美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

長谷川幸洋氏のツイート 消費増税議論の今後を占う (イザ!ブログ 2012・6・19 掲載分)

2013年11月20日 20時58分03秒 | 政治
東京新聞論説副主幹・長谷川幸洋氏は、一連のツイッターで、消費増税関連法案をめぐるここ数日の動きの核心・今後の動向に関してなかなか鋭いことを発言しています。

普通の人と官僚の違いはなにか。普通の人は「法律は守るもの」と思ってる。官僚は「法律は自分がつくるもの」と思ってる。国会議員はどうかというと「あ、法律をつくるのはオレだったのか」と思ってる。記者は「法律はできる前から宣伝するもの」と思ってる。ここがなかなか理解されない。

"普通の人は「法律は守るもの」と思ってる"とは、一般国民が、消費増税法案が今国会で可決されたらもうどうしようもないと思い込みがちなことを言っているのでしょう。一度成立した法案でも、国民の選挙での意志表示によって凍結することができるのを忘れがちなのです。

官僚たち、とくに消費増税に関して財務官僚たちは、自分たちが行政府の「公僕」にすぎないことを忘れて、自分たちに立法権があると思い込んでいる。それが、「官僚は「法律は自分がつくるもの」と思ってる」の意味。「国会議員はどうかというと「あ、法律をつくるのはオレだったのか」と思ってる」の言葉は、国会議員たちに自分たちに立法権があることの自覚が薄い現実を指し示しています。「記者は「法律はできる前から宣伝するもの」と思ってる」。これは、大手5紙とその系列テレビによる〈消費増税やむなし・財務再建まったなし〉の大合唱に対する皮肉です。

選挙とその結果である国会は政策に関して、基本的にオールマィティ。増税だろうが増税凍結だろうが、はたまた減税だろうが、なんでも出来ます。法律さえ通せば。そういう基本的なことを忘れてる人が多い。官僚依存政治の弊害。

主権が自分たち国民にあることの自覚が、民主主義の核心であると長谷川氏は述べているのではないでしょうか。その意味で、立法権を実質的に官僚に委ねる官僚依存は、民主主義と真っ向から対立します。それをふまえたうえでの政治主導は、民主主義の根本義であると言えるでしょう。

政治の本当の戦いは突き詰めれば、国会の採決にあるのではなく、ほぼ2年半に一度ある選挙です。多くの国民に納得感がない政策は結局、うまくいかない。「決められない政治」だから悪いのではなく、納得感のない政策はダメ。世論が大事。「決められればいい」という話ではない。

「決められる政治」という野田内閣のキャッチフレーズの空疎さにはほとほと参ります。国民の納得感を伴わないこと、国民を地獄に突き落とすようなことをバカみたいにどんどん決めてもなんの意味もありません。野田さんは、脳みそのくり抜かれた猛牛みたいで本当に困ってしまいます。

永田町の情勢に目を奪われると、増税が決まったかのように見えるが、政治の方向を決めるのは結局、世論の大きな潮流。暮らしが良くならないどころか、悪くなるのに増税賛成が増えるわけがない。それでも増税OKというのは、よっぽど豊かな人か増税賛成論を唱えると自分にプラスになる人たちだろう。

まったくもってその通りです。消費増税法案の成立は国民に将来不安の増大をもたらすので、実際に増税が実施される前から景気にマイナスに働くのではないかと私は思っています。増税実施前の駆け込み需要を相殺してあまりあるのではないでしょうか。それほどに、今の日本の経済状況はヒドイのです。これが、国民の実感です。

景気条項の扱いが焦点になっているが、基本はあくまで景気が本当に回復するかどうか。欧州情勢の混迷をみると、相当不透明。日本は日銀のおかげでデフレ脱却が見込めず、国内情勢もダウンサイドリスクが高い。電気料金値上げもある。それで消費税、本当に上げられるか。選挙カーで増税演説できるか。

景気条項については据え置きが決まりました。削除されるよりはよっぽどマシですが、これはあくまでも「努力目標」であって義務ではありません。自民党は当条項の義務化を民主党に対して求めるべきだったのです。それとは真逆に削除を求めたことは、同党の経済成長路線が官僚主導という本音の表面に塗られたメッキに過ぎないことを図らずも自ら暴露してしまいました。「選挙カーで増税演説できるか」との長谷川氏の問いかけはごもっともです。しかし、先ほどテレビで、若手の民主党議員が自分の選挙区で選挙民に対して消費増税の必要性をこれから訴えていくと眦(まなじり)を決していました。その馬鹿面に唖然としてしまいました。

自公民が談合増税派であることがはっきりしたので、次の総選挙と参院選は談合増税派vs増税見直し派の戦い。原発推進派vs脱原発派の戦いでもある。この対立軸はきわめて分かりやすい。

これをちがった角度からまとめれば、来るべき総選挙は、「官僚依存派VS国民経済派」の闘いです。ただし、国民経済派からすれば、短兵急な脱原発は国民経済に打撃を与えるので、脱原発依存に向けての長期的な着実な展望を示す必要があります。

今回、消費税引き上げ法案が決まれば、もう消費税は焦点にならないという話もあるが、とんでもない。世論調査では半分以上が引き上げに反対か慎重。焦点は世論が決める。今回、引き上げ法案が可決成立しても、次は増税凍結法案が必ず焦点になるだろう。

私もそうなるのではないかと思っています。大手マスコミは、それが焦点にならないように躍起になって消費増税をめぐるウソ報道をさらに膨大に垂れ流すことでしょう。

消費税引き上げの第一弾は2014年4月。衆院の任期満了は13年8月29日、参院は同じく7月28日なので、それまでには必ず総選挙と参院選がある。引き上げ実施まで少なくとも7カ月あって、その前に臨時国会も通常国会もあるだろう。

この日程は頭に叩き込んでおきたいものです。

マスコミが一斉に同じようなキャッチフレーズを言い出すときは、たいてい舞台裏に官僚がいる。今回の「決められない政治」というのは、その典型。思考停止に陥っているとこうなる。

これについては、元財務官僚の高橋洋一氏がツイッターで興味深い指摘をしています。

大新聞が似たような論調の時には、だいたい後ろに官僚がいる。大蔵省にいたときの話。課長クラス以上に対し各紙論説クラスやコメンテーターに根回してどのように書かせるか、言わせるかを競わせた。出世競争だから各課長は必死。昨日の「決められない政治からの脱却」の大合唱はそうかもね.

各紙論説クラスや各テレビ局コメンテーターに根回してどのように書かせるか、言わせるかを競わせたと書いた。明日はその結果の「反省会」があるはず(といっても正式会議でない)。うまく書かせたり、言わせた課長は上向いているけど、失敗した課長は下向いている.

高橋氏には、財務官僚の、マスコミや御用学者との関わり方についての生々しいツイートがあります。必見ものです。彼の批判には日本人離れした辛辣さがあります。

マスゴミを官僚が洗脳する方法。1.出向くこと(取材先にいくことが多いマスゴミにいくとそれだけで先方は恐縮)、2.内部資料といって資料をもっていく(マスゴミはデータを調べられないから喜ばれる。内部資料はマスゴミ配布用)、3.メール、携帯電話を教える(取材源の確保になって喜ばれる).

御用学者に官僚が仕立てる方法。1.審議会、勉強会委員にする(先生のご意見が聞きたいとおだてる)、2.資料、メモだし(研究サポート)、3.顎足海外出張(ファーストグレードアップ、現地アテンドなど)、4.弟子の就職斡旋(公的機関紹介)、5.研究費や委託調査費の優先配分.

ポチマスコミと御用学者がそろうと、それらの相互協力関係にも、官僚は一役買う。ポチマスコミに御用学者の紹介などの完成。今の情報の大半がこのトライアングルから生み出される.

今回の民自公の協議でそっくりそのまま先送りされた社会保障懸案事項と歳入庁の設置問題については、「国民会議」なるもので話し合うことになっています。この会議が、高橋氏の言う「官僚、ポチマスコミ、御用学者の鉄のトライアングル」から生み出されるものであることは間違いないでしょう。そういう視線で、次の長谷川氏のツイートを眺めたい。

国民会議とか有識者会議とか、やめてほしいね、そういう「もっともらしい権威」を装うのは。国民会議なんて言ったって「自公民で事前に合意を図る」って3党合意の確認書に書いてあるじゃない。それで、どこが「国民」の会議なの?「自公民会議」でしょ。そういう本質を言わないマスコミも悪い!
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2012・6・14「消費大増税に反対する超党派国民集会」報告 (イザ!ブログ 2012・6・16 掲載分)

2013年11月20日 20時36分57秒 | 政治
地下鉄永田町駅から歩いて5分。憲政記念館で、同集会が午後6時から開催されました。私は一時間前に到着して時間的な余裕があったので、着席した後、消費増税関係の情報をプリントアウトしたものに結構たくさん目を通しました。上念司氏の「デフレ下の増税は百害あって一利なし ~増税しても財政再建できない不都合な真実~」がよくまとまっていて出色であると思いました。これは、前日、上念司氏が衆議院社会保障・税特別委員会公聴会で公述人として発言したときに場内に配ったレジュメです。その時の模様の録画と資料をプリントアウトするためのアドレスとは以下の通りです。説得力のある素晴らしいプレゼンです。

【YouTube】www.youtube.com/watch

【ニコ動】www.nicovideo.jp/watch/sm18083762

【資料】ow.ly/bxNwz

着席してすぐに、場内係の女性が「消費談合阻止」のプラカードを持ってきました。適当なタイミングで掲げて欲しいとのこと。各テレビ局のカメラマンたちもすでにたくさん来ていました。会場をぐるりと囲むように「大増税阻止!!」の赤字の大きなのぼり旗が10数本。

開会時刻の午後6時前に、会場は満席状態に。座りきれない参加者は、通路で立ち見をしました。さらには、会場の外に300名ほどの参加者が、スピーカーから聞こえてくる場内の模様に耳を傾けました。当日集まった人々の消費増税に対する危機感・真摯な思いがひしひしとこちらに伝わってきました。国会議員の参加者総数は、代理出席を含めて152名という場内アナウンス。

登壇した方々の名前と肩書きとコメントの一語要約を掲げておきます。順不同・敬称略であることをお断りいたします。

まずは、政治家以外の方々が登壇しました。彼らは、良心的な企業家・知識人・言論人・ジャーナリストなので、名前を覚えておきたいものです。

・清水信次(しみず・よしつぐ):日本スーパーマーケット協会会長。「実施の時期を誤っている。国民生活が立ち行かなくなる。これでは国を滅ぼす」

・菊池英博(きくち・ひでひろ):シンクタンク日本金融財政研究会所長 「財政危機は大ウソ。財源は豊か。」 http://www.worldtimes.co.jp/special2/kikuti/100824.html
・湖東京至(こと・きょうじ):元静岡大教授・税理士。「消費増税は、不公正税制なので許せない」 http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber/20110620_01.html
・上念司(じょうねん・つかさ):評論家「誤った情報に基づく政策は国家を滅亡に追いやる。今は近衛内閣末期状態。増税しても税収減なので百害あって一利なし」渾身の熱弁でした。

登壇したが演説はしなかった方。

・倉山満(くらやま・みつる):国士舘大学講師。『検証 財務省の近現代史』(光文社新書)が注目を集める。http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=884
・田村秀男(たむら・ひでお):産経新聞論説委員。5大新聞のなかでただ一人消費増税反対の論陣を張り続けている孤高のジャーナリスト。ご自身のブログ http://tamurah.iza.ne.jp/

・ロバート・フェルドマン:モルガン・スタンレーMUFJ証券経済調査部部長。この人が何故登壇したのか、ちょっと考えてみる必要があると思っています。

また、経済評論家・植草一秀氏がメッセージ参加しました。

次に政治家。

・鳩山由紀夫(はとやま・ゆきお):民主党元党首「国民とやらないと約束したことはやってはならない」そのとおりだが、今回はぜひ初志貫徹をしてほしい。育ちの良い鳩山さん、騙されんなよ。

・渡辺喜美(わたなべ・よしみ):みんなの党党首「いまの民主党はできそこないの自民党政権」演説の上手な人。

・内山晃(うちやま・あきら):新党きずな代表。民主党反執行部派が、民主党に造反した内山グループを受け入れたことは、意味深なのではないかと思われます。

・松木憲公(まつき・けんこう):新党新党大地・真民主 代表代行兼幹事長。小沢命の人。政権交代時、北海道の民主票をかき集めた鈴木宗男の留守を預かる。

・志位和夫(しい・かずお):日本共産党幹部会委員長「我が党はいま『是々非々』を党是とするが、いまの民主党には「非」しかない」。私はこれまで一度も共産党に票を投じたことがありませんが、当日の志位氏の演説がピカイチであったことを認めざるをえません。恥ずかしながら、私は不覚(?)にも感涙してしまったほどです。スゴイ才能。

 演説筆記 http://www.shii.gr.jp/pol/2012/2012_06/E2012_0615_1.html
・福島瑞穂(ふくしま・みずほ):社民党党首。彼女もやはり演説のプロ。「消費税を増税すれば生活が苦しい人たちから悲鳴が上がる」聴衆の心を巧みに掴みます。

・亀井静香(かめい・しずか):前国民新党党首。「いま傘ハリ職人をやっております亀井です」つかみバッチリ。この人もあの独特の語りが至芸になっています。おばちゃんたちの人気が高い。

・田中康夫(たなか・やすお):新党日本党首。「信なくば立たず」大いに熱弁をふるいました。レトリック過剰の語りは、小説家出身だけにしかたないのかなぁ。石原都知事を見習って、もうひと皮剥けましょう。躍進期待。演説筆記http://www.nippon-dream.com/

大会当日を狙うようにして、週間文春に醜聞を報じられた小沢一郎議員が来るのかどうか、ちょっと気がかりだったのですが、開会時刻の直前にご登場でした。すると、会場から悲鳴に近い歓声が上がりました。心からの拍手の嵐も巻き起こりました。ジャーナリズムから袋叩きにあいつづけている小沢氏に対する庶民感覚の判官贔屓がサイレント・マジョリティの間に生じているのだと思います。マスコミでは、今回の醜聞で小沢の政治生命は終わり、というムードが漂っていますけれど、それは明らかに違います。私個人としても、消費増税法案が廃案に追い込まれるまでは、なにがあろうと小沢氏に死んでもらっては困ると思っています。

政治家としては、他に、宮崎岳志議員(民)、金子洋一議員(民)、山田正彦議員(民)、谷亮子議員(民)、阿部知子議員(社民)、浅尾慶一郎議員(みんな)らの顔が見受けられました。

大会の最後に4人の議員によって読み上げられた「決議文(案)」を掲げておきます。

野田政権は、迫った会期末までに消費税大増税法案の採決を急ごうとしている。

これは、「いまこの国会で採決する必要はない」と」いう国民多数の世論に背く事であり、今、何よりも先に政治が全力を挙げて取り組むべきことは、東日本大震災からの復旧・復興、福島第一原発事故の収束・避難者の帰還であり、国会がこれらに全力で取り組むことである。

やるべきことをやらずして、このデフレ・不況の時に十分な議論もないままの消費大増税の採決には反対する。

与野党協議という議事録もない密室での「内向き、下向き、後ろ向き」な議論ではなく、私達は国民に開かれた希望の持てる議論をしなければならない。

社会保障制度、消費大増税という国民生活の根幹にかかわる問題を、民自公三党の一部の関係者による協議で結論を得るのではなく、すべての政党、国民のあらゆる層の意見を聞きながら慎重に進めることが大事である。

国民生活産業・消費者団体連合会、中小企業団体をはじめ全国から出席した諸団体と超党派の国会議員有志の意志としてここに表明するものである。

                                                  この時期の消費大増税採決に

                                                  反対する超党派国民会議 一同


ちなみに、自公の議員さんで当大会への出席を検討した方もいらっしゃるそうですが、党の縛りがキツくてできなかったとのこと。その手の泣き言に、私はまったく同情しません。国家・国民の運命よりも党内事情・自己保身を優先する議員さんに敬意を表することはできませんし、そういう方は、なんだかんだと理由をつけて結局は国民を裏切るものと思われますから。


*このころ、反消費増税の熱気は確実にありました。これを礎にして野党再編を図るべきだったのでしょう。そう考えた政治家はいたのでしょうが、上手くいきませんでした。結局、国民の反消費増税の思いを着実に吸収できる「健全野党」は誕生しなかったのです。経済を広く世界的な視野で見渡して(グローバリズム・バンザイじゃないですよ)、まっとうな経済政策にまとめあげていくことができる人材が不足しているのでしょう。(2013・11・20 記す)
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『不思議なキリスト教』(橋爪大三郎×大澤真幸)を読む (イザ!ブログ 2012・6・12、15掲載分)

2013年11月20日 19時01分46秒 | 宗教
先日(5月27日(日))、自分自身いつも参加している「しょ~と・ぴ~す」という読書会で『ふしぎなキリスト教』を取り上げました。著者ご本人たち、つまり橋爪大三郎氏と大澤真幸氏も参加、という超豪華版の読書会です。その上、一般参加者として哲学者・長谷川三千子氏、社会学者・菅野仁氏の顔も見受けられました。主宰者の由紀草一氏と小浜逸郎氏が参加したのはもちろんのことです。参加者は総数二八名。いつもの三倍程度です。

レポーターのFさんが、「意識レベルの信仰」と「態度レベルの信仰」という本書のキーワードについてのごく短いレポートを読み上げたのを受けて、橋爪・大澤両氏が一神教についてのコメントをしました。

橋爪氏いわく。ユダヤ教・キリスト教の信仰の特徴は、向こう側(神)とこちら側(人間)をきっちりと分けること。それが一神教の本質。それゆえ、一神教はドグマを持つ。ドグマは、一般的には「教義」と訳されるが、「独断」とマイナスの意味にも訳されるように、日本人にとっては違和感を覚えるもの。だから、一神教は日本人にとって縁遠いものになる。マルクス主義もその中核にドグマを持つ。だから、これも日本人にとって縁遠い。キリスト教やマルクス主義が日本で普及しないのは、致し方がない。また、マルクス主義は、無神論を標榜しているけれど、その理論的なフレームはキリスト教から借用している。ゲームの「上がり」を神の国にするか共産主義社会にするかの違いがあるだけ。

大澤氏いわく。信じているとはどういう状態か。本格的なキリスト教徒であるほど、自分がいかに不信者であるかを語ろうとする。その真摯さが周りの信者仲間たちの心を揺さぶる。単純に信じている姿より、信と不信とを突き詰める方が、信が深い印象を与える。そこがキリスト教の信の面白いところ。キリスト教成立史において決定的な役割を果たしたパウロが、その面白さを象徴している。ローマ市民権を持つパウロは、キリスト教徒になるまでは、熱心なユダヤ教徒として当時の新興宗教のキリスト教徒を片っ端から捕まえては尋問し、弾圧していた。その過程で、キリスト教を深く知ることになり、次第にキリスト教に傾斜し、精神的なバランスが保てなくなったところでイエス・キリストの「会って」しまい回心することになる。教団としてのキリスト教の事実上の創始者パウロ自身、信と不信とを徹底的に突き詰めることによってキリスト教徒になった。

だいたいそんなお話で、会が始まりました。

橋爪氏は、高性能の精密機械のように、どんな質問に対しても、きっちりと応答します。これが、質問者の「健全な」(?)攻撃性を誘発するところがあって、橋爪氏が現れるところ、いつも質問の洪水です。その日もそうでした。それに対して、きっちりきっちりと答えられ続けると、それを聴き続ける方では、なんとはなしに身体の隅っこの方で小首をかしげ気味の自分が気になってくる。それがまた質問を誘発することになるのです。

対する大澤氏は、どこか高速度の飄逸な独り言の趣のある語り口。橋爪氏がスパっと断言する頭括型の語りをするのに対して、大澤氏は、ああでもないこうでもないと自問自答しながら右に左にゆれながら思考を進めるタイプ。私は本書以外に大澤氏の著書を読んだことがないので断言はできませんが、そういう印象を受けました。

この二人それそれの対照的な持ち味がちょうどほどよくブレンドされたので、本書は、この手の「堅め」の本としては30万部という驚異的なベスト・セラー本になったのでしょう。30万部売れたことについては、後ほどにふたたび触れましょう。ちなみに、20年前であれば、この本は300万部売れたことになります。というのは、当時と今とではベスト・セラーの桁数が一桁違うそうですから。これは、出版社の編集者たちから直になんども伺ったことなので間違いないものと思われます。活字離れ、長引くデフレ不況、才能の他業界への流出。原因はそんなところでしょうか。

議論を整理する意味で本書から引用しましょう。

ユダヤ教にイエス・キリストが存在しないのは当然として、キリスト教を視野に収めているイスラム教にも、イエス・キリストという要素は存在しない。(中略)とすると、イエス・キリストというのは何なのか。それをどういうふうに理解すべきなのか。あるいは、宗教社会学的にみて、それがどういうふうに理解されてきたのか。ここが「ふしぎ」の源泉です。(by 大澤)
では、そもそもキリスト教がなにゆえ問題になるのか。

「われわれの社会」を、大きく、最も基本的な部分でとらえれば、それは、「近代社会」ということになる。それならば、近代あるいは近代社会とは何か。近代というのは、ざっくり言ってしまえば西洋的な社会というものがグローバル・スタンダードになっている状況である。したがって、その西洋とは何かということを考えなければ、現在のわれわれの社会がそういうものかもわからないし、また現在ぶつかっている基本的な困難が何であるかもわからない。それならば、近代の根拠になっている西洋とは何か。(中略)その中核にあるのがキリスト教であることは、誰も否定できまい。(中略)近代化とは、西洋から、キリスト教に由来するさまざまなアイデアや制度や物の考え方が出てきて、それを西洋の外部にいた者たちが受け入れてきた過程だった。(中略)いまある程度近代化した社会の中で、近代の根っこにあるキリスト教を「わかっていない度合い」というのをもしIQのような指数で調べることができたとしたら、おそらく日本がトップになるだろう。(中略)日本があまりににもキリスト教とは関係のない文化的伝統の中にあったことがその原因である。」(by 大澤)

ここが、本書の基本的着眼点・問題意識です。引用をさらに続けましょう。

日本は、キリスト教についてほとんど理解しないままに、近代化してきた。(中略)現代、われわれの社会、われわれの地球は、非常に大きな困難にぶつかっており、その困難を乗り越えるために近代というものを全体として相対化しなければならない状況にある。それは、結局は西洋というものを相対化しなければならない事態ということである。(by 大澤)

これらの基本的着眼点・問題意識は、橋爪氏のものでもあります。そこで意気投合して本書を作ることになったと本人が「あとがき」で言っているのだから間違いありません。

実は、私はこれらの基本的着眼点・問題意識をせいぜい半分くらいしか共有できない者です。だから、一方では本書の問答を楽しみながら、他方では本書との距離を感じつづけもしました。そのことについては、「その2」で述べましょう。今回は、読書会の模様をお伝えするのが主眼ですから。

読書会の問答で一番印象に残っているのは、日本人にとってキリスト教は本当に「ふしぎ」なのかをめぐってのものです。小浜逸郎氏と『吉本隆明 異和』の著者・松崎健一郎氏と長谷川三千子氏の三人が少しずつニュアンスを変えながら、「それほどふしぎとは言えないのではないか」という、本書に対する反論を試みました。

小浜氏によれば、法然・親鸞の浄土思想は、ほとんど一神教に近いとのこと。私とのメールでのやり取りを公開したものの中に、そのことに言及したものがあるので、再録します。

私は最近、親鸞をやっていて、つくづく思うのですが、鎌倉仏教、ことにひたすら称名念仏を勧める浄土教のそれは、限りなく一神教に近いという印象を持ちます。偶像崇拝に対する否定的な言及もあるし、依拠している大乗仏典の浄土三部教のうち、ことに観無量寿経において浄土のすばらしいありさまを五感による想像力を駆使して絢爛と描き出したシーンに対しては、法然も親鸞もほとんどまったく興味を示していないのですね。阿弥陀様への深い信仰心だけが、唯一のよりどころです。私には、この絶対信仰のあり方は、イエス、ルター、カルヴァンなどと共通していると思えてなりません。

これは不思議といえば不思議で、というのは、遣唐使廃止以後の平安の世では、鎖国に近い状態が三百年も続き、あまり文化の東西交流が盛んな時代ではなかったにもかかわらず、その閉鎖的な日本で仏教が独自の発展を遂げ、その究極的な結果として末法思想の極限としての法然・親鸞の登場となったわけです。イエスの登場、原始キリスト教の成立と時を隔てること、およそ千年です。


そういう主旨のことを改めて述べつつ、小浜氏は橋爪氏に「だから、ことさらにキリスト教の「ふしぎさ」を強調するのはあまり適切とは言えないのではないか」と問い質(ただ)しました。

それに対して、橋爪氏はおおむね次のように述べました。

仏教は言ってみれば、唯物論である。自分たちを取り巻いている宇宙の法則を、どこまで徹底的に認識したかが勝負であって、それを徹底的に認識した人が、仏(ブッダ)と呼ばれる。だから、仏といえども、宇宙を支配する法則を変えることはまったくできない。そうした法則をありのままに徹底的に認識し、自分と宇宙が完全な調和に到達下した状態が理想なのである。だから、仏教には、人間と隔絶した神の存在などありえない。神々の存在を否定するわけではないが、神々よりずっと偉大なブッダという存在がいる。神々はブッダの脇役で、ブッダの偉大さを賛美するだけ。神秘はどこにもない。一神教の神のように世界を創造するなんてこともない。それが、仏教の基本。そこから唯一神が生じる可能性は基本的にない。たまたま、仏教に一神教に似た傾向が現れたからとしても、それは一神教とは根本的に似て非なるものである。

そこで、松崎健一郎氏が親鸞の和讃を引き合いに出して、「親鸞の絶対他力においては、煩悩具足は信仰さえも阿弥陀仏から与えられるものという考え方がなされている。だから、仏教の基本が絶対自力であるからといって、それが一神教に限りなく近づく可能性までも否定するのはまずいのではないか」という意味の発言をしました。

さらに、長谷川三千子氏が、「絶対自力の極地のような道元でさえ、絶対自力そのものは仏から与えられたものと考えている」という意味の発言をしました。

小浜・松崎・長谷川の三者と橋爪氏との議論は、どこかしら噛み合わないところを残しました。平たく言えば、平行線。

小浜・松崎・長谷川の三者の共通の論点を抽出すると、「橋爪氏のように、ことさらに一神教(の文化)と他宗教(の文化)との違いを強調するのは、誤りというわけではないが、やや行き過ぎではないか。むしろ、似た点さらには共通点も同様に押さえる必要があるのではないか」となるでしょう。素朴に言ってしまえば、国や民族や宗教や文化が違っても同じ人間なのだから、似たようなところや共通点があってもちっとも不思議ではないだろう、ということになります。これを「いいや、そんなことはない」と全否定する人はあまりいないのではないでしょうか。

橋爪氏の厳密な文化論は、人類の普遍性をめぐる、そういう素朴な直観に対して応えるところがやや少ないという印象を私は持ちました。その詳細については「その2」で展開しようと思っています。

次に印象に残っているのは、長谷川氏が、人格神について橋爪・大澤両氏に尋ねた場面です。長谷川氏は、おおよそ「自分は文学として旧約聖書を読んでいる。特に最古の資料とされるJ資料を読んでいるときに感じることがある。それは、ヤハウェイという唯一神は、人間のように怒ったり、嫉妬深かったり、と実に情熱的な人格神であるということ。それがキリスト教になるとどうなるのか。そこを改めて伺いたい」という意味の問いかけをしました。

それに対して、橋爪氏は、次のように答えています。

全知全能で世界を創造した唯一絶対の神が同時に人格神であることは矛盾しているようである。しかし、人間は神に似ているが、神は人間に似てないと考えればよいのではないか。つまり、人間は自分を神に似ていると思っているが、神の存在そのものは実は人間にまったく似ていない、と。違う言い方をすれば、神は自分の存在をこの世界で示すために人間を必要とする。

長谷川氏の問いかけにストレートに答えたというより、一神教における人格神の捉え方の原則を語った形でした。      

大澤氏は、次のように答えています。

ユダヤ教において、唯一神であり人格神であった存在が、キリスト教においては、イエス・キリストが人格神の要素を100%担うことで、天上の唯一神は人格神の要素を払拭し超越的な存在になった。

ここは、本書の一番魅力的なところに関わります。それは、次の箇所です。

大澤 福音書を読む限りは、キリストは相当、人間として苦しんでいるような気がしますね。(中略)僕らが強く心を動かされるのは、人間として苦しんでいるイエスの姿をそこに見るからですよね。もし人類の歴史の中で最も影響力の大きかった出来事を一つ挙げろと言われたら、ぼくはイエスの処刑だと思うんです。たった一人の人間の死が、結果的には人類史に圧倒的な足跡を残し、いまでも大きな影響を及ぼしている。なぜこの出来事がこれほどのインパクトをもったのか。それはやっぱり、イエスが惨めに殺されていくからでしょう。冤罪ではないかと思うような微妙な罪で、しかし、十字架という最も惨めな方法で殺された。それですごく心を動かされるわけです。

それに呼応する言い方を、橋爪氏もしています。

橋爪 (中略)十字架のイエス・キリストは、人間が苦しむのとまったく同じ苦しみを、受けなければならない。と同時に、かたときも、神の子であるという自覚を失ってもならない。どう考えたって、神の子の自覚があれば、人間と同じ苦しみを受けられないのではと思われるけれども、でも神の子の自覚が百パーセントありつつ、人間としての苦しみを百パーセント受けた。これが公式な教理として、決定されたのです。

百パーセント神であると同時に百パーセント人間であるイエス。それを大澤氏は「キリスト教が抱えている究極の逆説のひとつの断面」と指摘しています。私は、この一連の二人のやり取りに深く心を動かされました。この手の本では滅多に味わえない感慨・感動を本書から得ることができたのです。ここで、二人はキリスト教が人々を惹きつけてやまない魅力の、矛盾に満ちた源泉に確かにそうして深く触れ得ています。

これに関連して、複数の参加者から、「キリスト教徒ではない者の率直な思いなのだが、キリストが魅力的な存在であることは認めるけれど、2000年も前の一人の人間の死に対してなぜ疚しさとか罪の意識とかを持たなければならないのか。どうしても腑に落ちないところがある」という率直な声が挙がった。

それに対しては、大澤氏が次のように答えました。

宗教的な時間は、普通の時間と間尺が異なる。教会で牧師がダビデやソロモンやキリストについて語るとき、キリスト教徒の心には、彼らがありありとイメージされている。まるで昨日今日の出来事のように彼らの事跡が語られ、また受けとめられる。

また、橋爪氏はそれに関連して次のように述べました。

旧約聖書に原罪の観念はない。それを作ったのは、パウロである。パウロはイエス・キリストが十字架で死んだことの意味について考えるうちに原罪の考え方に行き着いた。そこから逆にさかのぼって、アダムとイブのエピソードが人間存在の原罪を示すものとされた。

社会学者の菅野仁氏が、「30万部売れるというのは、ひとつの社会現象である。お二人は、社会学者としてそれをどう考えているのか」という意味の質問をしました。(菅野仁氏には『教育幻想』(ちくまプライマリー新書)という名著があります)

それに対して、大澤氏が次のように答えました。

社会現象というのは、その通りと思う。30万部売れると、自分たちが書いたという事実から本が一人歩きしていくような感触が生じてくる。この本を手にとってみようとする人々の思いとしては、不可避的なグローバル化ということがあるのだろう。それに対する「仲間はずれ感」から来る不安。それと、東日本大震災が惹起した不安感が重なったのではないか。

閉会間際に、長谷川氏が語ったことが印象に残っています。氏いわく「一神教が、科学的知見とうまく棲み分けていることは分かった。しかし、「存在」を問い続けてきた哲学と宗教とは、いわば天敵のようなものなのではないか。一神教からすれば、「世界は神が作った。以上」で存在問題は終わり。しかし、それにこだわり続けてきた哲学は、それでは収まらない。だから、「存在」問題をめぐって、宗教と哲学は最後まで折り合わないと考える」。

それに対して橋爪氏が「どうして、哲学が「存在」問題をめぐって展開されてきたと言い切れるのですか」と反論。すかさず長谷川氏が「それはギリシャ哲学以来・・・」と言いかけたところで、時間切れのゴングならぬ、時間切れの場内ブザーが鳴って取りあえずとりあえずお開き。その勢いのまま、二次会になだれ込んでいきました。アルコールで景気をつけて、「試合」再開という流れに。

豪華メンバーによる興味深い読書会でした。

*****

数日前アップした投稿の反響が私の当初の予想を超えています。『ふしぎなキリスト教』がベスト・セラーになった影響でしょうか。読書会の地味な報告、と暢気に構えていたところ、ちょっと違う雰囲気なのです。ツイッター上で、私の報告を基に、橋爪批判が展開されていたりします。文責はすべて私にあることをここで明記しておきますね。

今回は、本書に対する私なりの読みをなるべく明らかにすることを主眼にしましょう。

本書の基本的な認識・問題意識をもう一度私なりに言うと次のようになります。

日本近現代史は、ざっくりと言えば西欧型の近代社会・近代システムに巻き込まれ続けてきた歴史である。そうして、西欧型の近代社会・近代システムの核には、キリスト教がある。だから、西欧型の近代社会・近代システムは、キリスト教文化なのである。それゆえ、西欧型の近代社会・近代システムの本質を理解するには、キリスト教の核心を理解しなければならない。

ところが、一神教の伝統のない日本人はキリスト教を理解するのが不得手である。だから、西欧の近代社会が模範となり、それを外面的に吸収していれば済んでいるうちはよかった。ところが、環境問題やエネルギー問題や格差の問題のような近代の限界を示唆する現象が生じてくると、その本質への理解が必要になってくる。近代の限界を乗り超えるには、その本質をしっかりと把握したうえで、それを編み変えなければならないからである。われわれは、無から有を生む手品に期待することはできないのである。

また、グローバリゼーションとは、キリスト教に由来する西洋文明が、それとは異なった宗教的な伝統を受け継ぐ文明や文化と、これまでにないほどに深いレベルで交流したり、混じり合ったりすることである。社交辞令を言って綺麗事で済ましていられないのである。相手の本質をきちんと踏まえて交流しなければ、ぎくしゃくした関係に終始することになってしまうからだ。

だから、日本人がキリスト教を理解するのが不得手のままなのはとてもまずい。それを克服する一助に本書がなればいいのだが。

本書の基本的な認識・問題意識は、おおよそそんなところではないかと思われます。

で、私は前回こう申し上げました。

実は、私はこれらの基本的着眼点・問題意識をせいぜい半分くらいしか共有できない者です。だから、一方では本書の問答を楽しみながら、他方では本書との距離を感じつづけもしました。

では、私はなぜ本書の基本的着眼点・問題意識をせいぜい半分くらいしか共有できないのでしょうか。

それは、キリスト教の理解不足を解消することで、いまの日本が直面している困難が解消するとはとても思えないからです。

では、「いまの日本が直面している困難」とは何なのでしょうか。本書が掲げている「環境問題やエネルギー問題や格差の問題」がそれなのでしょうか。

ここは橋爪氏のマネをします。「それは全然違います」。

「環境問題やエネルギー問題」が思想問題・文明論になっているのは確かです。しかしそういう現状の大半は、それらの問題の本質に対する人々の致命的な無理解・無知・不勉強・頭の悪さが原因なのです。むしろ、この無知の全体構造の方こそが大問題です。「環境問題やエネルギー問題なんてない」という「暴論」の方がむしろ事の真相に近いくらいなのですね。

私が何を言っているのかよく分からないという方が結構いらっしゃるのではないでしょうか。このことについてはいずれ踏み込んだお話をしようと思っています。とりあえず「地球は温暖化していて、このままでは、南極と北極の氷が溶けて、太平洋の島々が水没してしまう」とか「環境破壊を緩和するために、ゴミの分別やリサイクルをどんどん推し進めなければならない」とか「割り箸は森林伐採を促進するから環境に悪い」とか「風力発電は環境にやさしい」などと口走る人がいたら、眉に唾をつけましょう、とだけ言っておきます。国・地方公共団体・マスコミ・教育界は総がかりで、環境問題について、膨大なウソを一般国民に垂れ流し続けてきたのです。

「格差」社会が問題であることはもちろんです。格差が広がりすぎることは、資本主義の活力としての「機会の平等」を骨抜きにしてしまうからです。

しかし、「格差」は決してなくなりません。また、あえて言いますが、なくなる必要もありません。それが適度にあることはその社会に活力があることの証なのですから。要は、程度の問題なのです。

「環境問題やエネルギー問題や格差の問題」が、いまの日本が直面している困難なのではないとすれば、ほかに何があるのでしょう。

私は、いまの日本が直面しているさまざまな困難の核心は、20年来続いているデフレ不況問題であると考えます。人々が抱いている将来に対する漠然とした不安感や閉塞感の根には、この問題があるのです。東日本大震災や福島原発事故が、そういう不安感や閉塞感をさらに深めたのは確かなことでしょう。本書が30万部も売れた社会的な原因の少なくとも一つとして、「人々が抱いている将来に対する漠然とした不安感や閉塞感」を挙げることも可能であると思われます。

また、デフレ不況下において経済の全体の規模が縮小する場合、格差社会の下層に対してより強烈な圧力がかかるので「格差」が大きな問題であるかのような様相を呈するのです。デフレ不況から脱することができれば、「格差」は長い時間をかけてなるべく「改善すべき問題」という本来の位置に戻ります。

では、本書が主張するように、日本人が本書をしっかりと読んでキリスト教を正確に理解したのならば、日本が20年来続いているデフレ不況から脱する可能性が生まれるのでしょうか。少なくともその端緒をつかむことくらいは可能なのでしょうか。

いずれに対してもNOと答えるよりほかはありません。なぜなら、日本が先進国のなかで唯一20年間もデフレ不況で苦しんでいるのは、政府・日銀が誤った経済政策を実施し続けているからです。いわゆる伝統的歴史的なキリスト教とはとりあえず何の関係もありません。

では、政府・日銀は何故誤った経済政策を実施し続けているのでしょうか。いろいろな言い方ができるのでしょうが、とくに政府の場合、デフレ不況時に大胆な公共投資・財政出動を推し進めようとするケインズ政策を過剰に否定し、政府の役割をなるべく小さくしようとする新自由主義理論をむやみに有り難がってきたから、と言えるでしょう。また、デフレ脱却のために供給能力を高めることを是とする、などという間違った理論を事あるごとに口走る日銀も似たり寄ったりです。日銀には、もう一つ、わずかでもインフレを許せば、それがいつハイパー・インフレに化けるか知れたものではないというデフレ原理主義があります。日銀は、あらゆる姑息な手を使って、金融緩和を拒み続けています。

つまり、パワー・エリートが間違った経済理論・経済思想を信奉していることが諸問題の根にあるのです。さらには、彼らに国民主権に対する深い理解がなく、浅薄な特権意識の呪縛から自由ではないことが問題を深刻にしています。彼らは、国民の生活向上のために粉骨砕身することそれ自体にエリートとしての誇りの根拠を置くことができにくい、ということです。

知識人には、世のため人のため国家のために、パワー・エリートの馬鹿げた盲信をそれぞれの立場で批判・撃破する責任があります。なぜなら、「知識」人の知識は、いわば公共財であって、究極的には一般国民の幸福追求のために存在するものであるからです。

そんな問題意識を抱いている私からすれば、キリスト教に関しては何が問題になるのでしょう。

新自由主義は、アメリカで生まれた特殊なリベラリズムです。新自由主義は、いわゆるリバータリアリズムと呼ばれているものの経済学的な表現として捉えることができるでしょう。リバータリアリズムは、反国家的で極端な個人主義(たとえば、自分の肉体を自由に行使する権利=売春権の容認!)によって特徴づけることができるでしょう。それをさらに極端にしたものが、国家の介入を原理主義的に排除しようとするソブリン市民です。彼らは、駐車違反を注意した警官を平気で撃ち殺したりします。

では、この極端な個人主義=個人原理主義が、何故アメリカで生まれたのでしょうか。まあ、いろいろとあるのでしょうけれど、それが「慣習なきキリスト教社会の産物」であるとはとりあえず言えるでしょう。慣習という理屈抜きの根っこ=人倫感覚のない言説は極端に走りがちになりますね。

この、アメリカは「慣習なきキリスト教社会」であるという視点が、本書からすっぽりと抜け落ちているように感じるのです。日本がいま直面している困難とキリスト教文化とのかかわり合いをめぐる議論がいまひとつパワー不足・切り込み不足、という印象を受けてしまうのは、ひとつはそのせいなのではないでしょうか。問題意識の焦点の解像度が今ひとつ鮮明ではないと言いましょうか。

いまの日本は、半ば以上勝手に自分からアメリカという「特殊な」キリスト教社会に呪縛されています。呪縛されていることのひとつの形が「20年来続いているデフレ不況問題である」と言っても過言ではないでしょう。だからと言って、反米的な言説を繰り広げてみたとしても、それはガス抜き以外のなんの意味もありません。

本書に対して、ないものねだりをしても仕方がないのかもしれません。「ブーブーいうんだったら、てめえがやれ」と言われてしまえば一言もないからです。

話を移しましょう。

パワー・エリートに、国民主権に対する深い理解がなく、浅薄な特権意識の呪縛から自由ではないという問題について、本書は一定の鮮明な光を当てています。

「主権や国家の考え方はみな、神のアナロジー」という橋爪氏の言葉は、言われてみればもっともです。「主権」の原義は「無上の権利」です。それを担いうる存在は究極的には神のみである、という考え方は、一神教の伝統のない日本人にも理解不能ではありません。

その理解を是とすると、「国家主権」さらには「国民主権」などという言葉の奇妙さが際立つのではないでしょうか。神の被造物にすぎない人間や人間の作り物が神の専有物を担うという考え方は、神への冒涜以外の何物でもありません。この近代人の救いがたいヒュブリス(傲慢さ)は何に由来するのでしょうか。(私は別に怒っているのではありません。思考の理路に従っているだけです)

大澤氏によれば、そこには「宗教色を脱した概念自体が、実はキリスト教という宗教の産物」であるという、キリスト教文化の逆説がある、という言い方になります。つまり、外見上の大文字の無神論としての近代は、実はキリスト教という一神教の産物である。

これをもっと分かりやすく噛み砕いて見せてくれているのが橋爪氏です。引用しましょう。

一神教では、神は世界を創造したあと、出て行ってしまった。世界のなかには、もうどんな神もいなくて、人間がいちばん偉い。人間が神を信仰し、服従することは大事ですけれども、神がつくったこの世界に対して、人間の主権があるんですね。ほんとうは神の主権があるんですけど、それが人間にゆだねられている。スチュワードシップというのですが、空家になった地球を人間が管理・監督する権限があるんです。(中略)世界は神が作ったのだけれども、そのあとは、ただのモノです。ただのモノである世界の中心で、人間が理性をもっている。この認識から自然科学が始まる。こんな認識が成立するのはめったにないことなんです。だから、キリスト教徒、それも特に敬虔なキリスト教徒が、優秀な自然科学者になる。

橋爪氏は、ここでとても興味深いことを言っています。キリスト教の深い信仰のど真ん中から、神の代理人としての人間、すなわち無神論者が生まれるというのです。そうして、その無神論者が神の専有物である主権を担う。神の下の平等が、神の不在における平等になる。聖霊のはたらきによって、公会議における人間が集まって下した教義上の結論が解釈を超えたものになったように、国会における決議が全体意思を超えた一般意思となる。

キリスト教の伝統の流れの中にある西欧のパワー・エリートたちにとっては、主権や平等思想や一般意思などという近代政治思想のキー・ワードをめぐる深いニュアンスは、おそらく暗黙の前提なのでしょう。異なる伝統の流れの中にある日本のパワー・エリートがそれをよく理解できないのは、むしろ当然のことなのかもしれません。事実、彼らが民主主義の理念に触れるとき、なんだか幼稚な印象を受けることが多いですね。

しかしながら、(これが今回の最後のお話です)見よう見真似の近代化であったにしろ、そのお陰で日本は、中国に抜かれたとは言えGDP世界第三位の大国になり、環境問題対策では世界のトップを切り、法治国家としての落ち着いた秩序が確立されていることは、世界が認めるところです。よっぽどのへそ曲がりでもない限り、日本はまがい物の近代化をしたのだから、その果実もまがい物である、とは言い難いでしょう。現実は現実なのですから。完璧だとはもちろん言いませんよ。不完全な存在としての人間がこしらえたものなのだから、不完全なところがあるのは当然のことです。

つまり、西欧発の近代ではあったのですが、それが世界中に広がり、それぞれの国や民族の広い意味での文化によってアレンジをほどこされ、そのことで独自の発展を遂げてきたという側面が歴史として無視しえないところまで来ていることを私は強調したいところがあるのです。

もちろん、国や民族の数だけの近代化や資本主義があるという側面が、国際的な混乱をもたらすのも確かなことでしょう。その場合、原点を確かめる意味で、そもそも近代とはどういうものであったのかを考察し、それを押さえておくことは意味があるとは思います。

しかし、他方では西欧型の純粋の近代がその核にもつ純粋な無神論(人間が神に成り代わること)は、自ずから人間論的な限界があることは明らかです。

橋爪氏が指摘しているように、近代化を経てもなお、この世界のあらゆるものにその数だけの神を感じる神道的な感性を保存している日本人は、西欧的な基準からすれば、決して無神論者になりえません。それは、橋爪氏が言う通り弱点にもなりえますが、西欧近代の無神論がもたらすニヒリズムを緩和する可能性もあるのではないでしょうか。

これを哲学の分野に移し替えると、どうなるか。キリスト教的な感性からすれば、神が不在となった世界という「空家」=客観のなかで、主権者となった人間は主観に押し込められることになります。近代西欧哲学を根のところで規定してきた主観・客観の二分法が、キリスト教的な感性に基づく思考の枠組みであることが分かりますね。

それに対して、この世界のあらゆるものにその数だけの神を感じる神道的な感性にとって、主観からくっきりと区別された客観は存在しないし、逆に、客観からくっきりと区別された主観も存在しません。そこに、主観と客観とが交流する形容詞的世界が像を結ぶことになりますね。

この世界像は、私見によれば、主観・客観の二分法による世界像に重大な変更を迫る起爆力が、さらには破壊力さえもがあります。

弱点と可能性。どちらに転ぶか。要は、自らの歴史的感性に対する自己認識の明晰さの程度によるのではないかと私は考えます。
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消費増税与野党協議(その3) 今後の見通し (イザ!ブログ 2012・6・11 掲載分)

2013年11月20日 18時47分47秒 | 政治
消費増税与野党協議について、インターネットでいろいろと検索してみました。大手メデイアは、テレビを含めて、政局絡みの野次馬的な報道しかしません。消費増税賛成の大合唱をし続けてきたのだから、それは当然のことです。今は、とぼけ面を決めこんでおくのが無難な局面ですからね。

一般国民としてとても残念なことですが、大手メディアは、報道機関として「終わって」います。もう、どうしようもありません。ユーロ危機関連報道でも、可愛い顔をした男女のキャスターが並んで、ただオロオロしてみせるだけですし(なんで、日銀に対して断固たる金融緩和を求めるまっとうな言論を展開しないのか。愚かしいこと限りない)。

で、ちょっと前になるのですが、立命館大学政策科学部准教授・上久保誠人という人の、2月29日の段階で今回の事態を正確に「予言」していた記事(『それでも消費増税は実現するー民主党マニフェストの完全撤回と引き換えに』)があったので、それを引用します。

ちなみに、彼は消費増税賛成論あるいは不可避論の立場から論じています。私はもちろんそれとは正反対の立場です。しかし、彼が正しい政局の見通しを立てたことそのものはそれとして別にきちんと評価すべきであると考えます。「優れた敵」から学べることは、実はとても多いのです。
diamond.jp/articles/print/16352

繰り返すが、財務省は政権交代前から、民主党の財政通と税制改革の進め方の議論をしていた。再び政権交代が現実味を帯びてきた今、財務省が自民・公明と陰で協議を始めていてもなにも不思議ではない。自民党で、民主党に一切妥協せず解散に追い込む強硬路線を突き進む谷垣禎一総裁、町村信孝、伊吹文明両氏ら派閥会長は、元々財務省と極めて近い関係にある政治家だ。(野田政権のー引用者補)倒閣実現後に起こることは、消費税増税の撤回ではなく、「民主党的な政策」をすべて排除した「純・社会保障と税の一体改革」の実現なのだ。

もちろん、状況によっては、不人気な増税を野田内閣に実行させてから、衆院選を戦うという戦略もあろう。いずれにせよ、財務省は「社会保障と税の一体改革」実現に向けて、民主・自民・公明がほぼ一致するところまで、長い時間をかけて着々と進めてきたといえる。財務省にとっては、増税を実現するのが民主党であろうが、自民・公明であろうが、どちらでもいいのである。(赤字は引用者)


上記は、前回の投稿で掲げた、馬淵議員のブログでの発言とほぼ符合します。極めて信憑性の高い記述であると私は判断します。ここには、極めて精度の高い予見力が示されています。力量のある学者さんなのでしょうね。財務官僚が自分のシナリオ通りに事を運ぶ手法の基本がよく分かります。つまり、次の政局を読む基本がよく分かる、ということです。

今のダメダメ財務省がコケの一念のように考えているのは、省益(つまり天下り先の確保)に抵触しない形で、税率をできるだけ上げることと歳出をできるだけカットすることです。だから、消費税関連法案の「談合」が成立し、同法案が国会の承認を得たなら、今度は「金食い虫」の社会保障費を大胆にカットしようとするのでしょう。そのために、いまや「次期政権政党」の自民党に「権力の甘い香り」を嗅がせつつ、執拗に説得・洗脳を試みている真っ最中である、という判断ができます。おそらく、そういうことなのでしょう。やれやれ。

ちなみに、芸能人の親族の生活保護不正受給事件などをきっかけに、いまマスコミでは、生活保護不正受給撲滅キャンペーン・支給額減額キャンペーンを推進しています。また、自民党議員たちは堂々と不正受給の糾弾をし、受給額減額を主張しています。これらはすべて財務官僚のシナリオ通りの展開であると判断できます。

今後の政局の見通しについて、上久保誠人は次のように語ります。

「消費税増税」実現の、最後の不確定要素は小沢グループと、橋下徹氏率いる「維新の会」だろう。小沢グループ自体は、当選1回生と比例当選組が多く、離党して選挙を戦うことは難しく、それほど問題ではない。しかし、「維新の会」の衆院選準備が予想以上に進み、小沢グループや「みんなの党」と組める状況になると、小沢グループの離党から「消費増税VS反消費増税」の政界再編へと、一挙に進む可能性はある。だが、その実現可能性は非常に低い。財務省の悲願達成は一歩手前まで来ているのだといえるだろう。

ここで私と見解が分かれます。

大手マスコミによる消費増税賛成論・不可避論の「洪水」を経ても、一般国民の大半は消費増税に納得していません。生活実感からすれば、それは当然のことです。また、マクロ経済政策としても、デフレ不況時の、しかも逆進性の消費税の税率アップは完全な誤りです。不況時には、減税が鉄則なのです。消費増税を強制的に実施すれば、財政が破綻する前に、今でさえもぎりぎりのやりくりを余儀なくされている家計が破綻してしまいます。だから、税収も減ります。それゆえ、財政はさらに悪化します。橋本デフレでその負の連鎖はすでに「実験」済であることは、たびたび申し上げてきました。財務省は、それらはすべてアジア通貨危機のせいだと言い張っていますけれど。今度は、ユーロ危機のせいにできると、彼らはほくそえんでいるのでしょうか。

消費増税に対する一般国民の不安・不信感は相当に根深いものがあるのです。

だから、次の総選挙の争点の軸の少なくとも一つは、おそらく「消費増税VS反消費増税」になるものと思われます。つまり、「今回の総選挙で政権を取ったなら、我が党は消費増税関連法を必ず破棄します」という選挙公約は、選挙民に強く訴えることになるでしょう。つまり、反消費増税の主張は次の選挙で確実かつ強力に「票になる」のです。だれがそのことにいち早く気づき、「反消費増税」の狼煙を上げるのか、固唾を呑んで見守りたいと思っています。仮にその政党が共産党や社民であったとしても、本気になってそう訴え続ければ議席をたくさん伸ばすでしょう。

民主党と自民党がそのマネごとをするのは不可能です。そんなことをしたってもう誰も信じません。だから、民主党と自民党は次の選挙では勝てません。ボロ負けです。彼らは今回とてもまずい政治的な選択をしてしまったのです。もちろん、これは、私の希望的観測に基づく「床屋政談」ですけれど。


*いまから見れば、上久保誠人氏の見通しに軍配が上がります。私のボロ負けです。財務省は、一人勝ちの自民党を見事に操っています。その大元の原因は、日本に健全野党が育っていないことです。それは、なぜなのでしょうか。考えてみなければなりません。(2013・6・11 記す)
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「消費増税与野党協議」続報 (イザ!ブログ 2012・6・9 掲載分)

2013年11月20日 04時28分38秒 | 経済
昨日の「消費増税与野党協議」についての投稿は、今の段階ですでに1600アクセス。心ある皆様の、消費増税議論の行方(ゆくえ)に対する関心の高さを物語っています。続報をお伝えします。

まずは、反消費増税の闘士・宮崎岳志衆議院議員の、私のツイートに対する返事から。

「16時間前  宮崎タケシ‏@MIYAZAKI_Takesh

酷い!自民で反増税の人は、景気条項に賛成なのに…。まさに増税派による増税談合!
RT @_4946549944422(美津島明) 金子議員の、自民党の協議における暴挙を訴えたツイートを広めたいので、ブログにそれをアップしました。拡散にご協力を! http://mdsdc568.iza.ne.jp/blog/」

自民党内反増税派の良識的な声が党執行部から封じこめられている状況がうかがえます。そこは、民主党と同じです。

次は、その一時間後の、自民党の経済政策をめぐる党内での不一致ぶりを暴露する同氏のツイート。

15時間前  宮崎タケシ‏@MIYAZAKI_Takesh

自民のシャドーキャビネット財務相・兼・財務金融部会長が「デフレ円高からの脱却。そのための日銀法改正含む強力な政策推進」と公言したその日に、なぜ交渉現場で「成長率目標の削除」などという正反対の主張が出るのか。まったく意味が分からない。与野党協議の場は、まさに暴走空間…」


自民党は、よく民主党内の意思決定の不一致を揶揄します。これって、目クソが鼻クソを笑うってことですね。あるいは、へそが茶を沸かすとか。他人(ひと)のことを言えた義理じゃありませんね。ちなみに、自民のシャドーキャビネット現財務相は、調べたところによれば、西村康稔(やすとし)衆議院議員です。林芳正議員ではありません。実力者から世渡り上手議員になぜ財務相ポストが移ったのか、ちょっと興味があるところではあります。

宮崎議員の、ほぼ同時に出された次のツイートも見逃せません。

「2カ月以上前、馬淵澄夫氏がブログで暴露した情報が現実化した。「(財務省が)野党自民党の有力議員たちに国会審議での再修正を働きかけている(略)歳入庁の設置をなくすこと、再増税条項(附則28条)の復活、弾力条項からの数値の削除」mabuti-sumio.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-c334.html」

「馬淵澄夫氏がブログで暴露した情報」は、次の通りです。実は、私はこれを知っていました。少々長くなりますが、これからの政局を占う上で重要な指摘なので全文引用します。

「2012年3月31日 (土)

閣議決定のゴング

消費税法案が閣議決定されたが、法案審議に向けて様々な動きがさっそく始まっている。

自民党議員と懇談の機会に、財務省の動きを知った。

事前審査で行ってきた法案修正を、ことごとくなきものにせんと、野党自民党の有力議員たちに国会審議での再修正を働きかけているのである

その主張は三つ。

一つは、歳入庁の設置をなくすこと。

二つ目は、再増税条項(附則28条)の復活。

三つ目は、弾力条項からの数値の削除。

ホントにあきれる。

(財務官僚はー引用者補)八日間、四十数時間の与党の議論などまったく何とも思って ないのだろう。閣議決定で法案提出までこぎつけたら、次は国会での再修正を野党に働きかける。そして、法案成立して増 税の既定路線が出来上がれば、政界がどうなろうが、政権をどこが担当しようが関係ないのだろう。 増税には内閣の一つや二つ吹っ飛ぶくらいは覚悟しなければならない、とうそぶいた大物財務官僚の言葉を今もハッキリと覚えているが、政治が弱体化すると、ここまで露骨になるということか。

件の役人(おそらく勝栄次郎事務次官のことだろうー引用者注)が、民主党政権などなくなっても構わない。いや、自民党政権であろうが、第三勢力だろうが関係ない、と笑っている姿が目に浮かぶ。

国会審議では、自民党も議論が分かれるところでもあるようだ。これから、与野党ともに、入り乱れての混乱が予想される。

まさに、ゴングがなったところなのかもしれない。」 
(赤字は引用者)

現職の国会議員として馬淵議員は、言えるギリギリのところまで言っています。政局の核心には、いつも財務官僚のシナリオが織り込まれていることを私たちは片時も忘れてはならないということでしょう。

次に、金子洋一参議院議員からの返事のツイート。

9時間前 金子洋一・民主党参議院議員(神奈川選出)‏@Y_Kaneko

私の言いたいことを代わりに書いてくれてます。ありがとう! RT @_4946549944422 金子議員の、与野党協議における自民党の暴論を訴えたツイートを少しでも広めたいので、ブログをアップしました。拡散のご協力を! http://mdsdc568.iza.ne.jp/blog/」


彼の、自民党の与野党協議における亡国のスタンスに対する怒りは収まりません。

9時間前 金子洋一・民主党参議院議員(神奈川選出)‏@Y_Kaneko

消費税増税にちなんで、自民党は最低保障年金まで撤回を求めてきた。これは年金制度を一本化し、また、生活保護との金額的な矛盾も解決しようとしたもの。要するに、彼らは今回の一体改革を純粋な増税だけにしたいわけだな。それならそうとはっきり国民の前で言えばいい。」


「野党」自民党執行部のいま現在のポジショニングは、財務官僚のそれ自体である、という驚くべき事態です。予想し得たこととは言え、一般国民にとって悪夢そのものです。自民党は、目先の主導権が取れたことにヌカ喜びをして(オレたちは野党だけど本当は与党だ!)、実は、次の政権を握る可能性を自分で潰してしまっていることに気がつかないほどに愚か者に成り下がっているのです。

念のために申し上げますが、私は「隠れ民主党」派ではありません。次回の総選挙で自民党に投票しようかどうか迷っていたけれど、今回の自民党の馬鹿げた振る舞いを目の当たりにして、その芽がどうやらなくなってしまいそうなことを心底残念がっている者です。馬淵さんあたりが、新党を立ち上げてくれないものでしょうか。売りは、「頭がまともに働く党員の集まり」。夢かなぁ。

最後に、上念司氏を含む14名の方々から、前日の投稿のアドレスを含む、私のツイートをリツイートしていただいたことに深い謝意を表します。


*上記の"「野党」自民党執行部のいま現在のポジショニングは、財務官僚のそれ自体である"という指摘は、我ながら予言的ですらある。別に自慢しているのではない。それだけの認識を持ちながら、安倍政権誕生の興奮のなかで、一時期にしろ、それを手放した自分の不明を恥じる。(2013・11・20 記す)
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