imidas連載コラム2022/08/02
突然、変なことを尋ねるが、親から「人を殺すこと」を命じられたらどうするだろうか。
無差別に殺すわけではない。自分たちの住む村や集落が繁栄するための儀式として、「犠牲祭」をしなければならないというのだ。集落の長の家に生まれた者として、それは絶対に避けられないミッションだという。儀式をしなければ村には災いが訪れ、多くの村人が命を落とすかもしれない。代々伝統を守って儀式を続けることで村は存続し、繁栄を続けてきたのだと親は言う。が、その儀式であなたが命を奪わねばならないのは、生まれたばかりの赤ん坊。果たして、あなたはなんの罪もない赤ちゃんに手をかけることができるだろうか?
突然そんなことを書いたのは、10代でこのような事態に直面し、日本に逃れてきた女性と出会ったからだ。その人は、Aさん(35歳)。アフリカの某国で、集落の長の一人っ子として生まれた。
15歳くらいまでは、なんの問題もなく過ごしていたという。しかし、彼女の人生が変わったのは、「村を祝福するための犠牲祭」について父から聞かされた日。
15〜17歳の間に、祭壇に赤ん坊の命を捧げなければならないというのだ。それが「王女」となるAさんの役割であると父は強調した。儀式をしなければ、村の作物は育たず、多くの災いが続くことになる。そのための犠牲祭を担うことが、代々続いてきた村の伝統なのだと。ちなみに「犠牲」となるのは、村の誰かが身ごもったものの育てられないなどの事情がある赤ん坊らしい。
それを聞いたAさんは、大きな衝撃を受けたという。なぜなら、父は伝統主義者だったものの、母は違ったからだ。幼い頃から母はAさんを、自立した女性になるように教育し、また教会にも連れていってくれた。教会で「人を殺してはいけない」という教えを受けていたAさんにとって、命を奪う儀式はありえないものだった。
「絶対にできないと、父に伝えました」
しかし、もちろん「そうですか」で済むはずがない。
儀式を迫ったのは父だけではなかった。犠牲祭を渋るAさんに、村人たちが「儀式をしないなら殺す」と言うようになるまで、そう時間はかからなかった。
助け舟を出してくれたのは母親。村から街に連れ出してくれたのだ。この時点でAさんは16〜17歳。街の高校を出たあとは、日本で言えば「東大」レベルの大学に進学。専攻は生化学。進学とともに首都に移り、大学生活が始まった。
しかし、村人は儀式から逃げた彼女を許さなかった。
Aさんが村を出たあと、作物の不作が続き、また何人かが亡くなった。村人たちはそれを「Aが儀式をしなかったせい」と決めつけ、彼女が住む首都まで来て探し回ったという。
「怖かったです。私の国では、そのことを警察に言っても、伝統的な儀式に警察が介入してくれることは絶対にありません」
娘の命の危険を感じた母親は、Aさんをタイに逃がした。3年生だった大学はやむなく退学。24歳で単身、タイに渡った。
「タイに行けば、難民申請できると思いました。でも、できなかったんです」
理由は、タイは難民条約に批准していないから。そもそも難民申請自体ができないのだという。
タイには3〜4年ほどいた。英語教師の職を得たことで自立して生活することができた。が、タイにいる間に母親が死亡。死因は今もわからない。家族が父だけになったこともあり、村人たちの怒りが沈静化しているなら故郷に帰りたいという思いが芽生えた。
しかし、久々に父に連絡すると、村人の怒りは収まっておらず、今も村に連れ戻して儀式をさせようとしていることが判明。村で死者が相次いだこともあり、父までもが村人に「Aを連れ戻せないならお前を殺す」と言われるようになっていた。
同時期、故郷の人間だという知らない人からAさんに電話が来るようになる。内容は「戻って来ないと父を殺す、家も焼き払う」というもの。脅してくる人間は、Aさんがタイにいることを知っていた。
このままでは、タイに来られて連れ戻されてしまう。
「怖くて怖くて仕方なかった」という彼女は、「タイから一番近くて、かつ難民申請ができる国」をネットで探した。それが日本だったというわけだ。
そうして2015年、たった一人、知り合いが一人もいない日本へ。
来た当初は、「これで安心」と思ったという。難民申請もできるし、治安もいい国。
また、難民申請したAさんには6カ月の在留資格が与えられ、それを更新しながら仕事もできるようになった。始めたのは、老人ホームでの介護の仕事。それによって健康保険に入ることもできた。日本での暮らしも介護の仕事も何もかも初めてづくしだったが頑張った。
しかし、日本に来た頃から、父と連絡がとれなくなる。いとこに連絡して知らされたのは、父の死だった。何者かに殺害され、畑に埋められたという。家も焼き払われていた。
不運は続き、来日から5年後の20年、難民申請は却下されてしまう。「出身国に帰れ」ということだが、この数年前、Aさんの出身国では内戦が始まっていた。あれほどAさんが儀式をすることにこだわった村は集落そのものが焼き払われ、村人たちも大勢死んだ。いとこの一人は射殺された。戦争の混乱の中、誘拐や強盗などが相次ぎ、国外に逃れる人が相次いだ。19年には2万人以上が世界各地で難民認定されている。今も毎日人が殺されている状態だ。その悲劇は欧米では報じられているものの、日本ではまったくと言っていいほど知られていない。
そんな場所に「帰れ」とばかりに日本政府は彼女の申請を却下したのだ。
却下されたあと、彼女は再び難民申請。しかし、一度申請が却下され「仮放免」という立場になってしまったので、今に至るまで働くことができない。
ちなみに仮放免とは、入管施設への収容を一時的に解かれているという状態だ。難民申請中は6カ月の在留資格があったのでそれを更新しながら仕事ができたが、却下されて「仮放免」となると働くことが禁じられる。それなのに、原則、日本の公的福祉の対象にはならない。働いちゃいけないのに、福祉の対象外。また、健康保険にも入れないので病院に行けば全額自己負担になってしまう。移動も制限される。例えば東京都内に住む彼女は、隣の埼玉県に行くにしてもわざわざ許可をとらなければならない。外出時、許可証を持たずに警察に職質されたりしたら、そのまま入管施設に収容されてしまう。スリランカ人のウィシュマ・サンダマリさんが命を落とした、あの施設だ。
このように、仮放免とは生活に著しい制限が生まれてしまうのだ。
が、なんといっても厳しいのは、「働けないからお金がない」ことと仮放免者は口を揃える。仮放免の人々の厳しい生活状況については、北関東医療相談会の調査結果に詳しい。7割が年収ゼロ円、経済的問題により医療機関を受診できない人が84%、借金ありが66%と厳しい数字が続く。
私もコロナ禍の困窮者支援の現場で仮放免の人の相談を受けたことがあるが、ひどい虫歯で激痛なのに保険証もお金もないから歯医者に行けない、さまざまなことを相談したくても日本語がわからないのでどうしたらいいかわからないなどの声を耳にしてきた。それでも、コロナ以前は同じ出身国の人々のコミュニティがあり、働ける人が働けない人を支える仕組みができていたという。が、コロナ禍で、働ける人の仕事もなくなった。この2年強で、実際に路上生活となった外国人もいる。その多くが仮放免者だ。
さて、そんな仮放免という制度はAさんの人生にも暗い影を落としている。
「介護の仕事をしてるときは、家賃も払って自分で生活していました。税金も払っていました。そのあと、仕事をしちゃいけないことになって生活に困った時、何かサポートがあると思って役所に行きました。そうしたら、『在留資格がなければ何もできません』と言われました。在留資格がなくなった途端に何もできない、助けられないと言われたことに、本当に驚きました」
そんなAさんが今どうやって暮らしているかと言えば、支援団体の助けによってである。コロナ禍でたまたま訪れた「大人食堂」がきっかけだった。ここで支援者と出会い、住まいや食料の提供などを受けられるようになったのだ。
が、感謝しつつもそんな日々は彼女を蝕んでもいる。
「一番辛いのは、私は健康でなんでも自分のことはできるのに、人に『ください』ってお願いして、誰かが何かをしてくれるのを待たなきゃならないことです。このことは、自分の心を深いところで傷つけています。母からずっと、自立して生きていけるように教育を受けてきて、自立して生活してきたのに、人に助けてもらわないといけないのが辛い。支援団体の人には本当に感謝していますが、仮放免の生活は、尊厳を傷つけられているような気持ちになります」
現在2度目の難民申請中だが、申請から2年以上経っているというのに、まだ「聞き取り」のためのインタビューさえ行われていない状態だ。入管に「もう2年もインタビューを待っているけどいつですか」と聞いても「待ってろ」の一点張り。
「待ってろと言うなら、その間、働けるようにしてくれればいいのに」とAさんは声に力を込める。本当にその通りだ。しかもAさんは東大レベルの大学で生化学を学んでいた人である。その知識を活かしてできることは山ほどあるのではないだろうか。そんな稀有な人材が日本にいながら何もできないままなんて、単純にもったいなさすぎると思うのだ。そして日本で難民申請をしている人の中には、驚くほど高学歴だったり多彩な技術を持つ人がいる。このような才能の「宝庫」を、なぜみすみす放置しているのか。
ちなみに諸外国の場合、難民申請中、働くことができる上、就労が認められない期間は生活が保障される。生きるためにはさまざまなものが必要なのだから当たり前のことだ。なぜ、他の国でできて日本ではできないのか。
さて、これが昨今注目を集めている入管や難民申請を巡る状況だ。
日本の難民認定率は0.5%と世界的に見ても最低水準。一方で、ドイツは42%、カナダ55%だ(2020年)。
ウィシュマさんの事件以降、注目が集まっている入管問題だが、この国ではいまだ難民問題などに理解が得られているとは言い難い。が、Aさんのように、それぞれがのっぴきならない事情を抱えて日本に逃げてきたのである。自分の命を守るために。
日本に来て、これほど苦労されると思いましたか? 取材終盤にそう問うと、Aさんは苦笑いしながら言った。
「難民認定されないなんてまったく思ってなかったです。来て初めて、(難民認定率が低いことを)知りました」
Aさんにとって、日本は「絶対安全な国。とにかく、日本に行けば安全だと考えていました」とのこと。認定されず働くこともできず、福祉の対象にもならずこれほど宙ぶらりんな状態が長く続くなんて、まったくの想定外だったのだ。
もし、自分がAさんの立場だったら。取材にあたり、何度も考えた。私だって赤ん坊を殺す儀式なんて嫌だ。だけどそれを拒否したことで起きることを考えたら……。
あなたはどうだろう。おそらく、こうして「自分ごと」として考えるところから始まるのだと思う。
さて、最後にAさんに、日本政府に望むことを聞いてみた。
「難民認定をもっと柔軟にしてほしい」
まずそう言ってから、続けた。
「仮放免で生きることは大変すぎます。自分はたまたま支援団体のサポートを受けられたけれど、それがなかったら不法とわかっていても働くしかない。だけど働いたら入管に収容されて、強制送還になる可能性もある。日本は人手不足って言うなら、とにかく働かせてほしい。そうすれば税金も払えるから政府にも得になるはずです。明日からでも介護の仕事をしたい。2年間、何もできないで、人生を浪費していると思います」
彼女が来日して、もう7年。人を殺すことを拒否し、命を狙われた彼女は、いつになったら「普通に」生きていくことができるのだろう?
取材協力 : 移住者と連帯する全国ネットワーク 稲葉奈々子さん
ここにも「カルト」の力を感じるのだが・・・・
園のようす。
昨日から70mmほどの雨になった。この暑さで土も乾いていたので恵みの雨となった。
スイレン
山ブドウ