美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

消費増税案与野党協議 緊急のお知らせ(イザ!ブログ 2012・6・8 掲載分)

2013年11月19日 21時32分27秒 | 政治
いま、民主党の金子洋一参議院議員から次のツイートがありました。

金子洋一・民主党参議院議員(神奈川選出)‏

なんと、自民党は消費税増税について、経済成長率で名目3%、物価変動の影響を除いた実質2%を目指す経済運営の努力目標を削れと言っているらしい。「将来の政権を縛る」からだと。なにを考えているのだ?野党が与党案を改悪してどうする!!


金子議員は、党内の消費税議論で、純粋に経済学のプロの立場から、馬淵澄夫元国交大臣や宮崎岳志議員らとともに、いわゆるトリガー条項を強力に主張しつづけた人です。彼らのおかげで、消費増税案の国民経済に与える猛毒性・破壊性が一定程度解毒・緩和されているのです。彼らのスタンスは、小沢派の反対論とはなんの関係もありません。

だから、金子議員が、デマを飛ばしているのではなく、国の経済を思って、心から怒ってツイートしているのが私には分かります。

自民党は、名目3%・実質2%を努力目標から厳格な達成基準にするよう民主党に求めるべきところを、馬鹿げた政治的思惑からなんと「削れ」と要求しているのです。

名目3%・実質2%の義務づけは、日銀にインフレ・ターゲット1%を義務づけることを含意します。それが、いまマクロ経済政策において最も求められているものであることは、自明です。自民党は、それとは真逆の要求を民主党に突きつけているわけです。財務省べったりの野田首相が泣いて喜びます。

自民党がいま亡国・日本破壊の取引を民主党としようとしていることを、これをお読みになった方は、まわりにぜひ触れまわってください。


*結果論ですが、ここでの自民党の動きに主流派の本音が透けて見えます。2013年10月1日に消費増税が自民党によって決定されたのは、ここでの自民党首脳部の動きを重視すれば、実は落胆するにはおよばなくて、当然の流れだった、という結論がどうやら得られそうです。私の腹の中は様々な思いが錯綜し煮えたぎっておりますけれど、それを認めるよりほかはないでしょう。希望的観測は捨ててかからねばなりません。政治家にだまされることほどの愚行はめったにありませんので(むろん自戒として言っています)。(2013・11・19 記す)
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小浜逸郎氏との対話Ⅲ (イザ!ブログ 2012・6・7~6・9 掲載分)

2013年11月19日 20時59分48秒 | 対話
小浜逸郎様

お久しぶりです。

今日やっと『大前研一トンデモ「デフレ」理論』をアップできました。一回のアップ文字数が1万字までなので、2回に分けてアップしました。

*『大前研一トンデモ「デフレ」理論』の原稿書きのために時間が取られているので、メールの返事が一週間ほど遅れることを小浜氏に伝えていました。

分量が膨大で、細い話も出てくるし、みなさんが読んでくれるのか心配していたところ取りあえずアップ当日に900弱のアクセスがあり、ホッとしています。ツイッターにいろいろと反響の言葉も寄せられていて、ささやかながら喜びをかみしめています。しかし、喜んでばかりもいられません。非合理的な経済政策のありさまは変わっていないのですから。

さて、小浜さんの前回のメールについて思いつくままに述べます。

ちょっと前のことですが、大森荘蔵におけるデカルト的二分法ののり超えの試みのまずい点についての、小浜さんのお話、印象深く残っています。

小浜さんの言葉を、私なりに言いかえると次のようになります。

人は実存において主客の交流する形容詞的な世界像を生きている。そこから、分析的に主観と客観とが析出されることにもなる。また、主語が析出されることにもなる。そのことには一定の有効性・レーゾンデートル(存在理由の意―編者注)がある。かといってその二分法を絶対的な真理とするのはおかしい。そのリゴリズム(過剰な厳格主義の意―編者注)から、世界観の硬直化・貧困化が生じることになるからである。見上げた青空が美しいと感じるとき、その美を、私の主観に還元するのは誤っている。世界はもっと豊かな相貌をしているはずだから。他方、大森氏のように主観=心を客観=物にそっくりそのまま投げ出そうとするのも、物に神性を見出そうとする感性を保持する日本人としてその気持ちを分からなくもないが、哲学的には同じく誤っている。

短歌を読み味わうということは、人が本当のところどのようにこころを世界に開いて(あるいは閉じて)生を織り成しているのかを内側からやわらかく辿りなおすプロセスなのではなかろうか。一級の感性の痕跡としての名歌には、そのような実存が凝縮された形でありありと表出されている。だから、それに大真面目になって取り組むことには、文学的な価値はもちろんのこととして、思想的な価値もある。

さらに、哲学的な価値も、と言いたいところですが、私には荷が重すぎるので、ここは代わりに小浜さんに「そうだ」と言ってほしいところです。

そんな感じになります。私にかろうじてできるのは、小浜さんの、主客二分法を真ん中で超えようとする思想的・哲学的な展開を、主に文学の側から重ね描きすることなのではないかと思います。

思想的な構えの核心のところで、私は小浜さんから大きな影響を受けていることを再認識しました。ここから、自分なりのパロール(個性的な語りの意―編者注)をどう展開するのかが今後の私の課題、ということになるのでしょう。まあ、いい年なのであまり悠長なことも言ってられないのですが。

〉厳密に言えば、貴兄の今回の論は、「日本人の感性は素晴らしく、微妙で独特であり、そう簡単にガイジンなどにわかるはずがない、わかってもらっては困る」と言いたい気持ちと、「私たちはそれでも、よりよい訳、よりよい批評などを目ざしているところから見て、究極的な理想として、分かり合えるはずだ」という理念との両面を唱えていることになると思います。論理的にはこれは矛盾するのでは?

まったくそのとおりであると思います。一方では、普遍性への志向性を、表現に向かおうとする自分に確かに感じるのですが、他方では、日本人の感性が素晴らしい云々ということよりも、欧米人が抜きがたく抱えている(ように感じられる)「絶対的なもの」への激しい志向性に対する違和感と、助詞・助動詞に代表される日本語のニュアンスが結局は欧米人に伝わらないのではないかという断絶感とがあります。

後者については前回申し上げたので、今回は前者(すなわち、欧米人が抜きがたく抱えている「絶対的なもの」への激しい志向性に対する違和感―編者注)について述べます。

私は若い頃に、文学青年にありがちなことなのですが、ドストエフスキーにのめり込んでいた一時期があります。倫理的な思想に基づいて老婆を殺したラスコーリニコフが、かえって倫理問題について不器用に執拗に悩むことになり、結局は頭を抱え込んできりきり舞になって一少女に跪(ひざまづ)いてしまう姿に共感を覚えたりはしたのですが、それとは逆にどうしても分からなかったことがありました。

確か『カラマーゾフの兄弟』のイワンが大審問官のところで「神がいなければすべてが許される」というテーゼを提示し、それについて深く思い悩む自分の姿をアリョーシャに晒しますね。

イワンの悩みは、理屈ではそれなりに分かるような気がするのです。でも、神という唯一神あるいは絶対を失うことによる世界崩壊への畏れ・おののきの深度をまったく共有できないと当時も思いましたし、いまでもそうです。

とはいうものの、他方では、表現するという行為そのものに、時代や民族の違いを超えた普遍への志向性が不可避的に織り込まれているとも考えているのです。特に、良い音楽を聞いたときにそれを強烈に感じます。

むろん私は、文字表現の普遍性をも信じます。信じようとしています。しかし、ときどきどうしようもない壁や断絶を感じることがある、ということです。これは、未だにあまりうまく処理できていないことです。

「批評の基準」についていま思うのは、洋の東西を問わず、優れたエコノミストについて語っているとき、私は、文芸批評を展開している面白さとほとんど同じものを感じているということです。文学者とエコノミストでは世界を写し取り、切り取るツールが違うのはもちろんです。

しかし、優れたエコノミストには、強烈で魅力的な個性があります。それが、こまかい経済学的な「さかしら」を伸びやかにのりこえて、彼らが経済の言葉で世界を語り、自己を語る哲人あるいは表現者の面持ちに近づいてくる源になっているように感じています。経済エッセーについては、もっともっと書き込んで、予備知識抜きでも読み手が楽しめるようなものを書けたらなと思っています。

市民化された経済学。これって、一般国民が主権を本気で担おうとすれば必要になってくるものですね。その課題を自分の力の及ぶ分だけでも担うことができれば、といささかなりと思いはじめています。まずは、自分がちゃんと経済の基本を分かっていることが最低基準ですね。ブログで私見を公開する気持ちには、誤った認識があればそれを読み手に率直に正してほしい、ということもあるのです。

〉欧米圏の生活意識と言語との関係に精通しているわけではない私たちには、そもそも公平な比較というのは不可能なのではないでしょうか。そのことも押さえておく必要があると思うのです。

おっしゃる通りです。ここを見過ごすと異文化についてバランスの悪いことを言ってしまいそうですね。適切なアドバイスとして受けとめます。

日本語の特性のご指摘については、特に⑤にはっとさせられました。

〉⑤またまた関連するのですが、「辞」に関するかぎり、いろいろと品詞分類がなされてはいるものの、音韻が同じならばそこに込められた生活感情、生活思想はアルカイックな時代では同じだったのではないか

助詞にはそれぞれ、おそらくもともとのなにか核になるような意味合いがあるのでしょう。それをつきつめると面白いことになるような気がします。なんとなくですが、身体性に深く関わる生活感情・宗教感情・宇宙感覚に根ざしているものが多いのではないかと感じます。

ちょっとずれますが、語源って、本当に興味深いと思います。

たとえば、「いかづち」。「いか」は「いかつい」「いかめしい」の「いか」に通じているようで、形容詞「厳し」の語幹だそうです。「づ」は助詞の「つ」で、「ち」は、「おろち(大蛇)」「みなち(水霊)」「つち(土)」「ち(血)」の「ち」と同じく人並み外れた過剰な生命力・霊力を意味するそうです。漢字を当てれば「厳つ霊」となるとのこと。つまり、畏怖・敬服の念を起こさせるスーパー・パワーの意で、大蛇とか神様とかをばくぜんと指していたのが、後に、雷を特に指す言葉になったそうです。これは、むかし塾を経営していたときに雇っていた女の先生が国文学出身で、万葉集の話をしているときに教えてくれたことです。古代の人々の生活感情を垣間見る思いがしませんか。雷はおそらく「神(あるいは上)鳴り」で、その読み方に古代の痕跡を留めているのではないでしょうか。

とりとめもないのですが、今日はこんなところで。


*****

シリーズの10回目です。これでとりあえず終了です。小浜逸郎氏には、内容の確認・精査で多大のお手数をおかけしました。ありがとうござます。また、あまり一般的とは言えないテーマに最後までおつきあいいただいた皆様には心から感謝申し上げます。

しばらく時勢と一定の距離を置いて、小浜氏との対話に心静かに没頭しました。これからまた、喧騒の渦巻く「娑婆」に戻って、声の続く限り咆哮しようと思っています。なにせ、もともとブログ名が「オレにも言わせろ」というお世辞にも上品とは言えないものですから。らしく、しなくちゃね。

☆☆☆☆☆

美津島明様

「大前研一批判」、読みました。ただただ感嘆いたしました。エネルギーとスピードがすごいですね。とはいえ、やはり私の経済音痴は克服できないので、前半に関しては美津島さんの論理についていくのがやっとです。自分で見破ってみろと言われたら、たぶんできないと思います(だまされてしまいそうです)。

ただ、後半の大前のひどさについては、私でもわかりました。要するに彼は「デフレ不況」の状況認識を同語反復しているに過ぎないのに、あたかも正当な因果関係論理であるかのように偽装しているということですよね。そうして「少子化」などという受け狙いの「自然現象」を、何の根拠もなく飛躍した「原因」として持ってきて、説得力があるかのように大衆を欺瞞している、ということだと思います。

ひとつ、緊急時には、マクロ経済を動かすことが唯一可能な中央集権(時には独裁)こそが必要とされるのだ、という理念的な正当性は十分理解できるのですが、そういう正論をきちんと理解し、実行にまでもっていける政権担当者や優秀な官僚の出現をいまの日本で期待できるのか、という点で、国民は絶望感と不安を深めており、まさにそのために、大前や橋下のようなインチキ野郎たちに付け込む隙を与えてしまっていると思うのですが、この点についてはいかがでしょうか。

いやいや、この質問が美津島さんの現在の闘志に冷水を浴びせることになるのではないかと恐れます。無視していただいてけっこうです。

それにしても、美津島さんのこの間の仕事は一級の価値があると、私は身びいき抜きで思っているので、何とか「本」の形で報われるといいですね。これまで出版社四社の編集者に紹介はしているのですが(みな消費税増税反対論者です)、まだお声はかかりませんか(笑)。でも、私などが動いても限界があります。これだけ力のある論考なら、編集者の誰かが必ずマークしているはずで、もしそうでないなら、編集者全体が衰弱している証拠でもあります。切ない状況ですね。

「ブログ異論」のやり取りに関しては、さっそくに誠実なお返事を頂き、恐縮です。大森荘蔵に対する私の批判をよくご理解いただき、しかも的確に、手際よくまとめてまでくださるとは。

大森については、じつはもっと根本的な批判をしており、言哲で彼を紹介した折にはけっこうイカレていた部分もあったのですが、よくよく読んでみた後のいまの時点では、7:3くらいの割合で、この人はダメだなと思っています。いわゆる「哲学者」特有の視野の狭さを示しており、また、戦後思想の限界も露出しているようです。彼の「心」論などは、すでに60年も前に和辻が、まるで事態を予見していたかのように、完膚なきまでに粉砕しているのです。この事実は、戦後思想家、丸山、吉本、大森と、戦前の思想家、和辻、小林、時枝を比較した場合、戦前のほうがずっと優れていた、という残念な結果として現われています(というのは、まあ、私個人の恣意的な評価ですが)。

この評価が正しいとすると、そこにはどうも社会状況的な理由がありそうです。それについてはそんなにきちんと考えていないので、また機会を改めて。

今回、言葉の問題について、いろいろと有意義な示唆を与えていただいたのですが、それについてお返しをしていると、また相当時間をかけなくてはならないので(それは私にとっても必要なことでもありますから、煩をいとうているわけではありません)、少々待っていただいて、続編を送ります。


*****

小浜逸郎様

ご返事ありがとうござます。追加がおありとのことですが、とりあえず返信いたします。

〉前半に関しては美津島さんの論理についていくのがやっとです。自分で見破ってみろと言われたら、たぶんできないと思います(だまされてしまいそうです)。

これは、けっこうショックでした。プロの読み手の小浜さんに苦労をかけてしまうような読み物だったら、一般人には到底無理、ということになるでしょう。「市民のための経済学」などとブチ上げておいて、情けないこと限りない。

まだまだ、経済について分かっていないことが多いのでしょう。分かっていないから、読む人に負担をかけてしまうのでしょう。本当に分かっている人は、アダム・スミスのようにごく平易な言葉使いで世界の見方をひっくり返してしまいますね。

私には、分かっていないことを分かっていないと認めるだけの率直さがまだ残っていますから、できうるかぎり善処いたします。ご指摘、ありがとうございます。

〉ただ、後半の大前のひどさについては、私でもわかりました。要するに彼は「デフレ不況」の状況認識を同語反復しているに過ぎないのに、あたかも正当な因果関係論理であるかのように偽装しているということですよね。そうして「少子化」などという受け狙いの「自然現象」を、何の根拠もなく飛躍した「原因」として持ってきて、説得力があるかのように大衆を欺瞞している、ということだと思います。

おっしゃるとおりです。これだけ明晰に批判の論点を整理していただけると助かります。もし、大前氏が大真面目にこんな論理の破綻したことを堂々と自信を持って言っているのであれば、彼は普通の意味で頭が良くない人であることになってしまいます。もし、ワザと論理のめちゃくちゃな論を世に垂れ流して一定の効果が生じるのを期しているのであれば、悪質なソフィストと言えるでしょう。どちらが正しくても、彼のデフレ論は殲滅されなければなりません。影響が大きすぎるので。

〉ひとつ、緊急時には、マクロ経済を動かすことが唯一可能な中央集権(時には独裁)こそが必要とされるのだ、という理念的な正当性は十分理解できるのですが、そういう正論をきちんと理解し、実行にまでもっていける政権担当者や優秀な官僚の出現をいまの日本で期待できるのか、という点で、国民は絶望感と不安を深めており、まさにそのために、大前や橋下のようなインチキ野郎たちに付け込む隙を与えてしまっていると思うのですが、この点についてはいかがでしょうか。

私は、そういう人が現に少なからずいるのではないかと思っています。国会議員さんの中に(民主党の中においてさえも)、そういう人は散見されます。名前を挙げると、私が知っているだけでも、民主党系では馬淵澄夫、金子洋一、宮崎岳志、松原仁(心意気を買って)、長妻元厚労省相(リターンマッチの情念を期待して)、新潟県の泉田知事(とても賢い人です)、自民党系では、森まさこ、西田昌司、山谷えり子、稲田朋美、高市早苗、林芳正、共産党では佐々木憲昭、たちあがれ日本では平沼さんと園田さん(いずれも年を食っていますが)などそうそうたるメンバーがそろっています。ただし、彼らにはいまのところ実権がまったくない。それこそが問題ですね。彼らの周りには、想像ですが、良質な官僚たちが集っているはずです。だから、世論の援護射撃が必要なのではないかと思っています。良き世論の形成は、まともな知識人の仕事のうちとても大切なものですね。

〉それにしても、美津島さんのこの間の仕事は一級の価値があると、私は身びいき抜きで思っているので、何とか「本」の形で報われるといいですね。これまで出版社四社ほどに紹介はしているのですが(みな消費税増税反対論者です)、まだお声はかかりませんか(笑)。でも、私などが動いても限界があります。これだけ力のある論考なら、編集者の誰かが必ずマークしているはずです。

そこまでしていただいているとは。言葉もないくらいに感謝します。出版の話があればそれはもちろん掛け値なしに嬉しいです。けれども、それがなくてもこのブログはやり続けようと思っています。小浜さんのように声援していただける方がいらっしゃるので、心強いこと限りない思いです。

〉この事実は、戦後思想家、丸山、吉本、大森と、戦前の思想家、和辻、小林、時枝を比較した場合、戦前のほうがずっと優れていた、という残念な結果として現われています(というのは、まあ、私個人の恣意的な評価ですが)。この評価が正しいとすると、そこにはどうも社会状況的な理由がありそうです。それについてはそんなにきちんと考えていないので、また機会を改めて。

これは、日本思想のとてつもなく大きな問題であるような気がします。戦後思想の「思い込み」を木っ端微塵にしてしまうとてつもない知的「暴力」を感じます。このことと、「戦後日本の唯一の達成は、人命尊重のヒューマ二ズムが一般国民において根付いたこと」という、私が小浜さんと共有している戦後評価とはメダルの表と裏のように感じています。

言葉の問題については、小浜さんからの追伸があるとのことなので、今回は触れない方がいいようですね。

*****

美津島明さま

まず、私が、美津島さんの論理についていくのがやっとだった、と申し上げたことについて。

> これは、けっこうショックでした。プロの読み手の小浜さんに苦労をかけてしまう ような読み物だったら、一般人には到底無理、ということになるでしょう。「市民のための経済学」などとブチ上げておいて、情けないこと限りない。

プロの読み手、と評価してくださることはありがたいのですが、こと経済に関しては、基礎もわかっていない本当にダメな読み手なのですよ。なんとケインズもほとんど読んでないので、あきれた読み手でしょう。単純にそういう私固有の理由で苦戦したということなので、書き手である美津島さんがそんなに謙虚にならなくていいと思いますよ。貴兄は、これまでの論考で、田村秀男さんの論理を援用しつつ、やさしくわかりやすく、繰り返し繰り返し噛み砕き、しかも面白く書いてくださっているので、デフレ時の増税がいかに国際常識、経済学の常識にも背反するナンセンスであるかについては、十分理解できているつもりです。

> もし、大前氏が大真面目にこんな論理の破綻したことを堂々と自信を持って言っているのであれば、彼は普通の意味で頭が良くない人であることになってしまいます。もし、ワザと論理のめちゃくちゃな論を世に垂れ流して一定の効果が生じるのを期しているのであれば、悪質なソフィストと言えるでしょう。どちらが正しくても、彼のデフレ論は殲滅されなければ なりません。影響が大きすぎるので。

これはどちらかと問われれば、やっぱり前者なのではないかな、と思います。ことほどさように、心理が同時多元的に作用する経済という魔界に、論理の楔を打ち込むのは、けっこう難しいのではないでしょうか(音痴の自分を自己正当化しているみたいですが(笑))。

現実に切り込むための人間の論理の道具というのは、「因果関係論理」と「二元論」と、二元論の克服としての(やや怪しげな)「弁証法」くらいしかない。ことに現在のような金融資本が主役で、その動きが実体経済と遊離してしまっている時代になると、何を「因」として押さえれば適切な分析となるのかは、私などにはお手上げです。専門家であるはずの経済学者たちの結論も、ずいぶん前からバラバラですよね。

で、この問題(何をポイントとして重要視すべきか)は、この魔界に究極的な「真理」の力学が隠れているというよりは、むしろ新しい経済思想を創造するという問題なのではないか、と、素人の私などは考えてしまいます。つまり、「価値自由の法則」を貫く分析などはありえず、分析がそのまま、一つの価値観、思想の提示になるのではないか、と。

美津島さんもおそらくその線に沿って論を展開されていると思います。前回の、「市民化された経済学」の創出に闘志を燃やす文面にも、今回のメールにもその気迫を感じましたので、どうぞ私の水差しなど気にせずに突き進んでください。わかる人にはちゃんとわかるように書かれていると思います。

ただ、経済となると、やはり「音痴」が多いのも事実で、みんな理解(創造的理解)を諦めているようで、だからこそ「専門家」と称する百鬼夜行の世界になってしまうのですね。こういう世界で鬼たちをなぎ払い、説得力ある論理、理論を打ち立てるのは、さぞかしたいへんだろうなと推察いたします。それでもがんばっている美津島さんの情熱と心意気に改めて心から声援を送ります。

中央権力を、責任をもって担いうる人がいるのかという問題について。

> 私は、そういう人が現に少なからずいるのではないかと思っています。ただし、彼らにはいまのところ実権がまったくない。 それこそが問題ですね。彼らの周りには、想像ですが、良質な官僚たちが集っているはずです。 だから、世論の援護射撃が必要なのではないかと思っています。 良き世論の形成は、まともな知識人の仕事のうちとても大切なものですね。

まったくそのとおりですね。こういう大切な原則を再認識させてくれたことに関して、とても心強いものを感じます。加えて、貴兄がよく政治家の言論を調べているのに感心しました。

蛇足ですが、今日たまたまラジオで国会質疑を聞いていて、どうも自民党の心ある議員たちは、「消費税増税」が悪政であり、財政再建よりも景気刺激策のほうがはるかに喫緊の課題だということにうすうす気づき始めているのではないか、という印象を持ちました(ただし、増税が税収入の増加に繋がらないという肝心な点を質疑で公然と指摘する人は誰もいないようです)。といって、自民党全体でいまさら増税路線を引っ込めることはできないので、この党はジレンマに陥っている感じです。

戦前の思想家のほうが優れているという私の指摘について。

> これは、日本思想のとてつもなく大きな問題であるような気がします。このことと、「戦後日本の唯一の達成は、人命尊重のヒューマ二ズムが一般国民において根付いたこと」という、私が小浜さんと共有している戦後評価とはメダルの表と裏のように感じています。

これもそのとおりですね。ここはとても考えどころのような気がします。粗雑な類推ですが、苛酷な帝政ロシアで、世界最高水準の文学が生まれましたね。戦後の冷戦下の日本では、一人ひとりは必死にがんばっては来たのだが、無意識のうちにその大局的な構造に安住して(東か西か、左か右かのどちらかに依存して)、本当の創造性が殺がれてしまい、ついに混乱、中途半端、矛盾した思想しか生み得なかったのではないか、と、そんなふうに思います。ここに、敗北の後遺症としての生命価値の過剰な(と、今回はあえて言いますが)尊重という傾向も絡んできますよね。

この間話し合ってきたことと矛盾するようですが、艱難、汝を玉にす、とか、家貧にして孝子いづ、というようなことが、ある特定社会の内部でも一定程度までは成り立つような気がするのですが(あくまで、これは比喩としてです)。もっとも、北朝鮮で優秀な思想が生まれつつあるとはとても思えませんが(笑)。

さて、たまたまロシア文学に触れたところで、先の貴兄の問題意識の一つにうまく接触できたようです。

> 確か『カラマーゾフの兄弟』のイワンが大審問官のところで「神がいなければすべてが許される」というテーゼを提示し、それについて深く思い悩む自分の姿をアリョーシャに晒しますね。イワンの悩みは、理屈ではそれなりに分かるような気がするのですよ。でも、神という唯一神あるいは絶対を失うことによる世界崩壊への畏れ・おののきの深度をまったく共有できないと当時も思いましたし、いまでもそうです。

このご指摘については、二つのことを考えました。

①イワンは、一見悪魔的なことを言うように見えて、きわめて知性的・倫理的なキャラですね。アリョーシャの信仰があまりに初々しく素朴なので、それに対する近代的な懐疑を意識的に対置して、ギリシャ正教の風土における「神」問題の難しさ、ややこしさを喚起させたのだと思います。ドストエフスキーの緊張感ある内的な対話を聞く思いがします。

ところで、「大審問官」のくだりで印象的なシーンが二つあります。粗相をした幼女が親からウンチをなすり付けられてトイレに閉じ込められ、泣きながら「神ちゃま」と手を合わせるケースを取り上げて、「こんな神様なんか犬に食われろだ」とイワンが言う場面が一つ。もう一つは、異端糾問の盛んなセビリアにイエスがひそかに現われたのを大審問官が見破り、「お前は大衆というものを過大評価しすぎて彼らに自由を与えたつもりだが、彼らは自由よりはパンを欲するのだ。お前は余計なことをした」という意味のことを言ってイエスを非難し、イエスはそれに言葉では答えずただ接吻を返した、とありますね。

イワンは、簡単に言えば、「内面の自由」とか「絶対的理想」の象徴としての「神」と、現実の生活感情、欲求、慣習、道徳、情愛などのリアリティとを鋭く対置させて、そういう論理形式によって自分の悩みを表現していたのだと思います。そう考えると、文化的な違和感は多少あるかもしれないけれど、吉本さんが「関係の絶対性」なる観念の前で佇立(ちょりつ)したのと同じで、けっこう普遍的な思想テーマを突き出していると思うのですよ。

*「関係の絶対性」は、故吉本隆明氏の『マチウ書試論』にある言葉です。吉本思想に関心を持つ人たちの間で、とても有名な言葉でもあります。この、詩的直観に貫かれた言葉の意味については、論者の数だけの受けとめ方があるというよりほかはありません。差し当たり、倫理的な孤立を強いられた者が、自らの反逆の根拠を求めるうちに突き当たらざるをえない思想的難所を指し示す言葉であると申し上げておきます。私見によれば、近代日本で初めてそれに突き当たった存在は、二葉亭四迷『浮雲』の主人公文三です。(編者注)

②文化的な違和感の問題ですが、私は最近、親鸞をやっていて、つくづく思うのですが、鎌倉仏教、ことにひたすら称名念仏を勧める浄土教のそれは、限りなく一神教に近いという印象を持ちます。偶像崇拝に対する否定的な言及もあるし、依拠している、大乗仏典の浄土三部教のうち、ことに観無量寿経において浄土のすばらしいありさまを五感による想像力を駆使して絢爛と描き出したシーンに対しては、法然も親鸞もほとんどまったく興味を示していないのですね。阿弥陀様への深い信仰心だけが、唯一のよりどころです。私には、この絶対信仰のあり方は、イエス、ルター、カルヴァンなどと共通していると思えてなりません。

これは不思議といえば不思議で、というのは、遣唐使廃止以後の平安の世では、鎖国に近い状態が三百年も続き、あまり文化の東西交流が盛んな時代ではなかったにもかかわらず、その閉鎖的な日本で仏教が独自の発展を遂げ、その究極的な結果として末法思想の極限としての法然・親鸞の登場となったわけです。イエスの登場、原始キリスト教の成立と時を隔てること、およそ千年です。

で、何が言いたいかというと、橋爪・大澤両氏の『ふしぎなキリスト教』は、ことさら日本人の感性にとってユダヤ=キリスト教、イスラム教などがいかに「ふしぎ」に見えるかというその秘密を読み解くというところに主眼を置いた本ですが、いま私が述べたことを考慮に入れると、じつはそんなに「ふしぎ」ではなく、ちょうどヨーロッパに発したとされる「近代文明」なるものが、今では全世界に広がって(たとえば公式的な場面でのスーツ、椅子、テーブル)、どこでも同じような方向に向かっているのと同じように、この東西共通の現象には、一種の歴史的必然のようなものがあるのではないか、ということです。その心は、と問われるなら、一応、ヘーゲルの言う「人間はみな自由を求め、それを現実化していく存在だ」という本質規定に求められるのではないでしょうか。こう考えると、先の貴兄の、イワンの悩みに対する違和感、西洋の言語文化に対する壁や断絶感(もちろん、私もそれを共有していますよ)も、多少は減殺されるのではないでしょうか。

言語の問題について。

> ちょっとずれますが、語源って、本当に興味深いと思います。

そのとおりですね。これに続く、「いかづち」の解釈、とてもおもしろいですね。これを読んで、柳田がけっこうこの種のことをやっていたのを思い出しました。彼が指摘していたのでおぼえているのは、「柵(さく)」「迫(さこ)」「境(さかい)」などが、村のはずれの極まったところ、テリトリーの内側と外側を隔てるところ、という概念で共通しているという例です。これらは、地名、人名などにも反映しています。長野県に佐久という土地がありますね。境港、大阪府堺市などもたぶん同じでしょう。

考古学的な根拠はありませんが、私が思いつきで引いてきた例に、「話す」「離す」「放つ」は、語源的に同じではないかということ、「語る」と「騙る」は両者相まって言語の本質を言い当てているのではないかということ、また、これはまだ言っていませんが、「音」「訪れる」は、もともと同じ概念ではないかということ、などです。

こう考えてくると、「辞」にかぎらず、「詞」においても、古代人の生活感情からして共通していると感じられた概念には共通の音韻を当てた、ということもかなりの程度で言えそうな感じがしてきますね。ただ、この種の問題に興味を持ち出すと、前にも書きましたが、怠け者で教養のない私としては、なんだか途方もないことに手をつけてしまうような気がして、正直、げんなり、です(笑)。

今日は、このくらいで。

*****

美津島明さま

ブログエントリー42と43、(「非ケインズ効果」についての議論―編者注)読みました。前回のお返事を待たずに、もう一つ送ります。

いやいや、美津島さんの敵たちの飛躍した論理(没論理)、ひどいものですね。特に、国民が政府の財政危機を本気で心配しているとか、増税によって長い目で見れば景気は回復するなどといった滅茶苦茶な展開、どうしようもないですね。

政府、財務省、日銀は、言ってみれば貸主をだまして借金を踏み倒そうとしている狡猾な借主と同じで、詐欺師や泥棒の手口と変わらないと言っても過言ではありませんね。彼らのフトコロ事情を、どうして貸主である一般国民が心配してやらなくてはならないのでしょう。

この人たちの最大の問題は簡単なことで、要するに、普通の国民の生活意識、生活感覚に対する想像力をまったく喪失しているということでしょう。でも経済学って、本来、国民一人ひとりの生活を豊かにするにはどうすればよいか、という問題意識から生まれた学問ですよね。それが権力村に媚びるだけのこんなていたらくでは、ほんとうに学問の名が泣きますね。

経済言論界における逆境にめげず、がんばってください。味方も少しずつ増えていると思います。三橋貴明さんが、貴兄が引用されているのと同じ趣旨の新刊を出したようですね。

『日本は「国債破綻」しない! ソブリンリスクとデフレ経済の行方』実業之日本社
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批評家・小浜逸郎氏との対話Ⅱ (イザ!ブログ 2012・6・4~6・6 掲載分)

2013年11月19日 20時34分52秒 | 対話
私は、小浜氏に、思想的な営為において使う言葉の孕まざるを得ない矛盾・限界についてお尋ねしました。対する小浜氏は、それを「頭と身体の矛盾」のようなものという言い方でうまく言い当ててくれました。

そこから、私の思考は、どう返事を書こうかと思案するうちに、夏目漱石が指摘した(言葉は正確ではありませんが)「近代そのものの性急さと、日本が近代を西洋から移植することにまつわる性急さの二重性」という日本近代特有の問題に及びました。さらに、小林秀雄がプロレタリア文学の累々たる思想的屍(しかばね)を目にしながらつぶやいた言葉のいくつかが自ずから浮かんできました。次の返信は、そんな状態で送ったものです。

日本近代の特殊性はマイナス・イメージで語られるのが一般的であり続けてきました。そういうものと言い切れるものでもないだろう、というのが私の返信の主旨です。つまり私に、「頭と身体の矛盾」を強いる歴史的背景の可能性としての肯定的な一面に目を向けようと試みたのが以下の文面です。

☆☆☆☆☆

小浜逸郎様

私の、自分でも何を気にしているのかいくぶん不明なところを抱えたままの問いかけにして、これ以上はないような誠意にあふれたご返事をいただけたことを、心の底から嬉しいと思っています。

小浜さんの、「ぎりぎりの回答」に対して、私がお返しできる言葉は、それほど多くありません。

だから、無理やり話を広げようとすることは慎んで、一つだけお伝えしておこうと思います。

仕事帰りの電車の中で、小浜さんのメールの内容を頭の中で振り返るともなく振り返っていたら、脳裏に小林秀雄の『私小説論』のなかのあの有名なキー・ワードである「社会化された私」がひょっこりと浮かんできました。そうして、その言葉が、これまで とちょっと違うニュアンスを帯びているように感じられたのです。

確かその言葉は、ルソーの『告白』を取り上げたところで、「ルソーはたしかにここで 私の告白をしている。ただし、その私は、あらかじめ社会化された私なのだ。」という ふうな言い方がされていたと記憶しています(本がどこにあるかすぐに探し出せないので不正確ですみません)

そこから後は、読者が勝手に補助線を引いて、その真意をさぐるほかないような感じではなかったでしょうか。

私は、これまで「だから、西欧での告白は、日本のように私小説にならないのだ」という理解の仕方でした。

さらに、「だから、社会化されない私の告白としての、日本の私小説は、近代小説たりえないのだ」と小林は言おうとしていると、私は考えていたような気がするのです。

むろん、小林秀雄が「だから日本の私小説はダメなのだ」とまでは言っていないのは確かです。

しかし、私小説を積極的に評価する、ということでもなかったと記憶しています。

ここからの話は、私小説から離れます。

「社会」という言葉がsocietyの翻訳語であることから分かるとおり、「社会化」という観念的な営為は、とりあえずは日本の歴史・習慣とは切れた、意識的さらには人工的なものではないかと思うのです。その営為の繰り返しによって、ある程度は日本の精神風土に根付くところがあることは思いますが、翻訳語であるという出自はどうしてもその痕跡を残すのではないでしょうか。

とはいうものの、他方では、国際社会の中で日本がまともな形で、つまり独立国として生き残っていくには、 とにもかくにも、資本主義経済を発展させなければならいないし、政治制度もそれに対応した近代的なものに切り替えていかなければならないし、絶えず更新しなくてはならないというリアルな圧力を、私たち日本人は庶民レベルにおいてもこれまで感じ続けてきたのではないでしょうか。

だから、いくぶん「他所行き」の着心地がしても、日本の「私」は「社会化」に対していやいやながらも開かれ続けてきたし、その舶来の着物を身にまとおうとも努めてきました。

また、そのことで、(第二次世界大戦における敗北という大きな代償を払いながらも)豊かな社会を獲得するという大きな国民的な成果を得ることにもなりました。

私はなにを言いたいのか。

欧米人にとって歴史的・習慣的であるがゆえにほとんど無意識的な「社会化」が、日本人 にとっては、そうではないがゆえに極めて意識的・自覚的なものとなるからこそ、「社会化」されない残余の「私」の領域についての感知が、そっくりそのまま豊かに残されているのではないかと言ってみたいのです。

だから、吉本さんによって(おそらく近代世界思想で)はじめて「共同幻想」と「対幻想」の峻別が思想として明確に打ち出されることにもなったし、個人的なレベルでは、私がこれまで述べてきたような、思想上の居心地の悪さを小浜さんに訴え、小浜さんからそれに対して、深い明晰な言葉で感応してい だくことにもなったのではないかと思うのです。

この、「社会化」されない残余の「私」の領域について、そこをprivateという個人主義的な硬い言葉・ニュアンスで塗りつぶしてしまいがちな(と私には思える)欧米人の感度には、正直なところ、あまり豊なものが感じられません。この領域を語る微細で繊細な言葉を、かれらはあまり持ちあわせていないような感じがするのです。

もしかしたら、ここは日本人の独壇場なのかもしれないと思ったりもするのです。大きな世界思想が生まれる、生き生きとした沃野を私たちは手にしているのかもしれない、と。

「春雨じゃ、濡れて帰ろう」。これについて、欧米人も分かるような語りができたら、世界はその分豊かになりますよね(笑)。

小林秀雄が直観的に掴んだものを、知的に掴みなおす入口に私たちが立つことができる ほどには、歴史には進展があったのかもしれませんね。

大風呂敷を広げてしまいました。このあたりで終わります。


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その後すぐに小浜氏から返事が来ました。

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美津島明様

間髪をいれずにお答えする私の性急な癖に辟易するようでしたら、どうぞ、十分な間合いを取ってください。

日本が近代化に当たって、不慣れな「社会」概念をそれなりに消化しつつ、やっぱりいくぶんの消化不良を残してきてしまった、そしてその「澱」のようなものをよく見つめることには、それなりに深い意味があるということ、これはそのとおりと思います。

> 欧米人にとって歴史的・習慣的であるがゆえにほとんど無意識的な「社会化」が、日本人 にとっては、そうでないがゆえに極めて意識的・自覚的なものとなるからこそ、「社会化 」されない残余の「私」の領域についての知が、そっくりそのまま豊かに残されているのではないかと言ってみたいのです。この、「社会化」されない残余の「私」の領域について、そこをprivateという個人主義的な 硬い言葉・ニュアンスで塗りつぶしてしまいがちな欧米人の感度には、正直なところ、あまり豊かなものが感じられません。この領域を語る微細で繊細な言葉をかれらはあまり持ちあわせていないような感じがするのです。もしかしたら、ここは日本人の独壇場なのかもしれないと思ったりもするのです。大きな世界思想が生まれる、生き生きとした沃野を私たちは手にしているのかもしれない、と。

この指摘もそのとおり、と拍手を送りたいのですが、本当の問題は、私たちが西洋文化を摂取するその仕方に、もともと当然の限界がある、ということなのではないかとも思うのです。文化的な伝統がこれだけちがえば、一種の誤解のようなものが生まれるのは、いたし方のないことですよね。

じつは、私たちが把握できないところで、彼ら西洋人も、「微細で繊細な」感性を持ち合わせているのではないでしょうか。そうだとすれば、だからこそ、私たち日本人の感性を言語化して、それを人間の普遍的なあり方として世界発信する意味もあろうというものです。

貴兄がこの前、ブログで茂吉の短歌を取り上げて詳しい分析をされていましたね。じつは私も、「七人の思想家」の大森荘蔵の章で、期せずして子規、晶子、定家の短歌を取り上げて、同じような分析をしてみたのです。これは、大森に対する批判の文脈のなかでです。

要するに、大森は、「心と物」の二元論的枠組みにはまっていて、前者を否定して後者に「心」のありどころをすべて明け渡すという極端なカウンター論理に落ち込んでいる。いわゆる「西洋哲学的枠組み」を一挙に破壊しようとの問題意識が強すぎる分だけ、文学的感度が足りないのです。

*上記の「西洋哲学的枠組み」とは、主観(心)-客観(物)の二元論のことです。近代西欧哲学の歴史とは、この、哲学的な基本的前提をめぐっての、言語による格闘の歴史であると申し上げても過言ではないでしょう。また、「主観-客観」問題を「存在」問題と言いかえることもできるでしょう。そういう意味で、近代西欧哲学は、これまでずっと「存在」問題を中心的なテーマとして展開されてきたともいえるでしょう。つまり、「存在物」を「存在物」たらしめる「存在」とはいったい何なのかをうまく言い当てる説得のゲームを繰り広げてきた、と。大森氏は、そのような、近代哲学を根のところで規定してきたものを一気に乗りこえようとしてちょっと力あまって自ら土俵を割ったところがあるのではないか、というのが小浜氏のお話ではないかと思われます。

自然詠そのものを「通して」心を表現するというのではなく、自然詠と見えるものが、じつは高度な技巧に裏付けられて、そのまま「心」の表現にもなりえている、というのが短歌芸術のひとつの粋である、と私は思います。

で、こういう繊細かつ微妙な世界感受というのは、私たちが西洋人のそれを十分に把握できないだけで、じつは西洋人の生活感覚の中にもあるのではないか、というのが私の想定です。

思いつくままに、一例を挙げます。

私は、スティーブン・キングの『スタンド・バイ・ミー』に感動するのですが、あの作品で、小学校高学年の子どもたちが、なぜ同年齢の子どもの死体が放置されているという情報を得たために、あれほど興奮して、親をだましてまで長旅を覚悟でそれを見に行こうと決断するのか。学校生活に飽きたらず不良ぶっている思春期前期の浮遊した境地にある少年たちならば、日本人でも必ずそういう衝動を抱くと、私には思えます。彼らは、自分たちだけの濃密な生活感覚の共有を通して、規範とは無縁な形で、いわば裸形の「死」、人間は死ぬものだという切迫した直感に大きく支配されてしまった。

むろん、この事情は、彼らアメリカ人の家庭環境が、日本以上に壊れていることに大きく関係していることはたしかなのですが。これらを見事に表現しているこの作品は、人間の普遍的な「症状」の提示を成し遂げているがゆえに、私たち日本人にも共感を喚起することに成功していると思えます。

つまり、月並みな言い方ですが、文学、芸術は、政治思想、社会思想に比べれば、相対的に、「国境を越える」ことがより深く可能なのではないでしょうか。そういうことを、日本思想の世界発信という逆の立場から見るならば、貴兄の指摘するとおり、わが日本人の伝統である「生き生きとした沃野」を存分に利用しない手はないですよね。

今日は、これくらいで。

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上記のなかの「じつは私も、『七人の思想家』の大森荘蔵の章で、期せずして子規、晶子、定家の短歌を取り上げて、同じような分析をしてみたのです」の箇所に該当する部分を添付ファイルで合わせていただきました。以下にそれを掲げます。これは、今年の9月をメドに出版される本の一部分を成すものです。

私が述べた形容詞論の要諦を箇条書きにしてみよう。

①形容詞は、人間が事態に直面したときに真っ先にその事態を表現する素朴で原始的な私たちの感性をそのまま保存している。

②時枝が示した、述語格こそが文の基本であって主語はその中から後に抽出されたものであるという認識は、私の形容詞観と共鳴するもので、時枝が文法的に「述語格」と呼んでいるものは、たとえ文法的に形容詞ではなくとも、形容詞句または、形容詞的陳述とみなすことができる。


*「時枝」とは、言語学者時枝誠記(ときえだもとき)のことです。主著は『国語学原論』です。上記の記述は同書中にあります。同書は、数年前に岩波文庫から出ています。ついでながら、今からふりかえれば、私は同書から決定的とも言える思想的な影響を受けています。(美津島)

③形容詞は、便宜的には、.対象の様態を表現するもの、.主体の心情を表現するもの、.両者の中間に属するもの、の三つに分類できるが、ととは相互に置換可能で、にこそ形容詞本来の機能が凝縮されて表されている。

さてこの観点から大森の右の主張を捉えなおすと、そこにやや粗雑で性急な決めつけの印象が目立ってくる。大森の関心は、自然を死物化から救い出して活き活きとした生命を吹き込みなおすというところよりも、どちらかといえば、「私の心の状態」という閉鎖系を否定してその扉をこじ開け、「心」なるものが本来、すべて自然の属性なのだという論理のほうに大きく引き寄せようとしているところにある。

もちろん、こう言えば、おそらく大森は、両者は同じことだと答えるであろう。だが、「陰うつな空」「陽気な庭」なる形容が可能であることだけをもって、自然のすべてが「有情」であり、「心的」なものであると規定するのは、いかにも極端である。というよりも、大森はここで、三つの点を見落としている。

一つは、世界の一定の様相に対してある感受なり認識なりが成立するためには、その世界内の一部として位置を占め、みずからも含めたその世界を把握する主体の存在という「項」(ハイデガーを借りれば、世界内存在としての実存、現存在)がどうしても必要とされるということ。

二つ目は、「陰うつな空」とか「陽気な庭」といった表現があくまでも「言葉」であり、そのような「言葉」が成立するのは、人間主体がその時々にこの世界を一定の「意味」として「切り取って生きている」証しであるということ、つまり、空が「陰うつ」であるのは、空が有情であったり心的であったりするからではなく、空と主体とが交流しているその交流関係の様相が有情であり心的であるのだということ。言い換えると、ちょうど先に指摘した形容詞の両面性が象徴しているように、あくまでも空が「陰うつ」であると同時に、「私」の気分もまた「陰うつ」なのであるということ。前章で挙げた例で言えば、「恐ろしいトラ」というとき、トラ自身が恐ろしい相貌をはじめから持っている(これが大森説の帰着するところである)のと同時に、「私」もまた恐ろしいと感じているのだということ。あえて言えば、トラと私との出会いという場面そのものが、トラと私とのどちらにも還元しきれない「恐ろしさ」という様相を作り出しているのだということ。

そして最後に、大森は、私的な「内心」の存在を否定するのに、ただ「自然物」との関係に限定して「心」という語を定義しつつそうしているのだが、この方法によって「心」を定義しかつ否定するのは、いかにも哲学者流の把握の狭さを代表しているということ。私の考えでは、「心」という言葉はもっと広い内包と外延(簡単に言えば人間同士が関係しあうときに現実性を持つ概念も含んでいる)をもっており、そのことに思いをいたすならば、「閉鎖的な心」を捨てる方向が、必ずしも「自然」にそれを全面的に明け渡すこととは一致しないということ。

ここでは、第一と第二の見落としについて、より詳しく論じるために、短歌表現を援用してみよう。

 くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の 針やはらかに春雨の降る   正岡子規
  金色のちひさき鳥のかたちして 銀杏ちるなり夕日の岡に     与謝野晶子
  見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ      藤原定家

いずれも名歌として名高い。しかし逐語的に意味をたどれば、この三首には「しっとりとしてしかも鮮やかなその姿に、みずみずしく洗われるような気分だ」だの「可憐でありながら華やかに散っていくものたちの美しさ、哀しさよ」だの「かやぶき小屋以外何もない秋の海辺は私の心と同じように寂しい光景だ」といった、私的な情緒を表す言葉はひと言も出てこない。それにもかかわらず、これらの歌がそうした人間の「心」を表現しているということに異論を唱える人はいないであろう。なぜそういうことになるのか。

普通、こうした歌は景物に託して作者の「思い」を歌ったものだとされる。しかしただ景物が散文的に述べられていても「思い」のすぐれた表現にはならない。そこには、まず韻文であるという条件を前提としながら、洗練された短歌に特有の言葉の技巧がいくつも込められていて、だからこそ読む人、聞く人の「心」に作者の真情が深く伝わるのである。ことに子規の歌などは、本人が古今集的技巧を排して「写生」を重んじるなどという歌論をものしながら、それとは裏腹に、最高度に技巧を凝らしたものだといってよい。

つまりこういうことなのだ。大森が述べているように、たしかに「自然」は単なる死物としての知覚対象ではなく、それ自体が活物性をもってはいるのだが、その活物性が活物性として見目鮮やかにあらわれるためには、私たち人間の、それも時にはとびきりすぐれた感性との出会いが不可欠なのである。言い換えると、大森の望むように自然の活物性をまざまざと復元せしめるためには、それと出会いそれに囲まれている私たち自身の「情」をも同時に洗練させることが要求されるのだ。

再び子規の歌について言えば、この歌には「ナ行」音が八回も出てきて、そのうち「の」音が効果的な場所に五回も使われている。さらに耳障りになりやすい擦過音や破裂音は「く」二回、「び」「ば」各一回と極端に制限されていて、それも「薔薇」の「ば」以外は周りの音たちに囲まれて自己主張をかき消されているふうである。こうした音楽的効果の妙が奏功して、一首全体のえもいわれぬしっとり感と「薔薇の芽」の鮮やかさとを演出しているのである。また「二尺」というまことに適切な長さ、「やはらか」を「針」と「春雨」との両方にかけている巧さなどはいうまでもない。写生といえば写生だが、テクニックに満ち溢れた超一級の写生なのだ。こうしてようやくのことで「物」と「心」との見事な調和が図られるのである。

結局、大森のように、「自然」の死物化と「心」の閉鎖との(極端な)二極分解を克服しようと思うなら、単に「自然」そのものが有情であり心的なのであるという論理をデカルト的二元論に対置するだけでは不十分なのであって、かえって、その有情であり心的である「自然」をそういうものとして認める私たち自身の感性、情、情緒、要するに「心」の存在が不可欠なのである。そのような出会いが実現しているとき、もはや「心」は、狭く閉鎖的なエアポケットに迷い込んでいるのではなく、私たちのものでありながら、同時に「物」に対して大きく開かれているのだ。しかるに大森は、二元論克服の情熱に性急に駆られるあまり、私たち人間主体の「心」の自立性を否定するところまで行ってしまったのである。

自然の活物化には、私たち人間という「立会人」がぜひとも必要なのであり、自然に意味(意趣、Sinn)を与え、その意味によってみずからもまた意味づけられるのは、立会人の「心」という、世界に対して閉じられもすれば開かれもする、特有のあり方である。そういう分節項を無雑作に「自然」のほうに押しやることによっては、けっしてデカルト的二元論を本当の意味で克服することはできない


*****

世界規模の欧米化という不可逆的な流れの渦中で、文化ギャップを日本人として思想的にどうとらえるかという一点に話がしぼられてきました。

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小浜逸郎様

いつものように遅れ気味の返事です。お待たせ(?)しました。

今回は、やや反論気味の内容です。

「社会化」されない「私」の領域についての微細で繊細な感性が洋の東西を問わない普遍的なものであり、そのことは主に文学において理解することが可能である、という小浜さんの言は、原則的・総論的にはそのとおりでしょう。私もまた普遍性という概念を手放したくないと思っている者ですから、それには賛成せざるをえない。言葉を世に向けて発することの最終的な根拠は、そこだとも思っています。それがなくて世に言葉を発する表現者を不誠実である、とさえ思ってもいます。

しかしながら、微視的に見ていくと、つまり表現の具体的な局面においては、そうとも言い切れない面があるのではないか、と思うのです。

それは、日本語には「助詞」があって、印欧語にはそれがないという言語の根本性質の相違に関わることがらです。

とは言っても、私は言語学の専門家ではないので、学術的にそれを語るのは無理です。「短歌」の英訳の難しさ・不可能性という具体的な表現問題のほんの一例をあげることで論を展開することをご了承願います。

たまたまインターネットで検索してみたら、格好の話の種があったので、そこから歌を一つだけら引用します。(この論文の全体がなかなか興味深そうです)
http://www.info.sophia.ac.jp/amecana/Journal/10-4.htm

この論文の筆者(サトウ・ヒロアキ)が一番最後に取り上げた、俵万智さんの『サラダ記念日』からの一首を引用します。

 いい男(ヤツ)と結婚しろよと言っといて我を娶らぬヤツの口づけ

筆者のコメントを次に載せておきましょう。

『サラダ記念日』には二種類の英訳があるようだ。ぼくが持っているのは、散文では安部公房や円地文子の訳で知られるJulietWinters Carpenterの訳の方。これは、出版社の講談社が翻訳者を公募するという異例の措置をとったものだが、カーペンターは訳の解説で、「短歌はしばしば“五行詩”と言われるけれども、これは誤解を招きやすい」と指摘し、「普通は一行で書かれるし、俵自身、短歌は一行詩と考えている」と述べながら、三行に訳している。

では、 Carpenter氏の訳を載せます。

“Marry a nice guy, now”
 says this guy, with a kiss,
 and doesn’t marry me.

筆者の訳は、次の通り。彼は、短歌の本質は一行詩であると主張し、それを訳業においてあくまでも守ろうとしている人のようです。(このこだわりは言語と情緒の本質にかなっている正しいものであると思います)

 Having said, Marry a good fellow, this fellow who won’t wed me kisses me.

私見によれば、佐藤氏の訳に軍配が上がります。佐藤訳には、本歌のこころを異言語に写し取ろうと格闘した痕跡がうかがえ、半ば以上それに成功しているように見受けられるのに対して、 Carpenter氏の訳はあまりにも形式的・説明的に過ぎると感じられるからです。

この短歌の訳の肝は、おそらく、本歌の「言っといて」という言い方に込められた、恋する者の、切なさと、若い女性の自然体のコケティと、いじらしい投げやりな感じとの複合的なものをどう訳し出すかにかかっています。(本歌の対句的な押韻の美しい響きを写し取るのも大切なことですが、それについては両者ともに十分に意識して訳しているので省略します)

言いかえれば、ここが「言っておいて」となると、意味は同じでも、短歌全体がニュアンスにおいて死んでしまうのだという表現の微細な差異についての感度の有無が、訳の成否を分けると思うのです。「言っておいて」と「言っといて」との違いは、辞書をいくらひっくり返してみても分かりようのない「助詞」問題の応用編のような、感性だけが頼りのとても高度な論点です。でも、これはごく普通の日本人がすんなりと分かることですよね。

おそらく、 Carpenter氏は高名な日本学者なのでしょうが、その感度が訳からは感じられません。なぜならCarpenter氏の訳は、「言っといて」が「言っておいて」になったとしても変わりようがないからです。

突き詰めていえば、欧米人には「助詞」の微細なニュアンスが分からないのではないかということです。(だって、もともとない、のですから)それが分からないということは、結局短歌の本質が分からないということを意味します。つまり、日本語による表現の本質が分からないことを意味してしまいます。(ここは、欧米人から逆襲されてしまいそうなところでもあります。「お前らには、一神教の「神」は分からない。「絶対」は分からない。「抽象」の本質は分からない」というふうに。)

ところで、歌人・歌論家のさいかち真くんによれば、歌人というのは、助詞一つの選択をめぐって血道を上げる「野蛮な存在」であるそうです。(ここでの「野蛮」は、一種の韜晦でしょうが)そうやって、歌人は、エロスの「前言語的な世界」をそっくりそのまま言語の世界」に置きかえるという表現上の難事を遂行し、控えめに言っても半ばくらいは、それに成功して来ました。

話を前回のところにまで戻します。

「社会化」されない「私」の領域についての微細で繊細な感性は、おそらく民族・文化の違いを超えた普遍的なものではあるのでしょうが、その領域についての言語的な表現は、助詞という言語的武器をたまたま手にし、「社会化」の歴史過程が意識的・人工的なものであった日本人に、控えめに言っても、やや有利に働くのではないかと、やはり思われてしまうのです。(無論、日本の文化的な優位性を誇示して危うく自己満足に陥ろうとする『新しい歴史教科書』的な構えは、欧米コンプレクスの裏返しのようで馬鹿げているし生産的ではないと思っています)

だから、日本の表現者には、前言語的な世界を言語に写しかえるという表現者としての本質的な課題とともに、助詞によって支えられたその言語的表現世界を助詞なき異世界へつなぐ文化的通路を見つけ出すというもう一つの課題があるのではないでしょうか。それが見出される度合いに応じて、ずいぶんと気持ちが楽になる人が出てくるような気がします。これは、近代化そのものが、人類に強いている本質的な「無理」「ストレス」に対する、表現上の解毒作用を、人類が意識的あるいは無意識的に必要としているのではないか、という議論につながっていくのかもしれません。

一事から、またもや大風呂敷を広げてしまったような気もしますけれど、とりあえずは、このくらいで。
(小浜さんが、そろそろこの議論を終わりにしたければ、遠慮なくそうしてください)


*****

美津島明さま

いやいや、なんのなんの、議論はまだまだこれからです(笑)。これは議論というよりも、よい刺戟を与えてくれる実り多い発展的な対話と考えるべきでしょう。私もしつこさでは引けを取らない質ですので、よろしくご覚悟を(笑)。「反論気味の内容」とは感じませんでした。むしろ共感できる部分が多いからです。

まず、やっぱり言語論になってきたな、というところで、現在の私のポジションからすると、これは願ってもない展開です。というのは、NTT出版からのオファーで、今月末を第一回目の締め切りとして、毎月ネットコラムをやることになっており、テーマが、和辻や長谷川三千子さんが追究しているのとたいへん重なる部分の多い、「日本語を哲学する」というものだからです。どう切り込むか思案中なのですが、今後の展開にとって、貴兄のご指摘はたいへん参考になります。

サトウ・ヒロアキさんのエッセイ、よく見つけましたね。英文の難しい部分は飛ばしてざっと読みましたが、なかなかすごい人ですね。藤井貞和の義兄というのにも驚きました。こういう人がいるんですね。短歌の英訳に関しても、この人の一行訳のほうが、欧米人の訳よりはるかに優れているということは、英語に暗い私でも何となくわかります。万智ちゃんの短歌についての貴兄の分析もなかなか見事と思います。

*藤井貞和 「父は折口信夫門下の国文学者で國學院大學名誉教授の藤井貞文。姉は歌人の藤井常世。1972年、『源氏物語の始原と現在』で注目される。2001年、『源氏物語論』で角川源義賞受賞。詩人として、1999年『「静かの海」石、その韻き』で第40回晩翠賞受賞、2002年『ことばのつえ、ことばのつえ』で藤村記念歴程賞と高見順賞受賞。2006年、『神の子犬』で現代詩花椿賞と現代詩人賞を受賞。2007年『甦る詩学』で伊波普猷賞、2008年『言葉と戦争』で日本詩人クラブ詩界賞受賞。2012年『春楡の木』で第3回鮎川信夫賞、芸術選奨文部科学大臣賞受賞。1991年、湾岸戦争の際の『鳩よ!』の戦争詩特集を批判した瀬尾育生と論争をおこなった。」wikipediaより 

ガイジンの訳は、散文に直しただけで、印欧語のrhymeすら踏んでいません。こんな訳で短歌の深い「興趣」が通ずると思ってもらっては困りますね。その意味では、私たちは、たしかに言語文化の大きな壁にぶつかっているわけです。日本語の音韻が等時拍音(等間隔の手拍子をイメージすればよいでしょうー編者注)であるためにこそ音数律による定型の快感が生じるのだという基本的なことも踏まえていないようです。こんな雑な訳をみせられると、上田敏の『海潮音』、西洋の詩を日本の詩にしてしまうあのすごい工夫と労苦が泣くというものですね。

ところで、ここからが本題ですが、まず、どちらかの訳に軍配が挙がる、という事実をよく考えてみてください。この事実は、「異文化における言語疎通は果たして可能か」という古くからの問いに(この問いに完璧な形でYesということはできませんが)、ある肯定的な方向性を指し示すものではありませんか?

つまり、私たちは、理念としてそういうことが可能である、と考えて異文化言語と交流するからこそ、「よりよい訳」「よりまずい訳」という判定が曲がりなりにもできるわけで、サトウさんの努力と怒りは、その疎通可能性へ向かっての信頼によって支えられているのではありませんか? そして貴兄も私も、サトウさんの訳に軍配を挙げるのは、彼の努力が少しでも短歌の「興趣」を伝え得ていると感じるからではないでしょうか。

もしこの理念を片手に抱きつつ、異文化の言語を味わい、古典を味わって、そこそこの感動を得られるならば、その理由を私たちは、言語の背景をなし、かつその基盤ともなっている、各ラング以前の「普遍人間性」とか「人類学的等価」とか「人間存在の普遍性」とか「人間の基本生活感情の変わらなさ」といったものに求める以外ないのではないでしょうか。そのことは、貴兄も「総論」として認めてくれていますよね。

それで、この点に関して厳密に言えば、貴兄の今回の論は、「日本人の感性は素晴らしく、微妙で独特であり、そう簡単にガイジンなどにわかるはずがない、わかってもらっては困る」と言いたい気持ちと、「私たちはそれでも、よりよい訳、よりよい批評などを目ざしているところから見て、究極的な理想として、分かり合えるはずだ」という理念との両面を唱えていることになると思います。論理的にはこれは矛盾するのでは?

いま挙げた四つのまずい言葉のうち前二者(すなわち、「普遍人間性」と「人類学的等価」―編者注)は、じつは、本多秋五が吉本隆明と「批評の絶対基準」をめぐって小さな論争を交わしたときに、彼自身もまずい表現と知りつつ、苦しげにひねり出した言葉です。もしよろしければ、拙著『吉本隆明』p301~p310を参照していただければさいわいです。

*本多秋五は、「人類学的等価」と「普遍人間性」を次のような文脈で使っている。

私が批評の絶対的基準と考えるものは、いわば「人類学的等価」というべきものである。人類に役立つ度合が尺度である。(中略)傑作は万人の胸に訴える。すなわち、普遍人間性がまる裸かで存在することはありえないが、それにもかかわらず、普遍人間性は考えることができるし、また、考えねばならぬと私は思う。「人類学的等価」という場合の人類は、私にあっては、この普遍人間性に通じている。「人類学的等価」は、目に見える実在の月ではなくて、批評にとっていわばアコガレの象徴である。(吉本隆明『模写と鏡』より孫引き)


話は少し脱線しますが、この論争で、吉本は本多の説こうとしていることを誤読しています。吉本は、誤読の名人ですね。私がたしかめえたかぎりでも、親鸞、時枝、小林秀雄、ヘーゲル、そして、この本多秋五と、いくつも誤読を犯しています。親鸞にいたっては、看過できない思想的過ちを犯しています。自分の言いたいことをあまりに性急に強く押し出したいために、人の言い分を心静かに聴くということができない人だったのでしょう。

さて、この「批評の基準」「翻訳可能性」の問題(両者は私には類似の問題と思えます)に関しては、戦前の小林秀雄の時代にも同じような論争があったらしく、そのときは「批評の科学性は何によって保証されるか」という問いの形を取っていたようです。小林は、この問題に関する(おそらくはプロレタリア文学者たちの)甲論乙駁、決着のつかなさにうんざりしたようで、「私の答えは、批評が今日まで続いてきたという事実が、その科学性を証してあまりある、というものです」と言い切りました。これっていかにも小林らしい、謎と含みのある言い方ですが、よくよく考えると、やっぱりなかなかの答だと私は思います。

日本語の問題に話を転換しましょう。

貴兄は、助詞のあるなしで、生活の微妙さ、繊細さを表現できるかどうかが大きく違ってくるという趣旨のことを述べています。これは、日本人の私としては、そのとおりというほかはありません。要するに「てにをは」によって言語の骨格を形作っている日本語が、いかに日常生活の感覚、感情、情緒といったものに密着した精巧な言語たりえているかということで、時枝文法の詞辞論が、橋本文法の欧米型機能主義の日本語への当てはめに対して、その哲学的把握において一等上を行っているのも、むべなるかな、というところですね。こういう言語の優れた特性は、どんどん世界発信するべきだと思います。

しかし、それにもかかわらず、欧米圏の生活意識と言語との関係に精通しているわけではない私たちには、そもそも公平な比較というのは不可能なのではないでしょうか。そのことも押さえておく必要があると思うのです。

別の角度から、日本語の特性を思いつくままに挙げてみます。

①「いる」と「ある」の区別が欧米語にはない。

この指摘は菅谷規矩雄さんのオリジナルで、私はこれをパクって、少しばかりその意味について考えを深めてみました(拙著『エロス身体論』参照)。私の所論は、簡単に言えば、この区別は有情か非情かの区別ではなく、「いる」とは、この世界に私たちが何かとともに親しく「既往」するものとして住まっている、ということだというものです。主語が話者自身でなくてもそれは同じことなのです。この議論を人間学アカデミーでしたときに、貴兄が、「英語で言えば現在完了が近いのではないか」と質問されたのを、よくおぼえています。私は、「そのとおりです。私も同じことを考えていました」と答えたと思います。

②主語がない。

源氏物語に典型的なように、息の長い文の中で何回も「動作主、感情の主体」が入れ替わる。これは三上章が、一生かけて取り組んだテーマですね。三上の所論の当否については、再読してみないとわかりませんが、これでわかってしまう前近代の生活意識、表現意識の構造とはなんなのか、ということは、日本語を考えるに当たって、最重要な考察テーマのひとつだと思います。現在でも、話し言葉ではこの構造は依然として保存されていますね。

③「は」と「が」の違い。「は」とは何なのか。「が」とは何なのか。前者はほぼ解明されていると思いますが、後者「が」については、まだいろいろと謎が隠されているように思います。

④これに関連するのですが、「の」とは何なのか。「の」と「が」とはある場合に相互転換が可能ですね。「わが国」→「私の国」 「私の好きな曲」→「私が好きな曲」

⑤またまた関連するのですが、「辞」に関するかぎり、いろいろと品詞分類がなされてはいるものの、音韻が同じならばそこに込められた生活感情、生活思想はアルカイックな時代では同じだったのではないか、まったく出自が異なる音韻が偶然一致した(その可能性を否定はしませんが)ということは、じつはあまりないのではないか、という問題意識を私はもっています。これを解明することは、げんなりするほどたいへんだ、という気がしますが、どうもそういう直観がはたらくことだけは申し上げておきます。

「の」について諸例。

・わたしの本

・この人

・美しい日本の私

・それなのに

・高名の木登り

・秋の日のヴィオロンのため息の身に沁みて

・私が言いたいのは、

・どうしたの

・いい絵じゃのう

・そうはいうものの

・わたし、あの人嫌いなの

…………………

⑥敬語の問題。古語では、しばしば尊敬語が同時に謙譲語にもなりますね。この二分類を顔色なからしめる意識構造が日本人にはもともとあったのではないか。丸山眞男の「まつりごとまをす」(「政事(まつりごと)の構造―政治意識の執拗低音―」1985年)の分析が、なかなか刺激的です。これがうまく解明されると、人間が関係存在であるという私の「バカの一つ覚え」が、歴史的根拠を持つような気がしているのです。

⑦長谷川三千子さんが追究した「こと」と「もの」の問題。

⑧欧米語の断ち切り的な言い方に比べて、日本語の会話表現では文末に「ね、さ、よ」など、相手の気持ちを誘い出す表現が頻発する現象

まだまだあると思います。じっくり考えていこうかと構えています。

前回、貴兄と同じような短歌分析をしたと書きましたが、その部分を添付でお送りします。お暇がありましたらご笑覧ください。(これは当ブログで前々回投稿分に掲載しましたー編者注)

ブログはいつも楽しみにしながら見ています。ガルブレイスって、なかなかすごいですね。
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