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北原みのり おんなの話はありがたい 伊藤詩織さんの映画を巡る記者会見 「恩を仇で返してはいけない」という弁護士の言葉が印象に残った

2025年02月24日 | 事件

 AERAdot 2025/02/24

 伊藤詩織さん監督の映画「Black Box Diaries」を巡る議論が、3月2日の米国アカデミー賞授賞式前に、大きくなりつつある。きっかけは伊藤さんの元代理人弁護士らが、許諾や同意のない映像が使われていることを問題視したことだ。それに対し伊藤さんは「底知れぬ悪意を感じる」と強い言葉で非難し、両者は真っ向から対立していた。

 2月20日、伊藤さんの元代理人である弁護士らの記者会見が日本外国特派員協会(FCCJ)で行われた。同日に伊藤さんも会見する予定だったが、直前に「ドクターストップがかかった」という理由で会見自体がキャンセルになってしまった。それでも、事前申し込みしていた国内外の多くの記者たちで会場は埋め尽くされ、立ち見が出るほどだった。

 記者会見場には知人のジャーナリストが何人もいた。多くは性被害者としての伊藤さんの闘いを書くことによって支えてきた人たちである。「元気?」などと声をかけながら、私たちは互いに複雑な顔をしていたと思う。前代未聞の事態に直面して誰もが困惑をしており、慎重にならざるを得ず、思考を整理しきれていないのだ。

 それでも今回の記者会見で、私自身は新しい気づきや視点の整理ができた。特に、日英バイリンガルとして、「Black Box Diaries」を巡る英語/日本語の報道を分析してきたというライターの蓮実里菜氏の指摘は刺激的だった。

 蓮実氏が言うには、日本と英語圏では、映画を巡ってまったく違う「語り」があるというのである。

 昨年1月から「Black Box Diaries」は世界57の国と地域の映画祭などで上映され、伊藤さんは数多くのインタビューを受けてきた。そこで伊藤さんは、「日本で上映されない理由」について、「政治的にセンシティブなテーマであること」「日本は性暴力について語る文化がない」など、政治、文化、国民性の問題として語ってきた。たとえばアメリカのメディアに対して「日本では映画を観ていない人が、防犯カメラ使用をプライバシー侵害と言っていますが、私はホテルに約4000USD支払って映像を入手しました」などと語ってもいる。

 そのような語りは日本語で語られる「問題」と、ちぐはぐにずれている。ホテルの防犯カメラ映像を使ったことは、プライバシーの問題ではなく、許諾を取ってないことが問題であることが日本語では語られている。また、ホテルに支払った4000USDは映像の使用権ではなく、防犯カメラに映っている第三者にモザイクをかけるためにホテル側が要求した実費だ。何より「日本で公開されない」のは政治的な問題や国民性の問題というのは、事実なのだろうか。

 また伊藤さんは、防犯カメラの映像を手に入れたことを、様々な映画祭で純粋に称賛されている。入手が難しい動画を手に入れることは、ドキュメンタリー作品への評価の対象になるからだ。そのことに対し伊藤さんは日本では「許諾がない映像を使った」ことを認めているが、英語でのインタビューには「(動画取得は)難しかったがなんとかして手に入れた」と語ってきた。

 蓮実氏は英語と日本語でのインタビューや記事を紹介しつつ、「グローバルに流通している作品に対する監督の説明が言語によって違うのは問題ではないか」と話した。バイリンガルならではの貴重な指摘だろう。

 蓮見氏の話を聞き、今回、私が感じ続けているモヤモヤは、許諾がない映像が使われていることに加え、日本と海外の情報ギャップによる温度差、というものもあるのではないかと気がつかされる。いわゆる民主主義先進国とされる欧米から、「日本って男尊女卑だよね」「日本の民主主義ってヤバイよね」という、「既にある日本のダメなイメージ」が濫用されているような空気を感じるのだ。たとえば映画の配給権を持っているMTVドキュメンタリーフィルムズはXに「最も必要とされている日本で、上映禁止になっている」(2/14)と英語で投稿しているのだが、伊藤さんの映画が「上映禁止」された事実はない。でもこう英語で記すと、法的に禁止されているヤバイ国としての印象がどうしても際立つ。日本で上映できないことが、この映画の価値を高める効果もあるだろう。日本が男尊女卑な国で、性暴力問題に鈍感で、政治的な話題を忌避しがちで、どうしようもない国だ……というのはその通りだと思いつつモヤモヤするではないか。

 当初1時間を予定していた記者会見は2時間を超える長丁場になった。印象的だったのは、性暴力問題に長年関わり続けてきた角田由紀子弁護士の発言だ。角田弁護士は今回の伊藤さんの対応に倫理的な問題があると抗議したうえで、こう切り出した。

「私は80歳を超えた老人ですが、今でも子ども時代に聞かされた言葉を思い出さずにはいられません」

 ドキドキした。角田弁護士は日本の性被害事件の裁判を、女性の視点に立って塗り替えてきた偉大な方である。どんな言葉を語るのか……と思っていたのだが、角田弁護士はこう言ったのであった。

「恩を仇で返してはいけない」

 え! それ!? と驚きつつその言葉がストンと胸に落ちた。英語が飛び交うFCCJで臆せずに「恩を仇で返してはいけない」など、なかなか言えることではない。そしてそれは、「弁護士に感謝しろ」という意味ではなく、角田弁護士はシンプルに日本語話者のやり方で、倫理を問うたのだった。伊藤さんの闘いに寄り添ってきた西廣陽子弁護士との会話を無断で録音し、事実と違う印象を与える切り取りで作品に使用したことを「恩を仇で返した」と批判したのだ。

興味深かったのは、会場からは「【仇】は英語で何というのか」という質問があったことだ。本筋とは関係ない質問かもしれないが、実はこれが本筋なのではないかと思われるような「言葉の壁のある世界」に私たちは生きているのだと意識させられた。

 私たちは、日本語の中で生きている。日本語の中で傷ついている。日本語の中で怒っている。日本語の中で闘っている。それなのに「英語で発信しなければなかったことにされるかもしれない」というグローバリゼーションを生きている。今回の議論はその葛藤を私たちに意識させるものでもあったのだ。

 記者会見後、知り合いの男性ジャーナリストと話す機会があった。彼は伊藤さんに同情的で、「小学校の学級委員みたいな指摘だ。ジャーナリストが権力と闘わないでどうする」と憤っていた。なるほど、と思う。左翼的な男性たちにとって伊藤さんの事件は「当時、現職の総理大臣の『お友だち』が起こした性加害事件だが不起訴になった事件」であり続けているのだ。反権力という大義名分の前に、個人の同意や許諾などたいしたことないと考えられるらしい。でも……と思う。伊藤さんを身近で支え、共に涙し、裁判を勝利に導いたのは、西廣弁護士をはじめ、記者会見に青ざめた顔で集まった女性記者たち、思想信条と関係なく同意のない性交を許してはいけないと憤った「学級委員みたいな」女たちだったのだ。女性への暴力を許さない、不正義を許さないと、伊藤さんと共にあろうと誓った女たちだったのだ。そんな女たちの「恩を仇で返してはいけない」という「学級委員」みたいな倫理は、バカにされるような価値ではないと私は思う。

 記者会見が終わると、伊藤さんの声明が印刷されてFCCJの入り口に届いていた。そこには許諾や同意が「抜け落ちた」として謝罪が記され、作品を一部編集すると記されていた。記者会見のキャンセルは残念だったが、いつか伊藤さんの声で、日本語で語られる日を待ちたい。



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