ぐうたら里山記

兵庫の西の端でただのほんと田舎暮らしをしています。ぐうたらです。のん兵衛です。

茶碗蒸し

2009年06月06日 09時09分18秒 | 雑感
茶碗蒸しはいかにも間が悪い。
和食界のKYといわれている。
和食のパーティーのとき途中でふとその存在に気づく。
「ははぁん・・・」
でも見ない振りをして、酒を呑み肴になりそうなものをさがして食べる。
そして終わり近くになって、「あれっ、何だろう?」と今気づいたかのようにその蓋をとる。
「やっぱり」
そうそれは、やっぱり、なのだ。
そしてスプーンで一口。
「やっぱり」
そうそれはやっぱり生ぬるくなっている。
そして「あんた、どうしてここにいるの?」
と、声をかけたくなる。
別に茶碗蒸しがここにいなければならない必然性などない。
たまたま・・・
ほんのついでに・・・
一品稼ぎに・・・
いるに過ぎないのだ。

そしてあらためてその姿をしげしげと見つめると妙なことに気づく。
そもそも茶碗蒸しはスープなのだろうか、それともおかずなのだろうか?
スプーンがついているところを見るときっとスープなのだろう。
でもそれならどうしてスープ皿でこないのか。
それにあの小さなスプーンも食べにくくてしょうがない。
あの茶碗も変だ。茶碗といいながらも、茶碗蒸しの茶碗でお茶を飲む人はいないだろう。
スープをスプーンで飲むにも底が深すぎる。
やっぱり茶碗蒸しはスープではなくおかずなのだろう。
茶碗蒸しを「飲む」とは言わない。
茶碗蒸しは「食べる」ものなのだから。
それで茶碗蒸しを食べるために箸も必要になってくる。

茶碗蒸しは一見、卵しか入ってないように見える。
でも箸でかき混ぜてみると、他にもなにやら入っているのがわかる。
ギンナン、ゆり根、そして申し訳程度にカシワ。
このうちカシワ以外は食材としてはマイナー。、
いわばリストラされて他に行き場がない人を集めてパートで再雇用したようなものだ。
そしてそれをわからないように卵で隠している。

ところでギンナンの変わりに栗を入れるところがあるらしい。
これはきわめて遺憾なことであって、ただでさえ働き場所の少ないギンナンの貴重な職場を奪わないで欲しい。
栗には「もっとあんたにふさわしい職場はあるだろう」といいたい。
それでもギンナンはまだ居酒屋という職場がある。
ところがゆり根はここしかないのだ。それでたとえギンナンを入れ忘れることはあってもゆり根だけは忘れないで欲しい。
それから春菊。
子供のころ家で食べていた茶碗蒸しには必ず春菊が入っていた。
ところが春菊が入っている茶碗蒸しには最近お目にかかったことがない。
茶碗蒸しに春菊を入れるのは日本の常識ではないだろうか?
それに春菊もマイナーな食材なので、同じマイナー仲間のギンナンやゆり根とよく合う。
昔は茶碗蒸しはお客さんに出すちょっとしたご馳走だった・・・ような気がする。
でも今では客にも出さない。
春菊を入れなくなってから茶碗蒸しの堕落が始まったのではないだろうか?
・・・と、勝手に想像している。
もっとも子供のころは春菊が大嫌いで、いつも最後まで残っていた。

ところで和食のパーティーに話を戻すと、ようやく茶碗蒸しを食べ終わったころ、
ダメ押しのご飯と吸い物が出てくる。
「もうこれで終わりだからね!待ってても何も出ないよ」
するとまたあらためて悩む。
茶碗蒸しってスープなのだろうか、おかずなのだろうか。
スープだとしたらスープが続けて2皿出ることになる。
どうも茶碗蒸しの出る順番が違うのではないだろうか?
かといって茶碗蒸しをいったいどこで出したらいいのか・・・。
どうも茶碗蒸しはどこで出てきてもなんか居心地が悪いような・・・、
かといってこういう場ででもない限り、他に出る場所があるのか・・・。
なんて茶碗蒸しを見るたびに悩む。

別にいなくてもかまわない。
でもいたらなんとなくほっとする。
きっと茶碗蒸しは和食界のなかの癒し系なのだろう。
コメント
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