平成二四年5月3日(水)から5日(金)まで、私は友人と福島県に行ってきました。自分なりにフクシマの現状を知りたいと思ったからです。
東京駅から福島市まで直行バスで雨の中3時間。福島市に着いたのは、午後5時でした。その日は、どこへも動きようがないので、予約していた「ホテル・クラウンヒルズ福島」に直行しました。駅から数分のとても便利な立地です。適当な居酒屋で軽く飲みながら食事を済まそうと、近所をうろついて店を探しました。
福島市は、あの3.11の大地震の被害に遭ったはずなのに、どこを見回してもその痕跡が見当たりません。街は地方都市の落ち着いた佇まいを見せていて、桜並木が美しく、路を行き交う人々はみな物静かです。車の往来を気にせずに街中を気軽に歩けるのは心地良いこと限りありません。ちなみに、私たちが泊まった「ホテル・クラウンヒルズ福島」はやや大きなビルの8階から12階までを占めていて、そのすぐ下の7階に、復興庁の福島支局がありました。その日は、結局12時頃にベッドに入りました。
翌日も、雨でした。ホテルでちょっと遅い朝食を済ました後、駅前までレンタカーを借りに。
結局、国道114号線を南東に下って、とりあえず太平洋岸の南相馬市まで行き、そこから海岸線と並行に走っている国道6号線を南下できるところまで南下する、というルートをたどることに決めました。旅行の計画を立てる当初から、福島第一原発にいったいどこまで近づけるのか、に私たちの関心が集中していたので、まっすぐにその疑問に答えてくれそうなルートを選んだのです。大した情報が入っていないのだから、そのとおりになるのかどうかは、正直なところ分かりません。ほとんど当たって砕けろの心持ちと言ってもいいでしょう。出発は午前10時過ぎになりました。
途中、まっすぐな道の多い2車線の快適な国道114号線を突然不自然なほど鋭角に曲がって、山の中の県道12号線に切り変わります。ここからは、幅の狭い1車線の道路が続きます。周りには、家一件さえ見えなくなってきます。本当に寂しい眺めです。
横殴りの暴風雨の中を、友人は右に左にとハンドルをさばきながら山と山の間の知恵の輪のような舗装道路をうねうねと走っていきます。久しぶりに車の運転をしたにしては、なかなかのハンドルさばきです。道路に溜まった水を車がもろに冠って、目の前が一瞬見えなくなることもあります。決して楽な運転ではありません。私が車の運転免許を持っていないので、運転の負担は全て彼にかかることになります。申し訳ない気もしますが、仕方ありません。できないことはできないのですから。
やっとのことで平坦で単調な道に移ってからしばらくして、車が飯舘(いいたて)村の家並みがある地域に入りました。原発報道で何度も目にし耳にした地名です。また、ホット・スポットとしてこれまたその名が数え切れないくらいにメディアに登場している浪江町まで後数キロメートル、という標識も目に入ってきます。
不意に目にした川が、大量の雨でいまにも氾濫しそうな水位に差しかかりそうです。この辺は、なんだか踏んだり蹴ったりだな、とため息が出てきました。
南相馬市の物静かな街並みに到着したのは、確かお昼の12時半前後でした。友人が「どうする」と問うので、私は、とにかく行けるところまで行こうと言いました。
南相馬市の郊外で右折して、いよいよ福島第一原発にまっすぐつながる国道6号線を南下することに。
一気に南下できるところまで南下するつもりでいました。
大甕(おおがめ)という地区を過ぎたあたりで、運転していた友人の発した「あっ、美津島。瓦礫」の一声で、それまでのいろいろなこまごまとした想念が吹っ飛んでしまいました。左手の田んぼの中に、瓦礫のグロテスクで巨大な山がひとつ無造作に積み上げられていたのです。
また、田んぼのなかに白い車がひっくり返っているのが見えたりします。5月だというのに苗を植えていない、真っ黒な土で満たされ、雑草が無造作に生えた田んぼから潮の匂いが漂ってきたりします。道路沿いの食堂が建物はちゃんとあるのに、中は真っ暗でガラスが割れていたりもします。要するに、ここいらで尋常ではない事態が起こったことが明らかになってきたのです。
私はそれを自分の体で(というのも変な言い方ですが)確認したい衝動にかられました。そうして、運転している友人に言いました。「降りてみよう」と。
車をとあるガソリン・スタンドに止めて、外に出てみました。たまたまそこが十字路の見晴らしのきくポジションだったのでいろいろと確認することができました。
ガソリン・スタンドは、もちろん営業していませんので、お店のなかは真っ暗です。タンク・ローリーのような車が給油所のところで無残にゴロンとひっくり返っています。十字路のうち、その辺りでは賑やかな地域へ向かう道の数百メートルほど先に、津波で流されてきた白い車が塀に乗り上げているのが小さく見えます。だから、賑やかそうに見えるだけでその辺りも人っ子ひとりいないのでしょう。看板を見ると「歴史の町小高(おだか)」とあります。友人が、「あ、相馬祭りで使う甲冑の産地だ」と思い出して言いました。
ガソリン・スタンドの目の前の国道6号線から向かって左の側面沿いの、先ほど述べた賑やかな地域へ向かう道路とは逆方向の、海岸に向かう道路に目を転じてみます。そこには、津波に襲われた時のままの荒涼とした光景が広がっていました。
ガード・レールはぐにゃぐにゃに曲がり、電信柱は折れ曲がっていたり、二本の電信柱が人という漢字の形にもたれかかり合っていたりします。土手の下の空き地みたいなところには、原型を留めぬほどに変形した車がいくつもいくつもゴロゴロと転がっています。なかには、土に生えた枯れ草を内側にぐっと巻き込んだ車もあります。その道路が二股に分かれたうちの右手の細い道の真ん中に、グシャグシャになったおおきなトタン屋根が津波で流れ着いたまま無造作に伏せられています。広大な田畑は塩害で全て死滅状態のようです。その先にある家並みについては、後ほど触れましょう。ここの地名は、小高区浦尻地区であることを覚えておいてください。
車のところまで戻って、一度車中に乗りました。友人が「どうする」と言うので、私は、海岸へ向かう道路が二股に分かれた道路のうちの左手を奥に進んでみないかと提案しました。実は、友人は先ほどから気が気ではないのです。というのは、数分おきにパトカーがやって来ては、私たちの後をゆっくりとつけるからです。それが、地元の警察ではなくて、神奈川県警だったり、千葉県警だったりするから、なおさら落ち着かないみたいなのです。
おそらく、火事場泥棒的な不届き者の、空家狙いの窃盗が多発しているのでそれを全国の警察組織が協力して警戒し巡回しているのではないかと思われます。彼ら不届き者たちは、究極の貧困ビジネスを展開しているわけです。この世には、ビジネス・チャンスにもピンからキリまでいろいろあるのですね。私たちは、もちろんそんなつもりはないのですが、警察に付け回されて気分がいいわけがありません。
そういう気分をだましだまししながら、私たちは、車で小高川らしき川にかかった小さな橋をゆっくりと渡り、海岸線と平行な小道を奥へと進んで行きました。車で行けるところまで行って適当なところで駐車して、さらにその奥に、強い雨足の中を傘一つで徒歩で進んでいきました。後に地図で確認してみたところ、小高区大井地区と塚原地区とを私たちはウロついていたようです。
その人っ子ひとりいない、ひっそりと静まり返った村落は、福島第一原発を中心にして描いた、半径20キロメートルの避難指示区域の半円の境界線の内側にすっぽりと入る地域であることも後に確認しました。先ほどから気になっていた音の正体を友人に確認しました、「あれは何の音なのだろう」と。友人は普段にも増して低い声で答えました、「海鳴りの音だろう」と。囂々(ごうこう)ととどろく不気味な音です。私は海育ちですが、こんな奇妙な、岩石がゴロゴロとぶつかり合うような響きの海鳴りは初めてです。(次回につづく)
******
被災地域の具体的な見聞録に入る前に、ちょっとだけ、行政上の「区域」の話をしておきます。
南相馬市では震災後、市内から避難する住民が続出しました。震災時の人口は約7万1500人だったのが、平成24年4月12日現在、居住者は4万4225人に減っています。一年前の震災の影響で、なんと4割弱の人口減となったのです。
そのなかで、南相馬市の南部に位置する小高区は、福島第一原発に近いので、その全域が警戒区域(かつての避難指示区域)に指定されました。それが、つい先ごろの4月16日に解除されました。それにともなって、警戒区域と計画的避難区域は、立ち入り可能な避難指示解除準備区域と居住制限区域、それと、住民が長期間戻れない帰還困難区域に区分されます。
新たな区域の区別は、これまでと同様に放射能の線量の多寡によります。年50ミリシーベルト超で5年後も20ミリシーベルトを下回らないとみられる区域は「帰還困難区域」、年20ミリシーベルト超で50ミリシーベルト以下の区域は「居住制限区域」、年20ミリシーベルト以下で住民の早期帰還を目指す区域は「避難指示解除準備区域」とされます。
解除準備区域と制限区域になると、住民は宿泊できないものの、放射線防護の措置を取らずに自由に一時帰宅できるようになります。解除準備区域では製造業などの事業の再開が可能となり、病院や福祉施設は再開準備ができることになります。
その行政区分にしたがえば、いま私たちは、解除準備区域に足を踏み入れていることになります。
小高区大井地区と塚原地区のうち、海沿いが塚原地区で、海岸線から数百メートル奥まった台が大井地区です。海沿いの塚原地区は遠くから眺めるよりほかなかったのですが、家は一件も見当たらなくて、家の土台らしきものが水浸しの砂に埋もれているのが散見されるだけです。どれだけの家屋が津波に流されたのか、想像もつきません。普通に眺めれば、このあたりに人が住んでいたなんてとても信じられません。あたり一面、薄く海水をかぶった浜辺にしか見えないのですから。
私たちが立っているところから目測で一キロメートルほど離れた臨海部に、蜃気楼のような雰囲気で五階建くらいの黄色の瀟洒で真新しい木造風の大きな建物がひとつだけ海の中に立っているのが見えます。なんとなく、津波のとき、その中に少なからぬ人がいたような気がします。その人たちは無事だったのだろうか、無事だったにしても、地獄の恐怖を味わったに違いない、という想念が過ぎりました。
塚原地区。まばらな松ノ木のすぐ向こうが海。その手前がかつて家並みがあったところ。ガード・レールが向こうになぎ倒されているのは、津波が引くときの力によるもの。
大井地区は、塚原地区と異なり高台に位置するだけあって、原形をとどめている家屋が多くあります。
とはいうものの、2階建のうちの一階部分が津波の急襲でボロボロになっていたり、コンビニの店舗全体が浸水して店の中がめちゃくちゃになってしまっていたり、津波の圧力で圧縮されたうえでひねられた車やトラクターが無造作に転がっていたり、といった惨状であることに変わりはありません。
また、物干し竿に、洗濯物が掛かったままにしてあるのも目にしました。その家に住んでいた人が、津波警報を聞きつけ、取るものも取りあえず、慌てて家を飛び出して避難場所に駆けつけたのでしょう。その生々しさがこちらの胸を打ちます。
傘を差してあたりをウロウロしている私たちのすぐそばを、老人対象のデイ・サーヴィスの白いライト・バンが、行き過ぎました。そうして、その車体が村落の奥に消えたかと思ったら、また姿を現して先ほどと反対方向に走っていきました。仮説住宅などのほかの場所への移住を拒む老人がこのあたりに住んでいるのでしょうか。この、死の支配するような、ひっそりとした耐え難い世界に、ポツンと一人で住んでいる老人が、この世のものとは思えない存在として浮かんできます。
大井地区。津波の急襲で、一階部分が損壊された。
大井地区。津波の底知れないパワーを感じさせる光景。
このあたりに住んでいた人々は、震度6弱の大地震と、間髪入れずに襲った10メートル級の大津波と、翌日早朝に襲ってくる放射能汚染の恐怖をもたらした原発事故という、人が一生の間に一つ経験するかどうかという大災厄を矢継ぎ早に三つ経験することになってしまったのでした。
だから、このあたりが、時間がそれらの大災厄の瞬間で停止してしまったかのような景観を呈しているのは、ごく当たり前のことなのです。
私は、人間の本質は、人間が避けようもなく共同存在であるところに存すると考える者です。つまり、関係するから人間なんだ、人間は命一生あくまでも関係しようとする存在なんだ、ということです。(これで、たとえば、若者のスマホ中毒なんかはあっさりと説明がつくでしょう?)だから、自然の暴力によって、生まれたときから当たり前のものとして受け入れてきた骨がらみの地域の共同性が瞬間的に根こそぎにされるのは、精神の死の危機に直面することを意味します。
これは、微妙な言い方になりますが、津波で命が助かったからOKなんだという楽観的な言い方は、基本的にダメなのではないかと思います。
生き残った人々が、うまく言えないながらも、直面している「精神の死」の問題こそが、統計の数値に現れにくい最も深刻な問題なのではないかと、私は考えるのです。自分だけ生き残って申し訳ないとか、こんなことなら死んだほうがよかったとか、マスコミのマイクや善意の関係者に対しては決して言わないし、言えない言葉を、生き残った被災者のうちの少なくはない方々が、胸の内で呑み込んでいるものと思われます。
私は、空論を弄しようとしているのではありません。
大井地区に広がる、かつての地域共同体の抜け殻のような死の世界を垣間見たうえでの、身体の底から湧き上がってくる実感なのです。
そういう実感的な認識を得てはじめて、私の身体の底から、震災の犠牲者たちの慟哭が響いてくるようになりました。「フクシマ」が本当に他人事ではなくなりました。
暴風雨で体が冷えてきたのと、荒涼とした光景の果てしなさと、囂々(ごうごう)と不気味に響く海鳴りと、数分ごとに巡回するパトカーの監視の目とが一緒になってこちらにもたらす形容しがたいストレスが耐え難くなってきたのか、友人と私はほぼ同時に「戻るか」と言い合いました。
十字路に戻る直前に、私は不意に思い立って、グシャグシャになったおおきなトタン屋根が津波で流れ着いたまま無造作に伏せられている細い道に引き返してくれるように、友人に頼みました。車から降りはしませんでしたが、無人の家並みの間の細い道をゆっくり走りました。津波から土手によって幾分守られたせいか、先ほどの塚原地区とは異なって、流された家屋はほとんど見当たりませんが、津波によっておおきなダメージを被っているのは一目瞭然です。農業で生きていた人々がすべて立ち去った後の、田舎の寒々とした光景が延々と続きます。農機具が乱雑に庭にぶちまけられていたりします。人がするはずがありません。津波の仕業です。前回に申し上げたように、津波による塩害で、田畑は全滅の状態らしく、そこから磯の臭いがぶんぶんしてきます。正確に言えば、私は鼻炎で嗅覚が弱っているので、友人にそれを確認してもらいました。
後に地図で調べてみたところ、ここは、海に面した小高区塩尻地区の入口に当たる女場(おなば)と呼ばれる地域です。その塩尻地区に住んできた被災者の一人である三浦秀一さんという方の、「iあい Eye」という会報に乗せられた手記がたまたま手に入ったので、その臨場感にあふれる手記の一部分を次に掲げておきます。
私の住んでいた小高区塩尻地区は107戸の半数が津波で流失、死者・行方不明者合わせて21名が犠牲になりました。ただそれは目にすることのできる被害です。
3月12日早朝、行方不明者捜索のため集合場所(避難所となっていた公会堂)に行くと原発事故のため皆ここにいるとのことでした。私も近所に声をかけながら自宅に向かい母を車に乗せて原発から10km圏外の金房小学校に向かいました。津波のため道路は通れず浪江の方に向かいましたが多くの車で渋滞しており、浪江町民が金房小学校へと避難してくるのでした。まさかこれほどの事故が迫っているとは思いもしませんでした。この時お世話してくださった近隣地区の皆様のことは一生忘れることができません。
そろそろ夜も深くなり休み始めた頃、今度は20km圏外に避難しなさいと指示がでました。周りを確認して原町区石神第一小学校へ、道路は朝以上の渋滞が続き何時間かかるかわからないような状態でした。
避難中は母が障害者(視覚)なのでトイレなどには大変苦労しました。あてがあればすぐにでも場所を移りたかったのですが、なかなか電話連絡がとれず行動を起こせませんでした。なんとか連絡が取れ、15日午後、相馬市の知人宅へ、そして16日夕方、雪の降るなか9時間かけて千葉県習志野市の伯母の家へ、そうして(平成24年ー引用者補)4月14日現在住む紬(つむぎー引用者注)で有名な茨木県結城市へ、これもすべて母の兄弟のところがあったからできたことです。
(中略)あれから数ヶ月、「こんな生活をしていていいのか?」そう考える時が多くなっています。
地域社会で真面目に生きてきた人が、自然災害に翻弄され、政府の原発事故をめぐる拙策に右往左往することを余儀なくされて、きりきり舞いになりながら、なんとか局面を打開しようと懸命になっている様子が手に取るように分かります。政府に対して一言も文句を言っていない分、その掛け値なしの善意がこちらの臓腑を突き刺します。(おい、そうだろうが。菅よ、野田よ、財務省よ、日銀よ)私は、引用した文章の冒頭から2文目の「ただそれは目にすることのできる被害です」の表現に、三浦さんの、災害による喪失感をめぐる奥深い思いを感じます。
十字路に引き返してから、国道6号線を一気に南下。
ほどなく、通行止の表示に突き当たりました。その背後には、警察のおおきなバス・サイズの車(機動隊がよく乗っている車です)が赤ランプ全開で、ものものしい警戒体制を敷いていました。位置は、南相馬市と双葉町の境から南相馬市側にちょっと寄ったところ。地名は、おそらく行津か上津か下津のどれかですが、特定は難しい。Uターンした私たちと一台のバイクがすれ違いました。おそらく、私たちと同様の物見高い心根のライダーなのでしょう。
南相馬市の市街地に戻る手前のところに、みちの駅があったので、そこに立ち寄って遅い昼食を摂ることにしました。
そこで大槻明生氏という地元の報道写真家が、南相馬市の震災の写真展を開いているのを目にしました。彼いわく。「この展示会を開くかどうか実は迷ったのです。地元の方で、もう二度と思い出したくないとおっしゃる向きもありましたので。でも、この震災を忘れて欲しくない、記憶を風化させたくない、という思いが強くて、開催することにしました。」
彼の、生まれ育った南相馬市を思う心は、写真の端々に感じられました。友人によれば、瓦礫のなかにある崩れかかった家屋に「こわしてください」の文言が太い墨筆で書かれた白い垂れ幕が掛けられた写真が一番印象に残ったとのこと。生まれ育った記憶のすべてを刻み込んだ家を「こわしてください」とお願いする、絶望的な心境が胸に迫ってくるとの弁。もっともだと思います。
私が一番印象に残っているのは、3枚の写真のことを来場者に向かって熱心に語りかける大槻氏の姿です。彼によれば、自分が以前から気に入って何枚も写真に撮っていた、地元の海の砂州に松の木がきれいに並んでいる風景が、震災前と震災後で一変してしまいました。震災前の写真では、松の木がきれいに並んでいます。ところが、大津波に襲われた震災後、松の木は櫛の歯がところどころ抜けたようにまばらになっているのです。さらに、と大槻さんは語ります。港側から見れば、この砂州の、松の木が生えている高台はけっこう広いような印象だが、実は、と大槻さんはもう一枚の写真を指差します。「実は、沖から見ると、こんなに細長いのです。ほら、こんなに」と大槻さんは、目をしばしばさせながら言います。
それは、まるで、大津波に襲われても、いまにも崩れそうな砂州がかろうじて残ったことを、よくがんばったとねぎらっているかのような語り口です。もうこれ以上削らないでくれと海に懇願しているような語り口です。大槻さんのその語り方に、私は、彼のふるさとを思う心と、写真家として美しい景色を残したいと思う心とが自然に重なり合っている様を見る思いがしました。彼の、会場の入口に掲げられた言葉を記しておきます。
「東日本大震災南相馬市写真展」に寄せて
私は原町市(南相馬市原町区)に生まれ、趣味から始まった写真で、その後、日本報道写真連盟会員として、長年写真を取り続けてきました。
3月11日、誰もが予想だにしていなかった巨大地震と大津波によって、私が幼いころ泳いだ砂浜や美しい日の出を見せてくれる海岸線などが、一瞬にして呑みこまれてしまった。
ニュースで被害を報じていたが、実際どうだったか分からない為(大槻氏の住んでいる原町区は市の中心街で、地震の被害は少々あったものの、津波には襲われなかったし、放射能の警戒区域にも入っていませんでしたー引用者注)、翌12日早朝、原町区上渋地区に行ってみました。
そこではじめて、余りにも大きな津波の被害を目の当たりにしたのでした。「この大きすぎる災害を、後世に残さなければ」との思いが全身を突き動かしていました。
瓦礫でまっすぐ歩くことも出来ない海岸や点在する被災地を、2ヶ月以上かけて500点余り撮り続けて来ました。今回その中の50点をこの銘醸館に展示いたしました。
大槻明生
~あとがき~
撮影現場で、瓦礫撤去に奮闘してくださる自衛隊・警察(機動隊)・消防・ボランティアのみなさんにお逢いし、とても感銘を受けました。「ありがとう」の一言では言い表せないような、感謝の気持ちでいっぱいになるのでした。
その夜、福島市のホテルに戻って、早々とベットに入って眠りに就いてから翌朝目が覚めるまでずっと、自分の身体が、津波に襲われた後の小高区大井地区と塚原地区の間に横たわっているような、水浸しの感覚がつきまといました。実は、いまもそうなのですけれど。
最後に、大手新聞は、もはや一面にフクシマの今を伝える記事を掲げることはありませんが、地元紙の「福島民報」はいまだに震災・原発被害に一面の全てを割くだけではなく、2面、3面の全てをも割いていることをお伝えしておきます。また、それらに関連した最新かつ良質の(つまり時の権力におもねらない)情報を得たいと思われる方のために、同新聞のHPのアドレスを以下に掲げておきます。ちなみに、同新聞は、震災以前から仙台の河北新報社とともに、東北の良質なメディアとして名高い存在であり続けていることをお伝えしておきます。
『福島民報』HPのURL http://www.minpo.jp/
東京駅から福島市まで直行バスで雨の中3時間。福島市に着いたのは、午後5時でした。その日は、どこへも動きようがないので、予約していた「ホテル・クラウンヒルズ福島」に直行しました。駅から数分のとても便利な立地です。適当な居酒屋で軽く飲みながら食事を済まそうと、近所をうろついて店を探しました。
福島市は、あの3.11の大地震の被害に遭ったはずなのに、どこを見回してもその痕跡が見当たりません。街は地方都市の落ち着いた佇まいを見せていて、桜並木が美しく、路を行き交う人々はみな物静かです。車の往来を気にせずに街中を気軽に歩けるのは心地良いこと限りありません。ちなみに、私たちが泊まった「ホテル・クラウンヒルズ福島」はやや大きなビルの8階から12階までを占めていて、そのすぐ下の7階に、復興庁の福島支局がありました。その日は、結局12時頃にベッドに入りました。
翌日も、雨でした。ホテルでちょっと遅い朝食を済ました後、駅前までレンタカーを借りに。
結局、国道114号線を南東に下って、とりあえず太平洋岸の南相馬市まで行き、そこから海岸線と並行に走っている国道6号線を南下できるところまで南下する、というルートをたどることに決めました。旅行の計画を立てる当初から、福島第一原発にいったいどこまで近づけるのか、に私たちの関心が集中していたので、まっすぐにその疑問に答えてくれそうなルートを選んだのです。大した情報が入っていないのだから、そのとおりになるのかどうかは、正直なところ分かりません。ほとんど当たって砕けろの心持ちと言ってもいいでしょう。出発は午前10時過ぎになりました。
途中、まっすぐな道の多い2車線の快適な国道114号線を突然不自然なほど鋭角に曲がって、山の中の県道12号線に切り変わります。ここからは、幅の狭い1車線の道路が続きます。周りには、家一件さえ見えなくなってきます。本当に寂しい眺めです。
横殴りの暴風雨の中を、友人は右に左にとハンドルをさばきながら山と山の間の知恵の輪のような舗装道路をうねうねと走っていきます。久しぶりに車の運転をしたにしては、なかなかのハンドルさばきです。道路に溜まった水を車がもろに冠って、目の前が一瞬見えなくなることもあります。決して楽な運転ではありません。私が車の運転免許を持っていないので、運転の負担は全て彼にかかることになります。申し訳ない気もしますが、仕方ありません。できないことはできないのですから。
やっとのことで平坦で単調な道に移ってからしばらくして、車が飯舘(いいたて)村の家並みがある地域に入りました。原発報道で何度も目にし耳にした地名です。また、ホット・スポットとしてこれまたその名が数え切れないくらいにメディアに登場している浪江町まで後数キロメートル、という標識も目に入ってきます。
不意に目にした川が、大量の雨でいまにも氾濫しそうな水位に差しかかりそうです。この辺は、なんだか踏んだり蹴ったりだな、とため息が出てきました。
南相馬市の物静かな街並みに到着したのは、確かお昼の12時半前後でした。友人が「どうする」と問うので、私は、とにかく行けるところまで行こうと言いました。
南相馬市の郊外で右折して、いよいよ福島第一原発にまっすぐつながる国道6号線を南下することに。
一気に南下できるところまで南下するつもりでいました。
大甕(おおがめ)という地区を過ぎたあたりで、運転していた友人の発した「あっ、美津島。瓦礫」の一声で、それまでのいろいろなこまごまとした想念が吹っ飛んでしまいました。左手の田んぼの中に、瓦礫のグロテスクで巨大な山がひとつ無造作に積み上げられていたのです。
また、田んぼのなかに白い車がひっくり返っているのが見えたりします。5月だというのに苗を植えていない、真っ黒な土で満たされ、雑草が無造作に生えた田んぼから潮の匂いが漂ってきたりします。道路沿いの食堂が建物はちゃんとあるのに、中は真っ暗でガラスが割れていたりもします。要するに、ここいらで尋常ではない事態が起こったことが明らかになってきたのです。
私はそれを自分の体で(というのも変な言い方ですが)確認したい衝動にかられました。そうして、運転している友人に言いました。「降りてみよう」と。
車をとあるガソリン・スタンドに止めて、外に出てみました。たまたまそこが十字路の見晴らしのきくポジションだったのでいろいろと確認することができました。
ガソリン・スタンドは、もちろん営業していませんので、お店のなかは真っ暗です。タンク・ローリーのような車が給油所のところで無残にゴロンとひっくり返っています。十字路のうち、その辺りでは賑やかな地域へ向かう道の数百メートルほど先に、津波で流されてきた白い車が塀に乗り上げているのが小さく見えます。だから、賑やかそうに見えるだけでその辺りも人っ子ひとりいないのでしょう。看板を見ると「歴史の町小高(おだか)」とあります。友人が、「あ、相馬祭りで使う甲冑の産地だ」と思い出して言いました。
ガソリン・スタンドの目の前の国道6号線から向かって左の側面沿いの、先ほど述べた賑やかな地域へ向かう道路とは逆方向の、海岸に向かう道路に目を転じてみます。そこには、津波に襲われた時のままの荒涼とした光景が広がっていました。
ガード・レールはぐにゃぐにゃに曲がり、電信柱は折れ曲がっていたり、二本の電信柱が人という漢字の形にもたれかかり合っていたりします。土手の下の空き地みたいなところには、原型を留めぬほどに変形した車がいくつもいくつもゴロゴロと転がっています。なかには、土に生えた枯れ草を内側にぐっと巻き込んだ車もあります。その道路が二股に分かれたうちの右手の細い道の真ん中に、グシャグシャになったおおきなトタン屋根が津波で流れ着いたまま無造作に伏せられています。広大な田畑は塩害で全て死滅状態のようです。その先にある家並みについては、後ほど触れましょう。ここの地名は、小高区浦尻地区であることを覚えておいてください。
車のところまで戻って、一度車中に乗りました。友人が「どうする」と言うので、私は、海岸へ向かう道路が二股に分かれた道路のうちの左手を奥に進んでみないかと提案しました。実は、友人は先ほどから気が気ではないのです。というのは、数分おきにパトカーがやって来ては、私たちの後をゆっくりとつけるからです。それが、地元の警察ではなくて、神奈川県警だったり、千葉県警だったりするから、なおさら落ち着かないみたいなのです。
おそらく、火事場泥棒的な不届き者の、空家狙いの窃盗が多発しているのでそれを全国の警察組織が協力して警戒し巡回しているのではないかと思われます。彼ら不届き者たちは、究極の貧困ビジネスを展開しているわけです。この世には、ビジネス・チャンスにもピンからキリまでいろいろあるのですね。私たちは、もちろんそんなつもりはないのですが、警察に付け回されて気分がいいわけがありません。
そういう気分をだましだまししながら、私たちは、車で小高川らしき川にかかった小さな橋をゆっくりと渡り、海岸線と平行な小道を奥へと進んで行きました。車で行けるところまで行って適当なところで駐車して、さらにその奥に、強い雨足の中を傘一つで徒歩で進んでいきました。後に地図で確認してみたところ、小高区大井地区と塚原地区とを私たちはウロついていたようです。
その人っ子ひとりいない、ひっそりと静まり返った村落は、福島第一原発を中心にして描いた、半径20キロメートルの避難指示区域の半円の境界線の内側にすっぽりと入る地域であることも後に確認しました。先ほどから気になっていた音の正体を友人に確認しました、「あれは何の音なのだろう」と。友人は普段にも増して低い声で答えました、「海鳴りの音だろう」と。囂々(ごうこう)ととどろく不気味な音です。私は海育ちですが、こんな奇妙な、岩石がゴロゴロとぶつかり合うような響きの海鳴りは初めてです。(次回につづく)
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被災地域の具体的な見聞録に入る前に、ちょっとだけ、行政上の「区域」の話をしておきます。
南相馬市では震災後、市内から避難する住民が続出しました。震災時の人口は約7万1500人だったのが、平成24年4月12日現在、居住者は4万4225人に減っています。一年前の震災の影響で、なんと4割弱の人口減となったのです。
そのなかで、南相馬市の南部に位置する小高区は、福島第一原発に近いので、その全域が警戒区域(かつての避難指示区域)に指定されました。それが、つい先ごろの4月16日に解除されました。それにともなって、警戒区域と計画的避難区域は、立ち入り可能な避難指示解除準備区域と居住制限区域、それと、住民が長期間戻れない帰還困難区域に区分されます。
新たな区域の区別は、これまでと同様に放射能の線量の多寡によります。年50ミリシーベルト超で5年後も20ミリシーベルトを下回らないとみられる区域は「帰還困難区域」、年20ミリシーベルト超で50ミリシーベルト以下の区域は「居住制限区域」、年20ミリシーベルト以下で住民の早期帰還を目指す区域は「避難指示解除準備区域」とされます。
解除準備区域と制限区域になると、住民は宿泊できないものの、放射線防護の措置を取らずに自由に一時帰宅できるようになります。解除準備区域では製造業などの事業の再開が可能となり、病院や福祉施設は再開準備ができることになります。
その行政区分にしたがえば、いま私たちは、解除準備区域に足を踏み入れていることになります。
小高区大井地区と塚原地区のうち、海沿いが塚原地区で、海岸線から数百メートル奥まった台が大井地区です。海沿いの塚原地区は遠くから眺めるよりほかなかったのですが、家は一件も見当たらなくて、家の土台らしきものが水浸しの砂に埋もれているのが散見されるだけです。どれだけの家屋が津波に流されたのか、想像もつきません。普通に眺めれば、このあたりに人が住んでいたなんてとても信じられません。あたり一面、薄く海水をかぶった浜辺にしか見えないのですから。
私たちが立っているところから目測で一キロメートルほど離れた臨海部に、蜃気楼のような雰囲気で五階建くらいの黄色の瀟洒で真新しい木造風の大きな建物がひとつだけ海の中に立っているのが見えます。なんとなく、津波のとき、その中に少なからぬ人がいたような気がします。その人たちは無事だったのだろうか、無事だったにしても、地獄の恐怖を味わったに違いない、という想念が過ぎりました。
塚原地区。まばらな松ノ木のすぐ向こうが海。その手前がかつて家並みがあったところ。ガード・レールが向こうになぎ倒されているのは、津波が引くときの力によるもの。
大井地区は、塚原地区と異なり高台に位置するだけあって、原形をとどめている家屋が多くあります。
とはいうものの、2階建のうちの一階部分が津波の急襲でボロボロになっていたり、コンビニの店舗全体が浸水して店の中がめちゃくちゃになってしまっていたり、津波の圧力で圧縮されたうえでひねられた車やトラクターが無造作に転がっていたり、といった惨状であることに変わりはありません。
また、物干し竿に、洗濯物が掛かったままにしてあるのも目にしました。その家に住んでいた人が、津波警報を聞きつけ、取るものも取りあえず、慌てて家を飛び出して避難場所に駆けつけたのでしょう。その生々しさがこちらの胸を打ちます。
傘を差してあたりをウロウロしている私たちのすぐそばを、老人対象のデイ・サーヴィスの白いライト・バンが、行き過ぎました。そうして、その車体が村落の奥に消えたかと思ったら、また姿を現して先ほどと反対方向に走っていきました。仮説住宅などのほかの場所への移住を拒む老人がこのあたりに住んでいるのでしょうか。この、死の支配するような、ひっそりとした耐え難い世界に、ポツンと一人で住んでいる老人が、この世のものとは思えない存在として浮かんできます。
大井地区。津波の急襲で、一階部分が損壊された。
大井地区。津波の底知れないパワーを感じさせる光景。
このあたりに住んでいた人々は、震度6弱の大地震と、間髪入れずに襲った10メートル級の大津波と、翌日早朝に襲ってくる放射能汚染の恐怖をもたらした原発事故という、人が一生の間に一つ経験するかどうかという大災厄を矢継ぎ早に三つ経験することになってしまったのでした。
だから、このあたりが、時間がそれらの大災厄の瞬間で停止してしまったかのような景観を呈しているのは、ごく当たり前のことなのです。
私は、人間の本質は、人間が避けようもなく共同存在であるところに存すると考える者です。つまり、関係するから人間なんだ、人間は命一生あくまでも関係しようとする存在なんだ、ということです。(これで、たとえば、若者のスマホ中毒なんかはあっさりと説明がつくでしょう?)だから、自然の暴力によって、生まれたときから当たり前のものとして受け入れてきた骨がらみの地域の共同性が瞬間的に根こそぎにされるのは、精神の死の危機に直面することを意味します。
これは、微妙な言い方になりますが、津波で命が助かったからOKなんだという楽観的な言い方は、基本的にダメなのではないかと思います。
生き残った人々が、うまく言えないながらも、直面している「精神の死」の問題こそが、統計の数値に現れにくい最も深刻な問題なのではないかと、私は考えるのです。自分だけ生き残って申し訳ないとか、こんなことなら死んだほうがよかったとか、マスコミのマイクや善意の関係者に対しては決して言わないし、言えない言葉を、生き残った被災者のうちの少なくはない方々が、胸の内で呑み込んでいるものと思われます。
私は、空論を弄しようとしているのではありません。
大井地区に広がる、かつての地域共同体の抜け殻のような死の世界を垣間見たうえでの、身体の底から湧き上がってくる実感なのです。
そういう実感的な認識を得てはじめて、私の身体の底から、震災の犠牲者たちの慟哭が響いてくるようになりました。「フクシマ」が本当に他人事ではなくなりました。
暴風雨で体が冷えてきたのと、荒涼とした光景の果てしなさと、囂々(ごうごう)と不気味に響く海鳴りと、数分ごとに巡回するパトカーの監視の目とが一緒になってこちらにもたらす形容しがたいストレスが耐え難くなってきたのか、友人と私はほぼ同時に「戻るか」と言い合いました。
十字路に戻る直前に、私は不意に思い立って、グシャグシャになったおおきなトタン屋根が津波で流れ着いたまま無造作に伏せられている細い道に引き返してくれるように、友人に頼みました。車から降りはしませんでしたが、無人の家並みの間の細い道をゆっくり走りました。津波から土手によって幾分守られたせいか、先ほどの塚原地区とは異なって、流された家屋はほとんど見当たりませんが、津波によっておおきなダメージを被っているのは一目瞭然です。農業で生きていた人々がすべて立ち去った後の、田舎の寒々とした光景が延々と続きます。農機具が乱雑に庭にぶちまけられていたりします。人がするはずがありません。津波の仕業です。前回に申し上げたように、津波による塩害で、田畑は全滅の状態らしく、そこから磯の臭いがぶんぶんしてきます。正確に言えば、私は鼻炎で嗅覚が弱っているので、友人にそれを確認してもらいました。
後に地図で調べてみたところ、ここは、海に面した小高区塩尻地区の入口に当たる女場(おなば)と呼ばれる地域です。その塩尻地区に住んできた被災者の一人である三浦秀一さんという方の、「iあい Eye」という会報に乗せられた手記がたまたま手に入ったので、その臨場感にあふれる手記の一部分を次に掲げておきます。
私の住んでいた小高区塩尻地区は107戸の半数が津波で流失、死者・行方不明者合わせて21名が犠牲になりました。ただそれは目にすることのできる被害です。
3月12日早朝、行方不明者捜索のため集合場所(避難所となっていた公会堂)に行くと原発事故のため皆ここにいるとのことでした。私も近所に声をかけながら自宅に向かい母を車に乗せて原発から10km圏外の金房小学校に向かいました。津波のため道路は通れず浪江の方に向かいましたが多くの車で渋滞しており、浪江町民が金房小学校へと避難してくるのでした。まさかこれほどの事故が迫っているとは思いもしませんでした。この時お世話してくださった近隣地区の皆様のことは一生忘れることができません。
そろそろ夜も深くなり休み始めた頃、今度は20km圏外に避難しなさいと指示がでました。周りを確認して原町区石神第一小学校へ、道路は朝以上の渋滞が続き何時間かかるかわからないような状態でした。
避難中は母が障害者(視覚)なのでトイレなどには大変苦労しました。あてがあればすぐにでも場所を移りたかったのですが、なかなか電話連絡がとれず行動を起こせませんでした。なんとか連絡が取れ、15日午後、相馬市の知人宅へ、そして16日夕方、雪の降るなか9時間かけて千葉県習志野市の伯母の家へ、そうして(平成24年ー引用者補)4月14日現在住む紬(つむぎー引用者注)で有名な茨木県結城市へ、これもすべて母の兄弟のところがあったからできたことです。
(中略)あれから数ヶ月、「こんな生活をしていていいのか?」そう考える時が多くなっています。
地域社会で真面目に生きてきた人が、自然災害に翻弄され、政府の原発事故をめぐる拙策に右往左往することを余儀なくされて、きりきり舞いになりながら、なんとか局面を打開しようと懸命になっている様子が手に取るように分かります。政府に対して一言も文句を言っていない分、その掛け値なしの善意がこちらの臓腑を突き刺します。(おい、そうだろうが。菅よ、野田よ、財務省よ、日銀よ)私は、引用した文章の冒頭から2文目の「ただそれは目にすることのできる被害です」の表現に、三浦さんの、災害による喪失感をめぐる奥深い思いを感じます。
十字路に引き返してから、国道6号線を一気に南下。
ほどなく、通行止の表示に突き当たりました。その背後には、警察のおおきなバス・サイズの車(機動隊がよく乗っている車です)が赤ランプ全開で、ものものしい警戒体制を敷いていました。位置は、南相馬市と双葉町の境から南相馬市側にちょっと寄ったところ。地名は、おそらく行津か上津か下津のどれかですが、特定は難しい。Uターンした私たちと一台のバイクがすれ違いました。おそらく、私たちと同様の物見高い心根のライダーなのでしょう。
南相馬市の市街地に戻る手前のところに、みちの駅があったので、そこに立ち寄って遅い昼食を摂ることにしました。
そこで大槻明生氏という地元の報道写真家が、南相馬市の震災の写真展を開いているのを目にしました。彼いわく。「この展示会を開くかどうか実は迷ったのです。地元の方で、もう二度と思い出したくないとおっしゃる向きもありましたので。でも、この震災を忘れて欲しくない、記憶を風化させたくない、という思いが強くて、開催することにしました。」
彼の、生まれ育った南相馬市を思う心は、写真の端々に感じられました。友人によれば、瓦礫のなかにある崩れかかった家屋に「こわしてください」の文言が太い墨筆で書かれた白い垂れ幕が掛けられた写真が一番印象に残ったとのこと。生まれ育った記憶のすべてを刻み込んだ家を「こわしてください」とお願いする、絶望的な心境が胸に迫ってくるとの弁。もっともだと思います。
私が一番印象に残っているのは、3枚の写真のことを来場者に向かって熱心に語りかける大槻氏の姿です。彼によれば、自分が以前から気に入って何枚も写真に撮っていた、地元の海の砂州に松の木がきれいに並んでいる風景が、震災前と震災後で一変してしまいました。震災前の写真では、松の木がきれいに並んでいます。ところが、大津波に襲われた震災後、松の木は櫛の歯がところどころ抜けたようにまばらになっているのです。さらに、と大槻さんは語ります。港側から見れば、この砂州の、松の木が生えている高台はけっこう広いような印象だが、実は、と大槻さんはもう一枚の写真を指差します。「実は、沖から見ると、こんなに細長いのです。ほら、こんなに」と大槻さんは、目をしばしばさせながら言います。
それは、まるで、大津波に襲われても、いまにも崩れそうな砂州がかろうじて残ったことを、よくがんばったとねぎらっているかのような語り口です。もうこれ以上削らないでくれと海に懇願しているような語り口です。大槻さんのその語り方に、私は、彼のふるさとを思う心と、写真家として美しい景色を残したいと思う心とが自然に重なり合っている様を見る思いがしました。彼の、会場の入口に掲げられた言葉を記しておきます。
「東日本大震災南相馬市写真展」に寄せて
私は原町市(南相馬市原町区)に生まれ、趣味から始まった写真で、その後、日本報道写真連盟会員として、長年写真を取り続けてきました。
3月11日、誰もが予想だにしていなかった巨大地震と大津波によって、私が幼いころ泳いだ砂浜や美しい日の出を見せてくれる海岸線などが、一瞬にして呑みこまれてしまった。
ニュースで被害を報じていたが、実際どうだったか分からない為(大槻氏の住んでいる原町区は市の中心街で、地震の被害は少々あったものの、津波には襲われなかったし、放射能の警戒区域にも入っていませんでしたー引用者注)、翌12日早朝、原町区上渋地区に行ってみました。
そこではじめて、余りにも大きな津波の被害を目の当たりにしたのでした。「この大きすぎる災害を、後世に残さなければ」との思いが全身を突き動かしていました。
瓦礫でまっすぐ歩くことも出来ない海岸や点在する被災地を、2ヶ月以上かけて500点余り撮り続けて来ました。今回その中の50点をこの銘醸館に展示いたしました。
大槻明生
~あとがき~
撮影現場で、瓦礫撤去に奮闘してくださる自衛隊・警察(機動隊)・消防・ボランティアのみなさんにお逢いし、とても感銘を受けました。「ありがとう」の一言では言い表せないような、感謝の気持ちでいっぱいになるのでした。
その夜、福島市のホテルに戻って、早々とベットに入って眠りに就いてから翌朝目が覚めるまでずっと、自分の身体が、津波に襲われた後の小高区大井地区と塚原地区の間に横たわっているような、水浸しの感覚がつきまといました。実は、いまもそうなのですけれど。
最後に、大手新聞は、もはや一面にフクシマの今を伝える記事を掲げることはありませんが、地元紙の「福島民報」はいまだに震災・原発被害に一面の全てを割くだけではなく、2面、3面の全てをも割いていることをお伝えしておきます。また、それらに関連した最新かつ良質の(つまり時の権力におもねらない)情報を得たいと思われる方のために、同新聞のHPのアドレスを以下に掲げておきます。ちなみに、同新聞は、震災以前から仙台の河北新報社とともに、東北の良質なメディアとして名高い存在であり続けていることをお伝えしておきます。
『福島民報』HPのURL http://www.minpo.jp/