美里町の探検日記GP

津市美里町(旧美里村)に住んでいるコレクターです。コレクション自慢(?)のほか、津のこと、美里のことも書いていきます。

patisserie Reve(パティスリーリーブ)/伊賀市上野東町

2022-04-27 21:15:36 | グルメ


伊賀市上野東町、
「上野の天神さん(菅原神社)」の横にある商店街に
2021年3月オープンしました、
洋菓子店「パティスリーリーブ」です。

伊賀出身のパティシエさんが、
大阪で修業した後に独立し、
故郷でお店をオープンしました。

パティスリーリーブ
伊賀市上野東町2934 天神横丁
広小路駅から164m
TEL 0595-26-2939
営業時間  11:00~19:00
定休日  水曜日、第2・3木曜日
駐車場 有り
オープン 2021年3月



「春」というタイトルの、ムースのケーキです。430円(税込)



こちらは「よつぼし」490円(税込)
タルト生地の上に、イチゴをトッピングしています。

オープン以来、何度かお店の前を通っていたのですが、
ケーキを購入したのは今回が初めてです。
冒頭にも書きましたが、
若いお兄さんが一人で経営されているお店です。

お店は伊賀の天神さんの目の前なので、
天神さんに来られた際に、お土産に購入されてはいかがでしょうか。

洋菓子・ケーキ・パン(三重)過去記事リスト

>2021.3.29.の記事


伊賀市上野東町、
「上野の天神さん(菅原神社)」の横にある商店街に
2021年3月オープンしました、
洋菓子店「パティスリーリーブ」です。

以前にご紹介した「カフェ・ヴィーダー」と
同じ並びのテナントです。

伊賀出身のパティシエさんが、
大阪で修業した後に独立し、
故郷でお店をオープンしました。
開店以来、大盛況で、
お昼過ぎには完売してしまうほどです。

撮影した日も、
午前11:00 開店
昼12:00   お店の前に数人の行列
午後1:00 ほぼ完売
という具合でした。
開店の時点で、私はお店の前にいたので
入って購入すれば良かったのですが、
ランチを食べている間に、車にケーキを入れておくのも嫌だったので、
食事の後で戻ってきたところ、
ショーケースにはほとんどケーキが残っていませんでした。
春休みでケーキの需要が高いのかもしれませんが、
大変な人気であることが、よくわかりました。

伊賀には「メルヴェイユ」さん、「パティスリー・サンタ」さん、
という人気のケーキ店がありますが、
上野市駅から歩いて行ける場所にお店ができて、
喜んでいる人が多いのでしょうね。

パティスリーリーブ
伊賀市上野東町2934 天神横丁
広小路駅から164m
TEL 0595-26-2939
営業時間  11:00~19:00
定休日  水曜日、第2・3木曜日
駐車場 有り
オープン 2021年3月

パティスリー・メルヴェイユ(merveille)/伊賀市平野城北町

Patisserie Santa(パティスリー サンタ)/伊賀市ゆめが丘 
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長野教高、石榑御厨の返還命令を無視する

2022-04-27 09:15:23 | 津のこと

(いなべ市大安町宇賀、国道306号付近)

「久我家文書(こがけもんじょ)」に登場する
長野工藤氏のエピソードを紹介します。

久我家の本拠は山城国(京都)でしたが、
日本各地に荘園を持っていました。
尾張国では真清田社(一宮市真清田神社)の社領を、
伊勢国では石榑御厨(いなべ市大安町)を
荘園として所有していました。

「久我家文書」によると
「永享6年(1434)、将軍足利義教が久我清通から真清田社と石榑御厨を没収して伊勢国人長野教高に与えた。義教の死後に将軍になった足利義政は、文安5年(1448)軍功により拝領という長野教高の主張を退けて、下地(土地)の久我家への引渡しを守護斯波義敏に命じた。康正元年(1455)にも再び教高の排除、ついで守護使不入を命じた。それでも久我家への返還は実現しなかったので、寛正5年(1464)、久我家は幕府に返還の実施を訴えた結果、将軍義政は真清田社と石榑御厨を久我通尚に返付し、久我家が代官を補任し、これまで代官であった工藤某には幕府から替地を与えることと決定した。応仁の乱の最中の文明3年(1471)5月、久我家はあらためて幕府から石榑荘(御厨)と真清田社の当知行安堵を受け、北伊勢の国人神戸秀国を代官職に補任し、年貢・公事・地子銭など合わせて毎年243貫余の納入を記した目録を注進させた。」
とあります。

少々長い引用でしたが、ここから読み取れるのは、
<長野工藤氏と室町幕府将軍の関係>
長野教高は、返還命令に従わなくても罰せられず、結局はゴネ得のような形で代替地をもらった。
<この時代の荘園領主と武家との土地争い>
幕府から地頭に任じられた武家は、土地の収税権を与えられたのを良いことに、まるで自分の所領であるかのように好き放題なことをするので、荘園領主は困っていた。
<抵抗も空しく、荘園は奪われた>
久我家はいろいろな策をめぐらして、荘園を奪われまいと抵抗した様子が記されている。が、抵抗も空しく、やがて真清田社も石榑御厨も武家に奪われてしまう。

ここに登場する長野教高は長野工藤家9代当主、
将軍義教から諱(いみな)の「教」を賜っていることから
幕府との関係は緊密なものだったと推測されます。
一方で、村上源氏の嫡流とされる久我家は、
将軍家と「源氏長者」の地位を争う関係だったので、
将軍が怒って領地を没収するようなことにもなったのでしょう。
なので、久我家が幕府にいくら訴えても、
そのような争いは当時はどこにでもあり、
将軍は公家よりも武家との関係を重視していたので、
土地の返還がなかなか実現しなかったようです。

エピソードの舞台となったいなべ市大安町石槫は、
鈴鹿山脈の東の平野部で、
冒頭の画像と同様に広大な農地が続く風景が見られます。
一度手に入れてしまうと、返したくなくなるような、
豊かな土地だったのでしょうね。

長野政高、京都で横死する

今峯城(美里町足坂)と外山城(美里町五百野)
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