その2では、亀山が自分の結論を正当化させるために、
原文を無視したり、改ざんに近い誤訳をすることを挙げた。
これが一つの著作に限定した話ならともかく、
少なくとも『悪霊』・『カラマーゾフの兄弟』、『罪と罰』、
『罪と罰ノート』、『謎とき悪霊』などなど、ほとんどの著作に通じる。
亀山の誤読や誤訳は、単なるニュアンスの違いではなく、
内容そのものを歪めてしまう。
『作り上げた利害』というスペイン人作家、ベナベンテの喜劇で、法律家が
「要するに皆無、罪となるべきものなり」のコンマの位置を移動させて、
「要するに皆、無罪となるべきものなり」と改竄する場面がある。
このシーンは、法律や裁判の偽善を暴く物語の肝とも言えるものだが、
これと同じことを亀山がしているというのは、かなり無気味なものである。
ドストエフスキー研究会の面々が抗議するのも想像に難くない。
しかしながら、単に学問上のアプローチを飛び越えて、
亀山現象の恐ろしい点は、このいい加減な作品を同業の文学者が絶賛し、
新聞社を主としたメディアと結託してセールスに励んだということである。
-----------------------------------------------------
ところで、驚いたことに本書は昨年度の「読売文学賞」なるものを授与されている。
その選評を書いたのは、ロシア文学者の沼野充義氏である。
沼野氏によれば、
本書は「ロシアの文豪にも張り合えるようなヴィジョンの力を持つ著作」
になっているそうだ。
同氏は毎日新聞の書評でも、本書を「原作そのものに張り合えるくらい」と持ち上げていた。
本気だろうか。振り返ってみれば、大量誤訳を指摘されている亀山訳
『カラマーゾフの兄弟』を賞賛し、光文社後援の関連イベントを催す
などして旗振り役を演じたのも同氏だった。
(この時も毎日新聞の書評で「ドストエフスキー本人にも
対抗できるような個性を持った稀有のカリスマ的ロシア文学者」
とまで亀山氏を称揚していた。)
両氏は旧知の仲らしいが、こうした事象は、
一介の文学好きの私からすれば、メディアも含めた一種の業界談合に見える。
「談合」とは、即ち、責任ある立場の人々が、公益よりも、
あるいはそれを損なっても、私益(また内輪の関係)を優先すべく裏で
(また暗黙裡に)示し合わせる行為をいう。
この場合、「公益」に当たるのは、真実、あるいは、読者の利益ということになろう。
沼野氏は本書を「偶像破壊的」とも呼んでいるが、
同氏こそ一連の行為を通じて、逆に別の「偶像」
(あるいは裸の王様)を作り上げているのではないか。そして、それは何のためなのか。
これは、沼野氏だけではない。世過ぎのためか、加担する専門家は他にもいるようだ。
同じ理由で、傍観し口を閉ざしている研究者はもっと多いだろう。
こうした事態が続けば、ロシア文学界全体の信用も低下するのではないか。
他の外国文学研究、たとえば、英米文学やドイツ文学、フランス文学で、
今どき、似たような手法の、作品の中と外の論理とをごっちゃにした、
しかも詐術すら見え隠れする研究書が出て、
それを専門家が激賞するようなことがあるだろうか。
ロシア文学の世界が談合渦巻く狭隘な村社会にならないことを
僭越ながら切に願いたい。部外者とはいえ、一読者として、
また原作者のためにも、良質の翻訳や著作に恵まれたいからである。
http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost137.htm
-----------------------------------------------------
これに加えると、亀山は、あの文科省と結託して、
自己の研究を正当化し、批判者を糾弾していたりする。
-----------------------------------------------
実例:新訳『カラマーゾフの兄弟』その他の著作に対するアカデミズムの反応
わたしが提示した新しいドストエフスキー像におけるスターリン学の成果
「二枚舌」の発見→過去のすべての言説への根本的な疑い
歴史研究における文学的想像力の不可欠性→歴史との対話的視点の欠落
アカデミズムの反応→恐るべき閉鎖性
読者を持たないアカデミズムの悲惨
悪意をむきだしにした批判と倫理的視点からの人格攻撃
結局、文学の精神からの批判を提示できない
文学が、人格形成に役立つという希望をくじかれる
新領域創生の可能性
→ジャンルおよび研究領域の異種交配
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/015/siryo/attach/1343274.htm
-----------------------------------------------
上の発表では
教養教育のモデルを提示することが目的になっている。
-----------------------------------------------
文学科目の設定と音楽教育の普及
『ファウスト』や『オテロ』さらに新作オペラ『カラマーゾフの兄弟』の例
共感力の育成が急務
新たな国家モデルの模索
科学大国と教養大国の二本柱を構築する
人文学とくに文学研究の再生のためのプロジェクトを展開
翻訳文化の充実化
→古典新訳文庫も3万部どまりの現実のなかで何が可能か?
→国際交流基金と光文社のジョイントプロジェクトの可能性
(専門研究者たちの貧困と編集者たちの驚くべき知性との亀裂)
プロジェクト型の大規模な翻訳出版助成
→文学の国民への還元に無力
国家は文学と文学者の育成のために積極的な方策をとるべきである
例:その貢献度をはかり、出版社に対する助成も考える。
(Ibid)
------------------------------------------------
つまり、亀山は出版社や新聞社だけでなく、政府とも結託し、
キャンペーンを文化政策に転化させようとしている。
ここまで来ると、亀山は学者と言うよりは官僚である。
産官学の癒着が、一連の亀山現象に見受けられる。
資料の所々に自分への批判者に対する低劣なコメントがある。
確かに専門家と言いながら、実にレベルの低い業界は存在するが、
少なくともドストエフスキー研究においては、亀山のほうが
明らかに恣意的な改竄をしているのだから、文句を言ういわれはない。
「研究領域の異種交配」とあるが、仮に本気で他ジャンルの研究者、
例えば、ロシア史のそれと協力しようとしても、上手くはいかないだろう。
(その4へ続く)
原文を無視したり、改ざんに近い誤訳をすることを挙げた。
これが一つの著作に限定した話ならともかく、
少なくとも『悪霊』・『カラマーゾフの兄弟』、『罪と罰』、
『罪と罰ノート』、『謎とき悪霊』などなど、ほとんどの著作に通じる。
亀山の誤読や誤訳は、単なるニュアンスの違いではなく、
内容そのものを歪めてしまう。
『作り上げた利害』というスペイン人作家、ベナベンテの喜劇で、法律家が
「要するに皆無、罪となるべきものなり」のコンマの位置を移動させて、
「要するに皆、無罪となるべきものなり」と改竄する場面がある。
このシーンは、法律や裁判の偽善を暴く物語の肝とも言えるものだが、
これと同じことを亀山がしているというのは、かなり無気味なものである。
ドストエフスキー研究会の面々が抗議するのも想像に難くない。
しかしながら、単に学問上のアプローチを飛び越えて、
亀山現象の恐ろしい点は、このいい加減な作品を同業の文学者が絶賛し、
新聞社を主としたメディアと結託してセールスに励んだということである。
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ところで、驚いたことに本書は昨年度の「読売文学賞」なるものを授与されている。
その選評を書いたのは、ロシア文学者の沼野充義氏である。
沼野氏によれば、
本書は「ロシアの文豪にも張り合えるようなヴィジョンの力を持つ著作」
になっているそうだ。
同氏は毎日新聞の書評でも、本書を「原作そのものに張り合えるくらい」と持ち上げていた。
本気だろうか。振り返ってみれば、大量誤訳を指摘されている亀山訳
『カラマーゾフの兄弟』を賞賛し、光文社後援の関連イベントを催す
などして旗振り役を演じたのも同氏だった。
(この時も毎日新聞の書評で「ドストエフスキー本人にも
対抗できるような個性を持った稀有のカリスマ的ロシア文学者」
とまで亀山氏を称揚していた。)
両氏は旧知の仲らしいが、こうした事象は、
一介の文学好きの私からすれば、メディアも含めた一種の業界談合に見える。
「談合」とは、即ち、責任ある立場の人々が、公益よりも、
あるいはそれを損なっても、私益(また内輪の関係)を優先すべく裏で
(また暗黙裡に)示し合わせる行為をいう。
この場合、「公益」に当たるのは、真実、あるいは、読者の利益ということになろう。
沼野氏は本書を「偶像破壊的」とも呼んでいるが、
同氏こそ一連の行為を通じて、逆に別の「偶像」
(あるいは裸の王様)を作り上げているのではないか。そして、それは何のためなのか。
これは、沼野氏だけではない。世過ぎのためか、加担する専門家は他にもいるようだ。
同じ理由で、傍観し口を閉ざしている研究者はもっと多いだろう。
こうした事態が続けば、ロシア文学界全体の信用も低下するのではないか。
他の外国文学研究、たとえば、英米文学やドイツ文学、フランス文学で、
今どき、似たような手法の、作品の中と外の論理とをごっちゃにした、
しかも詐術すら見え隠れする研究書が出て、
それを専門家が激賞するようなことがあるだろうか。
ロシア文学の世界が談合渦巻く狭隘な村社会にならないことを
僭越ながら切に願いたい。部外者とはいえ、一読者として、
また原作者のためにも、良質の翻訳や著作に恵まれたいからである。
http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost137.htm
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これに加えると、亀山は、あの文科省と結託して、
自己の研究を正当化し、批判者を糾弾していたりする。
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実例:新訳『カラマーゾフの兄弟』その他の著作に対するアカデミズムの反応
わたしが提示した新しいドストエフスキー像におけるスターリン学の成果
「二枚舌」の発見→過去のすべての言説への根本的な疑い
歴史研究における文学的想像力の不可欠性→歴史との対話的視点の欠落
アカデミズムの反応→恐るべき閉鎖性
読者を持たないアカデミズムの悲惨
悪意をむきだしにした批判と倫理的視点からの人格攻撃
結局、文学の精神からの批判を提示できない
文学が、人格形成に役立つという希望をくじかれる
新領域創生の可能性
→ジャンルおよび研究領域の異種交配
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/015/siryo/attach/1343274.htm
-----------------------------------------------
上の発表では
教養教育のモデルを提示することが目的になっている。
-----------------------------------------------
文学科目の設定と音楽教育の普及
『ファウスト』や『オテロ』さらに新作オペラ『カラマーゾフの兄弟』の例
共感力の育成が急務
新たな国家モデルの模索
科学大国と教養大国の二本柱を構築する
人文学とくに文学研究の再生のためのプロジェクトを展開
翻訳文化の充実化
→古典新訳文庫も3万部どまりの現実のなかで何が可能か?
→国際交流基金と光文社のジョイントプロジェクトの可能性
(専門研究者たちの貧困と編集者たちの驚くべき知性との亀裂)
プロジェクト型の大規模な翻訳出版助成
→文学の国民への還元に無力
国家は文学と文学者の育成のために積極的な方策をとるべきである
例:その貢献度をはかり、出版社に対する助成も考える。
(Ibid)
------------------------------------------------
つまり、亀山は出版社や新聞社だけでなく、政府とも結託し、
キャンペーンを文化政策に転化させようとしている。
ここまで来ると、亀山は学者と言うよりは官僚である。
産官学の癒着が、一連の亀山現象に見受けられる。
資料の所々に自分への批判者に対する低劣なコメントがある。
確かに専門家と言いながら、実にレベルの低い業界は存在するが、
少なくともドストエフスキー研究においては、亀山のほうが
明らかに恣意的な改竄をしているのだから、文句を言ういわれはない。
「研究領域の異種交配」とあるが、仮に本気で他ジャンルの研究者、
例えば、ロシア史のそれと協力しようとしても、上手くはいかないだろう。
(その4へ続く)