美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

福島第一原発にどこまで近づけるか 福島紀行(イザ!ブログ 2012・5・5 掲載分)

2013年11月13日 21時17分06秒 | 報告
平成二四年5月3日(水)から5日(金)まで、私は友人と福島県に行ってきました。自分なりにフクシマの現状を知りたいと思ったからです。

東京駅から福島市まで直行バスで雨の中3時間。福島市に着いたのは、午後5時でした。その日は、どこへも動きようがないので、予約していた「ホテル・クラウンヒルズ福島」に直行しました。駅から数分のとても便利な立地です。適当な居酒屋で軽く飲みながら食事を済まそうと、近所をうろついて店を探しました。

福島市は、あの3.11の大地震の被害に遭ったはずなのに、どこを見回してもその痕跡が見当たりません。街は地方都市の落ち着いた佇まいを見せていて、桜並木が美しく、路を行き交う人々はみな物静かです。車の往来を気にせずに街中を気軽に歩けるのは心地良いこと限りありません。ちなみに、私たちが泊まった「ホテル・クラウンヒルズ福島」はやや大きなビルの8階から12階までを占めていて、そのすぐ下の7階に、復興庁の福島支局がありました。その日は、結局12時頃にベッドに入りました。

翌日も、雨でした。ホテルでちょっと遅い朝食を済ました後、駅前までレンタカーを借りに。

結局、国道114号線を南東に下って、とりあえず太平洋岸の南相馬市まで行き、そこから海岸線と並行に走っている国道6号線を南下できるところまで南下する、というルートをたどることに決めました。旅行の計画を立てる当初から、福島第一原発にいったいどこまで近づけるのか、に私たちの関心が集中していたので、まっすぐにその疑問に答えてくれそうなルートを選んだのです。大した情報が入っていないのだから、そのとおりになるのかどうかは、正直なところ分かりません。ほとんど当たって砕けろの心持ちと言ってもいいでしょう。出発は午前10時過ぎになりました。

途中、まっすぐな道の多い2車線の快適な国道114号線を突然不自然なほど鋭角に曲がって、山の中の県道12号線に切り変わります。ここからは、幅の狭い1車線の道路が続きます。周りには、家一件さえ見えなくなってきます。本当に寂しい眺めです。

横殴りの暴風雨の中を、友人は右に左にとハンドルをさばきながら山と山の間の知恵の輪のような舗装道路をうねうねと走っていきます。久しぶりに車の運転をしたにしては、なかなかのハンドルさばきです。道路に溜まった水を車がもろに冠って、目の前が一瞬見えなくなることもあります。決して楽な運転ではありません。私が車の運転免許を持っていないので、運転の負担は全て彼にかかることになります。申し訳ない気もしますが、仕方ありません。できないことはできないのですから。

やっとのことで平坦で単調な道に移ってからしばらくして、車が飯舘(いいたて)村の家並みがある地域に入りました。原発報道で何度も目にし耳にした地名です。また、ホット・スポットとしてこれまたその名が数え切れないくらいにメディアに登場している浪江町まで後数キロメートル、という標識も目に入ってきます。

不意に目にした川が、大量の雨でいまにも氾濫しそうな水位に差しかかりそうです。この辺は、なんだか踏んだり蹴ったりだな、とため息が出てきました。

南相馬市の物静かな街並みに到着したのは、確かお昼の12時半前後でした。友人が「どうする」と問うので、私は、とにかく行けるところまで行こうと言いました。

南相馬市の郊外で右折して、いよいよ福島第一原発にまっすぐつながる国道6号線を南下することに。

一気に南下できるところまで南下するつもりでいました。

大甕(おおがめ)という地区を過ぎたあたりで、運転していた友人の発した「あっ、美津島。瓦礫」の一声で、それまでのいろいろなこまごまとした想念が吹っ飛んでしまいました。左手の田んぼの中に、瓦礫のグロテスクで巨大な山がひとつ無造作に積み上げられていたのです。

また、田んぼのなかに白い車がひっくり返っているのが見えたりします。5月だというのに苗を植えていない、真っ黒な土で満たされ、雑草が無造作に生えた田んぼから潮の匂いが漂ってきたりします。道路沿いの食堂が建物はちゃんとあるのに、中は真っ暗でガラスが割れていたりもします。要するに、ここいらで尋常ではない事態が起こったことが明らかになってきたのです。

私はそれを自分の体で(というのも変な言い方ですが)確認したい衝動にかられました。そうして、運転している友人に言いました。「降りてみよう」と。

車をとあるガソリン・スタンドに止めて、外に出てみました。たまたまそこが十字路の見晴らしのきくポジションだったのでいろいろと確認することができました。

ガソリン・スタンドは、もちろん営業していませんので、お店のなかは真っ暗です。タンク・ローリーのような車が給油所のところで無残にゴロンとひっくり返っています。十字路のうち、その辺りでは賑やかな地域へ向かう道の数百メートルほど先に、津波で流されてきた白い車が塀に乗り上げているのが小さく見えます。だから、賑やかそうに見えるだけでその辺りも人っ子ひとりいないのでしょう。看板を見ると「歴史の町小高(おだか)」とあります。友人が、「あ、相馬祭りで使う甲冑の産地だ」と思い出して言いました。

ガソリン・スタンドの目の前の国道6号線から向かって左の側面沿いの、先ほど述べた賑やかな地域へ向かう道路とは逆方向の、海岸に向かう道路に目を転じてみます。そこには、津波に襲われた時のままの荒涼とした光景が広がっていました。

ガード・レールはぐにゃぐにゃに曲がり、電信柱は折れ曲がっていたり、二本の電信柱が人という漢字の形にもたれかかり合っていたりします。土手の下の空き地みたいなところには、原型を留めぬほどに変形した車がいくつもいくつもゴロゴロと転がっています。なかには、土に生えた枯れ草を内側にぐっと巻き込んだ車もあります。その道路が二股に分かれたうちの右手の細い道の真ん中に、グシャグシャになったおおきなトタン屋根が津波で流れ着いたまま無造作に伏せられています。広大な田畑は塩害で全て死滅状態のようです。その先にある家並みについては、後ほど触れましょう。ここの地名は、小高区浦尻地区であることを覚えておいてください。

車のところまで戻って、一度車中に乗りました。友人が「どうする」と言うので、私は、海岸へ向かう道路が二股に分かれた道路のうちの左手を奥に進んでみないかと提案しました。実は、友人は先ほどから気が気ではないのです。というのは、数分おきにパトカーがやって来ては、私たちの後をゆっくりとつけるからです。それが、地元の警察ではなくて、神奈川県警だったり、千葉県警だったりするから、なおさら落ち着かないみたいなのです。

おそらく、火事場泥棒的な不届き者の、空家狙いの窃盗が多発しているのでそれを全国の警察組織が協力して警戒し巡回しているのではないかと思われます。彼ら不届き者たちは、究極の貧困ビジネスを展開しているわけです。この世には、ビジネス・チャンスにもピンからキリまでいろいろあるのですね。私たちは、もちろんそんなつもりはないのですが、警察に付け回されて気分がいいわけがありません。

そういう気分をだましだまししながら、私たちは、車で小高川らしき川にかかった小さな橋をゆっくりと渡り、海岸線と平行な小道を奥へと進んで行きました。車で行けるところまで行って適当なところで駐車して、さらにその奥に、強い雨足の中を傘一つで徒歩で進んでいきました。後に地図で確認してみたところ、小高区大井地区と塚原地区とを私たちはウロついていたようです。

その人っ子ひとりいない、ひっそりと静まり返った村落は、福島第一原発を中心にして描いた、半径20キロメートルの避難指示区域の半円の境界線の内側にすっぽりと入る地域であることも後に確認しました。先ほどから気になっていた音の正体を友人に確認しました、「あれは何の音なのだろう」と。友人は普段にも増して低い声で答えました、「海鳴りの音だろう」と。囂々(ごうこう)ととどろく不気味な音です。私は海育ちですが、こんな奇妙な、岩石がゴロゴロとぶつかり合うような響きの海鳴りは初めてです。(次回につづく)

******

被災地域の具体的な見聞録に入る前に、ちょっとだけ、行政上の「区域」の話をしておきます。

南相馬市では震災後、市内から避難する住民が続出しました。震災時の人口は約7万1500人だったのが、平成24年4月12日現在、居住者は4万4225人に減っています。一年前の震災の影響で、なんと4割弱の人口減となったのです。

そのなかで、南相馬市の南部に位置する小高区は、福島第一原発に近いので、その全域が警戒区域(かつての避難指示区域)に指定されました。それが、つい先ごろの4月16日に解除されました。それにともなって、警戒区域と計画的避難区域は、立ち入り可能な避難指示解除準備区域と居住制限区域、それと、住民が長期間戻れない帰還困難区域に区分されます。

新たな区域の区別は、これまでと同様に放射能の線量の多寡によります。年50ミリシーベルト超で5年後も20ミリシーベルトを下回らないとみられる区域は「帰還困難区域」、年20ミリシーベルト超で50ミリシーベルト以下の区域は「居住制限区域」、年20ミリシーベルト以下で住民の早期帰還を目指す区域は「避難指示解除準備区域」とされます。

解除準備区域と制限区域になると、住民は宿泊できないものの、放射線防護の措置を取らずに自由に一時帰宅できるようになります。解除準備区域では製造業などの事業の再開が可能となり、病院や福祉施設は再開準備ができることになります。 

その行政区分にしたがえば、いま私たちは、解除準備区域に足を踏み入れていることになります。

小高区大井地区と塚原地区のうち、海沿いが塚原地区で、海岸線から数百メートル奥まった台が大井地区です。海沿いの塚原地区は遠くから眺めるよりほかなかったのですが、家は一件も見当たらなくて、家の土台らしきものが水浸しの砂に埋もれているのが散見されるだけです。どれだけの家屋が津波に流されたのか、想像もつきません。普通に眺めれば、このあたりに人が住んでいたなんてとても信じられません。あたり一面、薄く海水をかぶった浜辺にしか見えないのですから。

私たちが立っているところから目測で一キロメートルほど離れた臨海部に、蜃気楼のような雰囲気で五階建くらいの黄色の瀟洒で真新しい木造風の大きな建物がひとつだけ海の中に立っているのが見えます。なんとなく、津波のとき、その中に少なからぬ人がいたような気がします。その人たちは無事だったのだろうか、無事だったにしても、地獄の恐怖を味わったに違いない、という想念が過ぎりました。


塚原地区。まばらな松ノ木のすぐ向こうが海。その手前がかつて家並みがあったところ。ガード・レールが向こうになぎ倒されているのは、津波が引くときの力によるもの。

大井地区は、塚原地区と異なり高台に位置するだけあって、原形をとどめている家屋が多くあります。

とはいうものの、2階建のうちの一階部分が津波の急襲でボロボロになっていたり、コンビニの店舗全体が浸水して店の中がめちゃくちゃになってしまっていたり、津波の圧力で圧縮されたうえでひねられた車やトラクターが無造作に転がっていたり、といった惨状であることに変わりはありません。

また、物干し竿に、洗濯物が掛かったままにしてあるのも目にしました。その家に住んでいた人が、津波警報を聞きつけ、取るものも取りあえず、慌てて家を飛び出して避難場所に駆けつけたのでしょう。その生々しさがこちらの胸を打ちます。

傘を差してあたりをウロウロしている私たちのすぐそばを、老人対象のデイ・サーヴィスの白いライト・バンが、行き過ぎました。そうして、その車体が村落の奥に消えたかと思ったら、また姿を現して先ほどと反対方向に走っていきました。仮説住宅などのほかの場所への移住を拒む老人がこのあたりに住んでいるのでしょうか。この、死の支配するような、ひっそりとした耐え難い世界に、ポツンと一人で住んでいる老人が、この世のものとは思えない存在として浮かんできます。



大井地区。津波の急襲で、一階部分が損壊された。


大井地区。津波の底知れないパワーを感じさせる光景。

このあたりに住んでいた人々は、震度6弱の大地震と、間髪入れずに襲った10メートル級の大津波と、翌日早朝に襲ってくる放射能汚染の恐怖をもたらした原発事故という、人が一生の間に一つ経験するかどうかという大災厄を矢継ぎ早に三つ経験することになってしまったのでした。

だから、このあたりが、時間がそれらの大災厄の瞬間で停止してしまったかのような景観を呈しているのは、ごく当たり前のことなのです。

私は、人間の本質は、人間が避けようもなく共同存在であるところに存すると考える者です。つまり、関係するから人間なんだ、人間は命一生あくまでも関係しようとする存在なんだ、ということです。(これで、たとえば、若者のスマホ中毒なんかはあっさりと説明がつくでしょう?)だから、自然の暴力によって、生まれたときから当たり前のものとして受け入れてきた骨がらみの地域の共同性が瞬間的に根こそぎにされるのは、精神の死の危機に直面することを意味します。

これは、微妙な言い方になりますが、津波で命が助かったからOKなんだという楽観的な言い方は、基本的にダメなのではないかと思います。

生き残った人々が、うまく言えないながらも、直面している「精神の死」の問題こそが、統計の数値に現れにくい最も深刻な問題なのではないかと、私は考えるのです。自分だけ生き残って申し訳ないとか、こんなことなら死んだほうがよかったとか、マスコミのマイクや善意の関係者に対しては決して言わないし、言えない言葉を、生き残った被災者のうちの少なくはない方々が、胸の内で呑み込んでいるものと思われます。

私は、空論を弄しようとしているのではありません。

大井地区に広がる、かつての地域共同体の抜け殻のような死の世界を垣間見たうえでの、身体の底から湧き上がってくる実感なのです。

そういう実感的な認識を得てはじめて、私の身体の底から、震災の犠牲者たちの慟哭が響いてくるようになりました。「フクシマ」が本当に他人事ではなくなりました。

暴風雨で体が冷えてきたのと、荒涼とした光景の果てしなさと、囂々(ごうごう)と不気味に響く海鳴りと、数分ごとに巡回するパトカーの監視の目とが一緒になってこちらにもたらす形容しがたいストレスが耐え難くなってきたのか、友人と私はほぼ同時に「戻るか」と言い合いました。

十字路に戻る直前に、私は不意に思い立って、グシャグシャになったおおきなトタン屋根が津波で流れ着いたまま無造作に伏せられている細い道に引き返してくれるように、友人に頼みました。車から降りはしませんでしたが、無人の家並みの間の細い道をゆっくり走りました。津波から土手によって幾分守られたせいか、先ほどの塚原地区とは異なって、流された家屋はほとんど見当たりませんが、津波によっておおきなダメージを被っているのは一目瞭然です。農業で生きていた人々がすべて立ち去った後の、田舎の寒々とした光景が延々と続きます。農機具が乱雑に庭にぶちまけられていたりします。人がするはずがありません。津波の仕業です。前回に申し上げたように、津波による塩害で、田畑は全滅の状態らしく、そこから磯の臭いがぶんぶんしてきます。正確に言えば、私は鼻炎で嗅覚が弱っているので、友人にそれを確認してもらいました。

後に地図で調べてみたところ、ここは、海に面した小高区塩尻地区の入口に当たる女場(おなば)と呼ばれる地域です。その塩尻地区に住んできた被災者の一人である三浦秀一さんという方の、「iあい Eye」という会報に乗せられた手記がたまたま手に入ったので、その臨場感にあふれる手記の一部分を次に掲げておきます。

私の住んでいた小高区塩尻地区は107戸の半数が津波で流失、死者・行方不明者合わせて21名が犠牲になりました。ただそれは目にすることのできる被害です。

3月12日早朝、行方不明者捜索のため集合場所(避難所となっていた公会堂)に行くと原発事故のため皆ここにいるとのことでした。私も近所に声をかけながら自宅に向かい母を車に乗せて原発から10km圏外の金房小学校に向かいました。津波のため道路は通れず浪江の方に向かいましたが多くの車で渋滞しており、浪江町民が金房小学校へと避難してくるのでした。まさかこれほどの事故が迫っているとは思いもしませんでした。この時お世話してくださった近隣地区の皆様のことは一生忘れることができません。

そろそろ夜も深くなり休み始めた頃、今度は20km圏外に避難しなさいと指示がでました。周りを確認して原町区石神第一小学校へ、道路は朝以上の渋滞が続き何時間かかるかわからないような状態でした。

避難中は母が障害者(視覚)なのでトイレなどには大変苦労しました。あてがあればすぐにでも場所を移りたかったのですが、なかなか電話連絡がとれず行動を起こせませんでした。なんとか連絡が取れ、15日午後、相馬市の知人宅へ、そして16日夕方、雪の降るなか9時間かけて千葉県習志野市の伯母の家へ、そうして(平成24年ー引用者補)4月14日現在住む紬(つむぎー引用者注)で有名な茨木県結城市へ、これもすべて母の兄弟のところがあったからできたことです。

(中略)あれから数ヶ月、「こんな生活をしていていいのか?」そう考える時が多くなっています。


地域社会で真面目に生きてきた人が、自然災害に翻弄され、政府の原発事故をめぐる拙策に右往左往することを余儀なくされて、きりきり舞いになりながら、なんとか局面を打開しようと懸命になっている様子が手に取るように分かります。政府に対して一言も文句を言っていない分、その掛け値なしの善意がこちらの臓腑を突き刺します。(おい、そうだろうが。菅よ、野田よ、財務省よ、日銀よ)私は、引用した文章の冒頭から2文目の「ただそれは目にすることのできる被害です」の表現に、三浦さんの、災害による喪失感をめぐる奥深い思いを感じます。

十字路に引き返してから、国道6号線を一気に南下。

ほどなく、通行止の表示に突き当たりました。その背後には、警察のおおきなバス・サイズの車(機動隊がよく乗っている車です)が赤ランプ全開で、ものものしい警戒体制を敷いていました。位置は、南相馬市と双葉町の境から南相馬市側にちょっと寄ったところ。地名は、おそらく行津か上津か下津のどれかですが、特定は難しい。Uターンした私たちと一台のバイクがすれ違いました。おそらく、私たちと同様の物見高い心根のライダーなのでしょう。

南相馬市の市街地に戻る手前のところに、みちの駅があったので、そこに立ち寄って遅い昼食を摂ることにしました。

そこで大槻明生氏という地元の報道写真家が、南相馬市の震災の写真展を開いているのを目にしました。彼いわく。「この展示会を開くかどうか実は迷ったのです。地元の方で、もう二度と思い出したくないとおっしゃる向きもありましたので。でも、この震災を忘れて欲しくない、記憶を風化させたくない、という思いが強くて、開催することにしました。」

彼の、生まれ育った南相馬市を思う心は、写真の端々に感じられました。友人によれば、瓦礫のなかにある崩れかかった家屋に「こわしてください」の文言が太い墨筆で書かれた白い垂れ幕が掛けられた写真が一番印象に残ったとのこと。生まれ育った記憶のすべてを刻み込んだ家を「こわしてください」とお願いする、絶望的な心境が胸に迫ってくるとの弁。もっともだと思います。

私が一番印象に残っているのは、3枚の写真のことを来場者に向かって熱心に語りかける大槻氏の姿です。彼によれば、自分が以前から気に入って何枚も写真に撮っていた、地元の海の砂州に松の木がきれいに並んでいる風景が、震災前と震災後で一変してしまいました。震災前の写真では、松の木がきれいに並んでいます。ところが、大津波に襲われた震災後、松の木は櫛の歯がところどころ抜けたようにまばらになっているのです。さらに、と大槻さんは語ります。港側から見れば、この砂州の、松の木が生えている高台はけっこう広いような印象だが、実は、と大槻さんはもう一枚の写真を指差します。「実は、沖から見ると、こんなに細長いのです。ほら、こんなに」と大槻さんは、目をしばしばさせながら言います。

それは、まるで、大津波に襲われても、いまにも崩れそうな砂州がかろうじて残ったことを、よくがんばったとねぎらっているかのような語り口です。もうこれ以上削らないでくれと海に懇願しているような語り口です。大槻さんのその語り方に、私は、彼のふるさとを思う心と、写真家として美しい景色を残したいと思う心とが自然に重なり合っている様を見る思いがしました。彼の、会場の入口に掲げられた言葉を記しておきます。

「東日本大震災南相馬市写真展」に寄せて

私は原町市(南相馬市原町区)に生まれ、趣味から始まった写真で、その後、日本報道写真連盟会員として、長年写真を取り続けてきました。

3月11日、誰もが予想だにしていなかった巨大地震と大津波によって、私が幼いころ泳いだ砂浜や美しい日の出を見せてくれる海岸線などが、一瞬にして呑みこまれてしまった。

ニュースで被害を報じていたが、実際どうだったか分からない為(大槻氏の住んでいる原町区は市の中心街で、地震の被害は少々あったものの、津波には襲われなかったし、放射能の警戒区域にも入っていませんでしたー引用者注)、翌12日早朝、原町区上渋地区に行ってみました。

そこではじめて、余りにも大きな津波の被害を目の当たりにしたのでした。「この大きすぎる災害を、後世に残さなければ」との思いが全身を突き動かしていました。

瓦礫でまっすぐ歩くことも出来ない海岸や点在する被災地を、2ヶ月以上かけて500点余り撮り続けて来ました。今回その中の50点をこの銘醸館に展示いたしました。
                                     大槻明生
~あとがき~

撮影現場で、瓦礫撤去に奮闘してくださる自衛隊・警察(機動隊)・消防・ボランティアのみなさんにお逢いし、とても感銘を受けました。「ありがとう」の一言では言い表せないような、感謝の気持ちでいっぱいになるのでした。


その夜、福島市のホテルに戻って、早々とベットに入って眠りに就いてから翌朝目が覚めるまでずっと、自分の身体が、津波に襲われた後の小高区大井地区と塚原地区の間に横たわっているような、水浸しの感覚がつきまといました。実は、いまもそうなのですけれど。

最後に、大手新聞は、もはや一面にフクシマの今を伝える記事を掲げることはありませんが、地元紙の「福島民報」はいまだに震災・原発被害に一面の全てを割くだけではなく、2面、3面の全てをも割いていることをお伝えしておきます。また、それらに関連した最新かつ良質の(つまり時の権力におもねらない)情報を得たいと思われる方のために、同新聞のHPのアドレスを以下に掲げておきます。ちなみに、同新聞は、震災以前から仙台の河北新報社とともに、東北の良質なメディアとして名高い存在であり続けていることをお伝えしておきます。

『福島民報』HPのURL http://www.minpo.jp/ 
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デフレから抜け出せない心を持った人たち (イザ・ブログ! 2012・5・2 掲載分)

2013年11月13日 19時47分41秒 | 経済
私は、このブログを始めてからずっと、デフレからの脱却がほかのすべての課題に優先すると主張してきました。言いかえれば、それを主張するためにこのブログを始めたようなものです。

その場合、デフレからの脱却を阻むものとして、私は、財務省・日銀・大手マスコミ・経団連・御用学者・御用エコノミストを否定的に取り上げてきました。何を一塊のど素人が、と思われた方もいらっしゃることでしょう。私自身、どこかでそういう思いを抱きながら、あえて突き進んできました。

民主党政権を論の遡上に載せなかったのは、彼らがあまりにも愚かすぎて、私がしのこの言わなくても、もう二度と彼らに騙される国民はいないだろうと判断したからです。あれほどに無能で有害な民主党にもう一度騙される人に、私は言葉をかける気力が湧いてきません。

私がそういう大胆な振る舞いをしているのは、私のような一塊のど素人でも、デフレからの脱却というテーマを握って離さなければ、世間でどんなにエライと言われている人々や組織に対しても、一歩も引かない言論の構えがキープできることをお伝えしたかったのです。つまり、彼らの虚飾に満ちたオーソリティを力の及ぶ限り無に帰したかったのです。「王様は裸だ」と言いたいのです。

デフレ不況の継続は間違いなく国を滅ぼします。それは、私の許容できることではありません。私にだって、最低限度の愛国心があります。日本が滅ぶのが正義だという反日思想の持ち主に与するわけにはいかないのです。だから、それを許容し、また自分がそれを許容していることをカモフラージュしようとする動きに対して、私は極めて非寛容的であり続けてきました。

私のそういう否定的な振る舞いは、初めての投稿で申し上げたように、ちょっと油断すれば、自分がいつでも愚民になってしまう危険と紙一重のところにいるという自覚を持ち続けることでもありました。(私は自分が愚民ではないと変な優越感を抱いているわけではありません。愚民である自分にほとほと嫌気が差したので、なんとかもう二度とそうならないようにと気をつけているだけです)

愚民は、政府・日銀・財界→大手マスコミ・御用学者・御用エコノミスト→一般国民というルートで、官製の、政治・経済にまつわるウソ話をまことしやかに日々大量に垂れ流すことで大量生産されます。いまは、もはや十分に衆愚デモクラシーの時代に突入していると私は考えています。

そうして、衆愚デモクラシーは、衆愚にまっとうな主権者意識が欠如している以上、デモクラシーとは名ばかりで、実は正しい意味での民主主義と対立関係にあります。正しい意味での民主主義は、主権を担おうとする責任感にあふれた国民の存在が前提だからです。

だから、私は、それを批判するために自分に対して戦闘的な民主主義者として振舞うことを課しています。実は、私は民主主義に対して根本的な懐疑を有する者です。もったいぶるわけではないのですが、それについて論じはじめると、まったく別の流れになってしまうので、そうするのはとりあえず控えておきますね。

ここで、私はひとつ論じて来なかったことがあることに気づきます。つまり、ウソ話を日々受けとめる一般国民の心的傾向がどうなっているかということです。

私は、最近、経済過程においてデフレ・ループが回っているのと対応して、一般国民の心にもデフレ・ループが回っているような印象を抱き始めています。つまり、一般国民の一定の割合が、デマ情報・ウソ話の消極的な受け手である状態から一歩踏み出して、デマ情報・ウソ話の積極的な語り手、さらには世間にそれを触れ回る使徒になっているような印象があるのです。つまり、デフレから抜け出せない心を持った人々が大量発生している、というわけです。

そういう状態に陥る人々は、基本的に善人です。私なんかが、政府・日銀の財政・金融政策がいかに間違っているか、あるいは、大手マスコミがいかにいい加減な記事を書いているか、どれほど理を尽くして論じても、そういう人々は、それをどうしても信じようとしません。受け入れることを拒みます。どこかで、「いや、政府や官僚がそこまで自分たちのことばっかり考えているはずがない。やはりちょっとは国民のことを考えて消費増税を言っているにちがいない。テレビはちょっと怪しいかもしれないが、名の通った新聞が、あんたが言うほどに、そんなにひどいデマを毎日毎日垂れ流すはずがない。日銀だって、なんだかんだと言われるが、けっこう普通にやっているんじゃないか。きちんと学問を修めた東大や慶応の学者さんが、いい加減な屁理屈を並べ立てるはずもないし」という頭があるらしいのです。

今日、たまたまニコニコ動画で田中秀臣氏と上念司氏と倉山満氏が、そういうことを話題にしていたので、興味を持ちました。

上念氏によれば、政府からおいしいエサをもらえるのでシッポを振るのが「御用学者」で、エサをもらえなくてもシッポを振るのが「御用一般人」で、御用一般人のうち、なぜか日銀とか、財務省だけとか、民主党だけとかを変に擁護しようとするのが「変態御用一般人」です。三人の話は、マスコミが変態御用一般人化しているのではないか、ということでした。(最近の朝日新聞が、日銀には白川総裁に成り代わって物を言うほどに変に肩入れするのに、財務省には歯向かっているのが例にあげられていました)それはそれで面白かったのですが、私が今話題にしたいのは、そのうちの「御用一般人」です。

エサをもらえなくても政府・日銀を擁護しようとする「御用一般人」は、人としては「御用学者」よりもやや格上なのかもしれませんが、その善意が徒になっているところが無残です。善意があるだけに、意見を変えるのはとても難しいですね。騙され易い一般庶民と言ってしまえば、それで終わりとも言えるのでしょうが、そういう人をよってたかって騙すパワー・エリートたちは、やはり罪深い。

もう一つ、気になることがあります。若い人たちの間で、善人のおじさんをもうひとひねりした新種の「御用一般人」が登場しつつあるように感じるのです。これについては、次回に触れたいと思います。

******

前回に「もう一つ、気になることがあります。若い人たちの間で、善人のおじさんをもうひとひねりした新種の「御用一般人」が登場しつつあるように感じるのです。これについては、次回に触れたいと思います。」と申し上げたところから始めたいと思います。

この新種の「御用一般人」は、自分たちが、まさか政府・日銀のデフレ路線を無償で応援している社会的な一勢力であるなどとは夢にも思っていません。自分たちは、お金を求めてあくせくするこれまでの心貧しき日本の大人たちを精神的に超越する価値ある存在であり、その意味で精神的に自由な存在だとどこかで勝手に思い込んでいます。これまでに先達の日本人たちが勤勉に働き続けることによって築き上げてきた豊かな社会の恩恵に身も心もどっぷりとつかりながら、であることはいうまでもありません。むろん、そのことの自覚も希薄です。

それに関連して取り上げたい記事があります。

北海道電力泊原発3号機が先日の5日夜、定期検査に入り、国内の商業用原発が全て停止しました。また、再稼働に向け国内で最も手続きが先行している関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)をめぐって、地元による是非の判断が焦点となっています。原発をめぐるそのような緊迫した状況をふまえて、東京新聞が、翌6日にその紙面で反原発のキャンペーンを繰り広げました。そのなかに、次のような特集記事がありました。見出しとリードを引用します。

脱経済成長の幸せ 若者世代にも潮流

経済成長は本当に必要なのか-。原発を再稼働しなければ、電力が不足し、経済成長を実現できないと、政府は主張する。ならば、成長をあきらめてしまってはどうか。5日、国内で稼働する原発がゼロになった。国が「御旗(みはた)」とする経済成長そのものを見直す機会なのかもしれない。 (小栗康之)


この記事の基本思想は、次のようなものです。

日本はこれまで経済成長至上主義路線を突き進んできた。その結果、原発という悪魔を自分の懐に抱えこむことになった。その悪魔が今回の東日本大震災をきかっけに跳梁(ちょうりょう)し、日本社会はその悪魔の影にいまだに怯え続けている。この際、災いをもたらすだけの原発などやめてしまった方がよい。政府要人をはじめとする古い考え方の日本人は、「経済成長を続けるためには原発が必要だ、そのために、それがもたらす災いの危険性を忍べ」というが、それはまっぴらごめんだ。第一、経済成長至上主義路線は、われわれ日本人にさまざまな精神的犠牲を強いてきた。物質的には豊かさをもたらしたかもしれないが、精神的な意味では貧しさをもたらした。だから、いまは、原発を破棄し、成長をあきらめて、心の豊かさを取り戻し、真の意味での幸せに目覚めるいい機会なのだ。

これって、いま結構「受け」の良いノリノリの考え方なのではないでしょうか。これに反対するヤツは、古い考え方に固執する「経済成長オヤジ」なのだ、と。

私は、この記事を書いた「小栗康之」氏の基本思想に全面的に反対する者です。それについては後ほど述べるとして、まずは、「小栗思想」的なものを受け入れる、若い人たちを中心とする社会的な裾野が広がりを見せている動きそのものに着目したいと思います。

経済成長を否定するという心的傾向は、20年間にわたるデフレ不況の産物です。デフレ不況は、日本の経済社会全体が少しずつ縮小し、労働に対する対価が減少し、失業が増え、将来不安が少しづつ増していく現象です。それは、その中で生きる人々に真綿で首を締められるような実存不安をもたらします。

その不安をとりあえず解消するには、デフレ不況がもたらす縮小閉鎖社会そのものに適応してしまうのが手っ取り早いですね。しかし、この適応は、不安を惹起する当のものへの適応なので、潜在的な不安を増加させます。

だから、その適応は単なる適応で収まらずに、過剰適応と化すことになります。つまり、不安を解消する現実的な手立てを否定する、という非合理的な形にまで膨化してしまうということです。

だから、縮小閉鎖社会への過剰適応は、経済成長に対する否定の想念をもたらすのです。この傾向は、1991年のバブル崩壊以来ずっと潜在していました。オウム真理教による1995年2月のサリン事件の勃発は、そのことをはっきりと明かし立てている、というのが私の見立てです。

それが、今回のカタストロフィックな震災・原発事故の勃発によって、一気に表面化したのではないでしょうか。比喩的にいえば、一般市民におけるオウム的なものの蔓延、ということになります。

実は、先日ある知人に、いままで述べてきたのと同様の趣旨のメールを送りました。それに対する彼の返事を次に掲げます。

(美津島の危惧をー引用者注)私なりに言いかえるなら、これは無意識的・情緒的ファシズムということになると思います。オウム真理教も、この人間の脱理性的な傾向を巧みに利用したという意味で、貴兄の言われるとおりと思いますが、もっと大がかりな流れとしては、どうしてもあの戦争へのなだれ込みを連想してしまいますね。「うちてしやまん」「ほしがりません勝つまでは」「贅沢は敵」等々・・・。

問題の要は、やはり、日本が経済社会的な条件を回復できるかどうかにかかっていると思います。くだんの若者たちの思い込みを、いわゆる思想や議論のレベルで変えさせようとしても、おそらく無理でしょう。なぜなら、こういう傾向というのは、「貧すれば鈍する」のことわざどおり、どんな困難の場合にも必ず現われる普遍的な人間心理で、「自己慰安=思考停止=陳腐な美意識への依りかかり」の典型的なタイプだからです。

この点では(つい最近亡くなった、吉本ばななのお父さんのー引用者注)吉本隆明さんはさすがで、バブル期に、「拝金主義」非難の風潮が一方で出てきた折、「大衆が豊かになることはいいことなんだ」と真剣に訴えていたのが印象的です。同時期に(小説家で、代表作が『死霊』で、故人のー引用者注)埴谷雄高との「コム・デ・ギャルソン」論争があり、この論争を通して、洒落者のはずの埴谷が、ファッションモデル・吉本さんの衣装の価格や、書斎のシャンデリアにまでも言及して、意外にも、下品でけち臭いオールド・マルキスト(古色蒼然としたマルクス主義者ということー引用者注)の「道徳主義者」に過ぎなかったことが暴露された経緯を思い出します。


私の気がかりとするところを、文明論的なパースぺクティヴに一気に広げていただきました。歴史は、どうやら、ある原因がもたらした好ましからぬ社会的な結果から、まっすぐにそれをもたらしたものの解決・解消には向かわないように展開されるものらしく思われます。そこに、それ相応の不可避的な意味合いとか実存的な切実さとかが織り込まれることになるのは理解できます。また、そこに歴史の妙味なるものもあるのでしょう。1+1=2、はいオシマイ、ではつまりませんからね。

ただし、社会的に影響力の大きな新聞で、時代の空気に無自覚に寄り添って、情に偏りすぎた言論を弄することに対しては、私は否定的であらざるをえません。上記の「小栗思想」がいかに誤ったとんでもないものであるかを述べておきます。

① 「日本はこれまで経済成長至上主義路線を突き進んできた」、という見解は歴史的事実に反します。そういう路線は、せいぜい1980年代までのことです。90年代以降は、事実上デフレ路線がずっと続いています。これは、政府・日銀の「決断」抜きにはありえないことです。繰り返します。GDPは、ここ20年間まったく成長していません。それは、政府・日銀がそういう政策を実施し続けてきたからです。かれらは、事実上経済成長放棄論者なのです。だから、私たちは、この20年間ずっと、成長をあきらめたらどうなるのかを目撃し続けてきたのです。どうでしょう、幸せでしたか。

② 日本がエネルギー政策上原発に傾いてきたのは事実です。しかし、それは①の事実から明らかなように、経済成長のためではありません。基本的には、石油消費効率の良いエネルギーである原発を推進することで、過度の石油依存体質を少しでも緩和するためです。それを経済成長に役立てることは可能ですが、それが目的だったとは言えないのです。政府は、そういうふうに役立ててこなかったのですから。ただし、これは、むろん原発利権の存在を否定するものではありません。原発をやめてしまうのは、コスト高になるエネルギーを短期的あるいは中長期的にどうやって安定的にコストを下げて供給するかという課題を背負うことを意味します。その課題を一気に解決するために成長をあきらめてしまうのは、後ほど述べるようにあまりにも弊害が大きいので、得策とは言えません。腕の調子が悪いからといって腕を切ってしまうのは、短絡的ですよね。車が年間1万人の死者を生むからといって車の生産をやめてしまうのも短絡的ですよね。困りますよね。

③ 80年代までの経済成長が日本に豊かさをもたらしたのは事実です。それは物質的なものに限りません。私は、「一人ひとりの生命は掛け値なしに大切なものである」という戦後ヒューマニズムの強固な、国民レベルにおける根づきを、戦後の唯一の思想的達成と思っています。その、精神的に豊かな実りを物質的に支えてきたのが、経済成長の高度な達成であると、私は認識しています。だから、戦後日本の経済成長は、物質的な豊かさのみならず、精神的な豊かさをも生み出したというののが、歴史的な事実です。その思想的な達成が、呉智英さんが喝破するように人権真理教に変質してきたり、個人原理主義的なハード・コアなものに変質してきたのは、デフレ化が進み、日本が縮小閉鎖社会化してきたこととおおむね相関関係があるものと思われます。

④ だから、経済成長をあきらめたら、心が豊かになり、真の幸福に目覚めるという想定は、歴史的事実に反する妄想であると断じざるをえません。

私がつい先日行ってきた、福島県南相馬市の小高地区は、3.11の破壊状況のままでした。復興どころか、復旧の「ふ」の字の分も進んでいません。まったくのほったらかしです。(ほったらかしたまま、民主党の九人の閣僚がこのGWに海外に物見遊山をしに行ったそうです。彼らは、なんにも考えていないのです。「日刊ゲンダイ」5月7日号より)この地域の復旧・復興を成し遂げるまでには、膨大な費用がかかるのは明らかです。そうして、当たり前のことですが、被災地はここだけではありません。それら広大な被災地域すべての復旧・復興を成し遂げるのにどれだけのお金がかかるのか、それを考えると気が遠くなってきます。本当のところ正確には、だれにも分からないはずです。

つまり、まっとうな経済成長が実現されてはじめて、被災地の復旧・復興が力強く実現できるのです。経済成長をあきらめるということは、被災地の人々に「お前のふるさとの復旧・復興をあきらめろ。どこかで勝手に生きろ」と言うのに等しいのです。

また、成長をあきらめるというのは、目の前のデフレ不況を甘受することを意味します。それは、国民が失業の苦しみで呻吟し、1997年からの橋本デフレで生じた新たな追加の1万人の年間自殺者の増加が今後も継続するのを黙視することを意味します。

さらに、社会保障の財源は税収です。税収は名目GDPからもたらされます。健全財政を目指す以上それ以外にあってはなりません。だから、経済成長をあきらめるとは、名目GDPが減少することであり、名目GDPが減少することは税収が減少することであり、税収が減少することは社会保障がどんどん削られることなのです。これは、財政学上の鉄則です。つまり、経済成長をあきらめることは、弱者切り捨てを敢行することを意味するのです。それでいいのでしょうか。そういうことを分かっていろいろと言っているのでしょうか。

経済成長をあきらめたならば、つつましい清貧の生活ではなく、病気になっても医者に行けずにつらかったり、悲惨な老後を余儀なくされたり、衛生状態の悪化した公衆便所を使うほかなくなったり、危なくて車で渡れない橋が増えたり、あちこちで水道管が破裂したり、災害に遭ってもひもじいのをこらえて野良犬のように震えていたりすることの一切を我慢する生活が、私たちを待っているのです。

私たちは、豊かな社会に甘えかかったような堕落した妄夢なんかを決して見てはならないのです。それが、豊かな社会に生きる者の倫理であると言っても過言ではないでしょう。

東京新聞の小栗記者よ。あなたは、自分が発してしまった言葉が実のところどれほどに無思慮で無慈悲で無教養なものであるのか、心の底から思い知り、恥入り、言論人として密かに心を入れかえてからそっと出直すべきであると、私はあえて断じます。あなたは、この世のどこにもない経済社会を夢見て何も知らない若者のようにうわ言を言っていられるような年齢なのですか。忙しい合間を縫って、ちょっとは経済のことを勉強しましょう。そうしないと、命一生馬鹿なことを言い続けますよ。(匿名で馬鹿なことを垂れ流す記者よりは、あなたはよっぽどマシですが)

先のメールにもある通り、現状のデフレ不況の放置は、やがて社会破壊・自己破壊の非合理的な衝動の噴出をもたらすことになりかねません。そうなるまえに、デフレ不況はぜひとも克服されなければなりません。デフレ不況は、いまや時代の負の通奏低音です。地震で国は滅びません。間違った思想によってこそ、国は滅びるのです。人を生かすも殺すも思想次第なのです。

ついでながら、私が想定する名目経済成長率は4%前後のおだやかなものです。穏当なインフレ・ターゲット政策によって無理なく達成される程度の、国際的に見ても妥当な水準です。
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斎藤茂吉の一首 (イザ!ブログ 2012・4・30 掲載分)

2013年11月13日 16時39分30秒 | 文学
のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳(たらち)ねの母は死にたまふなり 斎藤茂吉

短歌との本当の出会いは、その歌の心にじかに触れえたと感じたときに訪れます。私は、おそらく中学生のときに国語の授業ではじめてこの歌の存在を知ったのでしょう。昔からこの歌は中学校の国語の教科書に載っていましたから。もう四十年くらい前のことです。そのときは、単に知っただけで本当に出会ったわけではなかったのでしょう。

でも、訳が分からなくてもとりあえず知っておくのはとても大切です。良い歌は、こちらにその心をまだ打ち明けていなくても、どこかしら、心惹かれる魅力を湛えているものなので、とりあえず覚えておき、あるとき不意に、ああそうだったのか、あの歌人はこういうことを言おうとしていたのか、と気づくことになるのです。その、知り始めてから分かるまでの時間の経過が大切なのです。その無言の時の流れこそは、生きることの味わいそのものであるからです。

私がこの歌にこめられた心についてああそうだったのかと腑に落ちたのは、先日、気の置けない年上の読書仲間とお酒を呑んでの帰り道、最寄りの駅を降りて人通りのほとんどない薄暗い夜道をぽつんとほろ酔い加減で歩いている真夜中のことでした。

私は、これからその「分かり感」を、言葉でなんとかお伝えしようと思います。うまくいけばいいのですけれど。

この歌は、茂吉の実母が亡くなったときのことを歌っています。実景としては、母が今まさに亡くなった瞬間があるだけです。そのとき自ずと歌人の目に、屋梁に燕が二羽並んでいるのが鮮やかに浮かんだのです。母を失った哀しみで我を忘れそうなときに、それが自ずから浮かんできた。だからそれをそのまま書いた。なんのはからいも、そこにはない。技巧のさかしらは、その痕跡をとどめていません。

ここには、茂吉のいわゆる「実相観入」の極限があると私は考えます。実相観入の要諦は、物の本質に迫るには、近代哲学における主観-客観の二項対立を表現の核心において、言いかえれば、身体性のど真ん中で超えなければならない、ということではないかと私は考えています。つまり、それほどに、われわれ近代人は、主観-客観の二分法に呪縛されてしまっているということです。

いわゆる客観的な描写として見れば、この歌は有りえない情景です。かといって、主観的な描写と呼ぶには、視覚的なリアリティがありありとし過ぎています。主観-客観の区分けの虚しい、彼我一如のあわいで垣間見た世界がそのまま三十一文字によって織り込まれているとしか言いようのないリアリティがここにはあります。

この世界像が表現として成立する上で、母を失った直後の茂吉の聴覚を燕の鳴き声が刺激していたことがきっかけになった可能性は否定できません。むしろ、大いにありえることでしょう。けれど、もし茂吉がそのことを表現しようと意識したのであったら、この母臨終の世界は、視覚と聴覚の交差したイメージで表出されたはずです。

ところが、冒頭の世界はそうではありません。あくまでも視覚的イメージの世界として表出されています。音はまったく聴こえてきません。そのことが、かえって茂吉の慟哭の念の深さを表現して余すところがありません。

先ほど「彼我一如のあわい」と申し上げたところを、視点の推移に着目して、作品に即しながら言い直してみましょう。

まず、上空のやや近距離の視点から「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて」と述べ、そのなかの最後の「て」という助詞を境にしてその視点のまますうっと遠ざかり、目の前で最期を迎えた母を看取る茂吉の視点に瞬時に転換して「足乳ねの母は死にたまふなり」と述べています。「て」の絶妙な使い方によって、上空からの視点のもたらす情景と地上における視点が目の当たりにする情景とがつなぎ目が分からないほどに無理なく重ね描きされています。

私たちには、明晰な意識なるものは、主観-客観をくっきりと分けたところに成り立つ、という俗信があります。しかし、それを信じることで得られる認識など、実は便宜的なものにすぎません。肉親の死とか最愛の人との離別とかいった、生きていくうえで避けることのできない実存の危機に瀕したとき、言いかえれば、かけがえのない存在の喪失体験が到来したときに、人を心の底から支えるものは、主客の区別を超えたところに成り立つさらに鮮明な意識なのだよと、この歌は静かに私たちに語りかけているようでもあります。通常時においても、実は、その意識が生の実感の核心に潜在していると私は考えています。昔の人は、それをズバリ天地有情と言い当てています。

それでも、人は問うでしょう。「のど赤き玄鳥ふたつ」とは、何のたとえなのか、と。私も、実は折に触れ問い続けてきました。

しかし、それは虚しい所業なのではないかといまは思いはじめています。「のど赤き玄鳥ふたつ」とは、斎藤茂吉という個のどのような意識のたとえなのかと問うことは、それこそ、近代意識のさかしらなのではないかと。それを問うことを、茂吉本人が実は望んでいないように私は感じるのです。

では、この表現には、何の意味もないのかと問い詰められたら、私は仕方なしにこう答えます。これは、実存の危機に瀕した茂吉に、ユングが「集合的無意識」と名付けたものが救いの手を差し伸べているのである、その救いの手を茂吉は「のど赤き玄鳥ふたつ」という映像として直観したのだし、「している」のだ、と。つまり、この二羽の「玄鳥」は、元型的イメージなのです。だから、これ以外のものではありえないという、不思議な絶対性がそこに付与されることになるのです。われわれは、集合的無意識をイメージとしてしか認識できないようになっているのですね。

なぜ「している」というのか。それは、集合的無意識には、過去も現在も未来も、さらには人称もないからです。そのとき茂吉が救われたということは、いまも茂吉は救われているし、これからも救われ続けるし、茂吉のみならずほかのだれそれもそうだということに、集合的無意識の性質上なるのです。

つまり、茂吉は三十一文字で「永遠」を記したのです。ランボーは「太陽とつがった海」「海と溶けあふ太陽」に永遠を見ました。それに対して、茂吉は「のど赤き玄鳥ふたつ」に永遠を見ました。どちらかといえば、大袈裟な言葉ぶりのない茂吉の永遠に私は軍配を上げたい気がします。また、松尾芭蕉が「山路来てなにやらゆかしすみれ草」と詠んだときに、彼は「すみれ草」に永遠を見ています。このつつましい味わいのある永遠も、私は好ましく思います。

この事実に、私は心を動かされます。というのは、人が実存の危機に直面したとき、人には自分を救済しうる潜在力がある、ということになるからです。

その潜在力を顕在化するために、人は心を無類に率直な状態にしておく必要がどうやらありそうですね。近代的個に避けようもなくつきまとう、こだわり・こわばりからなるべく精神的に自由になっておくということでしょう。人類は、これまでそうやって耐え難い苦難を乗り超えてきたのですから。『古事記』や『新約聖書』の世界を念頭に置くと、ついそういう言葉が出てきてしまいます。これらの書物は、人間だれしもが直面する生の危機に真正面から取り組んでいます。その深みから湧き出た言葉の痕跡が、これらの書物には、確かにあるのです。だからこそ、時代を超えて人々に読み継がれることにもなったのでしょう。
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パラオと尖閣諸島 主権を守ることについて (イザ!ブログ 2012・4・29 掲載分)

2013年11月13日 16時29分08秒 | 政治
産経新聞MSNが、次のような記事を2012年4月4日に報道しました。

パラオ当局が中国船に発砲 漁民1人死亡、違法操業か

4日付の中国紙、新京報によると、太平洋の島国パラオ付近の海域で3月30日、違法操業を取り締まっていたパラオ当局が中国漁船に発砲し、漁船に乗船していた中国人1人が死亡。パラオ当局は漁船に残っていた中国人5人を拘束した。

パラオ当局は、自国海域での違法操業を阻止するための発砲と説明。詳しい状況は不明だが、同紙は「(パラオ当局と漁船との間で)激しい衝突」があったとしており、取り締まりに対し、漁船が激しく抵抗した可能性がある。

同紙によると、違法操業の漁船を上空から捜索していたパラオ当局の航空機が墜落し、当局者ら3人も行方不明になっているという。

パラオは台湾と正式な外交関係を持っており、中国との国交はない。(共同)


次は、その続報です。

中国漁船船員25人が釈放へ パラオ海域で違法操業 

14日付の中国各紙によると、太平洋の島国パラオ付近の海域で3月末、違法操業していたとして同国当局に拘束された中国漁船の船員25人の「和解協議」がまとまり、1人千ドル(約8万円)の罰金を払うことなどを条件に釈放されることになった。

これまでの報道によると、自国海域での違法操業を取り締まっていたパラオ当局が中国漁船を追跡、船員拘束時に当局側の発砲で船員1人が死亡した。

パラオは台湾と外交関係を持ち、中国と国交はないが、船員側はパラオ政府との和解で罰金と17日間の拘禁を受け入れたという。(共同)


これは、中国漁船の領海侵犯行為に対して、パラオ政府が国際法の常識に則って毅然と外交的対応をしたという記事と読めます。

パラオは日本と浅からぬ縁があります。Wikipediaを参考に簡単に振り返ってみましょう。

第一次世界大戦後、パラオは日本の委任統治領になりました。首都のコロールに置かれた南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が執政の中心でした。ドイツに代わり日本の統治が始まってからは、学校や病院、道路など各種インフラストラクチャーの整備も重点的に行われ、コロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させていきました。また、日本語による学校教育が現地人に対しても行われるようにもなりました。ただし、本科3年補習科2年の課程であり、日本人子弟とは学校が別でした。現地人の教科書編纂のため南洋庁の書記として赴任していた中島敦(あの『山月記』で有名な作家です)は、現地住民がおかれた状況を悲観的に分析した手紙を家族に送っています。現地をモチーフにした小説も書いています。

第二次世界大戦が始まると、コロールは海軍の重要な基地として北西太平洋方面の作戦拠点となりました。そのため、西方のフィリピン戦線の状況と連動して連合軍の攻撃対象となり、1944年にはペリリューの戦いなどで日米両軍に多くの戦死者を出しました。なお、ペリリュー島の戦いではパラオ民間人の死者はありませんでした。しかし、日本国籍を持たない現地人であっても、パラオ挺身隊などに軍属として動員されることがありました。

このように、大日本帝国の動向に左右された悲しい過去があるものの、パラオは世界でも稀に見る親日感情の強いお国柄であるそうです。日本の後にパラオに入ってきたアメリカがパラオの人々から日本の委任統治時代の記憶をやっきになって削除しようとしても、彼らの親日感情は地下水のように流れつづけたのです。島国人(びと)同士、理屈抜きに呼吸の合うところがあったのかもしれません。ビンタを張られることもしばしばあったでしょうに、不思議なことではあります。

パラオの人口は21,000人です。経済規模は取るに足りません。方や、中国の人口は13億人です。経済規模は、昨年日本を抜いて世界第2位です。数十年後にはアメリカを抜いて世界の頂点に達する勢いです。

みなさんは、下手をすれば見過ごされてしまいそうな上の記事をお読みになって、どう思われましたか。

私は、三つのことを考えました。

一つは、国家主権の本質についてです。

主権は、もちろん翻訳語です。英語はsovereignty(ソブリンティ)で、その原義は「王権、もしくは、何ものにも侵されない絶対的権利」です。 したがって、本来は国家にしかあてはまらない言葉なのです。しかるに、ホッブス・ロック・ルソーの思想的流れを経て民主主義のパラダイムにいわばむりやり組み込まれることになったわけです。そこで、主権には複数の意味が生じてくることになります。普通三つの意味があるとされます。

一つ目。国家主権というときの主権は、「統治権」すなわち強制力を持った国家権力そのものという意味で、ここからその及ぶ領域(領土・領海・領空)が画されることになります。

二つ目。主権国家というときの主権は、「対外的独立性」すなわち国家権力の最高独立という意味で、ここから、国際政治における内政不干渉の原則が生じてきます。歴史的には、ヨーロッパの神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から1648年にかけて戦われた三〇年戦争後の1648年のウェストファリア条約で主権国家体制が確立されました。

三つ目。君主主権・国民主権というときの主権。これは、「国の政治の最終意思決定権」すなわち、国家の政治を最終的に決定する最高の力という意味です。

これら三つの意味をきちんとそなえたとき、はじめてその国には主権があるということができるわけです。逆にいえば、そのうちのどれが欠けていても主権が損なわれていることになりましょう。

ウサギが巨象に立ち向かうようにして、領海侵犯を犯している中国漁船に毅然として銃口を向けたパラオ政府は、命がけで主権を守っている国家と評することができるでしょう。巨象の力まかせの仕返しを恐れてひるんでしまったらできることではありません。独立国家としてやるべきことを貫くには、ときには命を賭ける必要があることを我々は銘記すべきです。「船員側はパラオ政府との和解で罰金と17日間の拘禁を受け入れた」という外交的な成果に関して、パラオ政府と国民は胸を張ってしかるべきです。いつもいつも綺麗事で済まそうとし、国民主権というお題目を唱えていさえすれば主権を守れるほどに、リアルな国際政治は甘くありません。国際政治は、主権と主権とがダイナミックにぶつかり合う闘争の場であるという側面をゆめゆめ忘れてはならないでしょう。

考えたことの二つ目。パラオ政府の勇気ある振る舞いに、私は戦前の日本の幻影を見る思いがしました。つまり、大和魂の幻影を、です。これは、アメリカにボロ負けし、GHQの占領政策を経て、経済的繁栄を手にした日本が、いつの間にか忘れ果ててしまったものです。私が抱いた幻影は、根拠のないものではなさそうです。

なぜなら、戦前の日本のパラオにおける委任統治政策は、ビンタを張るなど乱暴な側面が確かにありましたが、本気でパラオの人々に日本精神を叩き込もうとするものであったことは間違いなかったからです。パラオの人々の海洋民族独特のこだわりのなさと懐の深さと温かさとによって、日本の峻厳な指導の核心はどうやら彼らの心に深く根付いたようです。念のために申し上げますが、私が「日本はパラオに良いことをした」などという寝言を言おうとしていないことはお分かりいただきたい。

考えたことの三つ目。それは、一昨年の尖閣諸島周辺での中国漁船衝突事件にまつわることです。一昨年の9月7日、尖閣諸島周辺の日本領海内で違法操業の疑いのある中国漁船が海上保安庁の巡視船のたびたびの停船命令に応じず逃走、さらに巡視船の舷側に大胆にも衝突を繰り返したため、同庁はやむをえず公務執行妨害容疑で漁船の船長を逮捕。しかし、24日になって那覇地検は突然、処分保留のまま船長を釈放。菅直人首相と仙谷官房長官はあくまで「検察の判断」と言い張りました。一方、中国側は船長釈放後も強硬姿勢を崩さず、新たに「謝罪と賠償」を日本に求めるなど、日中関係が悪化しました。

当事件をめぐる民主党執行部対応の不格好さ、臆病さ、言い訳がましさ、見苦しさ、矮小さ、小狡さ、卑怯さをこれでもかこれでもかと嫌になるほど見せつけられて、私はうんざりするのを通り越してややグロッキー気味になったのを覚えています。

その不快感は、それまで強硬姿勢を崩さなかった前原元外相が、9月23日にクリントン国務長官の「尖閣諸島が米側の日本防衛の義務を定めた日米安保条約第5条の適用対象になる」との見解を発表した翌日にくだんの船長を処分保留のまま釈放したときに、頂点に達しました。多くの方がそうだったのではないでしょうか。

つまり、日本の、統治権としての主権を親分のアメリカさまが守ってくれると明言してくれたので、ホッとしてそれまでの経緯をあっさりと忘れ、さっさと面倒事を片付けてしまう手つきで幕を引こうとした民主党首脳に対して、なんとも形容しがたい不快感が陰にこもるようなかたちで腹の底にわだかまってしまったのでした。

国家のディグニティ(厳粛性・犯しがたさ)もなにもあったものではありません。国家の対外的ディグニティを損なうことは、国益の毀損の最たるものであることを民主党執行部は思ってもみたことがないのでしょう。若いころから反権力思想で頭を固めてしまった人間たちが権力の中枢を占めることの恐ろしさを、私はあの事件を通じて思い知ったのでした。

ここで見逃せないのは、「独立国家としての主権を強国に守ってもらう」という観念の混乱ぶりです。主権は、その定義上あくまでも自国で守るべきものです。どこまで突き詰めてもそうなのです。それを強国から守ってもらうという構えは、実は厳密に言えば主権の放棄を意味します。つまり、民主党執行部は、2010年9月24日に実質的に主権放棄の宣言をしたのです。まあ、なんと珍しい記念日でしょう。ここで、当時の民主執行部の気持ちになって一首。〈「この策がいいね」と米国が言ったから9・24は安心記念日〉字余り失礼。俵万智さん、いい歌を変なものにしてしまってすみませんね。

日本国憲法は、国民主権を規定しています。だから、統治権としての主権の究極的な担い手は、ほかでもない国民自身なのです。だから、主権の存する日本国民は、統治権を守るためにいかなる自衛システムを確立するかについて、我が事として考え抜く責任があります。考え抜くばかりではなく、主権を守るために体やさらには命をも張る局面だってありうるのです。そのことの無言の覚悟が、対外的ディグニティの究極的根源になります。民主主義を担うことの本質には、そのような過酷な側面があることを、私は、パラオの人々の勇気ある行動をまぶたに浮かべながら、想起します。想起せざるをえません。

ところで、昨日の4月28日がどんな日なのか、みなさんご存知ですか。実は、1951年に調印されたサンフランシスコ講和条約が翌年に発効した、その発効の日付けが4月28日なのです。つまり、戦争状態が最終的に終了し、GHQによる占領が終わり、日本の主権が回復されたおめでたい日なのです。占領というのは、国際法上戦争状態の継続を意味するのですね。学校の教科書のように、GHQのおかげで日本は民主化され平和憲法を手にできた、などと手放しで喜んでいる場合ではありません。

統治権と対外的独立性と最終意思決定権とが、つまり主権の全てが奪われているさ中で、それを奪っている当の相手(つまりGHQ)から、お題目としての国民主権が日本国民に与えられたことを、また、それが民主主義の勝利として肯定的に喧伝しつづけられてきたことを、私は、歴史の逆説として記憶に刻み込みたいと思っています。念のために申し上げておきますが、私はここで反米の情念を吐露しようとしているわけではありません。そんなものは、犬にでも食われろと思っています。誤魔化さずに、なるべく正確に正直に自己認識をすることが、日本の有りうべき未来に資すると信じているだけです。

最近、東京都による尖閣諸島の買い上げ問題が連日紙面を賑わしています。私がこの問題で一番注目したいのは、一般国民の間から、続々と寄付の申し出がなされていることです。

この現象には、民主党執行部の尖閣諸島問題をめぐる不甲斐ない対応に対して、国民の心にたまりにたまっていた不満が爆発しているという側面があるのはそのとおりです。

しかし、それにとどまらない積極的な側面が感じられるのです。一言でいえば、それは、先ほどのべた、国民の、主権を巡る当事者意識がはっきりとした形で像を結んでいることです。日本国民の少なからぬ部分が、統治権としての主権の問題をやっと我が事として切実に具体的に危機感を持って考え、行動し始めているのですね。例によって、大手マスコミは、国民の素直な思いの噴出を防ごうとしてか、中国政府・中国国民の高圧的な言動の映像をしつこく流して、脅しの材料に使おうとしているみたいですが。どこまでもタチの悪い奴らです。中国人がではなく、日本のマスコミが、ですよ。
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