たまたまニュースで時代祭りをやっていた。
京都の3大祭りと言うと、祇園祭と葵祭と時代祭り。
祇園祭は普通の祭りと違い歴史の重みを感じる。
葵祭は(見たことないけど)まあそれなりに趣はあるのだろう。
ところが時代祭りはと言うと、これは単なる仮装行列。
葵祭の平安時代に絞った仮装行列でなく、縄文から明治まで、
だらだら歩く学生アルバイトなどが扮する装束にすっかりうんざりして、
1度見ただけで、2度と見る気にはなれなかった。
祇園祭みたいな伝統的な祭りはいいとしても、にわか仕立てのカーニバル、
市長などが扮する大名行列、いい加減にしてよ!
単なる恥さらし。
こんなのを見て喜ぶ人いるの?
今住んでるこの市にも祭りのイベントに確か大名行列がある。
隣の赤穂市には12月14日だったかな、赤穂浪士の討ち入りの行列がある(見たことないけど)。
ねえねえ、こんな情けない、恥しらずなイベントやめたらどう?
でもまあ、そんなことよりも、今多くの田舎の祭りは衰退して消えようとしている。
でもそれは仕方ないことではないか?
いったい、神のために人はあるのだろうか?
それとも、人のために神はあるのだろうか?
神のために人があるのなら、そこに殉教がある、宗教戦争がある。
人のために神があるのなら、そこには現世利益の神がある。
交通安全、無病息災・・・
交通事故を起こした車に「交通安全」の張り紙があると、まったくうんざりさせられるけど、でもまあ、それはそれとして、こんな張り紙の前にはきっと自然崇拝があるのだろう。
自然の中に八百万の神々がいてそこに「交通安全」の神もいるのだろう。
自然の中に八百万の神々がいてそこに「交通安全」の神もいるのだろう。
そうそう、この方がよほど人類のためになっているのではないだろうか?
そうそう、殉教を強いる神でなく、困ったときに助けてくれる神々の方がどれほど有難いか。
有神論のように自然を闘いの相手としてしか見ないのでなく、
自然とともに暮らし、自然の実りも自然の災害もともに受け入れる、
それこそ、本当の宗教ではないだろうか?