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美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

教育問題と戦後民主主義と日教組  soichi2011さんへの返事 (イザ!ブログ 2012・8・13 掲載)

2013年11月25日 08時42分37秒 | 教育
*八月四日投稿の拙文『戦後民主主義の墓場とその棲息地 ごくささいな経験から』http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/7f3ee76616d1853da99f856bf0c56e4cに対して、soichi2011さんから後日率直なコメントをいただきました。それをきっかけに、2,3回意見交換をしました。そうするうちに、コメント欄の1000字制限の枠がどうにも邪魔になってきたので、今後、場を本投稿欄に移します。もし、私の文章で脈絡のつかないところがあれば、コメント欄でのやり取りをご覧ください。

*****

soichi2011さんによれば、お子様教=児童中心主義と戦後民主主義はけっこう違うとのこと。私としては、この両者に少なくとも一定の親和性・相補性あるいは補強性を認めるのはそれほど不自然なことではないような気がします。それさえも否定してしまうとすれば、いささか奇異な印象を受けることになりましょう。また、その程度の関連性が認められれば、論のロジックはまだかろうじて成り立つ(言説そのもが正しいかどうかは別問題ですが)のではないかと思われるので、私としては十分です。自分から「お子様教は戦後民主主義の産物」と言い出しておいてなんですが、「産物かどうか」という論点にこれ以上拘泥する気にはあまりなれません。

それはそれとして、soichi2011さんと昨日お会いして感じたことを述べます。soichi2011さんは、学校教育の諸問題を論じるとき、それに関連して戦後民主主義批判をし、日教組を敵視するという保守派的な教育言説の定番を私のそれに見出し、そのことに違和感を抱いていらっしゃるように受けとめました。

《教育問題をイデオロギー闘争の代理戦争の場にしてはならない。それは不毛なことである。教育問題はできるだけ教育問題として語られ、その解決案は実効性のある具体的制度論として語られることが必要である》

soichi2011さんは、おそらくそう考えていらっしゃるのではないでしょうか。そうして、前回の返事で申し上げたように、私はそういう考え方に全面的に賛成です。当たり前のことですが、問題は解決されるためにあるからです。実際的な解決とは程遠い迂遠な道を堂々めぐりするのは、時間とエネルギーを空費するつまらないことですね。

いまさらながらの感もなくはないのですが、一つ確認したいのは、私は当論で、例の問題児B君の授業妨害を解決するには戦後民主主義を否定する必要がある、などとは一言も言っていない、ということです。というか、問題の解決そのものにさえ話の焦点は当たっていないでしょう。私が当論で突き止めたかったのは、一連の学校の対応に対して私が抱いた違和感の正体です。その正体を突き止めたら、授業妨害が解決される、とは口が腐っても言っていませんし、そんなバカなこと、考えたこともありません。

その正体を、私は学校関係者における戦後民主主義の平等原理主義的な言動パターンの残骸である、としたわけです。で、彼らは戦後民主主義の理念を正義と信じてそういう言動に出ているのではなく、なかば以上慣習化されたものを無自覚にとりあえずなぞっているだけです。また、その言動の核心には、おそらく、soichi2011さんが指摘した「「民主主義」も「自由平等」も関係ない、自分の子どもは特別なんだから、特別に面倒を見てくれ、と、あられもなく要求する親たち」への学校関係者の苦慮があります。それを私は、当論で学校関係者の「オバタリアニズム」の襲来に対する学校側の怯えと表現しました。

だから、soichi2011さんが言っていることと私が言っていることは、なんというか、実質的にそれほど隔たってはいないような気がするのです。

おそらく、soichi2011さんが苛立っているのは、私が「お子様教」やオバタリアニズムと戦後民主主義とを強く関連付けようとしているからでしょう。さらには、そこから、日教組解体論を立ち上げようとするからでしょう。それではまるで絵に書いたような保守派言説ではないか、と。

それに対して、私はなにを申し上げればいいのでしょう。

私の日教組嫌いなんですが、これはこれでけっこう根が深いのです。中学校時代からの私の友人で高校教師をやっている人がいます。彼は、これまでずっと組合活動をしてきました。そうして、いまや組合の中核を担う存在になっています。若い頃からずっと、彼と私は日教組や左翼をめぐって会うたびに論戦を交わしてきました。彼は左翼の立場から、昔の私は左翼批判の吉本隆明的な立場から。

彼の言動を極端に受け入れ難く思うようになってきたのは、思えば、民主党が政権を取ってからです。きっかけは、同じく民主党シンパの人と彼とが「岡田外務大臣はよくやっている」などと、私からすれば、のうのうと内輪ぼめをしているのを横で聞かされたことと、外国人選挙権問題で、その危険性についての私の必死の訴えに対して彼が「そうかなぁ」という鈍感な態度に終始したことです。岡田など、私は馬鹿だと思っていましたので、二人の話ぶりに腹が立ってしかたがありませんでした。

そのときから、民主党に票を入れたことを心底後悔しはじめました。「こんな愚劣でレベルの低い、心底ガッカリするような政治話を聞かされる羽目に陥ることに自分は図らずも加担してしまったのか」と思ったのです。私が民主党の批判をすると、彼は浮かない顔をしてやり過ごそうとするばかりです。腹の中で「それでも、自民党が政権を取っているよりはマシだろう」くらいのことを考えているのがなんとなく分かるので、ますます不愉快になってくるのです。正直に言えば、私は彼の人としての誠意を疑い始めました。彼は、腹の底で私との対話を拒んだのです。そういう政治的百姓根性を、私は、党派性と呼んでいます。

こんなこともありました。浅田真央がフィギア・スケートの世界選手権で金メダルを取り、日の丸を身にまとってとても綺麗な笑顔でスケートリンクを一周したのを、私が好感を持って語ったところ、彼はシニックに「あんな、下着にメンスの血が付いたような薄汚い国旗を見せつけられたら気分が悪くなるんだよな」と言い放ちました。日教組の過激分子が、授業で「日の丸は、日本が間違った戦争をしたので薄汚れている。あの赤は流された血で、白は白骨の山」と教えていると耳に挟んだことがありますが、それに勝るとも劣らない強烈な反日的な言葉でした。

日教組が強力に支持する民主党が権力を取ってからというもの、天下を取ったような気分になったのか、彼の日教組的な言動は傲慢極まりないものになってきたのです。それをストレートに表すのならまだしも、その言動から漏れてくる形でその所在をこちらが感知してしまうのです。それは、とても不快な経験です。それにつれて、彼らの標榜する平和教育と人権教育とが、以前にも増して、日本弱体化のイデオロギーとして強く禍々しく印象づけられるようになっていきました。彼の言動の忌まわしさと日教組という存在の忌まわしさとが私の頭のなかで重なり合っていて、現状ではすっきりと腑分けできません。

こんなことばかり言っていてもしょうがないので、これくらいにしますが、今の私の目に創価学会と日教組は同じような社会的存在として映ります。つまり、活発な政治運動をすることによって、国家権力と太いパイプでつながっている(学会は、つながっていた、というべきです)点が同じなのです。そうして、ろくなことを考えていないところもよく似ています。創価学会が、世のため人のために早く消えてなくなってほしいと願うのと同じように、日教組も世のため人のために一日でも早く消えてなくなってほしいと、私は心から願うのです。

日教組が反日・反戦・平和の戦後民主主義を流布するのに教育の現場の最前線で果たしてきた歴史的な役割については、いろいろとご存知のsoichi2011さんに対して多言を要するには及ばないでしょう。彼らにとって、教研大会に朝鮮学校の代表者や解放同盟の幹部を講師として三顧の礼で招くくらいのことは朝飯前です。

そうして、とりあえずの最後の論点。戦後民主主義と「「民主主義」も「自由平等」も関係ない、自分の子どもは特別なんだから、特別に面倒を見てくれ、と、あられもなく要求する親たち」の、社会秩序を軽視した凄まじいまでの自己肯定、すなわち、私のいうオバタリアニズムとの関係をどうとらえるか。「私の公への異議申し立て」を正義としてきた戦後民主主義が、オバタリアニズムに対抗する原理としては無効であるのはもちろんであるし、さらには、その原理からすれば、それを全肯定するほかないのではありませんか。つまり、戦後民主主義は、教育現場でいま起こっている困った事象に対して、現実的にも原理的にも完敗であると私は考えます。

思想の作法として、無効になった思想は、きちんと埋葬しなければならない、と私は考えるのです。そうしなければ、それは形骸化したゾンビとして祟る。先の論においても、soichi2011との議論においても、私が一番申し上げたいのは、これです。

思想をナメてはいけません(soichi2011さんがナメていると言っているわけではありません)。現実世界に対して無効になった思想に何の力もないなんて嘘っぱちです。戦後世界において、思想としては無効なマルクス主義が、世間知らずの知識人たちの青白い脳みそに隠然とした大きな力を振るい続けてきた歴史が、そのことを物語っています。

戦後民主主義をきちんと埋葬することは、すなわち、民主主義の理念の再定義・鍛え直しをすることです。いま私が考えているのは、それを主権概念を導きの糸にして「私が公を担うこと」と再定義し、それを徹底するという方向です。つまり、民主主義以外の理念を探すのではなく、民主主義そのものをシンプルに鍛え上げることで、政治・経済・社会の立て直しの根本に据える、というアイデアです。(その観点から、憲法改正は当然射程に入ってきます)おそらくここで、私はいわゆる保守派と袂を分かつはずです。

soichi2011さん、バトンタッチです。
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小説『お澄さんの思い出 私という小窓から見えるもの』(イザ!ブログ 2012・8・7 掲載)

2013年11月25日 08時06分40秒 | 文学


お澄さんは、父の姉である。本名を澄江という。今年、八十歳になるのではないだろうか。生まれは北海道の小樽で、若いころ家族と札幌に移り住み、そのまま同市内に住みついた。

お澄さんは、私が幼少のころからバター飴などの北海道の物産をまめに送ってくれた。会ったこともない甥を喜ばせようとしてくれたのだろうと思う。また、それは二十年以上会っていない弟(つまり父)との再会の願いをこめた振る舞いでもあったのだろう。バター飴の、サイロの形をした缶に描かれた、ホルスタインの点在する牧場の風景の写実的なイラストを飽きずに眺めては、まだ見ぬ北海道への憧れをふくらませたものだった。私は南国に生まれ育った者なのである。私の北海道をめぐる子どもじみた妄想に、しびれをきらさずにゆったりと付き合ってくれた父のことを、私は今でも覚えている。父は父でそうしながら、望郷の思いに心がさらわれていくのにわが身をまかせるひとときがあったはずである。

お澄さんに初めて会ったのは、小学校四年生の夏休みのことだった。初めての札幌の夏は、空気がさらさらしていて気分が爽快だった。そのころのお澄さんは、市内の狸公路という繁華なアーケード街にある「ひかり寿司」という老舗の寿司屋に勤めていて、そこに私と母を連れて行ってくれたのを覚えている。確か、太巻き寿司をごちそうになったと記憶している。それは生まれて初めて口にするメニューであった。

長崎県の対馬というとんでもない田舎から出てきたばかりの私にとって、小柄で底抜けに明るくて、清らかな光を帯びた瞳のお澄さんがとても都会的に感じられてまぶしかった。飾り気がなくて、けらけらと本当によく笑う人だった。確か三十代半ば過ぎだったのではないかと思う。お澄さんは、合わない入れ歯のせいでいつも口をもぐもぐさせている祖母と、色恋沙汰で家庭を引っ掻きまわした妻とすったもんだの末に離婚をしたばかりの伯父と、そして不安定な家庭環境のせいでちょっとすね気味で目の底に暗い影を宿した、伯父の一人娘、つまり私の従妹の一家四人で札幌市郊外の団地に住んでいた。私たち一家三人が夏休みの間過ごしたのもそこだった。かなり手狭に感じられはしたが、家庭用の水洗トイレなるものに始めてお目にかかった私としては、それもまた都会住まいの特徴なのだろうと一人で納得したのだった。伯父は、もちろん父の兄であり、本家筋に当たる。当時は札幌市役所に勤めていた。四人のうちいまでも生きているのは、胃癌を患っている七六歳の伯父とお澄さんだけである。祖母は一二年前に亡くなった。眠るように意識を失くしていったという。享年八八歳である。また、伯父の娘は私のただ一人の父方の従妹だったのだが、数年前に四七歳で一人娘を残して亡くなった。死因は乳癌である。彼女は、苦しみながら死んだという。

伯父の再婚相手である義理の伯母から後に聞いたことなのだが、お澄さんは、一度だけー変な言い方になるがー結婚の真似事みたいなのをしたことがあるそうだ。見合い結婚のような形だったらしいのだが、詳しいことはわからない。籍を入れたのかどうかさえもわからない。彼女が四十歳前後のことと思われる。相手は年を食った板前さんだったそうで、新婚生活は一週間と続かなかったらしい。数日で実家に逃げ帰ってきたとのことだ。愛情のまったくない結婚だったことだけは想像がつく。おそらく相手が「変なこと」をしようとするので怖くて逃げてきたのではないだろうか。あるいは、むりやり「変なこと」をされたのがショックで逃げ帰って来たのかもしれない。そのあたりの真相は闇のなかである。いずれにしても、自分の結婚なのに、そこには自分の意志の所在が感じられない。お前もそろそろ、という伯父を中心とする周りの無言の圧力に抗し切れなくなった、といったところが事実なのではなかろうか。寒々とした話である。

そういう一連の出来事を境に、お澄さんは変になった。いま流行りの言葉で言えば、鬱状態になった。いつも笑っていた人が、うつろな目で四六時中しょんぼりとしている人になったのである。

そんなお澄さんが、当時函館に住んでいた私たちの元に伯父の意向で送られてきた。伯母といっしょに過ごしてみろ、そうして自分たちがどれだけ苦労してきたか少しは思い知れ、というわけだ。伯父は、確か「お前たちに試練を与える」という言い方をしたと記憶している。母は、その口ぶりに憤りを感じたようだった。事あるごとに、その言い方はないだろうという愚痴を子どもの私にこぼしたのを覚えている。まあ、ずいぶんと乱暴な話ではある。

詳しい事情をなにも知らされなかった当時の私たちは、お澄さんのあまりの変貌ぶりに面食らってしまった。とはいうものの、昔の明るかったころの彼女を知る父も母もそして中学一年生の不肖私も、なんとかしてあげたいと心から思った。しかし、なんともならないのだった。いまだったら、精神科に通院したり、あるいは入院したりすることになるのだろうが、そういうことがまだ庶民レベルでは常識にはなっていない時代だったのだ。精神病院は当時「キチガイ病院」 と蔑称されていたのである。素人考えで、お澄さんにあれこれとアプローチを試みるのだが、それが功を奏するはずもなかった。われわれは、結局のところ鬱病の人に「がんばれ、がんばれ」 と言い続けたのも同然だったのだから。

お澄さんが我が家に来てから数ヶ月経ったころだっただろうか。私が坂の上にある木造のおんぼろ中学校から帰ってくると、彼女は奥の部屋にいて、いつものように正座の姿勢で両手を片ひざの上に重ねてしょんぼりとしていた。彼女の我が家での役目は、母がパートに出て夕方まで帰らない留守宅を預かることだったのだ。薄暗い部屋のなかで、その、風船がしぼんだような姿はいまさらながらあまりにも哀れだった。猫背気味の背に、初秋の午後の薄日が差している。私は、なんとはなしに、これまでよりも深く彼女に関与して、事態をいまここで少しでも打開したいという、子どもらしい不器用な欲求のせりあがりに抗しきれなくなってしまった。

「お澄おばちゃん、このままでいいと思うとっとね!」

当時の私は興奮すると生まれ故郷の対馬弁が飛び出すくせがあった。普段は北海道弁と青森弁とのチャンポンである。それは、函館に引っ越してくる前に長く青森県にいたせいである。青森県にいたころ、私はなまりの強烈な地元の子どもたちを相手に、対馬弁と青森弁とのどちらの方言が変なのかをめぐっての、こちらに分の悪い多勢に無勢の口げんかを延々と繰り広げたものだった。彼らは、私の南国なまりを嘲笑った。自分としては、彼らよりは標準語に近い言葉で話しているつもりでいたので、頑として引き下がろうとしなかったのである。正真正銘の田舎者である私が、彼らのことを「この分からず屋の田舎者どもが」と我を忘れて憤っていたことになる。

「ちゃんとせんね。お澄おばちゃんだって、女やろうが。」

そのあまりの化粧っ気の無さがお澄さんの情けない現状を象徴しているようで、そういうことの改善が、残念としか形容のしようのない現状の突破口になるかもしれないという思いに、私の青臭い頭は支配されてしまったのである。善は急げといわんばかりに、母の鏡台からアイ・ラインと口紅とを取り出してきて、まずはアイ・ラインを彼女のまつげに細心の注意を払って塗り始めた。なかなか思ったようにはうまくいかないのだが、それなりになんとかなったようにも感じた。次は、口紅である。これがけっこうむずかしい。母が口紅を塗っているときの様子を思い浮かべて、彼女に唇に力を入れるように指示をする。私の命令に従って、そのしぼんだ唇のたて皺がのばされると、それなりに艶を帯びる。そこに潤いのある口紅を塗る。そういえば、目の上に塗る青いのもあった。アイ・シャドーの存在を思い出したので、鏡台の引き出しからそれを探し出してきて、最後の仕上げにそのまぶたを丹念に青で染めた。

お澄さんはいやいやをせずになされるがままなので、私は自分の振る舞いに対してほとんど抵抗を感じなかった。自分が甥としての一線を超えた振る舞いをしているという自覚が希薄だったのである。むしろ、初めての行為に我を忘れて没頭していたと言ったほうがよいように思う。もちろん、せっかくだから少しでもきれいにしたいという欲はあったので、払いうるかぎりの注意を子どもなりに払ってほどこしてはいた。出来具合をチェックするために、彼女の睫毛や唇を至近距離で目を皿のようにしてしげしげと見つめるのだった。女性特有の体臭が少しだけ気になった。

一応なんとか形がついたように感じたところで、ようやく手を止めて、お澄さんに言った。

「ほらあ、ちゃんときれいになったろうが。毎日きちんとせんばいかんよ。」

それに対してお澄さんはさしあたりこれといった反応は示さなかった。

ところが、しばらくすると、アイ・シャドーをほどこした彼女の、力が抜けて垂れ下がったようになっている目から、ぽろ、ぽろと涙のしずくがこぼれるのだった。そうして、なにも言わずに虚空のどこか一点を見つめているような塩梅なのである。

私は、そんなお澄さんの顔を見つめているうちに、それが泣きべそのピエロにとてもよく似ていることに気づいた。その気づきは、私が熱中した化粧の仕上がりが無残な失敗に終わったことを判然とさせることになってしまった。すこしでもきれいにしたいもなにもあったものではない。夢から急に覚めかけたような状態のなかで、自分の振る舞いに対して後ろめたさのようなものが湧き起こってくるのをうっすらと、しかしごまかしようもなく感じはじめるのだった。その思いが次第に強まってくると、私はおろおろしはじめた。 

しまった。伯母はこのことを母に告げ口するのではないか。どうしよう。口止めをしようか。しかし、それも変だ。困った。父にもひどく怒られるのだろうか、やはり。 

自分のお澄さんに対する振る舞いに、当時萌しつつあった、女性の身体なるものに対する好奇心を満たそうとする邪まな心がまったくまじっていないとは言い切れない揺らぎのようなものの存在をわが身に感じ取っていた、ということもあったのである。もちろん、そのときはそういうはっきりした言葉が浮かんできたわけではなかった。その分、いわく言いがたい不安が急にむら雲のように募ってきたのだろう。

その日は事の顛末を見定めるまで気が気ではなかったのだが、結局のところ、母が私になにかをきつく問い詰めるようなことはなかった。どうやらお澄さんは母に告げ口をしなかったらしい。ただし、さすがにその変な仕上がり具合の化粧は目に留まったようで、母がどうしたのと彼女に尋ねたので、私のほうからあっけらかんとした風を装って、お澄おばちゃんが女なのにあんまりにも身なりに気を使わないから僕が化粧をしてあげた、と打ち明けた。すると、母は、鈴を振ったように笑った。母が帰宅した父にそれを告げると、父も目を細めて笑った。「お澄ねえさん、なかなかの美人になったべさ。」私は、微妙な難局をどうやらしのげたようだと密かに胸をなでおろした。

両親は、しよう思えば、私を叱責することもできただろう。なぜ、そうしなかったのか。おそらく、二人もまた私と同じように、化粧っ気のまったくないお澄さんに対してもう少しなんとかならないものかという思いを常日頃いだいていたのだろう。そのもどかしさを子どもっぽく不器用にそうして性急に解消しようとした私の振る舞いに、自分たちの思いの戯画のようなものを感じて思わず笑ってしまったのではないだろうか。今でも、私は二人がお澄さんのことを笑い者にしたとは受けとめていない。

お澄さんとの同居をめぐる破局は意外な形で突然に訪れた。きっかけは、海上自衛官である父の昔の部下が、南国九州は博多からはるばる函館の我が家を訪ねて来たことだった。せっかくだからという流れで、函館の夜景を皆で見に行くことになった。それで、お澄さんに留守番を頼んで、私たちは函館山に出かけたのだった。

夜遅く帰宅してみると、家の中に異様な光景が展開されていた。玄関とその隣の部屋に大量の吐瀉物が点々と散らばっていて、奥の部屋にはお澄さんがくず折れそうな身体を両腕でかろうじて支えているのが見えた。苦しさのあまり這いずり回ったものと見える。充満する吐瀉物と日本酒の臭い。ほとんど正気を失いそうになりながら、われわれに挑みかかるようなお澄さんの不敵な目つき。そうして、「あんたたちぃ、覚えておきなさいよぉ」という、心の奥底から搾り出されるような呪詛。私たちは言葉を失ったのだった。子どもながらに、父の部下に対して申し訳なく思ったものだった。伯母は、なんということをしてくれたのだ、と。

札幌の伯父が駆けつけたのはその数日後だったと思う。お澄さんは伯父に連れられておとなしく我が家を去った。

結局のところ、伯父は我が家になにを求めたのだろう。

今から思えば、お澄さんは私たちと一緒に函館の夜景見物をしたかったのではなかったか。それがかなわず一人淋しく家に残ることになり、除け者にされたような気分に陥ったのだろう。要するに、いじけたのだ。それが引き金になって、周りの「がんばれ、がんばれ」攻撃で溜まっていたストレスを吐き出さざるを得ない心理的な臨界点に達したのではないか。また、周りから押されるようにしてしただけの非自発的で不本意な結婚で受けたまだ生々しい心の痛手を、誰にどう訴えたらいいのか、皆目見当がつかずに、心のやり場のない思いをかかえてもだえてもいたのではなかろうか。そこには、恥ずかしくて他言できないことがらもおそらくは含まれていたはずである。それで、飲めないお酒を大量に飲むという自暴自棄的な挙に出た。そういうことなのではなかったのか。鬱病患者に接するうえで、彼らを「がんばれ、がんばれ」と励まし続けるのが禁じ手であることは今では常識である。そんなこととは夢にも思わない当時のわれわれは、彼女に対して無自覚な暴力を行使し続けていたのだろう。

次にお澄さんに会ったのは、私が大学二年生の冬休みのころだった。冬の札幌の本家に十日間ほどお世話になったのである。お澄さんは、函館に来たころとは見違えるほど元気になっていた。彼女が「昭義ちゃん」と私に明るく声をかける姿は、初めて会ったころの「お澄おばちゃん」を彷彿とさせた。私はお澄さんの回復を心底喜んで、よかったね、よかったねと何度も声をかけた。その翳りのない明るい声のおかげで、私はお澄さんに対する中学生のときの不届きな振る舞いを思い出さずにすんだ。そのことに私は、身体のどこかで安堵の溜息をついていたような気がする。

伯父によれば、お澄さんが某教団の機関新聞を毎日配達しているのが回復の大きなきっかけになった、とのこと。世の中のお役に立つことを継続できているという自信のそれなりの深まりが功を奏したというわけだろう。ただし、同新聞の配達は無報酬に近い仕事である。某教団の信者にとっては、功徳を積んでご利益にあずかるための有難いお勤めなので報酬など基本的に不要、ということらしい。そのため、お澄さんがその仕事で自活するのはかなわなかった。というより、自活なるものは伯母の人生にとって行動目標になることはどうやらなかったようだし、いまでもそのようなのだ。そこのところはどう考えているのか、本人に聞いてみたことはない。聞けるはずもない。そういう人として伯父の家にずっといる。というより、いたというべきである。そのことについては後ほど話そう。

本家筋は全員が某教団の信者である。実は、そのことをめぐって、我が家と本家とがどうもしっくりといかない、という事態がこれまでずっと続いてきた。父も母も私も、そろって某教団を苦手にしている。血のつながりや友としての親密さより、同教団の教祖に対する崇拝を優先し、その存在を絶対視する彼らの感性への違和感が拭いがたいのだ。彼らは、そういうごく自然に湧いてくる、血のつながりのある者に対する温かい情を、布教活動に利用しているようにしか見えない。そこがカチンとくる。ほかのことでは意見を異にしても、そのことについてだけは三人の間で意見が一致しているのである。

しかるに、本家筋の四人は信者の中でも相当熱心に活動している人たちだったし、生きている二人はいまでもそうなのである。義理の伯母ももちろんそうである。お澄さんについて言えば、伯父が良しとすることをなんの疑いも持たずに素直に受け入れているだけなのではあるが。私は、彼女が某教団の教えについて理屈めいたことを口走るのを聞いた記憶がない。

だったら、こちらがなるべく関わりを持たないように気をつければよいだけのこと、と言えそうだ。ところが、父は昔の教育を受けた人なので、長幼の序の観念を、早死にした祖父から子供のころに徹底的に叩き込まれている。つまり、弟たるもの、常に兄を引き立てるべし、と鉄拳制裁を通じて性急に教え込まれたのである。祖母もそれを自明のこととしているとしか思えないような雰囲気を醸し出していたらしい。

だから、父は伯父から某教団のことをいろいろと吹き込まれるとなにやら過剰に反発して、ときには怒りの限度が過ぎると頭の調子がおかしくなってしまうのである。そうなると、自分は信者でもないのに、早朝から変な調子で某教団の呪文を怒声で唱え続けたりして、家中が振り回されることになる。そうして、おかしな頭のまま某教団が属する流派の他のグループと関わりを持ったりして、そこで吹き込まれた知識をもとに、真の宗教がいかなるものであるのかを伯父に諭そうとしたりする。兄を間違った道から救い出そうというわけである。兄から軽くあしらわれてそれがうまくいかないとなると、今度は大酒を喰らって世間中をのしまわる。暴れる。わめく。父は、幼いころとすっかり変わってしまった伯父の現実をそのまま受け入れることが、いまにいたるまでどうしてもできないらしいのだ。人は、ときとして、狂気という代償を払ってでも自分が自分たるゆえんと信じるものを守ろうとするものなのだろうか。

本家筋に某教団の教えを持ち込んだのは、祖母である。祖母が亡くなってひと昔あまりの歳月が流れたのではあるけれど、私はいまだに祖母に対して良い感じを持っていない。それは、祖母と血のつながりのある者として、とても残念なことではある。

率直に言ってしまえば、祖母はエゴイストなのである。それは、人間誰しもエゴイストである、という意味合いとはいささか異なる。実の娘であるお澄さんを自分に奉仕するためだけに存在する召使のようなものに育て上げてしまったところをそうと感じるのだ。だから、お澄さんは自分の利益になるように振る舞う、というごく普通の意味での計算高さを身につけ損なうことになった。処世に関して、それは致命的なことであったように思う。というのは、それは、彼女が世間の様々な形での暴力に対してほぼノー・ガードで生きざるを得ないことを意味するからである。お澄さんは、世間の打算的なものからわが身を守ったり、自分で打算的に物事を考えて、世間のそれと突き合わせたりするというごく普通の大人がやっていることがからっきしダメなのである。徹底的にダメなのである。私は、お澄さんほどに無垢な大人をほかに知らない。そんな人が本当にいるのか、と言われてもいるものはいるとしか言いようがない。お澄さんが俗世間にわが身をさらそうとすると、必ず大きな痛手を蒙ることになるので、血族という名の保護膜に包まるようにして生きているよりほかはないのだ。そういう生き方をせざるをえないのは、私の目からすれば、彼女のせいではない。ただし、血族が本当に保護膜の役割を果たしえたのかどうかについては、正直なところ、うまく言えないところがある。

どういう親に育てられようと、大人として、自分の弱点を自分のものとして引き受けるべきである、親のせいにするのは発展性がない、という正論をふまえるならば、彼女の場合、そういう不恰好な生き方そのものが、彼女なりの引き受け方なのである、というほかないのではないか。お澄さんは、一度たりとも祖母に対して陰湿な恨み言をこぼした形跡がないのだから。子どものような喧嘩は二人でしばしばしているようだったけれど。お澄さんは、誰のことについても陰口なるものをこれまでの人生において一度たりともたたいたことがない人なのである。

話を、大学二年生のときのことに戻そう。

お澄さんが毎日のように作ってくれた石狩鍋が、札幌の冬の厳しい寒さでかじかんだ身体を芯から温めてくれてとても美味しかった。特に、北海道のシャケは本場物だけに美味しかった。そのことを彼女に告げたせいだろうか、自宅に帰った私のところに、シャケをほぐしたものをベースに、北海道の海産物をふんだんにまぶした手作りのお茶漬けの具が大量に何度もお澄さんから送られてきたのだった。私が幼少のころと、彼女の振る舞いや心持ちはまったく変わっていなかったのだ。お澄さんは、新聞配達で得た雀の泪ほどの報酬を惜しげもなく甥への贈り物につぎ込んだはずである。

その次にお澄さんに会ったのは、祖母の葬式のときだった。私が四十歳のときである。いわば底なしの共棲関係にあった祖母を失くして、お澄さんはさぞかし悲しかっただろうと思われるのだが、葬儀のときの彼女の姿を、私はどうしても思い出せない。ひょっとして、長年の、祖母による精神的な支配をめぐる無意識の暗闘から解放されて虚脱状態に陥り、悲しみの表情を浮かべるまでに至らなかったので印象に残っていないのかもしれない、とも思う。覚えているのは、彼女を元気づけようと、三万円のお小遣いをあげたことだ。お澄さんは、自由に使えるお金を持っていなさそうに見えたのである。

自宅に戻った数日後、母から電話があった。母によれば、義理の伯母から電話があって、その内容は、私がお澄さんにお小遣いをあげたのを迷惑がっているという主旨のことをやんわりと告げるものだった、とのこと。お澄さんは、小金を手にすると興奮して変な使い方をするそうなのだ。例えば、味噌ラーメンを二十杯注文して近所の人たちに大盤振る舞いするとか、シャケを何十尾も買い込んで知人に配るとかいったことだ。そうして、今回は毛蟹を買えるだけ買って近所に配ったというのである。

それを聞いて、私は内心むっとした。それのどこがいけないんだ。うれしいことがあるときに、それをみんなで分かち合おうとする気持ちが、そういうちょっとだけズレた行動として現れるだけのことではないか。ラーメン二十杯や毛蟹の十匹で幸せな気分になれるのならば、それはそれでいいじゃないか。これまで嫌になるほど貧乏をしてきたのだから、そういうことで豊かな気持ちになれるのならば、だれを傷つけるわけでもなし、それはそれでけっこうなことじゃないか。第一毛蟹なんてずいぶんと奮発したものじゃあないか。もしかしたら、祖母が亡くなって精神が一時的に変調をきたした、ということも少しはあるかもしれないけれど。そう思ったのである。もっとも、世間体を気にかける義理の伯母の「普通の人」としての気持ちも分からないわけではなかったのだが。私はそのとき不届きにも「普通の人」を少しだけ憎んだ。年老いた母が気を揉むといけないから、心のもやもやは告げないで「分かった」とだけ言って受話器を置いた。

最後に伯母に会ったのは、数年前の、父方のたった一人の、私の従妹の葬式のときだった。

そのとき、お澄さんは葬儀に参加しなかった。周りが参加を控えさせたのだ。というのは、彼女は呆けの症状がかなり進行していて、葬儀のとき、場にそぐわない不適切な発言を唐突に大声で繰り出したり、奇声を発したりする危惧があるから、とのことだった。彼女と四方山話をしているときに、確かにそういう兆候が見うけられたのではあった。死者に対する悲しみの念がどういう形で表れるのか、だれにも、もちろん本人にも皆目見当がつかないので葬儀に出席させられない、あまりにもリスキー、ということなのである。

ただし、某教団の信者ではない私にしてみれば、葬儀の間四六時中、果ては従妹の骨が焼き出され納骨の儀が済むときまで一つの呪文を参列者全員で唱え続ける「法友葬」なるものの式次第のほうがよっぽど常軌を逸していたと思うのではあるが。この「法友葬」なるものの発端は、同教団の属する流派のトップと教団側とが一悶着を起こして、教団が流派のトップと袂を分かったことにあるらしい。その式次第は、部外者にしてみれば、呪文のけたたましさが耳底にこびりつくだけのとんでもない代物である。死者への哀悼の念など、どこかに吹っ飛んでしまうのだ。そのときのことを思い出すと、げんなりとした気分がそっくりそのまま甦ってくる。私がその葬式に参列することは、もう二度とないだろう。私は、とてもつらいことなのではあるが、伯父の葬式には出席しないつもりである。それほどに、その式次第には限度を超えたものがあった。

信者の中でも特別に信心深くて活動に熱心だった従妹は、一人娘を残して癌で若死にする、という教団の教えに反するような、身もふたもない不運に見舞われた。さらに言えば、逆縁の死である。どう言いつくろってみても、無残というよりほかはない。一生懸命に信心すればするほど御利益をたっぷりといただける、幸せになれる、という教団の教えから、従妹の、形容する言葉に困るような最期はどうにも導き出せないだろう(まさか、従妹に向かって「お前は信心が足りなかったからそういう無残な最期を迎えたのだ」と鞭打つ関係者はいまい)。彼らは、それらの不都合な一切を声高な呪文でもみ消すのに必死なのではないかとさえ私は勘繰った。棺を背にして、お前たち、もういいかげんにしろと彼らを叱責できない自分の、世間体を気にする小心さがもどかしかった。たとえ、私がそういう粗野なふるまいをしたとしても、私と信者たちとのどちらが死者を本当に悼み、どちらが死者を冒涜しているのか、断言するのはとてもむずかしいことだろう。仮に、あの世の従妹が彼らの側についてしまったとしてもー残念ながら、たぶんそういうことになるのだろうがー私は自分のまっとうさの感覚と信じるものをなにも言わずに守り抜くよりほかはないのかもしれない。かつて私にじかに語った従妹の「自分は血のつながりよりも友だちのほうが大事」という言葉が彼女の墓碑銘になってしまったことを、私は胸に刻み込もう。

今から一年ほど前だっただろうか、義理の伯母から母に電話があった。その内容は、自分たち老夫婦にとって、お澄さんをこれ以上養うのは正直きついし、癌を患っている伯父が亡くなれば、自分一人が彼女を養うのは不可能になる。また、その呆けの症状はさらにひどくなっていて、一ヶ月以上風呂に入ろうとしないのもざらだし、下着だってまともに着替えない。そのことで自分との間で言い争いが絶えない。だから、彼女が重度の認知症者の認定を受けてホームヘルパーの手厚い介護を受けられるようにし、生活保護の適用を受け、市の斡旋で一人暮らしのアパートを探してもらう手はずを整えたい、というものだった。

父はそれを聞いていささか気色ばんだのだが、よく考えてみれば、妥当な措置であるというほかはない。それをどこかで分かりつつも、父は、可哀想な状況の姉に対して自分が何もできないのを生々しく突きつけられることによって惹起された、身を切るような悲しみを唐突な怒りの形で表したのだろうが。

これまで、我が家に対して伯母の生活費を一銭たりとも要求したことがない伯父夫婦は、やれるだけのことはやってきたのである。部外者の我が家が、彼らの決断についてとやかくいう資格はない。結局、両親は、札幌市役所から送られてきた、実の姉を扶養できないほどに自分たちが貧乏であることを証明する、いわば屈辱的な文書におとなしく署名して返送したのだった。いろいろ考えてみると、そうするよりほかはなかった、ということだろう。

その後、お澄さんがホームヘルパーをはじめとする周りの人たちと良い関係を保ちながら、一人暮らしを大過なく続けているという知らせが義理の伯母からあった。居候という肩身の狭い境遇から解放されて、その天性の人の良さがのびやかに関係者に伝わり好感を持たれているのではないだろうか。

そのつつましい人生において図らずも味わうことになった様々な理不尽さを経たいまに至っても、彼女の心の核にあるものは損なわれていないのではないか。それは、一家の最年長の姉として、たとえほかのだれからも忘れ去られたとしても、それを全然気にすることなく泰然として一族のメンバーを平等に思いやる無償の姉御肌である、と私は感じている。この世では、ほんとうのまごころなるものは、どうやら、みじめったらしくて不恰好で無力な様相を呈するものであるらしい。長年にわたってぎくしゃくした関係にあり続けている我が血族を、我知らずそっと体温の温かみで包み込んできたのは、実は「役立たず」の伯母だったのである。そのことに私はいまさらながらに気づいたのである。

それにしても、私が中学生のころにしでかした悪戯をお澄さんはいまでも覚えているのだろうか。あのときの彼女は、いまから思えば、彼女なりに女盛りの季節の真っ只中だったのだ。泣きべそピエロの濡れた瞳は北海道の晩夏の空のように澄んでいた。
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戦後民主主義の墓場とその棲息地  ごくささいな経験から  (2012・8・4 掲載)

2013年11月25日 07時55分53秒 | 教育
足立区の公立中学校では、夏休みに入ると夏期講習があります。特徴的なのは、学校の先生たちによるものの他に、学習塾の講師による夏期講習があることです。科目は英語・数学の二教科、時間は50分×2教科×五日間という設定です。その他に事前テストと事後テストがあり、その点数の伸びで講習の効果のほどを見ようということになっています。また、生徒・保護者・学校の先生たちによるアンケートがあり、そういう方面からも評価がなされることになっています。

それに、私は英語講師として関わっています。今年でかれこれ六年目になるでしょうか。これまで、そこそこ無難にこなしてきたのですが、今年はちょっとしたトラブルがありました。学校名を出すと差し障りがあるかもしれませんので、今年私が担当したのはA中学校である、ということで話を進めましょう。

例年は、生徒本人の意向が重視された上での参加というのが基本だったのですが、今年は、教育委員会の方針転換があったようで、事前テストで成績が悪かった生徒を下から五〇人ピック・アップし、保護者の承諾を得た上で、原則参加させるという形をとった、とはA中学校側の当講習会担当主任のお話。勉強に対するモチベーションの低い子たちを無理やり多数集めた、ということになります。

そうなると、教育関係者なら容易に想像がつくものと思われますが、教室の雰囲気は最悪になります。とてもまともに授業などやっていられる情況ではなくなってしまうのです。

無神経な大声での私語があちこちで繰り広げられるわ、授業中に平気で立ち歩く生徒が現れるわ、ちょっと注意したら暴言を吐くわで、どうにも収拾がつかなくなってしまったのです。いちばん驚いたのは、ある女生徒が、私の授業中に、自分の左隣の男子生徒に向かってちらっと股を広げてスカートの中を見せつけ、彼の反応を確かめているのを目撃したことです。そんなこと、私の長い職歴のなかで初めてのことです。オッタマゲたのなんのって。

で、そのなかでもひときわ傍若無人な態度をとり続けるひとりの男子生徒Bを、私は再三たしなめました。どうやら、クラスの雰囲気を左右するペース・メーカー的な存在のようであるから、彼の態度を放置するならば、ほかの生徒に示めしがつかない、と判断したのです。そうして、どうしてもふてくされた態度を改めようとしないので、私はしびれを切らして「そんなにやる気がないのなら、教室から出て行きなさい。ただし、校長先生に挨拶をしてから帰るように」と申し渡しました。すると、私を睨めつけるようにして、その生徒はぷいと出て行ってしまいました。

授業終了後、当講習会担当主任に事実を報告。学校主催の講習会でも、目に余る生徒は、教室からの退出を命じているので、私の処置は問題ない、とのお言葉をいただく。

で、翌日の授業前にBの担任がわれわれの控え室に入ってきて、私にそのときの事情を聞きました。いわゆる「事情聴取」です。私は、Bの退出を促すにいたるまでの経緯をなるべく客観的に説明しました。そのうえで、担任は「これは本人の弁ですが、『自分だけ何度も注意を受けた。他にも授業をちゃんと受けていない生徒がいるのに、彼らには何も注意しなかった。それが不満だ』とのこと。そういうわけで、今日Bは参加しません。明日来たなら、先生にちゃんと謝ってからでないと授業に参加させないと申し渡してあります。」と言いました。

その翌日の授業前、再びBの担任が現れて「本人が、自分は悪くないのでどうしても素直に謝る気になれない、と言っているので家に帰しました。Bの親にも、その旨報告しました」と言いました。私は、了解の旨を伝え、いろいろと手数をかけたことを詫びました。

担任が姿を消した後の、われわれ塾スタッフの会話。

C先生:なんだか、美津島先生と問題児のBが対等に扱われている気がするなぁ。変だなぁ。
美津島:こちらが悪いことをしたような気分になってくるんだよね。
D先生:こういうことになるような気がしてたんで、自分は、両目をつぶって文句を言いたいのをひたすら我慢したんですよ。お役人仕事なんて、こんなもんでしょ。

話はここまでです。今からそのときのことを振り返ってみるに、 その経験はBの成長にとって1円の利益にもならなかったことがはっきりしている、という感想が湧いてきます。もっとはっきり言えば、学校はBに間違ったメッセージを送ってしまったのではないでしょうか。

つまり、今回のことはBからすれば、マジメに勉強したくない自分とちゃんと教えようとする先生とが学校によって対等に扱われて、その先生に謝ることを拒絶することで、自分の主張が通った経験として残ることになるのではないかと思われるのです。つまり、彼のエゴは無傷なまま今回の「事件」をスルーすることができたのです。いいかえれば、Bは自分のエゴを学校によって公認されるという経験をしたのです。

学校側は、どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。彼らはどうやら保護者からのクレームの惹起を恐れて、一分の隙もないような卒のない対応に神経を尖らせているようなのです。組織防衛に意識が集中していて、生徒の教育・成長を主題にする余裕など、彼らにはどうもないようなのです。こんな状態では、イジメの実態が隠蔽されるのもむべなるかな、との思いを深くしました。

私はここで学校バッシングをしようなどとはまったく思っていません。そんなことをしてもどうしようもないくらいに、事態は深刻であると私には映ります。

ここで話は大きくなります。

戦後六七年間に、われわれ日本人がその価値を絶対的なものとして信奉してきた民主主義なるものが、本当はどういうものでありつづけてきたのかに、先のささいな「事件」は深く関わっているように、私には映ってしまうのです。

戦後のわれわれにとって、民主主義とは、「私(わたくし)の公(おおやけ)に対する異議申し立て」そのものであったし、いまも基本的にはそうなのではないでしょうか。そうして、民主主義を持ち上げることで、われわれは「私の公に対する意義申し立て」を絶対の正義と信じ込んできたのではありませんか。デモをするだけでなんとなくヒロイックな気分になってくるのは、そういうことなのではないでしょうか。

だから、国歌・国旗を貶めるのは正義であり、デモ隊が国会に乱入するのも正義であり、自衛隊を罵倒するのも正義であり、政治家とみれば小馬鹿にするのも正義であり、高度な専門性が求められる裁判にど素人の庶民が土足で踏み込むのも正義であり、公務員と見ればとにかくバッシングするのも正義であり、学校に保護者が理不尽なクレームをつけるのも正義である、とわれわれはどこかで信じ続けてきたのではないでしょうか。これらを一言でまとめれば、民主主義は、戦後において公の崩壊を招く言動を正当化する破壊的なイデオロギーとして作用してきた、となります。

では、民主主義の原義はいったいなんなのでしょう。民主主義とは、主権概念に着目すれば、国民主権と等置できます。民主主義とは、一般国民が主権を担うことです。

また、主権とは、高校の政経で教わるように、統治権と最終的国家意思の決定権と他国からの内政干渉を拒否して独立を守る権利とから成ります。それらは、対外的にはゆるぎない総合安全保障体制を確立する義務を招来します。

だから、国民主権の概念は、一般国民が、外交と軍事に関する高度な義務を担うことを内包していることになります。

つまり、民主主義は、主権概念に着目すると「私が公を担うこと」を意味するのです。その意味で、マッカーシズムに追い込まれて一九五七年に自殺したハーバート・ノーマンが「民主主義の本質はself-govern(あえて訳せば「自己統治」)である」と力説したのは、正鵠を得た議論だったのです。そこには、公を脅かしたり、機能不全に陥れたり、ましてやそれを破壊する契機は存在しません。そういう言動は、民主主義の原義に対する誤解と曲解からもたらされたものであることが自明でしょう。原義としての民主主義が、ゆるぎない公の存在を前提とするのに対して、戦後民主主義は公の存在の否定・破壊を招来します。

どうして、そういうことになってしまったのでしょう。時代背景としては、敗戦直後の一般国民が、主権を奪われてしまうほどの日本の惨敗ぶりを目の当たりにして国家という名の公の命令に従うことに嫌気がさしていたことがあるのでしょう。そういう時代の雰囲気に、GHQが日本国民に注入しつづけたいわゆる東京裁判史観が合致してしまったのでしょう。

GHQが日本を去ったあと、GHQの、占領政策としての民主化路線を引き継いだのは、いわゆる進歩的文化人と呼ばれる人々でした。彼らは、自分たちの左翼的・社会主義的情念を民主主義に塗りこんで、それをゲリラ的な武器として日本破壊・権力破壊・文化破壊の戦後民主主義イデオロギーに鍛え上げました。それを教育の最前線で担い続けてきたのが、前回の投稿で否定的に取り上げた日教組です。それは、控えめに言っても歴史的な事実です。

教育の世界では、戦後の偏向教育を受けた人間が教師になって、次の世代にもっとひどい純化された偏向教育を施す、という悪循環が生じています。その内部にいる者にはどうしても分からないようなのですが、外部の者にとってそれは自明です。一般国民は、日教組のおかしさに完全に気づいています。

ところで、戦後民主主義イデオロギーは、日本社会に思わぬ副産物を産み落としてしまいました。それは、リバタリアニズムならぬオバタリアニズムです。これが、モンスターペアレンツを次から次に登場させる「豊かな」社会的土壌をなしています。

オバタリアニズムは、主におばさんによって担われますが、ここでは、「私」のために「公」を破壊するのを屁とも思わない、すさまじいまでの自己肯定的な言動を繰り広げる存在を総称する言葉として使います。

それが、公教育の現場を機能不全に陥れている社会的存在の核心をなすものなのではないかと思われるのです。公教育の現場は、現場知のほかの自覚的な思想としては戦後民主主義イデオロギーしか持ち合わせていません。そうして、それは、オバタリアニズムを思想原理的には肯定するほかはありません。しかし、それが襲来すると現場は明らか混乱します。だから、その襲来を防ぐために、不慮の事態に対しては実に慎重に事を進めます。

で、その進め方が、図らずも戦後民主主義的な平等意識に裏打ちされたものであるのは避けられないところでしょう。

問題児のBくんは、未来のオバタリアニズムの旗手として着々と育っています。育てられています。学校は、公教育の現場を困らせる存在を、問題解決の只中で潜在的に増殖させている。その自己撞着した思想的な場が、戦後民主主義の死に場所であると同時にその棲息の場でもある。つまり、それは思想的墓場でどこまでも生き延びて、社会に害毒を無自覚に垂れ流し続けるのでしょう。

だれが悪いのでもない。間違った支配思想が無自覚に放置されている状態が、困った事象の根幹をなしているように、私には映ります。

私たちは、民主主義の学び直しから始める必要がありそうです。そうしないと、地方分権こそ民主主義だとホラを吹き続ける山師的な政治家にまたぞろうっかりと騙されてしまうことになりかねません。地方分権の進展と民主主義の深化とは、原理的にまっすぐには結びつきません。それは、時代情況に依ります。今は、世界恐慌第二波の前夜、国難の時です。ゆるぎない中央集権こそが求められる局面です。ゆるぎない中央集権が、民主主義に反する存在であるかのようなイメージも、戦後民主主義イデオロギーが垂れ流した虚偽のひとつです。



〔コメント〕
Commented by meniawoba7123 さん
暑中お伺い申し上げます。夏でも中々ご多忙のご様子。勉強嫌いなぼく、デモ行きの中で拝見いたしました。生徒本人が、学びたい、もしくは少しは良くなりたい!が、夏期講習に向う姿勢とおもつていましたら 、何だか頓珍漢な教育委員会の方針転換。もうここで変ですよね!学びたくない子には、迷惑。
1人でつまんんないから騒ぐその中に同じ思いの子を巻き込む計り知れない。
方式ですね。教わりたくなければ始めからボイコツトすればいいのに。
その勇気すらない。学びたくなければ、学ぶ必要がない。教育委員会子供を
どうしょうとしているやら?
民主主義とは、一般国民が主権を担うこと!ところが今のお母様方はすさまじ
いばかりの自己肯定ここから出てくる答えは、責任のカケラもありません。
めにあまる事態といえます。
2012/08/07 12:38


Commented by 美津島明 さん
To meniawoba7123さん

貴重なコメント、ありがとうございます。

>教わりたくなければ始めからボイコツトすればいいのに。
>その勇気すらない。学びたくなければ、学ぶ必要がない。教育委員会子供を
>どうしょうとしているやら?

おっしゃる通りですね。今の公教育は、子どもの自立心を育てることにあまりウエイトを置いていないようです。教育委員会も学校側も、外部から難癖をつけられて、世間の理不尽なバッシングにさらされないことだけに神経を消耗しているように映ります。子どもの成長はそっちのけ。近頃は、自己決定権などという、彼らにとっては便利な言葉もありますしね。自己防衛・組織防衛のために、あらゆる教育的な美辞麗句、キレイごと的ボキャブラリーを駆使することになけなしの頭脳を使い果たしているのですね。子どもたちは、そこをちゃんと見ています。保護者たちのねじ込みが学校側に対してパワーを発揮するのもじっと見ています。そこから、「私のために公をゴミのようにないがしろにするのは善である」というメッセージをちゃんと受けとめています。これは自立心の確立とは何の関係もない事態です。ヘタをすると、日本社会そのもののメルト・ダウンがもたらされかねないでしょう。私は、そのことに鳥肌が立つ思いです。


>民主主義とは、一般国民が主権を担うこと!ところが今のお母様方はすさまじ
>いばかりの自己肯定ここから出てくる答えは、責任のカケラもありません。
>めにあまる事態といえます。

これは、戦後民主主義の長い歴史によって培われてきた、わが日本社会の負の遺産です。それとは別に、「人の命はかけがえのないものだ」という人倫にかなった感性を培ってきたのは、戦後の掛け値なしのプラスの遺産である、とも思っています。映画『二十四の瞳』的な世界を大切にする心ですね。そこで、この感性を社会破壊的な戦後民主主義イデオロギーから奪還する闘いをこれからする必要があるのではないか、と思い始めています。つまり、そろそろ民主主義の原義に立ち帰る試みを始めてはどうか、と思っているのです。右翼の日教組批判なんかと一緒にされては困る、と思っています。
2012/08/11 02:46


Commented by soichi2011 さん
 今日は。そろそろ残暑、というにしては、まだあまりに暑いですね。そんなときに相応しいかどうか、ちょっと論争をふっかけます。
 おっしゃるような事態に、「戦後民主主義」はほとんど関係ないと思いますよ。だって、戦前から似たようなことはあったんですから。名サイト「少年犯罪データベース」や、その管理者管賀江留郎氏の著書『戦前の少年犯罪』(築地書館)を読めばわかることです。
 手っ取り早いところでは、大正期のモンスターペアレンツが学校を訴えた芳しい事例が三つ、以下のブログで読めます。
「戦前の親を見習おう:少年犯罪データベースドア」
 ただ、おそらく戦前には、こういうのも、いじめも、ほとんど統計はないですから(実態はあったが、今ほど人の興味を惹かなかったから)、現代はもっと増えたろう、そこには戦後民主主義が影響を与えているはずだ、と言われるなら、反論する根拠はないです。しかし、たとえそうであっても、それは問題の本質ではないでしょう。
 本質は、愚考するに、古今東西、どんな体制の社会であろうと、大人だろうと子どもだろうと、人間は、「これをやると本当に困るぞ」と思わない限り、かなり勝手なことをやってしまうこともある、そういう生き物である、ということです。そして、その「勝手なこと」の中に、学校での授業妨害やらいじめやらも含まれるのです。
 御ブログ記事中の、足立区の中学生たちも、その親も、学校制度全体に反逆したら、本当に困ったことになるかな、と思うから、強制課外には来る、でも、それをちゃんと受けなくても、そんなに困るとは思えないから、授業は無視し、他にやることもないんで、つい騒いでしまったりするわけです。
 それでも、大津市のいじめ自殺事件では、ネット上に加害者やその家族の住所、氏名、さらには写真まで載せられた(もちろん、それが正確であるとは限りませんが)のですから、非常に困ったことになったでしょう。でも、事前にはそういうことまでは予測できないのが人間の哀しさであるわけでして。
 だから、被害者が自殺に至る前に、加害者を「困ったこと」にする制度・機構こそが必要なのです。その詳細については、我が田に水を引いて、今回は終わりにします。
「由紀草一の一読三陳:そろそろいじめへの具体的な対策を その1」
2012/08/11 12:25


Commented by 美津島明 さん
To soichi2011さん

率直なご感想、ありがとうございます。

> 本質は、愚考するに、古今東西、どんな体制の社会であろうと、大人だろう と子どもだろうと、人間は、「これをやると本当に困るぞ」と思わない限り、 かなり勝手なことをやってしまうこともある、そういう生き物である、という ことです。そして、その「勝手なこと」の中に、学校での授業妨害やらいじめ やらも含まれるのです。

 これは、人間の本質に対する慧眼の感じられる、無視し得ない見識です。

> だから、被害者が自殺に至る前に、加害者を「困ったこと」にする制度・機 構こそが必要なのです。

 この結論に対しても、私はなんの反論もありません。ぜひ、そういう方向での制度・機構が一日でも早く確立されることを切に希望します。
 私が危惧しているのは、soichi2011さんが提案されているような、人性に対するリアルな認識に根ざした有効な教育制度を設計することを、建前としての「お子様教」がいまだに阻止しているのではないか、ということです。
 本音では、学校や学習塾の関係者はおおむね、soichi2011さんのリアリステックな認識・提案に賛成しているのです。
 ところが、建前あるいはパブリックな領域で、マイクを持たされたり、あらためてかしこまって意見を求められると、ついついキレイごとが口をついて出ることになり、「お子様教」的な言説が幅を効かせてしまうことになりがち、という光景をこれまで私はいやになるほど見てきました。
 「キレイごとを言って、周りからいい人だと思われたい」というのも、赤裸々な人性であると思います。教育言説の場で、いい人の仮面をかぶるのに、「お子様教」イデオロギーはいまだにとても便利なツールたり得ているのではないでしょうか。
 足立A中のBくんに関しても、責任者は「Bもいろいろなものを背負っているのです」などとまことしやかにつぶやいていましたが、そこに私は「生徒目線で寄り添うのは善」という「お子様教」の所在を感じました。はっきり言えば、偽善を感じました。
 「お子様教」が、戦後民主主義における平等原理主義の産物である、という側面を是認していただけるのであれば、私が申し上げたいことが、soichi2011さんに伝わるのではないかと愚考する次第です。
2012/08/11 18:32


Commented by soichi2011 さん
 さっそくのお返事、ありがとうございます。
 今何が必要かの愚見には、基本的に賛成してくださっているので、それでいいわけですが、せっかくの機会ですから、もう少し議論をすすめさせてください。
 「お子様教が、戦後民主主義における平等原理主義の産物である」というのには賛成できません。「お子様教」の命名者は確か小浜逸郎氏だと思いますが(『学校の現象学のために』)、起源はもっとずっと古いのです。明確に表現されたのは、18世紀ヨーロッパの、ロマン派からでしょう。元祖は何と言ってもルソー「エミール」(1762年)、ということになってますね。それから、子どもは汚れていないから、絶対に善だ、という観念を打ち出したのは、ベルナルダン・ド・サン・ピエール「ポールとヴィルジニー」(1788年)が、管見の限りでは、最初の文学らしいです。それから1900年の、エレン・ケイ「児童の世紀」などがあって、現在に至るまでずっと、「児童中心主義」の教育理念は健在です。
 これと、「戦後民主主義」とはけっこう違う、と私は思います。こちらでは、仰る通り、平等はとても大事でしょう。一方、児童中心主義教育を信奉する人々は、本当の意味では「大人と子どもは平等だ」なんて思っていません。
 だって、そうでしょう。例えば美津島さんと私とは、大人として、対等ですわな。その私が美津島さんに向かって、「なんだこの野郎、云々」と、とても失礼なことを口走ったとします。美津島さんが、聖人君子並に心の寛い人だとしたら、「由紀草一もいろいろなものを背負っているのだろうな」と同情してくださるかも知れない。でも、それを「当然のこと」として要求するなんて、できませんわな。相手が子どもとなると、教師には、そのような配慮を当然のように要求するというのは、つまり子どもは大人と対等な存在だとは考えられていないのですよ。
 「自由平等」の理念から、例えば学校の制服に反対した人もいましたが、その活動が目立ったのは、もう二十年以上昔です。今でもそういう人はいるのでしょう。が、もっとずっと教師を悩ませているのは、「民主主義」も「自由平等」も関係ない、自分の子どもは特別なんだから、特別に面倒を見てくれ、と、あられもなく要求する親たちです。
 今日はこのへんで。美津島さんがおいやでなければ、あともう少しやりましょう。
2012/08/13 23:33


Commented by 美津島明 さん
To soichi2011さん

上への返事は「教育問題と戦後民主主義と日教組  soichi2011さんへの返事」というタイトルで、ブログエントリー92として投稿しました。http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/6018fe3b4272cc174490daf9af05fcb6
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世界情勢・点描  (イザ!ブログ 2012・8・1 掲載)

2013年11月25日 07時40分58秒 | 政治
今日配信された三橋貴明さんのメルマガは、東田剛(謎の覆面ライター、中野剛志さんでしょう)氏の特別寄稿でした。国際情勢やそれと絡めた国内政治情況の点描としてよくまとまっていると感じたので、それをご紹介しながら、コメントをはさみましょう。

最近、世の中、不安でたまりません。

ヨーロッパはギリシャやスペインなどの債務危機で、共通通貨ユーロは崩壊寸前。ヨーロッパの金融市場は内部で資金が流れなくなって分断され、「バルカン化」と言われています。第一次世界大戦前夜、バルカン半島はいつ戦争の引き金が引かれてもおかしくない「火薬庫」と呼ばれていましたが、まさにヨーロッパ金融市場は火薬庫状態です。


ヨーロッパは、緊縮財政・均衡財政から積極財政へ、新自由主義路線から経済成長路線へ、舵を大きく切らなければ、いまの危機を脱することができません。しかし、エリート層の頭が、まだうまく切り替えられていないような印象があります。ケインズがいうとおり、危機に臨んで障害になるのは、既得権益ではなく間違った古い思想です。新自由主義が、現在における、ケインズのいわゆる「間違った古い思想」、いいかえれば時代の病巣としてのイデオロギーであると私は考えています。みなさんは、お金持ちバンザイの世界がそんなに嬉しいのでしょうか。私はちっとも嬉しくありません。新自由主義というのは、要するにそういうことです。トリクル・ダウンなどと、一般国民をコバンザメ扱いする、不届きな思想なのです。

また、グローバリズムとは、新自由主義が国際経済の姿をとった場合の形容語です。だから、二言目には「グローバリズム」と言いたがる経団連やその尻馬に乗ろうとする脳みそ空っぽの輩は、有害無益な寝言を言っているのです。リーマン・ショック後の世界を、それ以前の世界のキーワードで語ろうとするのは時代錯誤です。パワー・エリートたちには、一日でも早く目を覚ましてほしいものです。

アメリカは、思いっきり積極財政するしかないのに財政赤字の拡大は日本と同じで人気がなく、やりたくてもできません。とすると対策は、量的緩和の追加しかありませんが、資金需要がない中で、そんなことをしても、投機マネーが発生して、原油や食料の値段を引き上げるだけ。すでに、大干ばつもあって、穀物価格は高騰しています。

懸念事項は、それだけではありません。アメリカは、いま「財政の崖(がけ)問題」を抱えています。今年末までに米議会の対応がなければ大型減税の期限切れと歳出の強制削減が同時に発動されるのです。それは、実質増税と歳出削減という、景気回復の足をひっぱるダブル・パンチが間を置かずに繰り出されることを意味します。FRB議長は、「景気回復が危機にさらされる」と警告し、議会に早急な対応を迫っていますが、このままだと、国防歳出額が大幅に削減されることになり、雲行き怪しい極東情勢において、専軍思想の中国を勢いづかせる懸念があります。この場合も、「小さな政府」を目指す新自由主義的思想がネックになるリスクが避けられません。

新興国は、ヨーロッパからの資金が引き揚げるわ、欧米の大不況で輸出が伸び悩むわで、青息吐息。こういう国々は政治基盤が不安定ですから大変です。すでに中国では、暴動が頻発しています。

田村秀男氏によれば、中国には「熱銭」と呼ばれる巨額の投機マネーが不動産や株式市場に流入しています。その多くは、中国の党幹部や国有企業系の海外法人が国外に移した資本であり、逃げ足も速い、とのこと。熱銭が国外に逃避し始めると、不動産や株式市場の崩壊が一挙に進む恐れがあります。つまり、バブル崩壊のリスクが確実に存在するのです。秋の党大会が大きな目安になりそうです。

いやな予感はオリンピックとアメリカ大統領選の間です。○八年のリーマンショックが起きたのも、オリンピック終了後で、大統領選の前でした。あのときも、穀物の価格が急騰していました。

ヨーロッパあるいはアメリカあるいは中国発の金融恐慌第二波が、ロンドンオリンピックとアメリカ大統領選の間に襲来することになるのではないか、と言っているわけです。アメリカ大統領選は、来年の一月六日に大統領選挙人による投票を開票し新大統領が決まります。つまり、今年中に第二波が襲来することを覚悟せよ、ということです。かなりのリアリティがあるように感じます。

では、それを迎え撃つ国内体制はどうなっているのか。

当時は、リーマンショック勃発の直前に、麻生太郎総理・中川昭一財務大臣という奇跡のコラボがあったので、日本は助かりました。でも、今回は、どうでしょうね?野田政権がグダグダ続いている間に、世界金融危機が起きたら、東日本大震災の時のように「選挙どころではない」ということで、民主党政権が延命しますよ。

これは、目の前が真っ暗になる最悪のシナリオです。解散の時期をめぐってモタモタしているうちに金融恐慌の大津波が襲来してしまうと、おそらくそうなるでしょう。これは、なにがなんでも避けなければなりません。一日でも早く泥鰌を首相の座から力づくでも引きずりおろさなければならない、ということです。民主党から一日でも早く政治権力を剥奪しなければ、その分だけ日本はダメージを受けるのです。また、ちゃんと身分保障された学校教員による政治活動が、日本の存亡に関わるほどの脅威を与えることも今回判明したのですから、日教組は解体すべきであるとも考えます。お望みならば、民主主義を守るためにこそ、日教組は潰されなければならない、とまで掛け値なしに申し上げておきましょう(民主主義の本質についてはいずれ徹底的に論じようと思っています)。それがいまの民主党政権にできないことは誰の目にも明らかです。《左翼反権力思想は、「ごっこ」でやっているうちは人畜無害だが、一度権力を手中にすると、国家の屋台骨を揺るがす所業に出る。そうして、その原因の大半は、彼らの無知と無能による。彼らは、人として未熟なのである》これは、私が民主党政権から学んだ貴重な教訓の核心です。私が彼らに気を許すことはもう二度とないでしょう。

また、ごちゃごちゃ抜かしているだけの日銀のケツをひっぱたいて、どんどんお札を刷らせなければ、インフレの保護膜のない日本経済は世界発のスーパー・デフレの大津波で木っ端微塵にされてしまいます。これを考えると、私は目の前がかすむほどに日銀に対する怒気がせり上がってきます。一般国民の無知につけこみやがって、ズルするなよ、このコソ泥が、というわけです。保障された高給に値するだけの仕事をしない奴は、税金ドロボーとしか私には思えませんので。

そして、また予算の裏付けのない「成長戦略」が出てお茶を濁されますね。何をすればいいのか分からなくなった民主党と経団連とマスコミは、「TPP!」「道州制!」とか、ショック・ドクトリンを連発。こういう機をとらえてのし上がるのが、橋下のような奴。これで失われた四十年、確定です。

これまでのパターンを振り返ってみると、そんなふうになってしまう可能性が高い、と私は考えます。危機に直面して、それを解決しえない的外れな「小さな政府」という新自由主義的スローガンを臆面もなくぶち上げた者が、この一〇数年来、マスコミと民衆の支持を背景にして権力を手に入れています。橋本龍太郎しかり、小泉純一郎しかり、民主党しかり(民主党はもともとは違ったはずだったのに、無知・無能なので知らないうちに新自由主義に染まってしまいましたけれど)。そうして次は、このまま行くと橋下徹が権力を手中にしてしまいそうな形勢です。橋下を支持するなんて、石原慎太郎ももうろくしたものです。あなたは、ほかのことは考えないで、日本のために尖閣買い入れだけに専念してください。

でも自業自得だよね。日本人は、麻生首相を引きずりおろして鳩山なんかに代えて大はしゃぎし、中川大臣を辱めて死に追いやったんだもの。

これが、国民の常識になる日が来るのを私は待っています。「麻生さんは、積極財政によって、リーマン・ショックで地獄にたたき落とされることから日本を救った偉い人である」「中川さんは、積極財政を推進しようとして、それに執拗に理不尽に抵抗する財務官僚の罠にハメられて憤死した本当のエリートである」この二つが国民の常識になるときが、すなわち日本経済に光明が差すときであると私は信じています。

個人的見解はどうであれ、他の大多数の日本人がやった馬鹿の巻き添えを食わなきゃいけないのが「日本人」に生まれた宿命。こればっかりは、しょうがない。「国民」であるということは、そういう重く厳しいことなんですね。文句言っていても始まらないから、私はとりあえず自分に何ができるか考えて、やってみますわ。

まあ、そういうことですね。差し当たり私は、このブログで、日本のためになると信じていることを根気よく言い続けるほかはないのでしょう。諦めないことが肝心、と自分に言い聞かせましょう。
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