(長野城址/津市美里町)
鎌倉時代から室町時代にかけて
津市北部を支配した国人領主・長野工藤氏、
室町時代においてはその軍事力を背景に
幕府の命令により、伊勢国内だけでなく
京都や奈良にも出兵しています。
今回は、
幕府将軍・足利義教の命令で
将軍に疎まれた土岐持頼という武将を
長野工藤氏が「味方のふりをして近づき、暗殺する」
という任務を受け、遂行した、というお話です。
土岐氏は、清和源氏の子孫で、
美濃源氏と呼ばれる美濃の名門です。
建武の騒乱では、土岐頼貞は一族の土岐頼遠と共に
足利尊氏の軍に加わり、室町幕府の成立に尽力します。
この戦功により、
土岐頼貞が初代美濃国守護に、
土岐頼遠が2代美濃国守護に任ぜられます。
頼遠が京で光厳上皇に狼藉を働いた事件により処刑されると、
美濃国守護職は、土岐氏嫡流(土岐世保家)の頼康に継がれますが、
(長野城に籠城した仁木義長を包囲した幕府軍の大将が頼康である)
頼康の養子康行が幕府に反乱を起こしたため、
守護職は頼康の末弟頼忠に移ります。
以後、美濃国守護職は、頼忠の子孫(西池田家)に継がれますが、
康行の子持頼は、伊勢国守護に任じられ、
再び幕府将軍との近い関係を築いていきます。
※少々前置きが長くなりましたが、もう少しお付き合いをお願いします。
伊勢国守護に任ぜられた土岐持頼は、
土岐世保家の威信を取り戻すべく、奮闘します。
その一例が、伊勢国司北畠満雅との戦いです。
1412年8月、北畠満雅が伊勢で挙兵したが、美濃国守護土岐持益がこれを鎮圧します。
1428年8月、北畠満雅が小倉宮を奉じてまたも挙兵、
土岐持頼率いる幕府軍は一度は鎮圧に失敗するも、
山名氏、一色氏と長野工藤氏の援軍により、北畠満雅は討ち取られ、
武功のあった土岐氏と長野工藤氏に北畠の所領が与えられました。
これが「岩田川の戦い」と呼ばれる合戦で、
津市のJR阿漕駅の北に、戦死した満雅を祀る御堂が建っています。
この事件を、北畠満雅の側からもっと掘り下げてみると面白いのですが、
前置きがさらに長くなるので、経過のみ記してあります。
ともあれ、この時点では、
土岐持頼は伊勢国の幕府軍のリーダーであり、
長野工藤氏はその配下の有力な武家、という関係でした。
また、将軍足利義教と持頼の関係も良好だったのです。
(土岐氏系図:丸数字は美濃国守護職の就任順)
「岩田川の戦い」から12年後の1440年、
将軍義教は持頼と一色義貫に大和の越智氏討伐を下命しました。
越智氏は奈良県の北西部(現在の高取町、明日香村)を本拠とする豪族で、
大和国の南朝側勢力を束ね、10年以上にわたる大和国の内乱の中心でした。
将軍義教は越智氏討伐を命じた裏で、
若狭国守護武田信栄と長野満藤に持頼らの暗殺を命じていました。
土岐氏、一色氏ともに勢力が拡大しており、
それを危惧したからだと言われます。
この事件だけでなく、
数々の武家が義教の命令で殺害されており、
「義教の恐怖政治」と呼ばれていました。
長野工藤氏の軍勢は、当主の満藤以下、
草生大和、中尾民部、雲林院ら一族から成り、
大和国三輪の土岐軍の本陣に向かって進軍、
現れた軍勢を見た土岐軍は、
「援軍だ、伊勢の長野の軍だ」
と喜んだことでしょう。
持頼も笑顔で出迎えるところであったのが、
長野の将兵は突然に刀を抜き、
騎馬隊が土岐本陣に向かって突入してきたのです。
長野工藤氏は伊勢国守護の配下の有力な武家でしたから、
軍勢が近付いてきても、長野の軍だと分かって安心し、
土岐軍はまさか自分に攻撃してくるとは思わなかったでしょう。
将軍義教は平気でこんなことを実行する人だったのですね。
この翌年、義教自身が暗殺されています。
長野工藤氏一族としばしば間違えられていた工藤高景とは
長野工藤三郎左衛門尉、騎馬で敵陣に突入する