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香山リカ×森岡正博「反出生主義」対談(前編)

2021年01月29日 | 社会・経済

~私たちは「生まれてこないほうがよかった」のだろうか?

香山リカ(精神科医・立教大学現代心理学部教授)

森岡正博(早稲田大学人間科学部教授)

(構成・文/仲藤里美)

Imidasオピニオン2021/01/28


「自分なんて生まれてこなければよかった」……一度は考えたことがある人は多いのではないでしょうか。長く続くコロナ禍において、これまで推奨されてきた「出勤して働くこと」「人と交流すること」などがどんどん制限されていくなか、精神科医の香山リカさんは臨床の現場で「生まれてきた意味」を問われたり、「死んでしまいたい」気持ちを語られたりすることが増えてきたといいます。
 近年話題の「反出生主義」と、何か関係があるのでは? これを深掘りすることで、何か見えてくるものがあるのでは? 反出生主義を扱った書籍『生まれてこないほうが良かったのか?』の著者である哲学者・森岡正博さんと、「生と死」について、「自分と他者」について、「私」について、とことん語り合います。

反出生主義とは何か

森岡正博(以下「森岡」) ここ1~2年、「反出生主義」というものがメディアなどでも取り上げられたりと、注目を集めています。では、その反出生主義とはいったい何かというところから話を始めたいと思います。
 反出生主義の定義は世界的にもまだ定まっていないのですが、私の考えでは、大きく分けて二つの視点があります。一つは「私は生まれてこなければよかった」。そしてもう一つが「我々は子どもを産まないほうがいい」、あるいは「産むべきではない」ということ。つまり、「生まれてきたこと」の否定と「産むこと」の否定、この二つが合わさって反出生主義と呼ばれる考え方が成り立っているといえます。前者は古代ギリシアからあったもので、後者は最近現れました。
 そして、どちらの主張も、出生の否定、すなわち「そもそも人が生まれてくること自体が良くないことである」という考えに基づくものです。2006年に出版されて話題になった反出生主義の書、『生まれてこないほうが良かった』(邦訳はすずさわ書店、2017年)の著者である哲学者のデイヴィッド・ベネターは、どんな人にとっても、この世に生まれてくることは生まれてこないことよりも必ず悪い、と言っています。
 なぜか。ある人が生まれてきてこの世に存在する場合には、必ず何らかの苦痛と快楽が存在します。逆に、その人が生まれてきていない場合には、その人自体が存在しないのだから、苦痛も快楽も存在し得ない。その二つの状況を比較したときに、前者のほうが「悪い」というのがベネターの主張です。「苦痛が存在する」ことは確実に悪いことだけれど、「快楽が存在しない」というのは、悪いこととまでは言い切れない。その「快苦の非対称性」ゆえに、生まれてきて「苦痛も快楽も存在する」よりも、そもそも生まれてこずに「苦痛も快楽も存在しない」ほうが絶対に善いんだ、というわけです。

 

森岡正博著『生まれてこないほうが良かったのか?』(筑摩選書、2020年)


香山リカ(以下「香山」) その反出生主義が、なぜ今多くの人の関心を呼んでいるのでしょうか。
森岡 一つは、反出生主義という考え方が「母親が子どもを産む」という、これまで絶対に否定してはいけないと思われてきた部分に切り込んでいることに、非常に大きなインパクトがあったからではないかと思います。
 出産について私たちが触れる言説というのは、結局のところは「素晴らしいことだ」というものばかりです。「子どもができて初めて生きる意味を知った」とか「自分より大事な存在ができた」とか、さまざまな形で出産というものが肯定されていく。ある種のアンタッチャブルな、聖域ともいうべき状況になっているんですね。いいか悪いかは別にして、反出生主義がそこへ切り込んでいっていることが大きな衝撃を与えるのだと思います。
 たとえば、原爆詩人・栗原貞子さん(1913~2005年)の「生ましめんかな」(1946年)という詩があります。広島の被爆者であるご本人の体験をもとに書かれた詩で、原爆が落ちた後、大けがをした人たちが大勢、真っ暗なビルの地下室にうごめいている。その中で一人の妊婦が「赤ん坊が生れる」と声をあげた……という内容です。
 そうしたら、「私が産婆です。私が生ませましょう」と言った人があった。この人もまた、さっきまでうめいていた重傷者だった。そして〈かくてくらがりの地獄の底で/新しい生命は生まれた。/かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。/生ましめんかな/生ましめんかな/己が命捨つとも〉といって詩は終わります。
 産婆が自らの命と引き替えにして赤ちゃんを世に送り出した。非常に感動的な詩で、私自身もとても感動します。この感動を否定できる人は、特に日本人にはほとんどいないと思うのですが、その場面で「この赤ん坊は生まれてこないほうがよかった」という主張をするのが反出生主義なわけです。
 現代において、私たちは「産むこと、生まれることは素晴らしい」と聖域化して、そこに土足で上がり込むことを避けてきたきらいがある。そのことが、反出生主義という光が当たることで改めて浮き彫りになった面はあると思います。
香山 「聖域化」という点では、いわゆるリプロダクティブ・ヘルス&ライツ(性と生殖に関する健康と権利)の観点に立って、フェミニズムの視点から「産まないという生き方もある」と主張する声もありますね。「母親になることは何よりも素晴らしい」という風潮へのアンチテーゼとして「産まない」という選択をするという……。それと反出生主義との関連はどう考えればよいのでしょう。
森岡 女性が子どもを産むということを、長い間男性中心の体制が管理してきた。そのなかでの「出産強制主義」への抵抗として、「産まない」という選択を認めようというのは、フェミニズムやウーマンリブの出発点にあるものですね。確かに、それも広い意味での反出生主義ということになるのかもしれません。ただ、今注目されているコアな意味での反出生主義、ベネターなどが主張する内容とはかなりずれているような気がします。
 というのは、どんな子どもであれ生まれないほうがいいという反出生主義の主張は、「産む・産まないは女が決める」というフェミニズムの主張と対立するからです。反出生主義では、女性の「産まない自由」は認めても、「産む自由」は認めないので、そこで折り合うことができないのだと思います。基本的には、反出生主義とフェミニズムには関連性はあまりなくて、むしろ対立する面が強いと考えるべきではないでしょうか。

「誰が産めと頼んだ」という怒りの意味

香山 さて少し前に、「反出生主義の作品ではないか」としてネット上で話題になったアニメ映画があります。『ミュウツーの逆襲 EVOLUTION』(2019年公開。1998年『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』のリメイク作品)。遺伝子操作で人工的に作られたポケモン「ミュウツー」が、自身の存在意義に悩み、「誰が産めと頼んだ」と、自分をこの世に送り出したものへの恨みを口にする。そこが反出生主義と重なると言われたわけですが、森岡さんはこの作品はご覧になりましたか。
森岡 見ました。ただ、これもやはり反出生主義とは少し違うのではないかというのが感想です。
 なぜなら「誰が産めと頼んだ」という言葉自体は、自分が生まれてこないほうがよかったとは思わない人でも口にすることがあるだろう、と思うからです。自分が今ここにいること自体は否定しないけれど、産んでくれと頼んだわけではないのに勝手に存在を与えられたことへの疑問や不満を抱くということは、十分あり得るのではないでしょうか。「誰が産めと頼んだ」というのは、反出生主義的な怒りというよりは、別の怒りをそういう言い方で表しているだけではないか、という気がするのです。
香山 多くは、自分を産んだ親への怒りですよね。その言葉を口にすることで、親から「何おかしなこと言ってるの、あなたはお父さんとお母さんが『欲しい』と願って、やっと生まれた子どもなのよ」と言われたい、という欲求があるようにも思います。「かけがえのなさ」を保証してほしい、「生まれてよかったと思わせてくれよ」ということですね。その期待が満たされないと、一気に出生への怒りに転じる。
森岡 「誰が産めと頼んだ」は「生まれてよかったと思わせてくれ」の裏返しともいえます。対して「生まれてこなければよかった」という嘆きは、それよりももう一段深いところにあるのではないかと思うのです。
 そもそも、哲学的な観点から考えるならば、「なぜ私を産んだんだ」「誰が産めと頼んだんだ」という言葉を投げかける相手は親でよいのか、という問題があります。親ができるのは卵子と精子という細胞を結合させて身体を生成することだけであって、実存的に生きている「私」というものは、親に生み出されたわけではありません。「私」がどこから生まれてきたのかというのは、親、あるいは人間という範疇を超えた問題だと思うのです。
香山 たとえばキリスト教などの一神教においては、人は「神の子」ですよね。肉体的には親の子であっても、生まれてきたのは神のご意思、ご計画だということになる。そうすると「なぜ産んだんだ」と恨む相手は神、ということになるのではないでしょうか。
森岡 そうですね。神という存在にリアリティがある世界ならば当然そうなるのでしょう。ところが、神を喪失した近代社会に生きる人には、その対象がなくなってしまっている。それで、代わりに親に恨みを向けているということなのかもしれません。
 そう考えると、誰に恨みを向けるのかというのは、もう宗教的な次元の問いになってきますよね。本来はこうした「なぜ私は生まれたのか」といった話は、人間を超えた、宗教が扱ってきた次元を取り込まなくては本質的な議論ができないのだと思います。そこから目をそらして、脱宗教的な次元でのみ語ろうとするのが反出生主義の限界だと思うし、そこの部分はもっと議論されるべきではないでしょうか。

「人のいなくなった地球」を、人間は目撃できない

香山 またベネターは、地球上に存在すべき人間の数は「ゼロ」だと言っていますよね。人間は「産まない」ことを選択し続けることによって絶滅に至るべきだ、と。
 環境保護の視点から、同じようなことを主張する人たちがいます。子どもは好きだけど、地球環境がこのまま悪化していくのであれば産みたくないという人もいますし、イギリスの生態学者、ジェームズ・ラヴロックは自身の100歳の誕生日にあわせて刊行した『ノヴァセン』(邦訳はNHK出版、2020年)で、次に来るのはサイボーグが支配する世の中であり、そのときには人間は存在しないと書いています。「人間が早晩いなくなるだろう」「いないほうがいい」という、この発想は反出生主義と重なるものなのでしょうか。

ジェームズ・ラヴロック著『ノヴァセン 〈超知能〉が地球を更新する』(藤原朝子監訳/松島倫明訳、NHK出版、2020年)

森岡 人間の生と死を理性のコントロール下に置きたいという世界観をとっている点では近いのではないでしょうか。
「人類がいないほうが地球にとって望ましい」というのは、理性による判断ですよね。それを実現することがもっとも望ましいというのは、ある種の理性主義といえると思います。
 反出生主義もそうで、「子どもを産まないことが人間にとってもっとも望ましい」という判断は理性がしているわけです。それに「人間のいない社会」は、社会システムやテクノロジーを人間が理性的にコントロールすることで達成されるわけですから、やはり人間の理性による生と死のコントロールなんですよね。
香山 「人が誰もいなくなった後の地球」も、人間が繰り返し想像し、表現してきたものですよね。特に核の危機が高まった冷戦時代には、多くの映画や小説がそれを描いた。人間が誰もいなくなって、静寂が広がって……という情景を想像しているのは人間ですが、実際に人間がいなくなってしまえば、その静けさを味わう人は誰もいないわけですよね。
森岡 そうなんです。だから、これは結局は虚偽の世界に過ぎません。人間がいなくなった世界を想像するという設定そのものが、人間の感性と理性があるからできるわけであって、そこで見える世界というのは、人間中心主義からの脱却のようでいて、実は非常に人間中心的だといえます。
 人間がいなくなった世界を想像するというのは、人間が自分たちでつくった箱庭の内部に、さらに「人間がいない世界」をつくって、それを上から覗き込んでいるに過ぎない。そのことは、自覚しておくべきだと思います。

反出生主義、歴史修正主義と「潔癖ラディカリズム」

森岡 こう見てくると、反出生主義が注目を集めているというのは、コアな反出生主義の周りに、ニュアンスが微妙に異なるいろいろな意見が集まってきて、ひとかたまりの団子のようになっているということなのかもしれない、と思います。
香山 そしておそらく、コアな反出生主義よりも、その周りに集まっている「団子」のほうがずっと大きいのではないでしょうか。つまり、反出生主義の「生まれてこないほうがよかった」という主張に対して、その本質を深く考えるというよりも、何となく雰囲気で「ああ、そうだよね、私も生まれてこないほうがよかった」と感じる人たちがたくさんいるということ。これはとても現代的な事象だと思います。
森岡 そこには現代の、痛みのようなものに非常に過敏になっている状況があるように思います。
 苦痛も快楽も存在するよりも、両方とも存在しないほうがいいというのがコアな反出生主義ですが、それはつまり、ほんの針のひと突きの痛みがあっただけで人生はすべて意味がないものになってしまうということ。一点でも汚れてはならないという、潔癖主義のような感じですよね。そして、100年、200年というタイムスケールで見た場合に、いわゆる先進国の社会全体がそちらの方向に進んできているのは明らかではないでしょうか。
香山 強迫的な清潔志向のようなことですか。
森岡 そうです。汚れがないこと、清潔であることをよしとして、あらゆる汚れや痛みを排除していく。私はこれを「無痛文明」と呼んでいるのですが、そうして痛みをなくす方向に社会全体が大きく動いているという状況が、先進国を中心にずっと続いてきた。それが、「生まれてこなければよかった」とか「苦しむ存在を生み出すのはぜったいに良くない」という言葉に呼応する人が多くなっている背景の一つになっているような気がします。
 針のひと突きのような小さな痛みであっても、経験しなくてはならないのなら生まれないのが一番いい、あるいは子どもには絶対にそんな痛みを与えたくないから産むべきではない。そうした考えに惹き寄せられるのが現代なのかもしれません。これは古代からありますが、現代ではより現代的な姿をとっていると思います。
香山 まったく違う話かもしれませんが、私は「『慰安婦』問題はでっち上げだ」とか「南京大虐殺はなかった」とかの、歴史修正主義的な主張をする人たちの話を聞いているときに同じようなことを感じます。「日本はもう何千年も前から今に至るまで、一点の間違いも起こしたことがない素晴らしい国だ」という、無謬性へのこだわりですね。だから過去の過ちを指摘されると許せなくて、烈火の如く怒りだす。私は、そういう過ちがあっても、「それはそれで認めて、二度とやらないようにしよう」と考えればいいと思うのですが、そうはならないんですね。日本は光り輝く真っ白な国でなければならないというこだわりがすごく強い。
森岡 よく分かります。これはまた別の現象ですが、2020年には11月のアメリカ大統領選をめぐり、トランプとバイデン、両候補を支えるグループが超二極分化したでしょう。白か黒かで、中間はないという感じ。そうしてラディカルな両極に引きずられていくと、行き着く先はやっぱり「こちらが正義であって、正義には一点のシミも付いていてはいけない」という潔癖主義でしかない。だから、どんな小さいものであっても「お前、シミが付いてるじゃないか」と指摘されると、そんなのは幻想だとか間違いだとか、何をやってでも否定しようとするわけです。
 コアな反出生主義も「生まれてきたらわずかであっても苦しみはある、だったら生まれてこない、産まないのが一番なんだ」という、いわば潔癖ラディカリズムの表れだといえるかもしれません。
 つまり、さまざまな場面で二極分化、ラディカリズムが現れてきて、人々がそれに引っ張られていくというのが、現代的な言論や思考の動き方になっている。反出生主義も、その中で多くの人に注目されることになっているような気がします。


【香山リカ×森岡正博「反出生主義」対談(後編)~コロナ禍で直面させられた「生きる意味」に向かって】に続く!

 



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