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香山リカ×森岡正博「反出生主義」対談(後編)

2021年01月30日 | 社会・経済

~コロナ禍で直面させられた「生きる意味」に向かって

香山リカ(精神科医・立教大学現代心理学部教授)

森岡正博(早稲田大学人間科学部教授)

(構成・文/仲藤里美)

Imidasオピニオン2021/01/28

    反出生主義は哲学的論理の一つであり、善し悪しで評価できるものではありません。ただし、「すべての人が存在しない世界こそあるべき姿」という考えを乗り越えようとするならば、私たちはどのような論理で対抗し得るでしょうか。

人の役に立つ人生でなければならないのか

森岡正博(以下「森岡」) 前編では、反出生主義に対してどちらかというと批判的な観点から議論してきたと思うのですが、一方で私自身の中にも反出生主義はあると感じることがあります。

香山リカ(以下「香山」) それは、「生まれてくるべきではなかった」ということですか? それとも「子どもを産むべきではない」?

森岡 私個人の場合は、「生まれてくるべきではなかった」という、誕生否定のほうが大きいですね。

香山 社会的にはこんなに認められている森岡さんにして。それは、どういう理由でなのでしょうか。

森岡 一つは、人は生まれてきたら必ず死なないといけないということ。私には、これがひどく不条理なことに思えたんです。死ぬのは嫌だ、死が運命づけられているような生だったら、生まれてこないほうがよかった。どうしてこんな人生に私を産み落としたんだ、という叫びは私の中の深いところにずっとあります。

 もう一つは、自分の加害性という問題です。誰でもそうだと思うのですが、人が生まれて生きてくるなかでは、周囲の人たちに対して多かれ少なかれ何らかの加害行為をしてきているわけでしょう。そのことを考えるたび、「自分という人間は存在しないほうが、周りの人にとって、そして宇宙にとってよかったんじゃないか」と感じるんです。無理に理屈をこねているわけではなくて、本当にそう思うんですね。

香山 今、コロナ禍のなかで自殺される人が増えていて、診察室にも「死にたい」と言ってこられる方がかなりの数、いらっしゃいます。その人たちの話を聞くと、「自分は誰の役にも立っていない」と、有用感、自己肯定感が著しく低下している人が多いと感じるんですね。コロナで仕事がなくなったとか、お芝居や歌などの表現活動をしていた人が発表の場を失ってしまったとか。真面目な人ほどそうなんですが、「何も人の役に立つことができないのなら、私なんか生きている意味がないんじゃないか。消えてしまいたい」というようなことを言うわけです。

 森岡さんのおっしゃる「加害性」とは少し違うのかもしれませんが、やはり「私なんかいないほうがいい」ということですよね。でも、本当に人に迷惑をかけちゃいけないのか、人の役に立つ人生でなければいけないんだろうか、ということを考えざるを得ません。

子どもは「生きる理由付け」になるのか

森岡 私自身も、「生まれてくるべきでなかった」だけではなく、「死んでしまいたい」という思いを抱いたことは何度かあります。「生きていても誰の役にも立てないから……」というような論理立ったものではなかったのですが、人間関係が壊れてしまったことなどをきっかけに、今まで自明だと思っていた足下の地盤が突然崩れ落ちたような感じでした。体中から力が抜けて、人生の何もかもが無意味に感じられるようになってしまった。

香山 それは積極的な自殺願望というより、生きていても無意味だから、消えたとしても、つまり死んだとしてもそれほど変わりはない、というような心境でしょうか。

森岡 そういうことだったんでしょうね。今まで自分が哲学者として「生きる意味とは」などと考えていたことが、全部骨抜きになってしまった。だから「生きていても意味がない」という感覚は理解できる部分があります。私自身、どうやって「死にたい」という思いを乗り越えたのかは今でもよく分からないし、今後もまた同じような感覚に陥る可能性はあると思っています。

香山 こんなことを精神科医が言ってはいけないかもしれませんが、「人はなぜ死なずにいられるんだろう」と思うことがあります。事故や災害もいつ襲ってくるか分からないし、ちょっとした不注意で命を落とすこともある。そして森岡さんがおっしゃるように、「人生なんて無意味だ、じゃあ死んでも同じだ」と、ふとした瞬間に死と近づいてしまうこともある。生と死というのは結局、地続きのものであって、人間ってすごく「死にやすい」ものじゃないかと思うんですよ。

 そう考えたときに、ふと「子どものいる人がうらやましい」と感じることがあります。私には生きている価値がない、と思ったときに、もし自分に子どもがいれば、「でもとりあえず子孫は残したんだから、私の人生は無意味ではない」とか、「いや、幼い子どもを残しては死ねない」と、死なずにいるための一つの理由付けになるんじゃないかと。

 子どものいる人には「そんなに安易なものではない」と怒られるかもしれないし、子ども自身がどう思うかは別にしてですが……。私のように、子どもという「理由付け」さえない人はどうしたらいいんだろうと思うことがあるんです。

森岡 それとつながるのかは分かりませんが……私は、数年前に父親を亡くしたのですが、その父親が「まだ、自分の中にいる」と思うときがあります。つらいことがあったときなどに、すぐそばで守ってくれているように感じることがあって。考えてみると最近は、父親だけではなくて、すでに亡くなった大切な人たちが、単なるイメージではなくてもっと手触りのあるような形で、自分の中にいてくれるという感覚を、よく持つようになったんですよ。

香山 なるほど。それは精神分析学的な超自我というより、もっと自分を補完してくれたり包んでくれたりする存在ですね。罰するものとしての父親ではなく、やさしく守ってくれるものとしての父親。母親にそういう感覚を抱く男性は多いでしょうが、息子が父親に、というのは興味深いです。

森岡 ということは、私より若い誰かが、私が亡くなった後に「森岡が守ってくれている」「森岡が自分の中にいる」という感覚を持ってくれる可能性があるわけでしょう。そう考えると、人と人とのかけがえのないつながりというのは、生物として血を分けた云々ということとはあまり関係ないのかな、という気がしています。

 誰の中にも、それぞれいろんな人の存在が溶け込んでいて、それがまた別の人の中に入り込んでいって……。私は無宗教ですが、生きていくうえではそういうスピリチュアルな次元での支え合いを考えていく必要があるのではないか、子どもがいても「私は子どものために生きる」とがちがちに固まるのではなくて、他の命ともつながっていくという感覚を持ってもいいのではないかと思っています。

「自殺は防がなくてはならない」には根拠はない

香山 あともう一つ、森岡さんにお聞きしてみたかったことがあります。2020年は著名人の自殺も相次いだのですが、一人の患者さんが、ある俳優さんの死について、「あれで私は、死ぬことを許された気がした」と言っていたんですね。どういうことですか、と尋ねたら、「これまで自分は、つらい人生だけどそれでも死ぬことはいけないんだと思って一生懸命やってきた。でも、あんなに成功した俳優さんでも死んでいいんだから、私も死んだって別に大丈夫だと思えるようになった」。これについてどうお感じになりますか。

森岡 前半で「産むこと、生まれることは素晴らしい」という前提が聖域化しているという話をしましたが、それと同様に「自殺は防がなくてはならない」というのも、私たちの社会における非常に強固な前提、聖域になっていますよね。でも、実はその前提には、何の論理的な根拠もありません。著名人の自殺によって、その事実に目を開かされたということなのではないでしょうか。絶対だと思っていた大前提が崩れることで、ふと自由を感じたということなのかな、と思います。

香山 そうかもしれません。ただ精神科医としては、「自由になれてよかったですね」とは言えない。それは哲学的な理由というより、職業的な倫理観からです。とはいえ、「私は死ぬことを許されたんだ」というその人の言葉には奇妙な説得力があり、私はしばらく沈黙してから、ようやく「でも、死なないでくださいね」と言うのがやっとでした。

森岡 私は「自殺を防がなくてはならない」という前提には、深掘りしていくと実は根拠がない、その底にはぽっかりと穴が空いているんだ、という気づきは、決して隠蔽すべきではないと思います。そして、自殺をせずに終わった人生も、自殺をして終わった人生も、価値としては平等で、同じように尊いものだと考えています。

 ただ一方で、直接「死にたい」と言ってきた人に対しては、それとは違う対応を取りたいという思いもある。香山さんがコラムで書かれていた、自殺したいという患者さんに対して、何とか引き留めようと「来週、もう一度私に会いに来てください」と言うくだりなどは非常に感銘を受けたし、私が学生に「死にたい」と言われたら同じように答えるかもしれない、と思いました。

 つまり、「自殺で終わる生も尊い」と思いながらも、「死にたい」という学生さんには「来週も私の話を聞きにここに来てほしい」と言うだろう自分もいる。その狭間に、すごく大事なものがあるような気がしています。

香山 臨床における精神科医には、「なぜ生きなくてはならないんですか」「誰にも迷惑かけないなら死んでもいいんじゃないですか」と言われたときの答えはありません。「死んだら周りの人が悲しむから」と言ったりはしますし、もちろんそれは嘘ではありません。家族が自殺を遂げ、本当に苦しんでいる遺族をたくさん見てきました。でも、「私には家族もいないし、悲しむ人もいないんです」と言われたときに、「それでも絶対に自ら選んで死んじゃいけない」と言えるだけの説得力がある答えは持ち合わせてないんですよね。私はとりあえず、「来週、あなたに会えなかったら私がさびしいから、私に会いに来るためだけに一週間、生きてもらえませんか」などと言うのですが。

森岡 そうだと思います。哲学的に考えても、「自殺してはならない」ということに根拠はない。ただ、それでも言えることもあって、それが「あなたが死んだら私が嫌だから、私と関係性をつくってください。私と一緒に生きてください」と言うことだと思うんです。「死にたい」という人に対して、周りの誰かが本気でそう言えたとしたら、「なぜ死んではならないのか」に対する一つの答えにはなるのではないでしょうか。

香山 そうですね。精神科医としては、患者さんとは診察室以外で会わないというのが職業規範なので難しいところもあるのですが、何年かに1回はそれを踏み越えて、「夜でも何でもいいから電話して」と連絡先を渡してしまうこともある。その思いも、やっぱり嘘ではないんです。

森岡 もちろん職業倫理としては、そのような関係性をつくるのは控えるべきです。そのうえで、もし自分の親しい人から「死にたい」というメッセージを受け取ることがあったら、どんなことを言ってあげられるだろうとよく考えるんですが、最近、こんなことを思いました。

 生きていくというのは、凍った湖の上を歩いていくようなもの。氷はどこが薄くなっていて、いつどこが割れて落ちるかも分からない。それでもみんな、懸命に歩いている。でも、一人では心細くて歩けない。私と一緒に薄氷の上を歩いてくれる人の数が減るのは嫌だ。だからあなたに死んでほしくない──。そんなふうに伝えられたら、と思っています。

人が「生まれてきてよかった」と思えるためには

森岡 私は、反出生主義を単なる流行に終わらせず、もう少し深く掘り下げていこうとするのであれば、突っ込んで考えるべき点が二つあると思っています。

 一つは、前半でお話ししたような、「人はなぜ生まれてきたのか」といった、宗教的な次元を取り込んで議論をするということ。そしてもう一つが、人が「生まれてきてよかった」と、誕生を肯定できる条件は何だろうかということです。これは、単なる個人の問題ではなく、生まれ落ちる社会の条件、あるいは地球環境の条件といったことについても考えていく必要があるだろうと思います。

香山 おっしゃるとおりだと思います。

 でも一方で、そうした本質的な問題とは別に、人間ってすごく小さなことでも喜びを感じますよね。温泉に入って「ああ、生きててよかった」と思う、あるいはおいしいものを食べて「ああ、生まれてきてよかった」と感じる、それも嘘ではないはずです。そういう日々の小さな喜びを積み重ねながら、悪いこともあったけどいいこともあったね、みたいな感じで生きていくのが人間というものなのではないでしょうか。

森岡 はい。私も、直感的にですが、着地点はそこかなという気がしています。たとえば、ずっと好きで思い焦がれていた人から何気ないメールやラインが来ただけで「生まれてきてよかった」と思うことは誰しもあるでしょう。それが反出生主義に対抗するための、一つの結論ではないでしょうか。

香山 そう考えると、コアな反出生主義というのは、ある意味で非常に「欲張り」なのかなと思います。前半でお話しした「潔癖ラディカリズム」のように、一点の曇りも、一つの痛みもない人生でなくてはいけないというのは、自分に対してものすごく理想が高いともいえますよね。

 以前、ある本で読んだ話なんですけど、大企業を経営していた人が晩年、「人生にはいいことも悪いこともあって、うまくいく人もいかない人もいるけど、均(なら)せばだいたい同じで、棺桶に入るころにはだいたいみんな同じ人生だ」と言っていたそうです。それを読んで、確かにそうかもな、と思ったんですよね。人生にそんな「完璧」はないし、いいことばかりの人生も、ひどいことばかりの人生もないんじゃないかな、と。なんだかとたんに人生訓みたいな話になって恐縮ですが。

森岡 みんながそう思える社会であるといいですね。「いろいろあったけど、棺桶に入るころにはだいたいみんな同じだな」と。今の社会には、そう思えない人たちもたくさんいると思うんです。ですから、私たちは現状の社会を変えていかなくてはならない。この点については、反出生主義者も、そうでない人も、ともに協力していけるはずです。

香山 みんながそう思うことができるためには、誰でもそこまで生活に困ったりすることがなくて、勉強や就職の機会もある程度は均等である、そういう社会的、現実的な前提条件がまずは必要なんですよね。生き馬の目を抜くような社会だったり、失敗したらそれで人生もうおしまい、みたいな状況であってはいけないわけで。

森岡 だから、もし私たちが反出生主義の縛りから抜け出して、この世に新しい命を生み出していくという選択をするのであれば、そのときにはその命を、危ないときには支え合えるような社会的な絆の中に産み落としていく責任があるんだと思います。社会的なセーフティネットがしっかりあって、誰もが棺桶に足を突っ込むときには「いいことも悪いこともいろいろあったよね」と穏やかに思えるような、そんな社会をつくっていかなくてはならない。その義務を、現存世代である我々が担っているんだということが、反出生主義を考えることで逆に明らかになるのではないでしょうか。


  まだ降り続いています。風もあって、時々ホワイトアウト状態です。我が家の前の町道、除雪車が道路の幅を超えて除雪しています。それで車の左側車輪を落としてしまうのです。わたしは判っていますのでハマりませんが、昨日も,今日もハマル車があって、その都度助けに出なければならないのです。明日除雪センターに電話してポールを立ててもらおうかと思っています。
 小降りになってから雪かきに出ようと思います。



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