を避けようとしたからです。
デフレの克服を本気になって成し遂げようとすれば、この20年間の政府・日銀の財政・金融政策の根本的再検討は避けて通れません。その作業をきっちりとしようとすると、どうしても、これまでの政策の全面否定という結論に達してしまいます。日銀には日銀法の改正を求めるよりほかなくなってきます。
経団連は、どうしてそれができないのか。それは、彼らが国民経済の代表者としての気概を失っているからです。そういう気概があれば、彼らは万難を排して、政府・日銀にこれまでの政策の全面破棄と適切な政策の即時断行を当然のことながら厳しく求めるはずです。
では、何故経団連は、国民経済の代表者としての気概を失ったのでしょうか。それは、端的に言えば日本の大企業がグローバル企業に変貌を遂げてしまったからです。前々回で申し上げたように、グローバル企業の利害と国民経済の利害とは鋭く対立します。グローバル企業は国民経済の代表者たりえないのです。
グローバル企業は、自分たちの存続・発展を最優先しますから、法人税はなるべく下げて、消費税増税という形で国民経済にしわ寄せをしようとしますし、そのことでデフレ・円高が進めば、ヒョイと海外移転をすれば済むわけです。また、そのように「日本を出るぞ出るぞ」と政府を脅して法人税を上げないように圧力をかけるわけです。
グローバル企業は、出自は日本ですが、その魂はすでに無国籍空間を漂っているのです。だから、その意味でも、グローバル企業は国民経済の代表者たりえないのです。
ところで、振り返ってみるに、グローバル企業はなにゆえグローバル企業たりえたのでしょうか。それは、口うるさくて目の肥えた日本の消費者によって徹底的に鍛え上げられ、そのなかで獲得したほかのどの海外企業にも負けない技術力を武器にすることができたからです。その武器を手に、彼らは海外に雄飛し続けてきたのですね。
つまり、日本経済の懐がグローバル企業の産みの親であったし、いまでもあり続けているのです。その、自分を自分たらしめ、自分に力を与えてくれる源泉を枯渇させるような振る舞いを、いまグローバル企業は国民経済に対して、政府・日銀とグルになってしています。とんでもないことです。
だから、私は、経団連に対して、日本経済団体連合会という正式名称から、「日本」を削り取って、単に「経済団体連合会」とするか、「無国籍経済団体連合会」あるいは「グローバル経済団体連合会」とするべきであると主張するのです。今のままの経団連に「日本」を僭称されるのは、片腹痛いこと限りない思いでいっぱいです。
実は日本は、喧伝されているような貿易立国ではありません。アメリカについで、外需依存度の低い堂々たる内需大国なのです。韓国や中国とは経済の構造が違うのです。経団連が「アジアの成長を取り込め」などとさもしいことをうわ言のように言い続けるのは、長らくのデフレで自信を喪失しているからでしょう。「もう日本はダメだ」と。
馬鹿なことを言ってはいけません。日本はまだまだ横綱相撲が取れる国なのです。つまり、政府・日銀が、適切な財政・金融政策さえ施せば、内需はさらに充実し、輸入は大いに増えます。日本には、リーマン・ショック後の不安定な世界経済を下支えする大きな潜在力があるのです。デフレを脱却すれば、為替相場は円安傾向に転じますから、輸出産業も息を吹き返します。
経団連が、国民経済の代表者として、デフレ脱却をきっぱりと政府・日銀に求め、日本の潜在力に深く立脚する堂々たる姿を、私は見たいと思っています。そのときまで、私の心のなかで経団連から「日本」の文字は削ったままにしておきましょう。いまの変に空威張りした彼らの姿はみすぼらしくて見たくありません。
経団連が、そういう責任感にあふれた勇姿をわれわれに見せてくれなかったならば、報告の暗いシナリオが現実のものになってしまうかもしれません。しかし、それはいわば経団連の自作自演です。
自作自演といえば、私は、オウム真理教を思い浮かべます。この教団の矯激で反社会的な振る舞いは、自分たちが勝手に妄想をふくらませて作り出した閉塞的な擬似的社会空間の産物でした。今の、人為的なデフレによって呪縛された日本社会も、「オウム的」な振る舞いでいっぱいです。ほかの誰よりも、財務省と日銀と経団連という国政に事実上最も責任を持った存在こそが、自分たちが作り出したデフレに、その思考が振り回されて、デフレという冷たい火に消費増税という重油を注ごうとしているのですから、まったくそうです。つまり、恐ろしいことに、優秀であったはずのパワー・エリートたちが、いまや思考停止に陥った末期のオウムのような存在に成り下がってしまっているのです。その事実を、われわれ一般国民は、好むと好まざるとにかかわらず、真摯に受け止めるよりほかにない段階に差し掛かっているようです。
ということは、主権者たる一般国民が目を覚ますよりほかにすべがない、という結論に至ることになってしまいます。それは、ボロクソに言われ続けてきた戦後民主主義が、ポピュリズムから身をかわしつつ、まだかろうじて命脈を保っているのかどうかの問いが国民に対して最終的に突きつけられているとも、申せましょう。
報告の、変に高飛車で、どこかしらうわ言のような「14の提言」が残ってしまいましたが、それについてはいずれ触れることもあるでしょう。