
「伊賀平松隧道ノ図」
明治19年に描かれたスケッチ画で、
長野隧道(明治のトンネル)の伊賀側坑口の風景です。
明治19年12月26日、トンネルの前で行われた「開道記念式典」の様子をスケッチし
翌々日の伊勢新聞に掲載されたものです。
式典の様子については、別の機会に御紹介することとして、
この明治のスケッチ画と現在の風景を比較していきます。

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伊賀側の「昭和のトンネル」です。伊賀側の「明治のトンネル」はこれの上方にありますが、
坑口がほとんど埋まってしまっていて、上のスケッチの情景を見ることは出来なくなっています。

「伊勢長野隧道ノ図」
伊勢側(津市美里町北長野)の坑口です。
坑口の両側に茶屋らしき建物があります。

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現在の「明治のトンネル」の坑口です。
左右の崖の形状は、当時とほとんど同じです。
が、茶屋らしき建物があった場所は、現在では確認できません。

「伊勢長野御舩明神ヨリ隧道ヲ望ム図」
長野峠の麓から隧道の方向をスケッチしたものです。
「御舩明神」とは、現在の平木口バス停付近にあったという「三船明神社」のことです。
前方の橋を渡って峠のほうに向かいます。その先の山の上に「三船の常夜灯」が建っています。
橋の手前から右上の方向に、平木集落に向かう道があります。

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現在の平木口バス停付近です。
当時の橋は、今よりも上流にあったようです。

「伊賀平松不動橋ヨリ隧道ヲ望ム図」
同じく、伊賀側の麓から隧道の方向をスケッチしたものです。
こちらのスケッチには、かなり手前からでも隧道の坑口が見えていた様子が描かれています。

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現在の「不動橋」の手前の風景です。
明治時代の「不動橋」は、この画像のもっと手前にあり、右へ川を渡っていました。
上のスケッチのように、猿蓑塚から隧道までほぼ真っ直ぐな道路だったようです。
これらのスケッチ画には「豊谷写」という署名があります。
写真の代わりにスケッチ画を新聞に載せていたこの時代、
この式典の取材には、記者が絵描きさんを連れて出向いたのでしょうか。
>関連の記述
三船の常夜灯
長野隧道(明治のトンネル)の扁額