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雨宮処凛 生きづらい女子たちへ 『スポーツ毒親』を読んで、「子を持つ」ことに前向きになれなかった理由が明確にわかった

2022年07月05日 | 生活

imidas連載コラム 2022/07/05

 

 現在47歳の私には子どもがいない。

「欲しいと思ったことはないの?」と聞かれたら、よくわからない。

 小さな頃は、漠然と「大人になったら結婚して子どもを産んで母親になるんだろうな」と思っていた。それが「誰にでも可能なことではない」と気づいたのはバブル崩壊直後の20歳頃だったと思う。

 世の中は就職氷河期と言われるようになり、結婚や出産の前に、そもそも「安定して働き、稼ぐ」ことが難しい世の中になっていた。周りを見渡せば男女ともにフリーターばかりで、気づけば私もフリーター。ニュースでは、同世代やちょっと年上のカップルが、子どもを虐待して逮捕される事件が時々報じられていた。そんな時に映し出されるアパートの外観はどれも当時私が住んでいたワンルーム物件に似通っていて、そんなものを見るたびに、「もし、今間違って妊娠なんてしてしまったら殺人犯になって逮捕されて人生アウトなんだろうな」と思っていた。

 40代となった今、改めて振り返ると、当時の私が妊娠・出産した場合、「虐待が起きる条件」は揃っていたように思う。

 経済的な困窮。妊娠が発覚した途端、逃げるに決まってる相手。逃げなくてもお金がないので経済的にはまったく頼れない相手。怒り狂って私を「恥」とみなす親や親戚。世間から浴びせられる冷たい目。

 もちろん、だからといって虐待が「仕方ない」わけではまったくないし、同じ条件でも必死で子育てを成し遂げた人もいるだろう。だけど、フリーター時代に染み付いた「妊娠=逮捕=人生終わり」という図式はその後も強烈に私に刷り込まれたままだった。

 そうして20代もなかばになる頃には、「出産」はより遠いものになっていた。まず、地方出身者が親に頼らず子育てをすることは「無理ゲー」にしか思えなかったし、25歳でフリーランスの物書きとなってからはそんな選択肢は消えた。一瞬でも仕事を休んでしまったら戻る場所はないという崖っぷち感で働き続け、今年で22年。気がつけば、タイムリミットは過ぎていた。フリーランスに限らず、「失われた30年」が始まった頃と出産可能年齢の始まりが重なった世代にはそんな女性が多いのではないだろうか。

 さて、それでは「経済的不安がなく、親の協力などが得られる状況」だったら産んだかと言えば、素直に頷く気持ちになれない。それは私自身の子ども時代があまりにも辛すぎたからだ。

 その最たるものはいじめで、もし、「自分の子ども」がそんな目に遭ったらどうすればいいのだろうと思うだけで動悸・息切れ・めまいに襲われる。

 私自身、中学時代のいじめで学校にまったく守ってもらえなかったという恨みがあるのだが、では今の状況が変わっているかといえば、答えはノー。いじめ自殺などの報道を見るたびに「変わっていない」ことを突きつけられる。それどころか、自己保身のための隠蔽など、当時よりひどくなっているのではと思う部分もある。

 もうひとつ、私を出産から遠ざけていたのは、子どもがいると「選べないコミュニティ」と関わらざるを得ないという理由だ。例えば、学校や地域社会。そしてママ友。

 そんなところに放り込まれた時、私には「絶対に自分はまたいじめられる」という確信に近いものがある。特にママ友。同調圧力が強く、競争原理も働き、その上逃げられないコミュニティで餌食になりやすい人というのは確実にいて、同じ条件が揃った学校でいじめを受けた私は、とにかくそういうものからはできるだけ遠ざかっていたいのだ。

 と、子どももいないのに「未知のママ友からのいじめ」に一人怯えているのだが、最近、衝撃の一冊と出会った。「自分が子どもを持ちたくない理由」が、的確に書かれている本。そうそう、学校って、子どもを取り囲む世界ってこういうふうだから出産とか考えられなかったんだ、という一冊。

 その本とは、島沢優子著『スポーツ毒親 暴力・性虐待になぜわが子を差し出すのか』(2022年、文藝春秋)

 本の帯にはこんな言葉が踊る。

〈「あの監督なら、全国大会に行ける」

部活やジュニアスポーツの現場で絶えることがない、指導者による暴力・性虐待事件。そこには子どもを護るどころか率先して追い込み、事実を隠蔽しようとする“毒親”たちが存在した――。〉

 私自身、中学のバレーボール部での部活でのいじめがもっともつらかったのだが、部活には親は一切関わっていない。よって「スポーツ毒親」に苦しんだわけではない。しかし、この本で書かれているような顧問教師の暴言暴力、「活を入れるのは当たり前」「試合に負けたら全員ビンタ」という無法地帯で中学時代を生き抜いた。今考えても、どれもすべて犯罪である。

 本書には、そんな中、「勝利」や「全国大会」に固執するあまり、子どものスポーツに熱狂し、指導者の体罰を容認して子どもを危険に晒す親たちが登場する。章タイトルをざっと紹介しただけでそのヤバさが伝わるはずだ。

〈子どもに土下座させる監督に服従し続けた親たち〉〈性虐待に鈍感な親たち〉〈少年野球当番問題~来られない親に嫌がらせをする母親たち〉などなど。

 舞台は学校の部活や地元のスポーツクラブだ。

 第1章で紹介されるのは、「ぶっ殺すぞ」「産み直してもらえ」などの暴言を吐き、子どもを骨折させ、投げ飛ばすなど容赦ない暴力を振るうバレーボールクラブの監督だ。怪我をすれば怒られ、発熱しても練習を休めない。コロナ禍で各都道府県の小学生バレーボール連盟から練習禁止の通達が出ても監督は「闇練習」を強行。そのために親たちは時に往復4時間かけての送迎にも駆り出される。挙げ句の果てには子どもたちに土下座を強要。チームの中には「適応障害」と診断された子もいれば、一時は4人の子どもが不登校になるなど心に深い傷を負っている。

 第2章に登場するのは大分県の町のバレーボールクラブ。ここでは小学校の教頭でもある監督が子どもに暴力を振るっていた。平手打ち、子どもの頭や頬を床に押し付ける等。暴力はコーチによって大分県小学生バレーボール連盟に通報されたのだが、誰が通報したかわからない親たちは、「犯人探し」を始める。保護者会には30人ほどのOGとその親が呼ばれ、「口止め誓約書」への署名、捺印が求められる。結局、監督の暴力はマスコミに報道され、永久追放。

 これには読んでいてほっと胸を撫で下ろしたが、本書には、子どもを自死に追い込んだ教師が「守られる」ような姿も描写されている。保護者らが「処分軽減」や「寛大な処分」を求めて嘆願書を作り、署名を集めるなどするのだ。一歩間違えたら、自分の子どもが自死に追い込まれていたかもしれないのだが、どういう心理なのだろう。

 さらに驚かされるのが、部員への性的暴行で訴えられた私立高校バスケ部の外部コーチ(当時58歳)に対して、無罪を訴える嘆願書の署名集めが親たちから始まったケースだ。

 遠征先のホテルで部員たちを交代で一人ずつ部屋に呼んだコーチは、強制わいせつ、性的暴行などの容疑で3回逮捕され、女子生徒11人の親によって告訴されたという。

〈「昼間は殴って、夜は一人ひとり(部員を)自分の部屋に呼んでやさしい言葉をかければ、部員はついてくるようになる」〉

 このコーチが語ったという言葉だ。地獄としか言いようがないが、さらに地獄と言いたくなるのが、被害に遭った生徒を、卒業生とその親が責めたということだ。自分たちが功績を残したバスケット部の名誉を傷つけられたこと、恩義を感じているコーチを告訴したことへの怒りからだというが、あまりにもつらい。

 が、残念ながら、スポーツの世界での性暴力やセクハラは多くの報道で見聞きするものでもある。

 11年には私立大学の男性コーチが女子柔道部の選手に対する準強姦容疑で逮捕。コーチは元五輪メダリストだったため注目された。それ以外にもいくつかの事件を思い出せるが、著者はそのことについてストックホルム症候群を引き合いに出して説明する。人質が銀行強盗に協力的な行動をとるというアレだ。加害者が怒りを爆発させている時、被害者はパニックになるが、「許してもらえる」瞬間はパニックから解放される。

 性暴力を振るう男性の中には、このようなやり方が常套手段になっている人が多くいる。私自身、キャバクラで働いていた時期このような客をよく見たし、世間でいう「パワハラ上司」の一定数がこの手の加害者だ。彼らがやっかいなのは、成功体験を積み重ね、確信犯的にそのやり方を続けているということだ。と、今の私ならそのように分析できて「怒鳴ったり激怒して相手をビビらせ萎縮させ、急に優しくしたらコントロールできて好き放題できると思ってるカス野郎」と冷静に観察できる。が、子どもにはそんなことはわからない。

 中学生時代の私は、大人でも震え上がるほどの絶叫で暴言を浴びせる顧問教師が怖くて怖くて仕方なかった。もしあの時、急に優しくされていたら。普段、全人格を否定されていた分、「認められた」「許された」気がして、嬉し涙さえ流してすがりついていたかもしれない。そしてそれが「恋愛」だなどと大いなる勘違いをしていたかもしれない。

 そんなことを思うと、学校とは、部活とは、そして圧倒的な力を持つ男性がそのコミュニティから崇拝されている集団とは、実に危険なものである。

 読み進めながら、なぜ自分が部活内でいじめに遭ったかもよくわかった。下手だからいじめられたという自覚は当時からあったのだが、明らかに「いじめてOK」というメッセージが大人たちから出ていたのだ。

 例えば最初に紹介したバレーのクラブ内では、「できない子」が「できる子」に土下座させられていたという。もちろん監督の指示。大人主導で「いじめの土下座」が蔓延していたのだ。

 また、同チームでは、監督が一人の子どもを責めると、全員の親がその子を否定し、責める空気になっていたという。親まで巻き込むなんて、子どもにとっては逃げ場がない。

 さて、それではなぜ親たちは疑問を持たずに巻き込まれていたのか。そこにあるのは「勝利」「全国大会」などの魔力だと著者は書く。

 自分の子どもが大会で活躍できるという自慢。誇り。特に自己肯定感の低い親ほど子どもがスポーツで秀でると過度に期待し、「自分が行けなかった全国大会へ」と身代わりヒーローを求める傾向があるという。

 ふたつめはさきほど紹介したストックホルム症候群にみられるようなトラウマ性結びつき。

 さらにもうひとつ、「生存者バイアス」も説明されている。親たちも厳しい部活やそこでの体罰に耐えてきた。そのことを「あの時頑張れたから今の自分がある」と正当化してしまう。が、中には私のように、トラウマから今もスポーツ全般が大の苦手だという人もいる。人間不信が植えつけられた人もいれば、それによってひきこもりになった人もいる。また、実際に指導死やいじめで多くの自殺者が出てもいる。

 しかし、死ななかった側は「あの指導こそがあったから」と思ってしまう。そして子どもにも厳しい環境を強いてしまうのだ。

 本書には、指導者のヤバい言葉が登場する。

〈「大丈夫ですよ。4年生になるまで殴りませんから」〉

〈「最後のとどめは刺さないから大丈夫だよ」〉

 後者などまるで殺し屋のセリフではないか。それが子どもを指導する人たちが口にする。

 13年、スポーツと教育現場における暴力行為根絶宣言が出された。しかし、それから9年経っても、暴力は根絶されたとは言い難い。

そうして最近、あることを知った。

「行きすぎた勝利至上主義」が散見されるという理由から、今年度、柔道の小学生の全国大会のひとつが廃止になったのだという。指導者や保護者が過熱し、子どもを追い詰めてしまうことが問題視されたからだという(朝日新聞「(フォーラム)小学生のスポーツ全国大会」、20年5月22日)。

 教育評論家・武田さち子さんの調査によると、未遂も含む指導死は、平成以降94件も起きているのだという(琉球新報「社説 男子高校生の自殺 再発防止へ具体策明示を」、21年2月16日)。

 そうして2020年の子どもの自殺は過去最多の499人。もしかしたら、その中には表に出ていないだけで「行き過ぎた」指導が原因のひとつという死があったかもしれない。

 子どもが子どもらしく、楽しんでスポーツができる世界。そして嫌なら、スポーツをしなくていい世界。

 そういうのが、みんな安心できる世界だと、改めて思うのだ。


 理不尽なことが多い社会である。政治も選挙も理不尽がいっぱいだ。
そして、こんな記事を目にした。(「しんぶん赤旗」より)

ナチスに学んだ人だ。

園内のようす

タマサキクサフジ

ニワフジ

エンビセンノウ

ブルーベリー

アロニア