美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

安全保障の危機の進行 消費増税騒ぎの裏側で (イザ!ブログ 2012・6・25 掲載分)

2013年11月21日 22時22分22秒 | 政治
日刊ゲンダイ2012年6月20日掲載の「消費増税の大ウソ 3月時点で日本国債を買いまくっていた中国とハゲタカ」は、無視できない内容を含んでいます。

米英の“ハゲタカ”や中国の“赤いマネー”が日本国債を買い漁っている。日銀の19日の発表によると、海外勢が3月末時点で保有する日本国債は、前年同期比23%増の76兆円。国債残高(919兆円)に占める比率は8.31%に高まった。

日本の内債率は、これまで95%から94%で推移してきました。それが、日本国債の安定性に寄与してきたことはご存知でしょう。債務不履行(デフォルト)という最悪の事態に直面した時、日本政府にとって問題になる債務は、対外的債務4%~5%です。この割合に相当する金額を払い込めば、問題はとりあえず収束するわけです。

日本の場合、この数字が、先進諸国のなかで抜きん出て低いのです。それが、ドイツや英国並みにCDSが低い(1.4%程度)理由の少なくとも一端を成しています。CDSというのは、国債の保険料と考えればいいでしょう。これが低いほどデフォルトの危険性が低いと実務の世界でみなされているということです。ちなみに話題のギリシャのCDSは90%以上です。10年間で9回以上デフォルトすると見られているわけです。それに対して、日本は100年間で1.4回デフォルトすると見られているに過ぎないのです。日本は、国債事情において、国際的にギリシャの対極に位置するわけです。菅直人前首相や、現安住財務大臣が「ギリシャは対岸の火事ではない」とオダを上げていたのは、酔っ払いのタワゴトにすぎないことがお分かりいただいけますね。

ところが、外債率が最近8%以上になった。これは、国債の安定性にとって嬉しい材料ではありません。これも問題といえば問題ですが、もっと問題なのは次です。

とくに、すさまじいのが中国の買いっぷりだ。昨年末時点で約18兆円と、前年比71%も急上昇。米国や英国を抜き、いまや世界最大の日本国債保有国になっている。

中国が、現在米国債保有高において世界第一位であることはご存知でしょう。そのことが、アメリカが毅然とした対中国安全保障政策を展開できない要因になっていることも周知されていますね(だから、日本は尖閣諸島を自力で守るよりほかはないと腹をくくるべきなのです)。

その同じ手法を、中国はどうやら日本に差し向けようとしているらしいのです。金の力で日本の首根っこを捕まえようというわけです。(金)力は正義なり、とする中国の考えそうなことですね。

欧州危機が深刻化する中、日本国債は「世界一の安全資産」とバカ売れしているのだが、ちょっと待ってほしい。政府や財務省、日銀はこれまで、「国債は暴落する。日本もギリシャになる」と財政危機を煽(あお)ってきた。「だから消費増税が必要だ」と朝日新聞はじめ大マスコミをたきつけ、消費増税を国民に押しつけようとしてきた。

財務省・日銀・大手マスコミ(ただし産経新聞田村秀男氏だけは例外)が、寄ってたかって、「国債が暴落する。財政が破綻する。だから増税だ」と訳の分からない世迷言を大量に垂れ流し続けてきたことについて、私はこれまで何度も批判してきました。また、へこたれずに、これからも批判し続けようと思っています。私の言い方で、「そうか。そうだったのか。オレはマスコミにだまされていた」と言ってくれる方が一人でもいる限り、批判しつづけたいのです。

もし、財務省・日銀・大手マスコミが言う通り、日本が本当に「財政危機=デフォルトの危機」の状況下にあるのならば、それを買い漁ろうとする欧米の「ハゲタカ」や中国政府は大馬鹿者・ド阿呆ということになりますね。そんな馬鹿なことがあるはずがありません。これは、簡単な背理法です。日本が財政危機である、という前提が間違っているのです。

上念司氏が記事の中で次のように言っています。

「海外勢にとって、日本国債は『安全』どころか『おいしい』資産です。国債の実質金利は、名目金利から物価上昇率を引いた値ですが、デフレ政策を続ける日本では物価上昇率がマイナスなので、実質金利はプラスになる。デフレが続く限り、円高だから為替リスクもない。こんな国は世界では日本だけです。海外勢は、日本政府は絶対にデフレ政策をやめないし、円高も続くと足元を見ている。要するに、日本はカモにされているわけです。その一方で、日本の国民はデフレ不況のせいでモノが売れず、価格競争でみんな疲弊し、円高で輸出企業も火の車。サラリーマンの給料も減っている。そこに消費増税です。国民生活は破綻の危機なのに、ハゲタカや赤いマネーばかりが潤う構図になっているのだからムチャクチャです」

上念さんが言っていることを具体的な数値で言い直してみましょう。現在の長期国債(10年もの)の金利は、アメリカが1.678%で日本が0.825%です。これだと、マネーは日本からアメリカに移動しそうですね。つまり、円安ドル高になりそうなものです。ところが、実際は逆です。どういうことなのでしょうか。

これらはあくまでも名目金利であって、投資家はこれに着目しているわけではありません。

彼らが着目しているのは、名目金利-インフレ率=実質金利なのです。アメリカの2012年の推計インフレ率は2.1%で、日本は0%です。だから、実質金利は、アメリカが1.678-2.1=▲0.422%で、日本が0.825-0=0.825%です。つまり、日本の実質金利は、アメリカのそれより1.247%も高いのです。だから、マネーはアメリカから日本に流れるのです。つまり、円高ドル安です。白や赤のハゲタカが円を手にして日本国債を買おうとするのは当たり前のことです。

そういう状況において、野田政権による消費増税の推進は、彼ら赤白のハゲタカの目にどう映るのか。上念さんがおっしゃるとおり、「日本政府は絶対にデフレ政策をやめないし、円高も続くと足元を見ている」となります。日本政府が「赤白ハゲタカさん、どうそ日本の国債をカモにし続けてください。それがグローバリズムですから」というメッセージを送っているというわけです。(イギリスが野田さんを絶賛するはずですW)これが、「国債の信認」を維持するということの真相です。つまり、消費増税路線は、売国路線でもあるというわけです。そのためだったら、国民が失業で苦しもうが、貧乏になってしまおうが、輸出産業が苦しもうが、自殺者が増えようが、GDPが減ろうが、税収が減ろうが、財政が悪化しようが、構ったこっちゃない、と日本政府は開き直っているわけです。

国の借金が膨らみすぎている、ヤバイ、と言いながら大増税に突っ走り、そのくせデフレを放置して、海外勢に国債を大量に買わせてボロ儲けさせているペテン首相とデタラメ財務省。この国は外資の手先かと言いたくなる。

言いたくなる、ではなく言ってしまって構わないと私は考えます。

政府・日銀がデフレ政策を続けることが、先ほどの中国による日本国債の買い漁り行動に見受けられるように、結局は、日本の安全保障体制を根底から崩壊させる危険な選択であることを、私は訴えたいのです。これは、ここでは詳述しませんが、私がTPPに反対する理由でもあります。つまり、TPP参加は、日本の総合安全保障体制にとっての脅威となる危険性がかなりの高い確率で排除できないので、反対せざるをえないということです。もしも、TPP参加が自由貿易の推進であるといまだに思っていらっしゃる方がいるなら、少しだけ勉強してみてください。

「ウソつきはドロボーのはじまり」。今日はこの言葉を財務省に進呈します。人をだましてお金(税金)を盗ろうしているのですから、彼らはドロボーと呼ばれても仕方がありませんね。彼らは、省益と引き換えに、国民の財産だけではなく安全をもついでに盗もうとしているのです。
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『不思議なキリスト教』 soichi2011さんからのコメントをめぐって(イザ!ブログ 2012・6・21、23 掲載分) 

2013年11月21日 19時03分22秒 | 宗教
soichi2011 さんから、コメント欄に次のコメントをいただきました。コメント欄には、1000字という制限があるので、それを超える字数はいくつかの欄にまたがってしまいます。こういう形で取り上げる方が読み易いと思われます。

*****

順序が逆になりましたが、『ふしぎなキリスト教』に関連しても言いたいことがありましたので、少し長く述べます。

ツイッター上では橋爪さんの評判が悪いとのこと。それで読んでおりませんが、ここではどちらかと言うと、彼の側に立ってみます。

橋爪さんは、キリスト教と仏教は全く違う、というお立場ですね。表面上似たところがあるとしても、同一視したりするのははなはだ危険である、と。

その違いとは、橋爪説によると、以下です。キリスト教(ユダヤ教も)の神は、この世界を作った。従ってまた、任意に世界を作り直すことも可能。一方、仏教は、本来は、唯一神というより、人格神の概念がない。因果律などの「法」がこの宇宙を支配しているのであって、人間にできることはそれを認識することだけ。仏陀といえども、法を変えることはもちろん、その外へ出ることもできない。

ここからどのような思想的態度が派生してくるか。橋爪さんその他から私が学んだ、と信じることを列挙しますと、

(1)仏教の世界認識は、理屈としては「無常」に極まる。なぜ「無常」なのか、などと頭をめぐらしても、これを変えることができない以上、全くの徒労でしかない。法は、受け入れるしかない。いや受け入れられない、なんてあがくから、余計な苦しみが生じる。

一方、神がこの世界を作ったとすれば、世界内のあらゆることには理由があるはず。究極の理由は人間にはわからないにしても、一歩でもそこに近づくこと ならできるはず。この思いから近代科学が発生する。単に自然を人間のために利用する技術なら、東洋でも日本でも、治水その他、たいへんに高度なものを持つことができた(このへん、『ふしぎなキリスト教』で述べられている説明、はちょっとポイントを外しているように思えます)。

できなかったのは、少なくともあまり得意でなかったのは、仏教的な意味とはまるで違う法則を発見しようとすること。「リンゴは木から落ちるのに、空に ある月はなぜ落ちてこないのか」。この現象を単一の論理で、矛盾なく説明できたとき、それは法則になる。そして、矛盾した現象が発見されないうちは、この法則は非常に広い範囲に応用できるものとなる。結果、科学技術は飛躍的に発展する。

(2)美津島さんが特にこだわっておられるように思える「主権」。これはまた非常に難解なんですが、無理をして言ってみます。妄言も度が過ぎる、と思われた場合には、美津島さんその他のご叱正を願っておきます。

この概念は、キリスト教そのものより、これと関わりながら発展してきた俗界の都合によってできたもののようです。sovereign powerとは「至高の力」ですから、キリスト教内部なら、神に属するのが当たり前。でも、そしたら、地上の権力者の立場はどうなる? ということが、ミラノ勅令(313年)によってキリスト教を公認したローマ帝国で問題になったらしい。まあ普通は、「カエサルのものはカエサルに」というイエスの言葉で、丸く収まるんですが。もうちょっと格好をつけたほうがいい、と考えたローマの法学者たちは、国は俗界の法によって統治される、その法の権威は皇帝から発し、皇帝自身はその外側にいて、自由に改変も出来る、とした。早い話が、それまで禁じていた宗教を認めることもできる。正に、世界を作った神のアナロジーですな。

ご存じのように、ローマ法は、その後、西洋世界の法の基礎と考えられたわけですが、ヨーロッパ各国の王たちは、ローマ皇帝ほどの権力はなかったので、権力基盤を堅固なものにすることに、より気を使わなければならなかった。殊に、教会の介入やら、異なった宗派(セクト)間の争いは、現実的にも頭痛の種だった。それで、国王の力は、声高に叫ばれた。国の中では最高権威であって、何人もこれに逆らうことは許されない、と。そこには、他国の干渉は必ず排除されなければならないことも、当然含まれていた。

やがてルソーらの手で、この至高の力は「人民」に移る。でも、王様にせよ、人民様にせよ、文字通り好き勝手なことをやられたのではかなわないから、主権を制限するもの(本当は語義矛盾ですが)として、憲法が、国と主権者との間の契約として結ばれることにもなった。これまた、神と人間の間の契約という形を取ったキリスト教(むしろユダヤ教か)の真似のようです。

ここには、国もまた、人間の手で作り上げるものだという信念が一番根底にある。これが日本人にはどうも理解しがたい。私たちにとって、国とは、自然にあるものですから。「主権」も、「憲法」も、なんで必要なのか、本当の意味ではわかっていない。

(3)個人。これこそキリスト教からできた最大のものじゃないかと思います。唯一絶対神は、一人の人間に語りかけたりもするんで、個人は神との直取引も、理屈の上では可能なはずです。その場合でも、一人の人間は、ちっぽけなものでしかありませんけれど、家族でも地域共同体でも国でも、神の前では同じぐらいちっぽけであって、個人と同次元だとも考えられる。自分の主権者は自分である。こうして、自由で自律的な個人は当然あることになった。また、こんな独立した個人を束ねなければならないので、国家の主権というのも必要とされた、ということじゃないですかね。

これまた、どうも日本人には馴染みづらい考え方です。もちろん、こういう日本が、西洋に比べてオクレている、なんて考える必要はないです。でも、「日本的なもの」は、今後、世界に何か貢献できるかどうか? 見込みが全くないわけではないが、極めて難しい、とは思えます。まあ、この点で、日本人が何か言ったりやったりする前に、困難さだけは、しっかり腹に入れておく必要はありそうです。

橋爪さんに見せたら、「私はそんなこと一言も言ってないよ」と迷惑がるかも知れない愚見を披瀝しました。こんな考えもある、と知っていただけるだけでも幸甚です。

*****

深い教養に裏打ちされたコメントで大いに勉強になります。私の返事は、次の投稿に掲げましょう。


*****

私、偉そうなことをときに口走ってはみても、当然のことながら、それほどの教養があるわけではありません。

深い教養があるなと思った方のご意見には、素直に耳を傾けるに若くはない、と考えます。貴重なご意見、感謝します。異論と呼べるほどのものはありません。ほんの感想をいくつか。

橋爪さんが「仏教は唯物論である」と言っていましたね。そうして、その唯物論の核は、因果律である、ということだったと記憶しています。それを見透すことが悟りである、と。

ではなぜ、因果律なんてものが宗教になるのか。普通はなりませんよね。ちょっと考えてみたのですが、それが前世・現世・来世を貫くものだから、と気づきました。われわれにとっての因果律は現世にだけ関わるものであって、それは、仏教の因果律(縁起の法)からすれば、実に浅薄なものに過ぎないということになるのでしょう。

では、前世・現世・来世を貫く因果律とはどのようなものなのか。私見によれば、深い瞑想によって浮かんでくる、個人的な認識の限界を超えているとしか思えないような鮮烈なイメージの連なりのようなものなのではないでしょうか。

とするならば、この因果律は、唯物論というより、特殊な観念論の産物と言った方が事実に近いのかもしれません。橋爪さんの「仏教は唯物論である」という言い方は、むしろ混乱を招き易いのではないかと思われます。(あれ、異論になっちゃった)

ここから、因果律を現世に限定した科学的認識が生まれて来にくいのは理解ができます。

一方、神がこの世界を作ったとすれば、世界内のあらゆることには理由があるはず。究極の理由は人間にはわからないにしても、一歩でもそこに近づくことならできるはず。この思いから近代科学が発生する。単に自然を人間のために利用する技術なら、東洋でも日本でも、治水その他、たいへんに高度なものを持つことができた(このへん、『ふしぎなキリスト教』で述べられている説明、はちょっとポイントを外しているように思えます)。

そうですね。これが通常の理解の仕方ですね。分かりやすいですし。分かりやすいほうがいいに決まっています。橋爪さんは、キリスト教社会から近代という一見宗教的認識を否定するパラダイムが生まれてきた逆説を強調しようとして、やや分かりにくい説明になってしまったのかもしれませんね。

次は「主権」について。

私が「主権」にこだわっているのは、「民主主義、民主主義と気安く言うなよ。その核をなす『主権』とかさらには『国民主権』という、よく考えると矛盾に満ちた概念をしっかりと理解し、自分のものにするのはけっこう大変なんだぜ」と、世のいわゆる(朝日新聞などの)安逸な民主主義者に毒づきたい気分が強いからです。戦後民主主義のオプチュミズムに対する違和感が根にあるのだと思います。

そんなわけで、私には、主権概念を突き詰め、それを一般国民が担うことの難しさを承知のうえで「国民主権」や「民主主義」を思想のキーワードとして鍛え上げることができたらな、という思いがあります。その点、soichi2011さんの主権をめぐる洞察は傾聴に値すると心から思います。

ミラノ勅令(313年)によってキリスト教を公認したローマ帝国で、(中略)法学者たちは、国は俗界の法によって統治される、その法の権威は皇帝から発し、皇帝自身はその外側にいて、自由に改変も出来る、とした。早い話が、それまで禁じていた宗教を認めることもできる。正に、世界を作った神のアナロジーですな。

私は特にこの箇所に刺激を受けました。この、神の世界のアナロジーとしての俗界において、神と皇帝をカッコに入れて脇にやりそこに国民を置けば、近代法治国家の姿がうっすらと浮かび上がってきます。ざっくりと言えば、このころすでに近代法治国家の雛形はいわばセットされていた。その後の約1500年間の歴史は、神と皇帝をカッコに入れて脇にやりそこに国民を置く過程であったと言ってしまえなくもない。

ここには、国もまた、人間の手で作り上げるものだという信念が一番根底にある。これが日本人にはどうも理解しがたい。私たちにとって、国とは、自然にあるものですから。「主権」も、「憲法」も、なんで必要なのか、本当の意味ではわかっていない。

ここが、われわれ日本人にとっての主権問題の根底なのではないでしょか。吉本隆明さんではありませんが、ここに差しかかると私はいつも佇立してしまいます。いつまでたっても、ちっとも解決できない事柄なのです。

個人。これこそキリスト教からできた最大のものじゃないかと思います。

これは実は、今述べた主権問題の根底に深く関わっています。いや、主権問題と個人問題とは同じことの表とウラの関係にあると言った方が正確なのかもしれません。

唯一絶対神は、一人の人間に語りかけたりもするんで、個人は神との直取引も、理屈の上では可能なはずです。その場合でも、一人の人間は、ちっぽけなものでしかありませんけれど、家族でも地域共同体でも国でも、神の前では同じぐらいちっぽけであって、個人と同次元だとも考えられる。自分の主権者は自分である。こうして、自由で自律的な個人は当然あることになった。また、こんな独立した個人を束ねなければならないので、国家の主権というのも必要とされた、ということじゃないですかね。

これを言い切ってしまうには、近代をめぐる歴史認識のコペルニクス的転換が必要であると考えます。つまり、「近代になってから個人が誕生したかのように喧伝されているが、実は西欧キリスト教社会にはもともと強い個人が存在していた。近代社会になってそこに強い光が当てられたので、そのような印象を受けるのである」というふうな。私にはとてもとてもできませんが、とても面白い切り口であると思います。

もしも、ご意見があれば、遠慮なく。小浜逸郎氏とのやり取りをご覧いただければお分かりになるとおり、私はいつまでもこういうことをやっていられる質(たち)なので。というか、もともと、こういうことをやるためにブログを始めたようなものです。


*****

Commented by soichi2011 さん
最近近親者の葬儀がありまして、せっかく美津島さんのおはからいにも何も応えられず、失礼いたしました。「遅くともやらないよりはマシ」と思いますので、また雑駁な感想など書き入れます。
 うちは浄土宗だったのだ、ということを、前述の葬儀で初めてはっきり知りました。それから、最近(なのかな)の通夜では、最初に浄土宗の紹介というか、プロモーション・ビデオが流される、ということも。なんか、あざといような…。思い起こせば十年以上昔、キリスト教の通夜に出ましたら、神父様のお話があって、故人のことには最初ちょっと触れたかと思ったら、あとはその十倍ぐらい、「神は偉大なり」という趣旨になりました(いや、それ以前に、キリスト教にお通夜ってあったけ?)。などなど、まあ、宗教と雖も、俗世の都合に合わせて、いろいろなことをするものなのだなと思われた次第です。
 でも、このビデオにはなかなか考えさせられました。曰く、浄土宗は、それまでの、国家の護持や、僧たちの悟りが主眼ではなく、宗教本来の(と、そのビデオでは言っていました)役割である、人々に救いをもたらすために、法然上人が始めたものだ、と。ははあ、そうか、ここが、以前のブログにあった、橋爪氏と小浜逸郎・長谷川三千子・松崎健一郎各氏の対立点になったのだな、と思い至りました。
 その直後に呉智英氏の『つぎはぎ仏教入門』を読みましたら、以上のことがとても簡潔に書かれていました。「キリスト教は救いの宗教、仏教は覚り(悟り、を呉氏は敢えてこう書いています)の宗教」だが、後者は長い歴史の中で、さまざまな変質を経た。浄土宗・浄土真宗はその変種の一つであって、阿弥陀仏をまるで人格神のように扱い、救いを強調するところは、キリスト教に近い、とのことでした。
 読書会での議論の時、橋爪氏は釈尊の、原点に近い仏教を強くイメージされ、小浜氏と松崎氏は親鸞が、長谷川氏は道元が、主に頭にあって、それで議論がイマイチ噛み合わなかったようですね。これも仏教の多様性のなせる業、と申せましょうか。
 それでは、釈尊が創出した、宮崎哲哉氏などの言う「根本仏教」とはどういうものか、もう少ししたら愚考をまとめて、お目に掛けたいと思います。
2012/07/10 18:05

Commented by 美津島明 さん
To soichi2011さん

コメントをどうもありがとうございます。

> 読書会での議論の時、橋爪氏は釈尊の、原点に近い仏教を強くイメージされ、小浜氏と松崎氏は親鸞が、長谷川氏は道元が、主に頭にあって、それで議論がイマイチ噛み合わなかったようですね。これも仏教の多様性のなせる業、と申せましょうか。

読書会でのこの議論、私も頭に残ってしまいました。遠慮抜きで言ってしまえば、この議論で、橋爪氏の人間的な弱点が顔を覗かせていると、いまでは思っています。小浜・松崎・長谷川の三名に共通しているのは、橋爪氏の、仏教を巡る断言に対して異議申し立てている点です。自分たちの方こそ真の仏教論を展開していると主張していた人は誰もいません。そうしていたのは、橋爪氏だけです。
それが、議論が噛み合っていない一番の原因だったのではないでしょうか。

これを普通に言うと、橋爪氏はその局面で、やや大人気のない「言い張り」をしていた、となるでしょう。これは、おそらく、橋爪氏がいちばん頭に来るタイプの指摘ではないかという気がなんとなくします。

人間通の心理学者ユングは、たしか『タイプ論』なかで「理性が高度に磨かれた人は、おうおうにして感情の洗練がおろそかになりやすい」と言っています。

私が言いたいことは、もうご賢察のことと思われます。橋爪氏にその指摘がすっぽりと当てはまってしまうのではなかろうか、ということです。実は、以前からうすうすそう感じてはいたのですけれど。

> それでは、釈尊が創出した、宮崎哲哉氏などの言う「根本仏教」とはどういうものか、もう少ししたら愚考をまとめて、お目に掛けたいと思います。

とても楽しみにしています。
コメント (1)
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民主党・たそがれのコメディ ~執行部の愉快な仲間たち~ (イザ!ブログ 2012・6・21 掲載分)

2013年11月21日 18時54分03秒 | 政治
最近の民主党は、もはや政党の体を成していないほどにメチャクチャな状態です。意思決定のプロセスが修復不可能なほどにズタズタなのですね。党内の議員ひとりひとりが、選挙を経た、国民の代表者であることに対する最低限の敬意のカケラさえ、党執行部にはありません。だから、私は以前のブログで「民主党は党名から『民主』を削り取ろう」と親切にも提案していたのです。そうしていれば、なんだかんだと外野から非難されることもないのですから。

もっとも、彼ら民主党執行部の面々が、意外とユーモアのセンスのある「愉快な仲間たち」だとすれば、話は別です。「民主党」という党名が「なんちゃって民主党」という言外のニュアンスを帯びることになり、私たち一般国民は、とても興味深いナンセンス・コメディを毎日タダ同然で観ることができるのですから。

産経新聞のネット・ニュースが19日の民主党の合同会議について簡単に次のように報じました。

消費税増税関連法案の3党修正合意をめぐる民主党の合同会議は19日午後10時すぎ、前原誠司政調会長が「私に一任してもらう」と述べ、閉会を宣言し、議論を終了した。

大手メディアは、民主党執行部と同様に、とにかく消費増税(と合理的根拠なき原発再稼働)が決まれば他はどうなっても構わないというスタンスなので、合同会議から出てきた前原政調会長の「会場から私に一任するという提案があり、私はそれを了承した」という発言を、裏も取らずにそのまま空っとぼけて垂れ流しました。

大手メディアは、「民主党執行部に逆らう奴らは、一人残らずあの刑事被告人=極悪人の小沢一郎の子分なのだから、その言い分をないがしろにしてしまってもぜんぜん問題ないじゃん」という軽いノリです。

事態が一・二行の報道で済むほどに簡単ではないことは、一般国民でさえ直感的に分かりますね。

私がフォローしているツイッターの範囲では、民主党・金子洋一参議院議員が、東京新聞・長谷川幸洋氏との短いやり取りによって、それに関連する第一報の知らせを、時を移さずに寄せました。

〔6月19日金子洋一・民主党参議院議員(神奈川選出)〕
突如、打ち切り。場内騒然。まずいでしょう、これでは。

〔6月19日 長谷川幸洋‏〕
ほんとですか?

〔6月19日 金子洋一〕
はい、前原政調会長が長広舌をふるう中で、突如一任とさせていただきます、と一方的に発言し、執行部が同時に退場してしまいました。あぜんとしました。

これはどこかで見た光景ではありませんか。そう。3月28日の未明に、民主党内の増税法案の事前審査会議が突然打ち切られたときにも、前原政調会長はこれと同じ振る舞い方をしましたね。彼は、「言うだけ番長」であるだけではなく「言い逃げ番長」でもあるのです。いやあ、ここまで馬鹿げていると、そんじょそこらのお笑い芸人では太刀打ちできないほどに自然体の図らざる滑稽味を、前原さんは醸し出していますね。

彼は、民主党関連の情報が救いがたいほどに暗澹たるものばかりである現状を深く憂慮し、せめて自分がコメディアンになって、今のデフレ日本を少しでも明るくしたいという憂国の情あるいは捨て身の義侠心から、あえて損な役を買って出ているのかもしれません。とすれば、彼は自らの政治生命が断たれる危険を顧みない勇気ある政治家ということになります。

そう考えれば、セクハラ大将・仙谷さんの無意味な渋面と岡田さんの仮面のような不思議な強面も、「民主党・たそがれのコメディ」になかなか効果的な味を添えています。私は彼らを甘く見くびっていたのかもしれません。反権力主義者なのに、権力の頂点に立つという高度な曲芸を楽々とやってのける人たちなのですから、絶望的な状況でコメディを演じるくらいのことは朝飯前なのかもしれません。

党内キャスティング・ボード役としての大変な権力を手に入れても、貧相でわびしい味わいを醸し出すのを忘れない輿石幹事長や、小沢命のはずだったのにいつの間にか執行部の中枢にちゃっかり着座しているけれど悪ガキだったころの風貌が払拭されない樽床幹事長代行も、思い直せばなかなかの名優なのかもしれません。

主役の野田さんは、どうでしょう。あの重々しい決然たる口調で、国民にとって有害な意思決定をしまくるのを「決められる政治」と形容する空疎さにまったく気づかないフリをしているところに、私たちは脳無しを演じる彼の「無技巧の技巧」を感じ取るべきなのかもしれません(うーん、ちょっと苦しいかな)。

以下は、その夜のコメディアン・ショウについての諸氏のコメントです。

〔6月19日 長谷川幸洋‏〕
台風の中で、民主党の終わりが始まったのは象徴的。でも、ここから新しいドラマが始まるので、日本の歴史としては、いい流れ。政党内で政策が一致できず、壊れていくのは必然です。願わくば、次の時代は政策中心で政党が再編されてほしいけど、一足飛びにいくかどうか。

〔6月19日 上念 司‏〕
これで自民党からも造反が出なかったら、自民党は本当に終わると思いますね。民主党は当然大造反だと思いますけど。

これは、私なりの読みですが、来るべき総選挙は「官僚主導依存派VS国民経済派」の対立を軸に闘われるものと思われます。より具体的にあえて図式的に言えば、官僚依存派は、消費増税推進支持・原発推進支持・TPP参加支持・日銀法維持支持・財政再建第一主義です。それに対して、国民経済派は、消費増税法凍結支持・脱原発依存支持・TPP不参加支持・日銀法改正支持・経済成長(デフレ脱却)第一主義です。地方分権論・道州制論・一院制論が(私からすれば)無意味に流行っているので、現実的にはこうすっきりといかないのでしょうが、おおよその見取り図はそんな感じになるのではないでしょうか。この軸をめぐって、次の総選挙で政界再編がなされるのではないかと思われます。もしかしたら、さらにもう一回総選挙が必要かもしれませんけれど。

〔6月19日 竹中平蔵‏〕
野田総理がメキシコのG20に出席。しかし冒頭だけですぐ帰国の途についた。明らかに党内事情を優先させ、国益を損なう行為だ。G20には、総理しか出られない。こうした点に、どのメディアも言及しないのはいかがなものか。

いやあ、まったく。今回のG20は、リーマン・ショックに次ぐ世界恐慌第二弾の襲来を真近に控えてのきわめて重要な会議でした。野田さんは、世界のリーダーたちとじっくり話し合う必要がありました。彼が国益のことなどそっちのけの切迫した心理状態であることが「もろバレ」ですね。大手メディアは、もちろんそのことをうかがわせる事実を報じるわけがありません。あくまでも「律儀」な面々ですなぁ。

〔6月20日 高橋洋一(嘉悦大)〕
オワタ。民主党=タイタニック RT: @miyake_yukiko35: なぜか、テレビ各局は「一任された」「了承された」と報道されている。政調会長か側近議員のインタビューを受けてらしい。録音や動画や写真があるので、すぐ事実がわかる。今日もわかりやすい打ちきりの合図があった。

「@miyake_yukiko35」とあるのは、民主党三宅雪子参議院議員です。「なぜか~」以降は、彼女のコメントです。高橋洋一氏は、民主党はこれで終わりと断じているわけです。

〔6月19日 長谷川幸洋‏〕
だって、考え方の違う人が同じ政党にいたら、国民が選ぶのに混乱するでしょ。さっさと壊れたほうが、みんなのためです。国会議員は有権者の代理人にすぎないんだから、代理人集団の中身がばらばらじゃ、集団としては有権者が契約できない。当たり前の話。

長谷川幸弘氏は、私が言うのもなんですが、代議制民主主義の本義をきっちりと理解しています。信頼できるジャーナリストです。

〔6月20日 川内 博史‏〕
社会保障と税の一体改革法案3党合意に関する党内会議。会議の終了を一方的に宣言し、また前原さんが逃げ出した。社会保障は中味が変質し、消費大増税だけが残った。会議で発言した議員の9割以上が、合意を認めないとする発言であった。会議無効である。

小沢派の川内議員としては当然の発言でしょう。

〔6月20日 金子洋一・民主党参議院議員〕
おっしゃることに全面的に賛成です。→『たとえ造反しても法案成立は確実です。造反しないでください。政治家の倫理は、信条倫理(心情倫理)ではなく責任倫理です。年金制度の抜本改革、景気条項、日銀法改正、シロアリ退治、そして「話し合い解散」反対を掲げてください。』

民主党を代表する理性派・知性派の金子議員らしいスタンスです。これを外野がとやかくいう筋合いはない。ぎりぎりの局面での議員のこういう構えの誠実さをきちんと認識することが、有権者としての成熟した目を養うことにつながると私は考えます。潔くて分かりやすい構えだけに拍手を送るようでは、またもや大衆のウケ狙いの上手な政治家にだまされるだけですものね。

〔6月20日森ゆうこ‏〕
民主党が終わった日。 昨日は中山義活の、そして今日は鹿野道彦の猿芝居。吐き気がして倒れそうだった。

これは、造反・離党の覚悟を決めた人間の言葉です。森参議院議員は、小沢一郎と運命を共にする覚悟を決めているのでしょう。

〔6月20日 壺井須美子〕‏
いま民主党執行部がやっていることはクーデターだ。国民に対しての。政党政治に対しての。国会に対しての。はっきり意識しよう。彼等は、この国を民主的ルールが一切機能しない、暗黒独裁国家にしてしまった。国民はレジスタンスの意識でこの政府と戦わないとならない。恐ろしいことが起きている。

彼女は一般人ですが、これとほぼ同じ趣旨のことを、先日民主党執行部に離党届を出した平智之衆議院議員が言っています。

こういう重大な諸発言の片りんでさえも、大手メディアにはほとんど出てこないという信じられない事態は、確かに恐ろしいことです。それともこれも「愉快な仲間たち」(とその黒子=財務官僚)のシャレた演出なのでしょうか。「いやあ、これはただの全体主義ゴッコですよ。執行部みんなで渡ればコワくない、なんちゃってネ。誰にも責任ないも~ん」

シリアのアサド大統領が、この情報統制ぶりを目の当たりにしたら「ウチも日本のようだったらなぁ。人を殺しまくって恨まれることもないだろうに」と羨ましがること請け合いです。ただし、ブログやツイッターの猛烈な批判を目にしたら、即座に銃殺でしょうが。
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