AERA dot. 7/30(火)
古賀茂明
7月16日配信の本コラムでお伝えしたとおり、筆者は6月下旬からアメリカのジャージーシティという街に来ている。ニューヨーク州の隣のニュージャージー州の中にある。ニューヨーク市のマンハッタンからハドソン川の対岸を望むとよく見える街だ。
ニュージャージーというとあまり良いイメージはない。統計で見ると、それほど治安が悪いわけではなさそうだが、私が滞在している5週間の印象では、殺傷事件や火事などが多発しているという感じだ。警察官が襲われる事件も起きた。
そもそも、アメリカという国は、暴力の国だから仕方ないのかもしれない。先進国でありながら、銃の犯罪が日常茶飯事という国はほかにない。
そこには、「暴力は悪」だという前提がないように見える。暴力には「良い暴力」と「悪い暴力」があるという考え方の方が強いのではないか。正義のために悪と戦うのであれば暴力は正義となる。自衛のためであればもちろん、文句なく正義の暴力だ。
そして戦うためには銃が必要だ。
2023 年の銃による全米の死者数は、約1400人のティーンエージャーと300人近い子どもを含む約4万3千人。驚くべき数字だが、それでも銃の規制強化は遅々として進まない。ちなみに、日本では、23年の銃の発砲件数は9件で死者数は7人。比較にならない。
アメリカが世界中で常に戦争を起こし、あるいは関与し続けているのも、「正しい暴力」により正義を実現することが必要だという建前による。
すべての戦争は、「自衛のための戦争」だと宣伝されるが、「自衛」の概念があまりにも拡大されていて、とても額面通りには受け取れない。実態は、アメリカの利益のための戦争という面が強く、仮にそれを否定したとしても、「『アメリカにとっての』正義」のための戦争、アメリカの価値観、いや利益のための戦争としての意味の方が大きいように見える。
■筆者が見た大統領選の「強さ」
筆者がジャージーシティに滞在して5週間になるが、その間に様々なイベントや事件が起きた。
6月27日にあったバイデンvs.トランプの公開討論でバイデン大統領の高齢不安が極度に高まり大統領選からの撤退を求める声が民主党内外で急速に強まった。
7月4日の独立記念日には、コロナ禍の中では見られなかった盛大なお祭りが全国で繰り広げられ、ニューヨークでも大きな花火を見ることができた。独立記念日がこれほど大きな意味を持つのかということをあらためて再認識した日だった。
7月9日からNATO首脳会議が開かれ、11日にはその関連会合でバイデン大統領が、ウクライナのゼレンスキー大統領をプーチン大統領と言い間違えたり、記者会見では、ハリス副大統領をトランプ副大統領と言い間違えたりして、さらに傷を深めた。
さらに、7月13日にはトランプ前大統領暗殺未遂事件が起きた。
そして、バイデン大統領が大統領選から撤退し、ハリス副大統領を民主党の大統領候補に推すことを表明。正式決定は8月19日からの民主党全国大会になるが、事実上ハリス氏の大統領候補指名獲得は決まったようだ。
これら一連のイベントや事件を見て感じたのは、大統領になる資格として、「強さ」が非常に重要だということだ。
バイデン大統領は、高齢であることが、「弱さ」を示すものとして致命的な欠点になってしまった。
一方のトランプ氏も高齢ではあるが、暗殺未遂事件の際の対応(壇上で倒れた床から立ち上がって車に移動する前に、警護官を静止して拳を突き上げ、「ファイト!」と3回叫び、車に乗る前にも同様の行動をとった)により、「強さ」を印象づけた。
ハリス氏が大統領候補としてトランプ氏と互角以上に戦えるのではという見方もでているが、実は、あらゆるニュースに共通するのは、女性差別の壁が、なお大きな障害になるのではないかという留保をつけている点だ。
■国歌からも見える流血も美化された「美しい戦い」
女性だから支持率が上がるという要素の方が強そうだが、それでもなお、「女性」であることが最後の最後に有権者の投票を遠ざける可能性があるということを付け加えざるを得ないのも、やはり、大統領は「強く」なくてはいけない、「女は戦争に向いていない」という意識が背景にあるからのように思える。
アメリカで様々なイベントに参加したり、その模様をテレビで見たりすると、必ず聴く歌がある。アメリカ国歌だ。筆者の5週間の米滞在の間にも何回それを耳にしたか数えられないくらいだ。
おそらく世界で一番有名な国歌だろう。民衆が主役に見えるイベントでも、国歌は必ずその節目で主役に取って代わる。アメリカは分断されていると言われるが、この国歌の前ではその分断も覆い隠され、民衆は団結するように見える。
その1番と4番の和訳を引用しよう。
1番
おお、見えるだろうか、
夜明けの薄明かりの中
我々は誇り高く声高に叫ぶ
危難の中、城壁の上に
雄々しく翻(ひるがえ)る
太き縞に輝く星々を我々は目にした
砲弾が赤く光を放ち宙で炸裂する中
我等の旗は夜通し翻っていた
ああ、星条旗はまだたなびいているか?
自由の地 勇者の故郷の上に!
4番
愛する者を戦争の荒廃から
絶えず守り続ける国民であれ
天に救われた土地が
勝利と平和で祝福されんことを願わん
国家を創造し守り賜(たも)うた力を讃えよ
肝に銘せよ 我々の大義とモットーは
「我等の信頼は神の中に有る」ということを
勝利の歓喜の中、星条旗は翻る
自由の地 勇者の故郷の上に!
(アメリカ国歌「星条旗」和訳「世界の民謡・童謡」ウェブサイトサイトから原文のまま引用)
明らかに軍歌だ。この歌が流れると、民衆が主役だったイベントも国家が主役の「国威発揚のための軍国主義の式典」に転換する。
ただし、アメリカの独立のための戦争ではなく、アメリカ市民の自由と人権(自然権)を求めた独立革命という意義を持つ。フランス革命と似ている。
だからこそ、流血が美化されたのだろう。戦いの中には、「美しい戦い」があるのだ。
しかし、一度暴力を肯定するとそこに課されたはずの「正義のため」という制約は簡単に無視されるようになり、それが常態化する。
■アメリカで見た権利実現のための「美しい戦い」
今日のアメリカの戦争を見ていると、人民のための戦争とは程遠く、ベトナム、イラク、アフガンなどで国家のための戦争を行い、そこに暮らす人々の生命と人権を蹂躙してきた。
そうした失敗を繰り返したのはアメリカだけではなく、フランスやイギリスも同じだ。そして、ガザの戦争では、西側諸国はさらに過ちを繰り返している。
「美しい戦争」という概念は、戦争を否定する日本国憲法の前文や憲法9条の平和主義の精神とは全く正反対の考え方だ。
一方で、日本の国歌「君が代」が、主君の繁栄を祈る内容であるのはまた、逆の意味で米仏の国歌とは正反対だ。日本国憲法の国民主権や基本的人権の考え方にもそぐわない。
日本人が有する憲法と国歌。
戦いを否定する一方で、主君の繁栄を祈る日本人は、自分たちの権利のために命懸けで戦ったことがない。
アメリカ国民から見れば、血を流して権利を勝ち取る勇気がない国民は見下すべき存在なのかもしれない。
そういう日本の国民には、「与えられた範囲内での慎ましい幸福を与えてもらうことをお願いする権利」しかないということになるのだろう。
政治的な意見を表明せず、決められたルールに従順に従う限りにおいて認められる「人権」。それは名ばかりのものだ。
これだけ一般市民が虐げられ生活苦に陥っても立ち上がらず、選挙でも権力者を支持し続ける日本人。多少の不平不満は表明しつつも、結局は現状を維持することに汲々とする。
アメリカに来て、「美しい戦い」のために「銃を持つ権利」を神聖化し、そのために多くの罪のない人々が大量に殺されるという「野蛮国」とは、とても価値観を共有することはできないという思いを強くするのだが、一方で、彼らから学ぶべき点があるのも確かだ。
それは、「戦う」こと。だが、私たちは、決して銃をとって戦うという道を選ぶべきではない。憲法で認められた正当な権利として、自由に意見を述べ、団結して行動し、投票によって自らの権利を実現していく努力を続けるべきである。それこそが「美しい戦い」である。
自民党政府が、アメリカ政府と「価値観を共有」して、憲法が否定する「戦争による紛争解決」への道、いわば「美しい戦争」の道を歩もうとしているが、私たち国民は、その道を否定しつつも、真の「美しい戦い」を諦めない。そんな道を歩むべきだと思う。
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