美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

『日本破滅論』(藤井聡・中野剛志 文春新書)を読む (イザ!ブログ 2012・8・28 掲載)

2013年11月26日 04時54分30秒 | 経済


本書は、『TPP亡国論』の中野剛志氏と『国土強靭化論』の藤井聡氏の対談本である。二〇一二年八月二〇日第一刷発行とあるので、出来たてのホヤホヤだ。本を読むのがあまり早い方ではない私が、一気に読んでしまった。今をときめく論客二人の生きのいい会話のノリノリのペースにすっかり乗せられた、ということだろう。

本書に「僕自身は、今の大学制度に極めて不満があった。先輩方には申し訳ないですが、大学の生ぬるさが許せなかった。その時に西部邁(すすむ)という人がテレビで語った一言一言が、僕の心に突き刺さった。この人は学問の門をくぐって何かにたどり着こうとしている人物に違いないと確信し、塾に入って門下生になったのです。」(藤井)とあるように、二人ともに西部邁氏の門下生である。西部門下生には、ほかに佐伯啓思氏や東谷暁(あきら)氏や若手では柴山圭太氏がいる。こうやって名前を連ねると、「西部山脈」と名づけたくなってくるほどの壮観である。彼らに共通しているのは、いわゆる経済学の知見を批判的に習得したうえで、ほかの社会科学や人文科学の分野にまでその知見を広めている点である。塾長の西部氏自身がそういう方なので、彼の薫陶を受けた門下生たちも自ずとそうなったのだろう。日本で稀有な、真の知的エリート集団といっていいだろう。

だからこそ本書において、お二人はニセ・エリート集団に対して非常に厳しい。彼らによれば、日本を破滅の淵に追いやっている真犯人は、権力機構とアカデミズムに巣食うニセ・エリート集団である。消費増税議論に関して、中野氏は、次のように指摘する。

たぶん、官僚のほうは、「自分が増税すべきと思っているのは、先生方がみんなそう言っているから」と考えている。結構、学者の権威に依存しているのです。他方、学者のほうも、「増税するしかないんだろう。なぜなら、官僚や財界が、みんな増税と言っているから」といった程度ではないでしょうか。要するに、山本七平の言う「空気の支配」ですね。「みんなが増税って言っているから、おれも増税すべきだと思う」という話。

どうして、こんなバカバカしいことになってしまうのか。彼ら二セ・エリート集団は、何故同じような言動をするのだろうか。いわく、「財政再建のためには消費増税しかない」。いわく、「ケインズ政策はもう古い、公共事業は経済成長にほとんど効かない」。いわく、「国境を超えた投資の自由を推進するグローバリズムは時代の趨勢だ」。また、お二人によれば、彼らニセ・エリートたちは明言してはいないけれど、東北大震災による被災地は、もともと過疎地域・経済の停滞地域なのだから、それらの地域の復旧・復興のために大枚をはたくのは無駄である、もったいない、と固く信じているらしい。本気でそう信じているらしい。到底、体内に温かい血が流れているとは思えない悪魔のような考えである。どうして彼らは、リーマン・ショックや東北大震災のような、国家の屋台骨を揺るがす、すさまじいまでの現実が次から次に押し寄せようともどうしようとも、頑ななまでに自分たちの反国民経済的な考えを変えようとはしないのだろうか。

中野氏によれば、それは、彼らがひとつの認識共同体に属しているからだという。ここで認識共同体とは、同じ考え方で世の中を見る人たちのコミュニティのことである。平たくいえば、彼らは、同じ新自由主義ムラの村民なのである。また、彼らの間ではびこっている考え方のひとつながりをパラダイムという。彼らは、アメリカに留学し、向こうでバリバリの新自由主義経済学のパラダイムを叩き込まれて帰ってくる。それを習得していることがエリートとしてのステイタスであるという自負心があるので、彼らは自分の考えを絶対に変えようとしない。そうすると、困ったことが起きてくる。ふたたび中野氏の発言に耳を傾けてみよう。

優れた学者は、経済学の一般均衡理論(完全競争市場において、社会全体がこれ以上変化しない均衡状態に至るとする理論。ワルラスによって提唱されたー引用者注)などはパラダイムにすぎないとわかっており、平気でそれを否定できる。でも、凡庸な学者はそのパラダイムを信じることが自分のアイデンティティになり、プライドになる。出世して教授になったりもできる。だから、パラダイムそれ自体を単なる理論ではなく、現実のように思いなすのです。しかも、パラダイムとしての知識は、権力の源泉にもなる。要するに、何が正しいかではなく、何を言えば発言権や地位が得られるかで、みんな動いているのです。したがって、御用学者は官僚の言いなりになっているのではない。学者も官僚も、同じパラダイムの住人にすぎないのです。

そういう、「俗悪な田舎者たち」(本書の言葉)が思うがままに権力を振るうと、どのような粗暴な挙に出るか、そうして、それが国民経済にどれほどの災いをもたらすのか、具体例を二つ挙げよう。(ちょっと、こまかい話になるのですが、とても重要なので、しばらくおつきあい願いたく存じます)

みなさんは、税収弾性値という言葉をご存知だろうか。これは、名目GDPが1%伸びたときに税収が何%伸びるかを示す数値である。例えば、名目GDPが3%増えたときに税収が6%伸びたら、税収弾性値は、6%÷3%=2となる。それを踏まえたうえで、藤井氏の次の発言をご覧願いたい。

実は、過去一五年間の毎年の税収弾性値の単純平均が計算されているんです。その値は4でした。つまり、GDPが1%増えると税収が平均4%伸びる。逆に1%減ると4%落ちる。これが過去の平均値なんですね。だから、素直に考えると税収弾性値は4でいいはずです。ところが、その偉い学者先生方(東大の吉川洋・井堀利宏、慶大の土居丈朗など)は単純に4にするのは非科学的すぎるという。税収はGDPだけで決まるものではなく、その他の要因も影響するのだから、それらを勘案しながら考えないといけないというわけです。では、いくらなのかとなる。実は、2008年に経済産業研究室(RIETI)が出したペーパーに1.1くらだと書かれているんです。この数字は、財務省をはじめ政府がここ最近使っているものです。

この4と1.1との違いは、数字そのものの大きさだけの違いに終わるものではもとよりない。そこから導き出される財政再建案が180°異なってくるのである。

もしも弾性値が4であるのならば、名目GDPが1%増えると税収が4%伸びるのだから、税収を増やすためには、政府として名目GDPの成長率を高めることに政策の重心を置くべきである、という意思決定がなされるはずである。より具体的に、ざっと次のような計算がなされることになるだろう。2011年度の税収が約41兆円。適正な経済政策と金融政策を組み合わせれば欧米並みに1.5~2%くらいのインフレ率が達成される。また、自然成長率はおおよそ1.5%~2%と見て、名目GDP成長率は1.5%~2%+1.5%~2%=3%~4%となる。とするならば、税収弾性率は3%~4%×4=12%~16%となる。(金利がここまで上がることはまず考えられない)よって、税収は41兆円×12%~16%≒5兆円~6.6兆円増える。次年度は、(41兆円+5兆円~6.6兆円)×12%~16%≒5.5兆円~7.6兆円増える。だから政府は、名目GDPを増やすことに全力をあげようとするだろう。

では、弾性値が1.1だったらどうなのか。これでは、名目GDPを増やしても、金利の上昇率の方が税収の伸び率より高くなってしまう危険を払拭できない。とすると、歳入と歳出との差がもっと広がり、財政状態はさらに悪化することになる。ならば、増税それもGDPが増えなくても確実に税収増が期待できる消費税の税率を上げるべきである、となるだろう。これが、現政府によって推進されている財政再建政策であることはいうまでもないだろう。

普通に考えれば税収弾性値4なのに、それが促す政策と180°異なる政策を促す弾性値1.1に変わったのは、学者たちが、財務官僚の好むにちがいない政策を忖度して、それを促す弾性値に無理やり修正したからであると考えるのが自然だろう。つまり、その数値の捻じ曲げを促したのは、官僚と学者がともに属する認識共同体の同調圧力である、ということである。私自身、消費増税をめぐる財務官僚や御用学者の言動について、なんとも名状しがたい腑に落ちなさを抱えていたので、そういうふうに理解するとストンと落ちるものを感じるのである。

「俗悪な田舎者たち」の数値的な詐術の二つ目に話を移そう。二人は、こう述べている。

中野 筑波大学名誉教授の宍戸駿太郎先生がおっしゃるように内閣モデルもひどいですね。

藤井 そうなんです。内閣モデルとは2002年、小泉内閣の竹中平蔵大臣の時につくられたものです。それまで日本政府は、マクロ経済についてのシミュレーションモデルを使っていた。宍戸先生が経済企画庁におられた時にメンテナンスをされていた、非常に信頼性の高いモデルです。国土計画をつくったり財政政策や税制を決めたりと、国の重要な経済政策を行う時に、これが活用されていたのです。ところが、行政改革で経済企画庁が廃止されて内閣府になった。その省庁再編のどさくさにまぎれてモデルを変えたのです。IMF(国際通貨基金)が使っている理論的なモデルをベースに、新たなモデルをつくったのです。(中略)IMFがつくるのは当然、緊縮財政のためのモデルです。日本はそのようなモデルに変えてしまったんですね。

さて、公共事業に支出すると、普通はどんなモデルで計算しても乗数効果が出ます。たとえば、1兆円を4~5年にわたって出し続けると、名目で言えばGDPが毎年3兆円から5兆円ほど増える計算になる。ところが、内閣府モデルで計算すると、1兆円をいくら出し続けてもGDPはほとんど伸びない、という結果になる。つまり、公共事業はムダという結論が出るようになっている。増税に関しても変な計算結果になる。これまたどんなモデルで計算しても、5%もの消費増税をして5~6年が経てば、GDPは4~6%毀損します。けれども、内閣府モデルだけはほとんどGDPの毀損はないという結果になる。

文中の「どんなモデルで計算しても」とあるのは、公共事業の乗数効果をめぐるいろいろな分析モデルのことを指している。例えば、東洋経済エコノメイトによるもの、電力中央研究所によるもの、宍戸駿太郎氏によるDEMIOS(経済企画庁で使っていたモデルをさらに改善したもの)、中期マクロモデル、日経NEEDSなどがある。そのなかで、内閣府モデルは例外的に乗数の数値が低い(公共投資の波及効果を極端に低く見積もっている)し、ほかのモデルが、継続的な公共投資によって年々乗数効果を高めていくのに対して、内閣府モデルでは、年々乗数効果が低下していく。その対照的な動きは異様ですらある。竹中平蔵は、自分の新自由主義政策を、それに対する障害物をなくした形で敢行するために、経済モデルを秘密裏に改竄した可能性が高いのである。

つまり、新自由主義村の経済学者たちは、国家経済・財政政策立案の中枢に理不尽な数値や経済モデルを持ち込んだのである。それはまるで、氷山がうようよしている海を漂うタイタニック号の船長室に、正しい羅針盤を破棄して狂った羅針盤を持ち込んだような振る舞いである。彼らは、利己的な動機から思わず知らずに、自ら国難を呼び込んだのである。それを亡国の所業と呼ばずに、何をそう呼べばいいいのか、私は知らない。

具体的提案としては、一日でも早く税収弾性率を4にし、内閣府の経済モデルを宍戸駿太郎先生のDEMIOSにすること。つまり、経済の舵取りを安全に遂行するために、狂った羅針盤をまともな羅針盤に切り替えること。その影響は甚大であると思われる。

このように本書において、国家権力の中枢を占めるニセ・エリートの所業が徹底的に叩かれている。

本書では、ほかに橋下維新の会批判、ポピュリズム批判などがなされていて、なかなかに読み応えがある。ぜひ、ご一読を。と、私がお薦めするまでもなく、確実に売れるのだろうが。

それにしても、と蛇足をひとつ。西部氏は、日本の現実に対して絶望的な言辞を展開してやまない人である。ときおり、虚無的な表情さえ浮かべることがある。にもかかわらず、彼の周りには、優秀な活きのいい若手が群れている。彼が不意に浮かべる人懐っこくて、お茶目な笑顔に象徴される何かが、人を惹きつけてやまないのだろう。と、取りあえず納得したふりをしておくが、やはり不思議だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インターネット言論弾圧の最終兵器ACTA 衆議院可決を阻止しよう!(イザ!ブログ 2012・8・20 掲載)

2013年11月26日 04時26分57秒 | 政治
〔その1〕

私は、つい最近までACTAが本当のところなんなのか、知りませんでした。八月二日USTREAM放映の、岩上安身のロング・インタヴューに応えた斎藤やすのり衆議院議員(新党きづな幹事長代行)の説明を聞いて、その危険性をはじめて知りました。そうして、いまではその存在の薄気味の悪さに憂慮の念を深めています。新聞でもまだほとんど取り上げられていない情況とのことなので、インタヴューの内容を中心に、ACTAとそれを取り巻く情況を紹介しましょう。

その内容に触れる前に、その意味内容が一般国民はおろか国会議員にさえ周知されていない段階で、ACTAはすでに参議院で八月二日に可決されていることを強調しておきたいと思います。賛成二一七名、反対九名の圧倒的多数での可決でした。反対九名は、おおむね斎藤やすのり議員の啓蒙活動によるものです。

当初の会期は2012年6月21日までの150日間であったが、税と社会保障の一体改革関連法案の今国会中成立を理由として、9月8日まで79日間延長されることになりました。法案は、参議院を通過してから、通常2週間ほどで衆議院委員会での審議に入るそうなので、このままいけば、今国会でのACTA通過は十分にありえることになってしまっています。

さて、ではACTAとは一体何なのでしょうか。そうして、その正体は。その危険性とは。

ACTA(アクタ)は、知的財産権の執行を強化されるために設立された国際条約です。Anti-Counterfeiting Trade Agreement の頭文字を取ったもので、普通「偽造品の取引の防止に関する協定」あるいは「模倣品・海賊版拡散防止条約」と訳されます。2011年に、アメリカ・カナダ・オーストラリア・韓国・シンガポール・日本・ニュージーランド・モロッコの八カ国によって署名されました。2012年には、さらにEU加盟国のうち22ヵ国が署名しました。協定は6カ国による批准の後効力が及ぶことになっています。

ACTAの和訳を見て「偽ブランド品やCD海賊版の取締?結構なことじゃないか」と思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。しかし、事はそれほど単純ではありません。私自身、今国会に提出された「偽造品の取引の防止に関する協定」を外務省HPからダウン・ロードして通読してみて思うのですが、その内容が抽象的で正体が掴みにくいという印象を持ちました。ただし、なんとなく薄気味が悪いのです。抽象的な法文の端々に、何か隠された意図があるように思われてならない、という印象は、素人目にも明らかです。なぜなら、表向きのタイトルとは裏腹に、その内容において、インターネットの監視体制の強化に執拗と言っていいほどに力が入れられているからです。そのことに奇異な印象を受けて、小首を傾げざるを得ないのです。

斎藤議員は、ACTAの問題点・危険性として、次の4点を挙げます。

〈1〉知的財産権保護を装った言論統制・言論弾圧につながる恐れがある。ACTAが成立した場合、インターネット上のHPやブログやツイッターが知的財産権を侵害していると政府が判断したら、著作権者の訴えがなくても、直接それらの削除ができるようになる。そういう口実で、政府に都合の悪い言論活動をしているHPやブログやツイッターにストップをかけることも可能である。

〈2〉ジェネリック医薬品の輸入・流通に対する規制が強化される可能性がある。そうすると、途上国に医薬品が満足に行き渡らない事態が考えうる。国際間格差の固定化・永続化の危険。

〈3〉秘密主義で行なわれる交渉とその中身。TPPと同じく、秘密主義で事が進められている。議員にさえその中身の詳細は知らされていない。参議院本会議での採決の際に、「知的財産権に関する執行のより効率的枠組みの必要性」という簡単な説明が記載された文書が配布されただけ。既存メディアもほとんど報じていない。朝日新聞など一言も報じていない。ロイターだけは、詳細に報じている。あえて報じていない可能性が濃厚。政府に協力?

〈4〉ポリシー・ロンダリングの危険あり。実現したい政策を「外国とすでに取り決めてあるから」と言って、ゴリ押し的に既成事実化する。条約の国内法に対する優越の悪用。

私には、これらの全てが恐ろしいものとして映じます。そうして、私の目には、ACTAの背後に、どうしてもアメリカの「1%」の影がちらついてしかたがありません。それについては、次回に。

〔その2〕

まずは、国会関連の新情報から。いよいよ衆議院委員会レベルでの審議が始まる模様。ただし、外務委員会では、田中真紀子委員長をはじめTPP慎重派の議員が過半数を占めるそうなので、ACTAの危険性さえ彼らに伝わるならば、衆議院可決阻止の可能性が生まれてくるとのことです。

さて、ACTAを最初に提案したのは日本です。2001年に小泉内閣が次のように提唱しているのです。「知的財産権保護の促進のため、アジア太平洋地域において、米国政府と引き続き協力。捏造品・海賊版拡散防止条約(ACTA)について、米国政府と引き続き連携」これは、2001年ジェノバ・サミットで、日本政府がアメリカ政府に配布した文書の一節です。小泉内閣の国益観は、いたって簡単明瞭です。すなわち、アメリカの展開するグローバリゼーションを世界の潮流と割り切って、ためらわずにその流れに飛び込むことがいちばん日本の国益にかなうことである、と同内閣は考えて、構造改革を断行しました。

とするならば、上の一節から、小泉内閣が当時、アメリカ政府やそれに対して大きな影響力を持つアメリカ・グローバル企業の意向を忖度し、ACTAのリーダーシップをとろうとしていたことが容易に推察できましょう。つまり、小泉内閣は、潔くアメリカの腰巾着の役を買って出た、というわけです。小泉首相に言わせれば、それで何が悪い、と。

これは、あながち妄想と言い切ってしまえないようです。というのは、斎藤議員によれば、アメリカ通商代表部がACTA修正案を日本の外務省に提案していることが、Wikileaksで明らかになったからです。つまり、ACTAの旗振りは日本だけれど、その振り付けをしているのは実はアメリカである、と言えそうなのです。その起源を、私たちは2001年に求めることができそうですね。

アメリカがリードするグローバリズムの本質が、アメリカの国益追求であることは論を俟たないでしょう。まさか、アメリカが自由貿易の公平無私な使徒である、などと信じる人はもはやいないものと思われます。

TPPもまたその例外ではありません。TPPの本質は、日本の国柄を徹底的に破壊・改造して、アメリカグローバル企業の草刈り場にすることにあります。だから、ISD条項・ラチェット条項などで、日本の国家主権を制限する必要があるのです。そんなものは、彼らにとって邪魔物でしかありませんから。もちろん、国民主権も邪魔物です。言いかえれば、日本の国家主権・国民主権が脅威にさらされるところに、TPP問題の核心があるのです。これをはずしたTPP議論はすべて虚妄であり、ミス・リードの意図のある悪質なものなのです。経団連がTPP参加に賛成するのは、それを構成する日本グローバル企業がすでに国民経済を見捨て、それとむしろ敵対する存在であることの何よりの証拠です。私は、そのことを当ブログの過去の投稿で、分析・実証したことがあります。(4月25・26・27日投稿分)

とすると、まだまだ試論の段階ですが、ACTAがTPPの一環を成している可能性が否定できなくなってきます。つまり、「TPP参加は是か非か」という議論以前に、日本は実質的にTPPに取り込まれつつある、ということになるでしょう。ACTAの正体は、プレTPPである、ということです。言いかえれば、ACTAの批准がTPP参加の条件になっているのではないだろうか、ということです。私は、その可能性が非常に高いという気がしています。というのは、TPPの秘密主義とACTAのそれとが非常に似ているからです。同じ臭いがするのです。ここで私たちは、TPP24作業部会のひとつに「知的財産」があったことを想起してみてもよいかもしれません。その現実の姿の一つがACTAである、ということにどうやらなりそうですね。

このことに含まれる意味合いには、とても深刻なものがあります。

TPPの危険性に、新たに「言論弾圧の危険性」という一項目が加えられることになるからです。それは、日本をアメリカグローバル企業の利益追求の草刈り場にするうえで、日本の国家主権・国民主権が邪魔になるという事実から合理的に導き出すことができます。経済効率のあくなき追求と民主主義的抵抗とは相性が悪いのです。天敵どうしと言ってもいいでしょう。

ここにもうひとつ、厄介な特殊日本的な事情があります。いま日本で政権を握っているのは民主党です。民主党の核心には、抜がたい左翼性があります。彼らは、自分たちが弾圧されることにはムキになって抗議しますが、一度自分たちが権力を握ると、自分たちに歯向かうものを容赦なく弾圧する習性があります。つまり、彼らは全体主義的な体質を持っているのです。

テレビ・大新聞などの大手メディアは、財務省のおかげで、もはや権力ポチになっているので、民主党執行部は彼らのことで思い悩むことはあまりありません。しかし、ブログ・ツイッター・HPによるインターネット言論に対しては、民主党はいまのところお手上げです。このままでは、「アイツらのせいで」次の選挙では壊滅的な敗北を喫してしまいそうです(飛んだとばっちりですが)。自公と大連立を組んだとしても、そのなかであまり大きな顔はできそうにもないので、浮かない気分であろうことは容易に想像がつきますね。

財務省・民主党執行部が、インターネット言論をひねり潰してしまいたいという衝動にかられているのは間違いないものと思われます。で、彼らは「ACTAは使える」と踏んでいるはずです。アメリカの思惑に乗っかってしまえば、彼らパワー・エリートを苛む社会的な存在を一掃できるのです。また、大手マスコミにとっても、彼らの既得権益を脅かす潜在的な敵対者がいなくなってしまうのですから、願ったり叶ったりです。だから彼らは、パワー・エリートに協力を惜しまないのです。つまり、わかっていながら、ACTAの危険性についてまともに報道しようとしないのです。

EUでは、そのあたりの事情は一変します。それについては、次回に。

〔その3〕

日本では、ACTAはまだ社会的に問題にさえされていません。「ACTA?何それ?」という反応が大勢を占めるものと思われます。しかし、ヨーロッパでは、ACTAをめぐって実は大きな動きがあったのです。このことも、日本の大手メディアでは、ほとんど報じられていません。おかしなことですね。

今年の2月、ヨーロッパで、ACTAに対する激しい抗議運動が行われました。反対署名は280万人を超えたとのことです。2月16日に、欧州司裁判所は、「インターネット上のホスティング・サービス・プロバイダーに対して、ACTAのように、著作権フィルタリングを強制することはできない」という判決をしました。

ヨーロッパにおいても、日本と同様に、ACTAの交渉は、極めて不透明な形で行われてきました。それゆえ、広く国民的な議論がなされることはありませんでした。

また、(その1)で申し上げたように、ACTAの条文はあいまいになっていて、その分、表現の自由やプライバシー・個人情報保護の権利などに対する侵害をもたらす危険があります。特に、非商業的な規模の個人による著作権侵害に対する刑事訴追やISP(internet services provider インターネット接続業者)などによる通信の監視、ISPの著作権警察化をもたらす危険が高い点を問題として、EUの立法機関である欧州議会はACTAを否決しました。それは、今年の7月4日のことです。ACTA否決法案に対して、賛成478名、反対39名、棄権165名の圧倒的多数での否決だったとのこと。日本で、ACTAが参議院を圧倒的多数で通過したのとは大違いです。このこと自体に、私は背筋に冷たいものが走る思いにかられます。ヨーロッパのメディアで、ACTAに関してほとんど報道しようとしない日本メディアの消極姿勢が、メディアに課された社会的使命の放棄に当たるものとして問題にされ始めているとのことです。

TPP問題のときに、また、消費増税問題のときにも感じたことですが、日本の大手メディアは、パワー・エリートの意向に沿わない言論を展開することを意図的に自己検閲しています。その上で、問題の大勢が判明した段階で、申し訳程度に、あるいは「自分たちは一応報道機関である」というアリバイ作りのために、反TPPや反消費増税の言説を紹介します。そのやり口は、姑息かつ狡猾です。ACTA問題も、このまま推移すれば、衆議院通過が確実視された段階で、初めてその存在に気づいたかのようにカマトトぶって報道されることになるのでしょう。おととい来やがれ、としか言いようがありません。

そういう報道姿勢が、ヨーロッパのメディアからすれば、異様なものに映るのでしょう。当然のことです。

話を欧州議会によるACTAの拒絶に戻しましょう。彼らは「ACTAを拒絶する50の理由」を掲げました。そのなかからいくつか紹介しましょう。

(詳しくはhttp://matome.naver.jp/odai/2134349028503346401をご覧ください)

・ACTAは、将来の技術進歩を止め、現状の技術にわたしたちを固定します。

・ ACTAは、インターネットの個々の使用の監視をする形態を伴う措置を奨励しています。

・ACTAは、人権と芸術に関するEUの基本権憲章、欧州条約で保護されているプライバ 

 シーの権利・データ保護・通信の機密性へのコーポレートアクションによって違反です。

・ACTAは、表現の自由を危険にさらします。

・ACTAは、重要な用語が未定義であいまいです。

・ACTAは、公正な裁判を保証するものではありません。

・ACTAは、中小企業が技術革新に参加することを阻害します。

・ACTAは、インターネットを各国個別のものとして分断します。

・ACTAは、その名称が与える印象とはうらはらに、偽造防止に限定されることとは程遠い条約です。

・ACTAは、特許侵害の名の下にジェネリック医薬品へのアクセスを減少させ混乱させます。

・ACTAは、偽造品と同じように扱われるべきではない別の概念と権利を一緒にひとまと 

 めに、ごちゃまぜにして政策立案者の意志とは違う運用をされるおそれがあります。

・ACTAは、新しいビジネス・モデルの開発を阻害します。

・ACTAは、古いビジネス・モデルを守るためにあります。

・ACTAは、将来の生物多様性を止め、さらに食料供給のための種子に企業カルテルを許してしまいます。 


これくらいにしておきますが、ACTAが、①アメリカ・グローバル企業の既得権益保護のために存在すること、②条約の国内法に対する優越を根拠に、インターネットを通じた言論活動を広汎に弾圧する超法規的な武器になりえること、③中小企業、発展途上国などの社会的、世界的な弱者をないがしろにすること、などの問題を孕んだ危険な条約である、という認識に基づいて、EUがACTAを拒否したことは、もはや多言を要しないでしょう。

また、私は(その2)で、民主党が「自分たちが弾圧されることにはムキになって抗議しますが、一度自分たちが権力を握ると、自分たちに歯向かうものを容赦なく弾圧する習性」を持つ左翼政権であること、および、「財務省・民主党執行部が、インターネット言論をひねり潰してしまいたいという衝動にかられているのは間違いない」ことを指摘しました。

ACTAをめぐっては、その動きに対しても併せて目配りをしておく必要があります。そのことに関連して、「神州の泉」というブログを紹介しようと思います。

(詳しくはhttp://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2012/08/post-7aa1.htmlをご覧ください)

以下、傾聴に値する言葉が連ねられているので、ちょっと長くなりますが、引用します。

国家権力が現代版・治安維持法の設置に躍起になっている証左として、今一度その具体例を列記する。

① 「人権救済機関設置法案」
② 「マイナンバー制度」
③ 「コンピューター監視法案」
④ 「私的違法ダウンロード刑罰化」
⑤ 「秘密保全法」
⑥ 「ACTA(アクタ)」(Anti-Counterfeiting Trade Agreement模倣品・海賊版拡散防止条約は、知的財産権の保護に関する国際条約)

上記6点は、個々に見ても非常に危険な法案である。今、日本が急速に傾斜しつつある警察国家とは、国家権力がある勢力の意向に従って、国民の自由意思を徹底的に縛り上げ、民主主義の根幹である『言論』『表現の自由』を徹底して奪うというものである。これらの法律は国民を徹底監視して、米官業利権複合体に反逆する精神を持つ国民を、個人的に狙い撃ちできる法案である。

狙い撃ちという意味であるが、それはずばり別件逮捕である。米官業利権複合体に都合のよいこれらの法律群は、人権擁護、国民総背番号化の便利性・効率性、ネットの公序良俗維持、知的財産権の保護など、それぞれに一見合目的性を有しているが、当局の思惑は明らかに別のところにある。これら6つの法案は、言論統制手段として極めて有効なツールになっている。

たとえば、野田総理が推し進めている「消費税法案」のように、米官業利権複合体が、自分たちに都合のよい制度を次々と上程して閣議決定されていく時、これに異を唱える言論人を効果的に狙い撃ちし、別件逮捕に持って行く法律群が上記①~⑥なのである。国策捜査は著名な言論人を狙って罠を仕掛けるが、上記法律群は一般人を対象にしている。つまり国策捜査の一般化と捉えていいだろう。非常に恐ろしい趨勢と言える。

日本の社会は、大きく分けて、支配階級と国民階級の二極分化になっている。支配階級(=米官業利権複合体=BIG BROTHER)は、国民を隷属状態において、いっさい言論の自由を与えず、国民から税金や財産を効率よくむしり取り、わが世の春を永続的に謳歌しようと企んでいる。だから、上記①~⑥のような一見合理的な法律を作っておいて、彼らに寄与する国政を批判する国民を片っ端から別件逮捕しようとしているのである。


①~⑥のうち、ピンと来にくいのは②~⑤ではないでしょうか。次に、それらについての説明を引用します。

② 「マイナンバー制度」
野田首相は、これについて「消費増税関連」法案と密接に結びついた重要法案だと言っており、民自公3党は消費増税に伴う低所得者対策の前提として、共通番号制度(マイナンバー制度)の早期導入は合意済み。しかし、これはかつての国民総背番号制度であり政府による個人情報の一元化管理である。個人の思想、病歴、結婚・離婚歴、賞罰歴、趣味嗜好、国内外の移動、すべての情報を国家機関に掌握され、最も有効な思想検閲になる。

③ 「コンピューター監視法案」(サイバー法案)
2011年の6月に不可思議なほど拙速に上程され、可決された。既存メディアに対し、福島第一原発の事故の真相を完璧に言論統制したが、ネットは自由に物が言えた。それに泡を食った原子力ムラは、総務省を動かしてネット言論を弾圧する姿勢に出た。焦った米官業利権複合体は、政府に圧力をかけ、ネット言論の情報統制の布石としてこの法案をいきなり制定した。

④ 「私的違法ダウンロード刑罰化」
違法ダウンロードがまん延するような状況は望ましくないが、その行為に刑事罰を科すことが果たして合理的・妥当なのかという議論がある。そもそも著作権の改正案の政府案にはなかったものだが、審議がないままにどさくさに紛れてこっそり混ぜられた。これも狙った国民を誰でも逮捕できる刑罰化が含まれている。

⑤ 「秘密保全法」
「一番町法律事務所」さんから抜粋する。

この法案は、政府が国民に知らせたくない情報(たとえば、あの「原発ムラ」の秘密情報)を「特別秘密」だと政府が決めれば、国民に隠すことができるようになります。

逆に、公務員や原発研究者・原発技術者などの「取扱業務者」が国民に知らせると懲役10年!になります。国民が原発情報の公開を求めてデモ行進を呼びかけただけでも「不法な方法」による「特定取得行為」とされて処罰されかねません。

しかも、「特別秘密」を扱える国民と扱わせない国民に2分するための「適性評価制度」という「国民選別制度」まで導入するのです。適性評価のための調査内容は、他人に知られたくないプライバシー全体にまでおよび、調査対象は、家族・親戚・恋人・友人・・と無限に広がってゆきます。これって、秘密警察国家ですよね。


私は、「個人の自由・人権を確固としたものとするためには、ゆるぎない国家権力の存在が前提である。個人の自由と国家権力とを敵対的にとらえるのは思想的に誤っている」と考える者です。つまり、国家権力をアプリオリに否定すべき対象とする戦後左翼言説とは無縁な者であると自認しているのです。

そういう私が、国家権力による言論弾圧を憂慮し、こうしてみなさんに訴えようとしている現状そのものが、相当に危機的である、と私は思っています。平たくいえば、好きこのんでこんなことを言っているわけではないのです。

言ってしまえば、今回の文章やその前の〔その1〕〔その2〕も、いちいち断っていませんが、他のブログやツイッターやHPからの盗用・パクリ・剽窃のかたまりのようなものです。そうして、それは言論活動の危機を訴えるために有効な手段であると判断してのことです。おそらく、私から盗用・パクリ・剽窃の「被害」を受けた人は、そのことを知ってもだれも文句を言わないのではないかと思います。私自身、もしも一連の私の文章をごっそりとパクられても別に腹が立たないどころか、大いにやってくれ、と言いたいところですから。

つまり、インターネット言説の本質には、盗用・パクリ・剽窃が組み込まれている、と私は言いたいのです。だから、国家権力がACTAを根拠にして知的財産権や著作権を杓子定規に楯にとったならば、インターネット言説が壊滅的な打撃を蒙ることは目に見えています。大手メディアがパワー・エリートたちの掌中にある現状を鑑みた場合、それは、日本における言論の自由の死を意味すると、私は断言してしまいたい衝動にかられます。

みなさん、そういう事態を座視してもいいのでしょうか。これは、みなさんにとって「対岸の火事」と言って済ますことができる事態なのでしょうか。

「これはヤバイ」と思われた方は、どうぞ、これらの話を周囲の人々に広めてください。ACTA問題については、その深刻さをより多くの人々が知ることそのものが、世界権力とその傀儡(かいらい)の悪しき意図を見破り、彼らの思い通りに事を運ばせないための出発点になるものと思われますので。

自分の趣味の世界に溺れて、限られた小世界における平和を満喫する態度を、私は否定しません。それが、過酷な現実によって脅かされた魂を救うことだってあるからです。私自身、そうやって幾度自分を救ってきたか数え切れないほどです。

しかしながら、今回は事が事。私が今述べた大状況が、無視し得ない程度の脅威として身近に迫っていることを、複眼の目を凝らして、視野にいれてきただきたいと願う所存です。


*私はここで、ややムキになって、ACTAの危険性を説いています。その妥当性の判断については、読み手に委ねます。そのうえで、わたしがいまに至っても強調したいのは、世界を揺るがしたこの大問題を、日本の大手メディアは、そのときもその後も、ほとんど取り上げていないという厳然たる事実です。この異常事態は、いくら強調してもしすぎることはない。そう申し上げたい。つまり、私が言いたいのは、アメリカの意向に沿わない報道は、少なくとも大手メディアにおいては事実上の箝口令が敷かれている、という特殊事情が、日本のメディアにはある、ということです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小浜逸郎氏・特別寄稿について ブログ主人より  (イザ!ブログ 2012・8・17 掲載)

2013年11月26日 04時23分29秒 | ブログ主人より
小浜逸郎氏の特別寄稿『社会学者・橋爪大三郎の消費増税議論を駁す』について。アクセス数が、昨日まで、408→604→1151と伸びています。普通は、投稿初日がアクセス数のピークとなるのに対して、逆の動きを示しています。異例のことです。小浜氏の文章への静かな共感が広がっているものと推察します。もし、なにか言いたい、とお思いの方がいらっしゃったら、遠慮なくコメント欄に投稿してください(ただし、要登録。各投稿欄の右下の(コメント)表示をクリックしてください)。みなさんがコメントなさったものは、必ず小浜氏の目に触れるようにいたしますので。生きのいい、本音の、真摯な言葉が飛び交う場を作りたい、というのが、ブログ主人の前々からの変わらぬ願いです。そこが、人を腹の底から元気にしてくれる良き思想のふるさとであると、私は信じています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小浜逸郎氏・特別寄稿  社会学者・橋爪大三郎の消費増税議論を駁す (イザ!ブログ 2012・8・14 掲載)

2013年11月26日 04時06分44秒 | 小浜逸郎
当ブログに、批評家・小浜逸郎氏から寄稿がありました。その冒頭に次のような、私へのメッセージがありました。

美津島明さま

                                                 小浜逸郎

いつもブログを読ませていただいております。また、私との長い対話を掲載してくださってたいへん感謝しております。

以下にお送りするのは、社会学者・橋爪大三郎氏の最近の論考に対する批判です。もしお許し願えるなら、貴兄のブログ紙面を私の冗語でいささか汚させていただくわけにはまいりませんでしょうか。

とはいえ、だいぶ長いのが気がかりで、もし読者の方が、小浜は美津島氏のブログを私物化しようとしているなどと感じられるようなことにでもなりましたら、貴兄にもたいへんなご迷惑をおかけしますので、そこはひとつ、ブログ主人としてのご賢察により、掲載の可・不可のご判断をお願いするしだいです。場合によってはボツにしていただいていっこうにかまいません。


一読、言論人・小浜逸郎によって投じられた一石の重みは、無視し得ないものであると、私はブログ主人として判断しました。当ブログに掲載して、できうることならば、天下に広く知らしめたい文章である、と思いました。その全文は400 字詰原稿用紙にすると四十五枚分に相当する膨大なものです。

*****

拝啓・橋爪大三郎様

                                      小浜逸郎

先日はご高著『ふしぎなキリスト教』の読書会にわざわざゲストとして出席していただき、まことにありがとうございます。あの著作は、いろいろと批判もあるようですが、私自身はいまも、なかなかすごい仕事をされたなあ、と感心しており、その評価は変わっておりません。これからもこの方面のお仕事に精進されることを願っております。

ところで、最近、消費増税関連法案を焦点として(すでに現時点で国会を通過していますが)、現民主党政権のゆくえが取りざたされています。それにちなんで貴兄が月刊誌『Voice』8月号、9月号の「巻頭の言葉」に書かれたふたつの文章に関して少々思うところがあり、この手紙をしたためます(8月号「そもそも税金と国家とは」 9月号「小沢氏の言い分に理はあるか」)。

単刀直入に、結論から申し上げます。

失礼ながら、このふたつの文章は、聡明で鳴らした貴兄にも似合わないトンチンカンな寝言と拝察します。いずれも、日本のいまの深刻な状況にまったくそぐわない「秀才学者」特有の知的遊戯のたぐいに過ぎません。たとえていえば、民の苦しみを知らずに蹴鞠などに耽っている平安貴族のノーテンキに近いといえるでしょう。

まず8月号の消費増税関連法案についての文章ですが、経済音痴を自認している私から見ても、この人は経済学者と近い位置にいる優秀な社会学者のはずなのに、私よりもひどいただの経済音痴だったのかとわかるような代物で、正直なところびっくり仰天しました。なんともいえない脱力感です。しかし、これに関しては、すでに7月12日付の本ブログに、主人・美津島氏の「消費増税 是か非か 『橋爪大三郎VS高橋洋一』架空対談」という辛辣な批判が掲載されました。私はこれを読んで、ああ、私と同じように感じていた人がちゃんといるんだとわかり、いささか溜飲を下げた思いでおりました。こういうきちんとした批判があるなら、なにも永年の知己でもある貴兄とことを荒立てる必要はないかと、矛を収めかけたしだいです。

ところが今度は9月号の政局にかかわる貴兄の文章を読み、私のなかで眠りかけていたケンカ売り根性のようなものが、またぞろムラムラと頭をもたげてくるのを抑えることができなくなりました。この文章は、私にいわせるなら、8月号の論文の「恥の上塗り」とも評すべき文章です。

以下、具体的に指摘していきます。

まず議論の前提として、消費増税関連法案なるものが、国民の苦しみを無視した、また日本国家を亡国に導きかねない、いかに間違ったアイデアであるかという点について、つたない私見を述べます。私自身の頭の整理のためにも、箇条書きにしたほうがよいでしょう。

①日本は本当に財政危機か

財務省もその傀儡(かいらい)の民主党政権も、いま国は1000兆円の借金を抱えていてこれはGDPの2倍だと騒いでいますが、政府が650兆円の債権を握っている事実についてはわざと隠しています。実際には差引き350兆円であり、これは大国日本の経済力を総合的に考えれば、そんなに危機的な数字ではありません。

②GDPと比較することにどんな根拠があるのか

これは何の根拠もありません。これまでGDPの何分の一かの借金しかなかった国でも国家運営のまずさによって財政破綻しています。アルゼンチン、ロシアなど。またイギリスはかつて日本と同じように(じつは日本の実情とはちがって、おそらく本当に)GDPの2倍の借金を抱えていたことがありますが、破綻していません。

③消費増税で税収は増えるのか(財政危機を救えるのか)

ここがいちばん肝心な点です。過去の例を挙げましょう。消費税創設時(1989年)は2年ほど一般会計税収が増えていますが、これは景気がバブルの絶頂期を目ざしていた時期に当たっており、消費税による税収増加ではなく経済成長によるものです(最高時60兆円)。その後一気に51兆円(94年)まで落ち込み、97年にようやく54兆円にまで持ち直したと思ったら、橋本内閣による消費税増税により、またがくんと落ち込んで47兆円にまで下がりました。その後、長い長いデフレ不況のなかで山、谷を繰り返しながら、しかし全体としては落ち込みが続いて、現在、なんと最高時の三分の二の41兆円というわけです。(http://www.garbagenews.net/archieves/1778034.html)

これでわかるように、消費税の増税は、少しも一般会計税収の増加に結びつかないどころか、かえって減収を招いているのです。いま、増収分を社会保障費に当てるのか公共投資にするのかなどという議論がかまびすしいですが、この肝心な点を無視したバカげた議論です。

④なぜ増税すると税収は下がってしまうのか

当たり前です。いまは深刻なデフレ不況時です。みな財布の紐を固くして消費を手控えています。生産は停滞し、失業、雇用の不安定は改善されず、家計収入は落ち込み、庶民はなけなしの貯金も崩さざるを得ず、10人に3人は貯蓄ゼロの状態だといわれています。私の周辺にも、老若男女、不安定な職に就きながらその日ぐらしを強いられている人が何人もいます。貴兄はそういう人たちのことを考えてものを言っていますか。

デフレ不況時に増税などすれば一般消費者がどういう心理的な反応を示すか、よく民の立場に立って想像してください。5%が10%に上がれば、物価が約5%上昇するのと同じなのに、稼げる金は減っていくのですよ。やけっぱちならともかく、堅実な生活者のだれが消費に走りますか。消費税増税は、経済をますますシュリンクさせ、デフレ不況を加速するのです。

⑤日本国民はこれまで国に税金を納める義務を守るという公共心(民主主義精神)を示してこなかったか

これが貴兄のいわゆる「日本人は民主主義がわかっていない」説の根拠のようですが、そもそも納税額の多少と民主主義精神の有無とを結びつけるなど、ピントはずれもいいところです。貴兄は北欧のような高福祉・高負担をイメージとして思い描いているようです。しかし日本は北欧などと「税」の徴収スタイルが違うので、単に税負担という形では比較できません。日本では税以外に高額の年金料、健康保険料を取られています。また、日本の法人税は、国際比較をしても相当高いはずです。だからこそ、大企業は海外に逃げるのだし(もちろん円高による国際競争力の低下の問題が大きいですが)、それができない中小企業、特に輸出関連企業は税負担と円高不況にあえいでいるのです。

こういう深刻な事態のときに、民主主義国家の理念を根づかせるために増税の必要を国民に理解させるなどと寝ぼけたことを言っていられるのは、どういう立場の人ですか。自分が増税に対して何の痛痒も感じない余裕のある人だけではないですか。私は、そういう人のほうこそ公共心(貴兄は知識人なのだから、ノブレス・オブリージュとあえて言いましょう)が欠如していると思いますがいかがでしょうか。

日銀の白川総裁が、記者に「デフレの実感はありますか」と聞かれて、「カミサンと高級(とは言っていませんがそうに決まっています)レストランに出かけたときにこんなにおいしいものがこんなに安く食べられるのかと思った」と答えたそうです。貴兄の言っていることは、失礼ながら、これと五十歩百歩ですね。

⑥消費税増税以外に財政危機から逃れる道はないのか

あります。ないと思わせているのが、財務省・日銀の国民だましなのです。まず先にも述べたように、財政危機そのものが、そんなに差し迫った事態ではないことを認識する必要があります。そのうえで、百歩譲って、今後、財政破綻の可能性が皆無ではないとしましょう。しかし、日本は世界一の債権国です。これは、産経新聞特別記者・田村秀男氏のアイデアですが(『財務省「オオカミ少年」論』産経新聞出版)、たとえば現在、日本政府は米国債を100兆円以上握っているので、これを日銀に引き受けさせ、それで得た資金を公共投資(震災復興費も含む)に回せばよいのです。政府・日銀は通貨発行権を持っているわけですから、本当に財政危機を救おうという「公共心」と責任感さえあれば、雑作なくできることです。また、この操作によって、市場は当然活気づきますから、デフレ不況から脱する引き金ともなり、税収も増えるはずで、一石二鳥です。

⑦公共投資や金融緩和によって通貨供給量を増やすとハイパーインフレになるのではないか。

なりません。このブログの主人・美津島氏が強調されているように、ハイパーインフレとは、数倍、数十倍の物価上昇を意味するので、そんな心配は無用です。万一、そんなことになりそうな徴候が見え始めたら、その時点ですみやかに緊縮策を打てばいいだけの話です。

デフレ脱却・緩やかな経済成長のための健全なインフレ・ターゲットを設定すること、量的な金融緩和を実行することは、いま財政・金融政策の要を握る政府・日銀に課せられた必須の使命です。でも、これら中央官僚たちは何の手も打とうとせず、自分たちの無能・無策を隠すために、国民に不当な負担を負わせようとしているのです。もともと国債は国民からの借金なのだから、企業が株主から獲得した資金によって利潤を懸命に上げようとする責任を負っているのと同じで、それをうまく運用する義務があるのに、何もしないばかりか、さらに国民を痛めつけようとしています。これは借金を踏み倒してその上強盗をはたらこうとすること以外の何ものでもありません。

田村氏の次の名言を引用しておきましょう。橋爪さん、どうかこの言葉をよくよく噛みしめてくださるよう、お願いいたします。

「国の借金は家計にとってみると金融資産である。お金を貸したうえに、当の借金相手から『あなたの子どもや孫に迷惑がかかりますから、もっとお金を出してください。そうしたら返済します』といわれて怒りを感じない人間がいるだろうか。(中略)『われわれの子どもや孫の心配をする前に、まずお前たちがもう少し真剣になって、知恵を絞って危機の克服に取り組め』というのがおカネの貸し手である国民の真情であるはずだ。」(前掲書)

⑧では、なぜ政府・日銀は必要な手を打とうとしないのか

これについては、私もいろいろと考えました。財務官僚や日銀、民主党政権の無能、これはたしかなところです。しかし、「もともと左翼だから」「国家破壊の陰謀」などの説となるとどれもピンときません。民主党の一部に当てはめるならともかく、政権担当者は、かえってその無能さのために財務官僚や日銀の手玉にとられているだけだからです。野田首相をはじめとして、政権担当者は(自民党幹部も)、財務官僚のマインドコントロールに完全にはまっているので、そんなたしかな主義や悪意に支配されているとは思えません。また、財務官僚や日銀幹部が既得権益死守や天下り先の確保のために大胆な政策を打ち出すことを手控えている、という説がありますが、これは事実、そういうところがあるでしょう。でもそういう私的な動機(エゴ)が、「何も積極策を打とうとしないこと」の理由のすべてを説明しえているかというと、どうもそれだけに限定できるとは思えません。

私はふたつの理由を考えています。ひとつは、国民生活があまりに多様化・高度化したために、既成の経済理論(ケインズではなく、あやしげな非ケインズ理論)で武装したいまの「秀才官僚」たちは、妙な学識が邪魔をして、生々しい現実に対する適応力と広い視野とを喪失しているのだということ。

まあ、もともと「秀才」というのはそういうものでしょう。どうやら誰かさんもこの部類に入るようですね。

もうひとつは、公共事業がインフレを招いたというかつての経験がトラウマとなっていて、「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」の体(てい)に陥っていること。これは要するに、彼らが自らの役職上の責任をまったく自覚できないほどの怯懦と臆病という不治の病に侵されていることをそのままあらわしています。

前置きのつもりがこんなに長くなってしまいました。以上は貴兄の二つの論文のうち、主として8月号の「そもそも税金と国家とは」に対して抱いた私の感想です。もうおわかりのように、ここに書き出した政府・日銀に対する批判は、その姿勢において、そっくりそのまま貴兄に対して向けられたものでもあります。

残念なことに、聡明であるはずの貴兄までもが、財務省・日銀のマインドコントロールにすっかりやられているようですね。アメリカの「草の根民主主義」の理念とやらにあまりに毒されているせいか、日本の民がいま置かれている深刻な事態とそれを引きおこしている元凶の姿とがまったく見えなくなっているらしい。貴兄が一応オール・ラウンドの書き手であることは先刻承知しておりますが、やっぱり人間、不得意領域というものはあって、あまり不得意領域に手出ししないほうが身のためですよ、と僭越ながらご忠告申し上げておきます。

さて、ちょうど「草の根民主主義」という言葉を出しましたので、ここから、政治問題を扱った貴兄の第二論文「小沢氏の言い分に理はあるか」への批判に入ります。経済問題では音痴ぶりをさらしても、貴兄には『政治の教室』(講談社学術文庫)をはじめとして、北朝鮮問題、靖国問題、天皇の戦争責任問題などに触れた著作・論文もあり、政治領域ならばさぞ専門知を生かした発言をしているだろうと考えたくなります(ほんとうは、現下の日本の政治を語るのに、経済と政治を切り離すことなどできないのですが)。ところがなんと、これまたびっくり仰天、貴兄がとんでもない「政治音痴」でもあることがはっきりしてしまいました。

貴兄はこの論文で、まず小沢一郎氏の言い分と野田首相の言い分とを二項対立として設定し、どちらが正しいかという問題提起をしています。

小沢氏が民主党を離れて新党を立ち上げたのは、民主党が消費税増税をしないとマニフェストで謳(うた)ったのにそれを守らなかったからだ。野田首相は、歳出削減策は打ったもののそれでは不足で、しかも震災や原発事故などの不測の事態が起きたことで歳出が膨らんでしまったので、どうしても国民に負担をお願いするしかないと決断した。どちらが賢明な選択か、というわけです。

この問いの中身について云々する前に、こうした問題設定の仕方自体、現下の政局問題をきわめて粗雑に扱っている証拠を示していると私は言いたい。それは、現実に対する貴兄の鈍感そのものからきているのか、あるいは、知っていながらわざと一番大事な問題から読者の目をそらすための欺瞞的な策略を用いているのか。先に見たような経済音痴ぶりからすれば、どうみても前者にちがいない。ああ、「秀才学者」の嘆かわしさよ、と溜息が出ます。

いま政局が混乱している最大の原因は、国民の過半数が消費増税に反対している(これが切実な根拠を持つ反対であることは、先に述べました)のに、野田政権が「政治生命をかける」などと抜かして、強引に増税関連法案を通そうとしたことにあります。しかも、「社会保障と税の一体改革」なる名目を立てながら「一体改革」とは名ばかり、じっさい、法案が国会を通過しても前者のほうは何にもやっていないことを、まさか貴兄が知らないはずはありますまい。要するに「一体改革」とは何が何でも増税を成立させるための見え透いたごまかしに過ぎません。こんなことはふつうの国民がみんな見抜いていますよ。

この民主党政権のやり方があまりにひどい(倫理的な意味でよりも、むしろ政治戦略として稚拙そのもの)からこそ、民主党内にも、自民党内にも反対者が続出し、そればかりではなく、政権崩壊後を見据えた新勢力が続々と立ち上がろうとしているわけです。その一角を占める小沢氏には、もちろん高級な政治理念など何もありません。増税がなぜ間違っているのかについての理論的な勉強をちゃんとしているわけでもない。ただ「政治屋」としての永年の勘からこの事態を見抜き、国民のなかに盛り上がりつつある民主党政権打倒の空気に便乗しているだけのことです。それでも、もともと現実政治というのはそんなものなので、野田政権の首を絞めてゆく大きな力にはなりえています。

また野田首相は、不測の事態で歳出が膨らんだから増税を通そうとしたのではなく、最初から自民党の増税路線に賛成なのであり、はじめからマニフェストなど踏みにじる気だったのです。どちらの言い分に理があるかもくそもない。「財政危機」という、永年にわたる財務省のインチキ問題提起に惑わされて、この問題の解決こそが国難回避のための最優先課題だと愚かにも信じ込んだだけのことです。もちろん、こういう信じ込みが、国民の信託を裏切る許し難い暴挙であり、彼が首相としてはおろか、ただの政治家としても失格であることは言うまでもあません。

「戦後最大の国難」とは昨今よく叫ばれる言葉ですが、「国難」の意味をすりかえてはいけません。国難とは、震災で甚大な被害を被った人々や、円高デフレ不況にあえぐ経営者、労働者、就職できない若者、マイホームの夢や老後の年金生活の設計可能性などとっくに費えてしまいながら、なおも血のにじむ思いで毎日家計をやりくりしている一般市民、こういった人たちの「国民生活難」を言うのです。もちろん日本が弱ってきたと見るや露骨な主権侵犯を繰り返しつつある周辺諸国に対して、外交的、軍事的にどう立ち向かうかも大きな「国難」に直面していることを物語っていますが、いずれにしても、でっち上げられた「国家財政難」などでは断じてありません。野田首相はこんな簡単なことも見えなくなった痴呆政治家です。

現下の政局問題を「小沢か野田か」、しかもどちらの政治「理念」に理があるかなどという形で問題設定すること自体が、「国難」の中心問題からの目くらましの効果しかもたない矮小化であり、おめでたい学者の頭の中だけの観念遊戯に過ぎないことがお分かりでしょうか。

さてでは、貴兄の問題設定のおめでたさを一応我慢するとして、次の論理展開にお付き合いすると、こんなことが書かれています。

マニフェストの考え方が、代議制民主主義の原則と、矛盾しているかもしれない。この点を、掘り下げてみよう。/ 民主主義の原点は、直接民主主義だ。人民が直接、政治的意思決定に参加する。人民が政治の主役という点で、理想的である。でも、人数が多くなると、実行できなくなる。/ そこで、代議制が登場した。人民の「代表」を選挙で選び、その代表が集まって「議会」を構成する。予算や法律など重要なことを、この議会で決める。間接民主主義である。

もうはじめから、結論をどこにもっていこうとしているか、意図が見え見えです。政党のマニフェスト(かつては「公約」と言いました。読者はごまかされないようにこの点をお忘れなく)は、もともと代議制民主主義の「原則」に則ったものではないのだから、必要に応じて破ったからといって、民主主義を危機に陥れるものではないと言いたいわけですね。

それに続く、「民主主義」の講釈は、だれもが否定できない自明のことを言っているようで、何となく読みすごしてしまうかもしれませんが、じつはそれこそが曲者です(このあと、「政治家」と「政党」についての講釈が続きますが、わかりきった「原則」の提示で紙面を埋めて本当に言いたいことをカムフラージュしているだけなので、省略します)。

民主主義の「原点」は直接民主主義だと、いったいだれが決めたのですか。貴兄が「草の根民主主義」とやらに幼稚な恋をして、これこそ理想だと思っているだけのことでしょう。あるいは、歴史上どこかの社会や国家で、こういう「原則」が実現されていたのですか。まあ、じっさいには小中学生の学級会くらいのものでしょうね。直接民主主義と聞くと、だれもがアテナイの公会を連想するので、かつてそういう「理想」が実現されていたことがあったかのようにひょいと錯覚しますが、よく知られているとおり、アテナイの公会は政治的意思決定を独占していたごく一部の自由市民たち(男子のみ)の間での「民主主義」に過ぎず(つまり一種の貴族制)、しかもそれでさえ衆愚政治に陥ってうまくいかないので、しばしば僭主(せんしゅ)が登場してこれを捌きました。プラトンもアリストテレスも、民主制の欠点をいち早く見抜いています。

「人数が多くなると、実行できなくなる。/ そこで、代議制が登場した」という続く論理もじつはまやかしです。どんな小さな共同社会でも、政治的意思決定は長老や選ばれたリーダーや世襲の権力者が行なってきたのです。長老やリーダーを選ぶ手続きそのものは民主的だったことがある、といえば、まあ当たっていなくもないでしょうが、貴兄の論調では、すべての意思決定を人民が直接行なうことが一番いいのだと言っているようにしか聞こえません。そして私は、こんな理想にはじめから反対します。理想としてだけなら、机上の空論だし、現実に移すと専制政治の口実に使われるだけだからです。貴兄は、「人民民主主義」なる名目で恐ろしい恐怖政治や全体主義がはびこってきた(いまも世界の一部ではびこっている)歴史的な現実をどう考えるのですか。

人数が多くなると機能的に民主主義が実行できなくなるから代議制が登場したのではありません。もともと直接民主主義が字義通りに実行されてうまくいっていた現実などないのですから、その「あとに」仕方なく代議制にした、などという史観は、論理的に成り立つはずがないのです。代議制の意義は、直接民主制では数の点で機能的にうまくいかないという消去法から演繹されるのではなく、知識・教養があり、視野が広く、自分の利害はさしおいても民の幸福のことを考えて実行できる意志と能力のある人こそが、政治の運営にふさわしいと考えられるからです。貴兄などは、本当はその資格があるはずなのに、こういうだらしないポピュリズム丸出しのことを言っているようでは、民のほうから「あなたの政治思想を信じる気にはなれない」とかえって引導を渡されるでしょうね。

次にいきましょう。

マニフェストは、政党と有権者との「契約」か。/ 厳密に「契約」と考えると、憲法と折り合わなくなる。その理由は二つある。/ 第一に、政党は、憲法に定めのない任意団体だ。憲法に定めのあるのは、国会議員。(中略)政党は、政権や議会の基盤になるから、公的なものである。しかし、憲法からは、国民の代表である議員個々人の独立のほうが原則である。憲法は、政府が憲法(=契約)に絶対に従うことを求める。でも、議員や政党がマニフェストに縛られることを求めてはいない。

ゴチャゴチャ言っていますが、要旨は簡単ですね。要するにマニフェストは国民との契約ではないのだから、個々の議員や政党がそれを破っても「契約不履行=法的な違反」ではない、と言いたいわけです。当たり前ですよ。現に民主党政権担当者のだれも、法的に罰せられてはいませんよね。

しかし、ここには二つの詐術がはたらいています。軽く読みすごす人は、ほほう、なるほど、そういえば憲法には、「すべて国民は、個人として尊重される」(13条)とあったっけな、などと感心してしまうかもしれません。しかしはばかりながら、私(たち)の目はこんな屁理屈にごまかされませんよ。

ひとつは、政党は個人と同じように自由が保障されているのだから、マニフェストに縛られることはないという屁理屈。つまり、政党と、憲法でその独立が保障されている個人とを意図的に一緒くたにしていること。

もうひとつは、マニフェストを守らなくてもよいという理屈を通すために、「憲法」という葵の印籠を持ち出して、「政党の公約だったはずなのに、政権とったら全然守らないじゃないか」という国民の当然の不満感情を圧殺しようとしていること。

はじめの屁理屈について。これはとんでもないことです。マニフェストは、「ある政党が政権をとったら」という条件法の上に成り立つものですから、政権もとらない政党がただの政党である限りで守ったり守らなかったりする性質のものではありません。それなのに貴兄は、「政党がマニフェストに縛られること」はないというインチキ論理で、いつのまにやら「ただの政党」にマニフェストを守る義務はない、というスリカエをやっていますね。

二つ目の屁理屈について。これもとんでもないことです。「憲法」という葵の印籠を突きつけさえすれば、「この政党が公約を守ってくれると信じて投票したのに、政権を取らせて見たら全然ダメだ」という国民の思いを「論理的に」覆せるとでも考えているのですか。何よりも「日本国憲法」が不磨の大典ではないことは、いまでは常識です。一部ではありますが、憲法改正や自主憲法制定の気運は相当に高まっています。貴兄が仮にそうした気運を無視するのは勝手だとしても、許し難いのは、葵の印籠を振りかざすその権威主義的な姿勢です。憲法に、政党はマニフェストに従うべしと書かれていないからといって、どうしてマニフェストを守らない「政権党」が国民感情のなかで免罪されるのですか。

はっきり言いましょう。マニフェストを守らない政権党を免罪してはいけないのは、そういうことが平気でまかり通るようになったら、国民の代表として一番人倫の模範を示さなくてはいけないはずの政権党のメンバーが、私たちの日常生活におけるよき慣習としての人倫を率先して踏み潰していることになるからです。たとえ法的な違反に問われなくても、私たちがふつうに「約束」を守り、相手を「信頼」して生活を送っている、その一番基本の部分がゆるぎなく機能しているからこそこの社会が成り立つので、マニフェストを守る、というのは、こういう基本的な人倫(=よき慣習)にもとづく常識感覚からして、ごくごく当たり前のことではありませんか。

法というものはけっして成文化された部分がそれだけ独立して有効な機能を発揮するものではありません。日常生活における人倫によって支えられてこそ、成文法も意味を持つのです。貴兄は、法についての本も書いているのに、私ごときがこんな説教口調を使わなくてはならないほど、こういう基本的なことがまったくわかっていないらしい。貴兄の言っていることは、「校則に書いてないから何やってもいいんだもんね」とうそぶく不良ガキと同じです。

次にいきましょう。

第二に、マニフェストは、「政党と有権者の契約」ではない。マニフェストの本質は、選挙のあとこういう政策パッケージを実現したいです、という意見表明。努力目標だから、そのとおり実現できなくても仕方がない。(中略)マニフェストが実行不可能であるとわかったり、マニフェストの前提が崩れたりしたら、マニフェストを破棄するのが正しい。有権者は、それが不満なら、次の選挙で反対党に投票すればよい。

あのねえ、くどいようですが、いまの政権に対する有権者の失望と怒りは、貴兄がここで抽象的な能書きを垂れることで説得されるたぐいのことじゃないんですよ。「契約ではない」ということにこだわっているようですが、何だか強調すればするほど、ボロがあふれ出してきて、聞いているこちらが情けなくなります。

ちょっとわき道にそれて、細かいことにこだわりますが、この引用での「第二に」というのは、「マニフェストを厳密に契約と考えると憲法と折り合わなくなる理由」の二つ目だったはずですよね。ところが、憲法との関係への言及は、ここではどこへやら、「マニフェストの本質」についての珍説がご披露されているだけです。簡明な論理的展開を一番重んじる貴兄にしては、何やらオカシナ記述のような……。

閑話休題。本道に戻りましょう。

何ですって!? マニフェストはただの「意見表明。努力目標」に過ぎないんですって!? それなら、どっかの小学生あたりが「ボクはみんなが仲良くするのがいいと思いま~す」「私の夢はオリンピックに出ることなので、その目標に向かってかんばりま~す」なんていうのと同じなんですか。それならたしかに「そのとおり実現できなくても仕方がない」ですね。

しかし橋爪さん、有権者が政治家に国家や国民生活の運命を託すことの重みを舐めてはいけませんよ。ただの意見表明や努力目標なら、そこには貴兄が好きなはずの何の「公共性」も担保されないし、「公約」が実行不可能だったりその前提が崩れたら破棄すればいいなどと軽々しく言って済ませるなら、はじめから「公約」なんて信じるなと勧めるのと同じで、それこそ貴兄が好きな「民主主義の原則」を、その中心から食い破っていくことになるじゃありませんか。政治家が国民の信託という重い責任を受け止めて、その上でこれはできそうだからという専門家としての精密な目測の上に立って実行を約束するのが「公約」というものでしょう。またそういう責任の自覚あってこそ政治家としての誇りが維持できるのではありませんか。

もちろん公約どおりにいかないのは、私たちの生活が思ったとおりにいかないのと同じで、現実にはいくらでもあります。しかし、貴兄の言っていることは、その「思ったとおりにいかない」ずぶずぶの現実のほうに軸足を完全に置いた物言いです。これでは、国民に対して、政治家としての責任(結果責任)を厳しく問うまなざしを放棄しろと勧めているのと同じで、まあ、次の投票機会があるんだから、失敗した政治家を許してやってくれと言っているに等しいじゃありませんか。

だいたい、「実行不可能」とか「前提が崩れる」などという一般的・抽象的な言い方で、今回の民主党政権の具体的なぶざまさが免罪されるんですか。実行不可能だったのは、政治の素人たちが政治を担ったという、彼ら自身の責任であり、前提が崩れたのは、ただ不測の事態が起きたからではなく、主として彼らの現実感覚や読みがはじめから甘かったからではありませんか。政治主導などとカッコだけはつけてみたものの、事業仕分けなんて税金と労力を費やして財務官僚の手先になるだけの試みに手を出して(私ははじめからそう思っていましたよ)結局何の成果も上げられなかったのは、記憶に新しいところです。しかもこれなど、今回のバカ政治オンパレードのほんのひとコマに過ぎないといってもいいくらいでしょう。

貴兄は、「マニフェストどおりの政治はできない。そこで野田首相は、消費税増税に舵を切り、党内がまとまらないとみるや、素早く与野党協議をまとめた」などと、妙に野田氏をヨイショしていますが、これって、先にも書いたとおり、ウソですよね。舵を切ったのではなく、野田という人は、体質的に自民党的(ソフト保守)な人で、勉強もせずにもともと自民党が掲げていた消費税増税に同調していたにすぎません。与野党協議もすったもんだの挙句、ようやくまとまったので、しかも別に野田氏の功績ではなく、自公の基本的流れがはじめから決まっていたからこそ出来たことです。しかも増税関連法成立という最悪のかたちで。

小沢氏は、民主党のマニフェストのどたばたの舞台裏や財政の厳しさを、よくわかっているはずだ。それなのになぜ、野田首相に絶対反対の姿勢を貫いたのか、理解できない。(中略)政治的な駆け引きの手段として、マニフェストを盾にしているだけではないかと思う人もいるかもしれない。

「理解できない」のは、貴兄自身が「政治学」などという高級な学問に手を染めながら、頭の中で政治理念のチェス遊びに耽っているだけで、現実政治の力学に対する感覚をまったくもっていない甘ちゃんだからです。この引用部分は、学者にありがちな中立を装った文体(じつは消費増税賛成という意地っ張りな主張を通したいがための野田政権ヨイショの文章)のなかで、唯一、「私」が顔を出している部分ですが、それにしてもはっきりと「マニフェストを盾にしているだけではないか」で終らせれば、まだしも批評主体としての橋爪大三郎が前面に出て、ああ、あなたはそういう立場ですねと明確に了解できるのに、「と思う人もいるかもしれない」などと、往生際の悪い言葉をわざわざ付け加えています。こういうのを世間では、「ケツの穴が小さい」というのですよ。

今回は、有権者も勉強になった。マニフェストは、レストランのお勧めメニューみたいなもので、あとで勘定を支払わなければならない。

ふざけなさんなよ、と私は言いたい。勘定を支払うのはだれですか。詐欺師たち、とは財務官僚・日銀のことですが、民主党政権担当者は、その無自覚な傀儡です。で、彼ら詐欺師たちのペテンに引っかかったことがはっきりしているのに、国民は、出てきた食えない料理にどうして高い勘定を支払わなくてはならないのですか。

もうこの辺で終わりにしますが、たかが2500字×2程度の軽く書いた短い文章に、しかも他にも同じようなことを言っている人がいるはずなのに、貴兄一人に小浜は何でこんなにしつこく絡むのか、といぶかしく思われたかもしれません。さぞうっとうしいことでしょう。でも、それにはいくつかの理由があります。

いつのころからか、言論人は、真剣な論争をやめてしまいました。アカデミズムやジャーナリズムでものを書いてきた人たちが何とか食っていけるようになったので、そのころからこの傾向は顕著となり、同じ問題を論じてもみんな言いっぱなしで「こちとら、争うのきらいだもんね」とばかり、シカトを決めこむ習慣が根づいてしまったようです。私はこのことを、思想の発展にとって、たいへん嘆かわしいことだと思っています。貴兄などこういう馴れ合いムードを「日本的悪習」として一番嫌うのではありませんか。

私はかつて貴兄のことを、わが盟友と勝手に心得たこともありました。しかし今回、国民生活の運命という深刻な問題がからんでいる政治の動きに関してこんなひどいことを書いているのかと知って驚き、だからこそ、どうしても黙っていられなくなり、書き出したらとまらなくなったのです。

私は、貴兄のコンピュータのような頭脳から出てくる簡潔・明瞭な文体が嫌いではなく、多くの人に読まれるという目的を達成しているという点で、自分にはまねのできない値打ちがあると、これまで評価してきました(むろん、いくつかの点で違和感を抱えないではなかったのですが)。しかし、これも扱う主題、内容によりけりで、今回のようなテーマでは、広くものを見渡す力と、じっさいに円高デフレ不況で困窮している国民への繊細な配慮が必要とされます。残念ながら、貴兄のこのたびの文章は、簡潔・明瞭さが悪いほうに出ており、民の心を理解しない非人情に満ち溢れた粗略きわまるものとみなさざるを得ません。

先にも触れたとおり、貴兄のこのたびの論は、いつものように、なるべく中立性を貫こうとしながら、結果的に消費税増税をごり押しで乗り切った野田政権の悪政ヨイショにしかなっていません。貴兄は、いったいいつから、こんな御用学者的文章を書く人に成り下がってしまったのですか。

貴兄は社会学者ですが、社会学といえば、すぐに連想するのが、御大であるマックス・ウェーバーの「価値自由の法則」です。貴兄の文体も、元はといえば、おそらく学者としての良心、つまり安易に主観的価値観を表明するのではなく、きちんとした価値観を打ち立てるためにこそ客観性を重んじて、言えること言えないことの境界を見定めようという志のしからしめるところなのでしょう。しかし今回の文章を読む限り、経済についてのごく基礎的な知見すら踏まえておらず、政治についても、ただ増税策をやみくもに支持しているだけとしか受け取れませんでした。よく調べずにものを言っているために、中立性を貫いているつもりの文体が、かえって安易な価値観の表明に身を寄せるかたちになってしまっているのだと思います。

この事態を、物書きのはしくれとして、私はたいへん悔しく思います。なぜなら、こういう国難のときこそ、知識人の役割が問われ、その真価が秤にかけられるべきだからです。そういうわけで、私はたまたま貴兄の仕事の成り行きをよく知っているので今回標的に選びましたが、じつは、こうした「言いっぱなし」風潮が知識人の間でまかり通っていて、だれも本気でやりあおうとしない現象に深い憤りを覚えており、そのひとつの象徴的・典型的な例として貴兄の「経済音痴・政治音痴」論文が目にとまったということなのです。インテリ村って、お気楽でございますね。

有意義な反論を期待しています。逃げないでくださいね。私の論争相手はこれまで、大物小物を含めて、たいていは逃げを打ってきましたので、念のため。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする