(いなべ市大安町宇賀、国道306号付近)
「久我家文書(こがけもんじょ)」に登場する
長野工藤氏のエピソードを紹介します。
久我家の本拠は山城国(京都)でしたが、
日本各地に荘園を持っていました。
尾張国では真清田社(一宮市真清田神社)の社領を、
伊勢国では石榑御厨(いなべ市大安町)を
荘園として所有していました。
「久我家文書」によると
「永享6年(1434)、将軍足利義教が久我清通から真清田社と石榑御厨を没収して伊勢国人長野教高に与えた。義教の死後に将軍になった足利義政は、文安5年(1448)軍功により拝領という長野教高の主張を退けて、下地(土地)の久我家への引渡しを守護斯波義敏に命じた。康正元年(1455)にも再び教高の排除、ついで守護使不入を命じた。それでも久我家への返還は実現しなかったので、寛正5年(1464)、久我家は幕府に返還の実施を訴えた結果、将軍義政は真清田社と石榑御厨を久我通尚に返付し、久我家が代官を補任し、これまで代官であった工藤某には幕府から替地を与えることと決定した。応仁の乱の最中の文明3年(1471)5月、久我家はあらためて幕府から石榑荘(御厨)と真清田社の当知行安堵を受け、北伊勢の国人神戸秀国を代官職に補任し、年貢・公事・地子銭など合わせて毎年243貫余の納入を記した目録を注進させた。」
とあります。
少々長い引用でしたが、ここから読み取れるのは、
<長野工藤氏と室町幕府将軍の関係>
長野教高は、返還命令に従わなくても罰せられず、結局はゴネ得のような形で代替地をもらった。
<この時代の荘園領主と武家との土地争い>
幕府から地頭に任じられた武家は、土地の収税権を与えられたのを良いことに、まるで自分の所領であるかのように好き放題なことをするので、荘園領主は困っていた。
<抵抗も空しく、荘園は奪われた>
久我家はいろいろな策をめぐらして、荘園を奪われまいと抵抗した様子が記されている。が、抵抗も空しく、やがて真清田社も石榑御厨も武家に奪われてしまう。
ここに登場する長野教高は長野工藤家9代当主、
将軍義教から諱(いみな)の「教」を賜っていることから
幕府との関係は緊密なものだったと推測されます。
一方で、村上源氏の嫡流とされる久我家は、
将軍家と「源氏長者」の地位を争う関係だったので、
将軍が怒って領地を没収するようなことにもなったのでしょう。
なので、久我家が幕府にいくら訴えても、
そのような争いは当時はどこにでもあり、
将軍は公家よりも武家との関係を重視していたので、
土地の返還がなかなか実現しなかったようです。
エピソードの舞台となったいなべ市大安町石槫は、
鈴鹿山脈の東の平野部で、
冒頭の画像と同様に広大な農地が続く風景が見られます。
一度手に入れてしまうと、返したくなくなるような、
豊かな土地だったのでしょうね。
長野政高、京都で横死する
今峯城(美里町足坂)と外山城(美里町五百野)