(相国寺の南門)
1467年に勃発した「応仁の乱」は、
有力大名の細川氏(東軍)と山名氏(西軍)を軸に
諸大名や有力御家人を巻き込み、都を戦火で覆い尽くしました。
その戦乱の中で最も激しい戦いとされるのが「相国寺の戦い」です。
この戦いには、伊勢の長野工藤一族も出兵していました。
「応仁記」などの記述から、この戦いをご紹介します。
1467年9月13日、西軍は三宝院と浄花院を攻め落とし、
次の目標を相国寺に定めました。
相国寺は、室町時代に将軍足利義満が建立した禅寺で、
「京都五山」にも数えられる寺院です。
相国寺の西は内裏であり、ここを落とされると
内裏の東はすべて焼け野原になり、
敵(西軍)を防ぐ建物が何もありません。
東軍は、東は烏丸高倉の御所、
西は伊勢因幡守の宿所から三条殿を守備し、
寺の各門にも兵を配置して、西軍を寺に入れぬ覚悟です。
10月3日、畠山、大内、一色、土岐、六角らによる西軍が、
東から、烏丸、東洞院、高倉に向かって一斉に攻め上りました。
高倉の御所と烏丸殿を守っていた京極・武田勢は
これを見て「敵軍がすでに相国寺に攻め入った」と思い、
出雲路(北区出雲路付近)へ退却しました。
三条殿は伊勢の住人関民部少輔と備前の住人松田次郎左衛門尉が
500騎余で守っていましたが、一戦しただけで敗れ、
松田は討死し、関は敗れて退却しました。
松田はこの戦いの前に御所に参上し、将軍足利義政に
「戦いは今日で決着がつくでしょう。
これまでの御恩に報いるため、命をかけて戦ってきます」
と誓っていたとのこと。その言葉通りの最期でした。
相国寺の東門は、東軍の細川勝元の執事・安富民部元綱兄弟と、
伊勢の長野弥二郎、分部、雲林院以下3,000騎が守っていましたが、
相国寺のある僧が、敵(山名)に内通して寺に火を付け、
長野衆は、火がかかったのを見て全員が退却してしまいました。
東門に残ったのは、安富民部兄弟の500騎のみで、7度まで敵を撃退するも、
東門から新たな敵数万人が攻め込んだので、全員が討死してしまいました。
安富に代わって赤松が東門を守り抜き、
多くの犠牲を出しながらも、東軍は御所に敵を入るのを防いだので、
夕刻になって互いに疲れ果て、両軍ともに退却しました。
さて、この戦いに長野工藤氏と関氏が出兵しているのですが、
この背景には伊勢貞親という「大物」が働いていたようです。
将軍義政の側近として、財政、軍事、人事のすべての権力を
掌握していた有力者です。
前年に「文正の政変」という事件を起こし、
近江へ逃亡したとのことですが、
いつの間にか伊勢に来ていて、関氏に匿われていました。
「やがて京では大きな戦が起きるだろうから、
私と一緒に上洛して、ひと働きしてみぬか」
と言ったのか、長野工藤氏と関氏を連れて
京に戻ろうとしたようです。
「大乗院寺社雑事記」には、
1467年5月、彼らは上洛するような気配だったのが、
翌6月には、北畠氏の上洛が中止されたので、
彼らも上洛を中止した、とあります。
が、結局のところ10月にはどちらも京に来ていたので、
伊勢貞親に誘導されて上京、
貞親と敵対していた足利義視(義政の弟)が西軍であったので、
東軍に加わったようです。
この時、長野工藤一族を率いていたのは、
11代当主の弥二郎政高でした。
兄の10代当主政藤が早世したため、
弥二郎はわずか12歳で長野家当主となり、
応仁の乱の時点でも18歳の若き当主でした。
もう一度、相国寺東門の状況を振り返ってみましょう。
当初は3,000騎の兵力だったのに、
長野の兵が退却すると500騎に減っているので、
差引すると長野の兵力は2,500騎だったことになります。
そして、この軍勢を「長野弥二郎政高の兵」とは言わずに、
「長野衆」と呼んでいることが特徴です。
一応、一族を代表する本家の当主政高がいるものの、
長野工藤の軍勢は、本家、分家、与力らが
それぞれ率いている軍勢の集合体であった、ということです。
長野満藤、土岐持頼を暗殺する