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共謀罪の切り札は「スパイ捜査」

2017年05月16日 | 社会・経済

あらゆる団体に捜査員…共謀罪の切り札は「スパイ捜査」

            日刊ゲンダイ 2017.5.15

   安倍政権が18日にも衆院通過をもくろむ共謀罪。内心を処罰する希代の悪法だが、当局は「心の中」をどうやって探り、それを立件、立証するのか。自白、盗聴、密告……などの手法が考えられる中で、当局が最も期待している“切り札”が仮装身分捜査。いわゆるスパイ捜査で、捜査員が目を付けた団体のメンバーとして潜入し、メンバーの「心の中」を把握するやり方だ。

 「仮装身分捜査が導入された場合に有効と考えられる点として、組織外部の人間では把握が困難な組織の核心に迫る犯罪情報や物的証拠の入手に資する」

  2014年版の「警察白書」には、こんな文言が出てくる。まるで共謀罪の導入を見込んだような記述だが、法案が成立すれば実際の捜査現場で使われるのは間違いない。共謀罪に詳しい小口幸人弁護士が言う。

 「仮装身分捜査は、法令で令状が必要とされていません。また、最高裁から違法と判断されたわけでもない。つまり、共謀罪を補完する手段として、多用されていく可能性があるのです。しかも、警察は仮装身分捜査を導入したことさえ明かさないでしょう」

気が付けば、あらゆる団体にスパイ捜査員がゴロゴロ――なんて時代が現実になるのだ

  今年3月、最高裁が違法と断じたGPS捜査。その事件で警察は、犯行グループの車の尾行でGPSを使ったことを隠していた。尾行が13時間にも及ぶことから、男性被告人(45)の代理人である亀石倫子弁護士が「絶対にGPSを使わなければできない」と気付き、違法であるGPS捜査が発覚したのだ。すでに警察庁は2006年、全国の都道府県警に対し、GPS捜査を隠す通達まで出しているから、共謀罪が成立すればやりたい放題だ。

 「当局が対象団体に送り込んだ捜査員は、1カ月もすれば仲間の信頼を得て、内部の情報にもアクセスできるようになるでしょう。そこで、スパイ捜査員がタイミングを見て自首すれば無罪放免。恐ろしいのは、そうやって得た証拠だということが全く分からないこと。たまたま見つけた、と言い張られてしまえばそれまでになってしまうのです」(小口弁護士)

 「あいつはスパイかも」――。国民が互いに疑心暗鬼に陥り、やがて口をつぐむ。物言えぬ雰囲気が強まり、社会全体が萎縮するのだ。いつか来た道を繰り返してはならない。
                        


おなじみスベリヒユ。オメガ3を含む食材として注目。まだ伸び切っていないニラも取って、とじてみようかな。


人口減を断ち切る施策を

2017年05月15日 | 社会・経済

マヤカシの人手不足と完全雇用 なぜ賃金は上がらないのか

         日刊ゲンダイ 2017年5月11日

 賃金がちっとも上がらない

  厚労省が9日に発表した3月の毎月勤労統計によると、1人あたりの名目賃金にあたる現金給与総額は、前年同月比0.4%減少。物価上昇分を差し引いた実質賃金は0.8%減だ。

  「表向きの数字よりも、実態は悪化しています。統計を見ると、正規雇用を示す『一般労働者』の名目賃金は0.6%減、非正規の『パートタイム労働者』は1.9%も減少しました。トータルの数字が高いのは、たまたま給与水準が比較的高い正規の割合が前年より増え、その分だけ平均値が高めに出たからに過ぎません。実質賃金の実態は1.5%の減少とみられます」(経済評論家・斎藤満氏)

不可解なのは「人手不足」が社会問題化しているのに、まるで賃金が増えないことだ。ドライバー確保に苦労するヤマト運輸はサービスを見直し、ファミレスや牛丼チェーンが24時間営業を廃止するなど、人手不足のニュースがメディアを賑わせている。
ましてや、直近の完全失業率は2.8%と22年ぶりの低水準。有効求人倍率は実にバブル期以来26年ぶりの高い水準だ。統計上は「完全雇用」に近い状況なのである。

  賃金が労働市場の需給に応じて決まるのは、経済学のイロハのイ。本来なら「人手不足」がニュースになるほど労働需要が高まれば、賃金も上昇しなければおかしい。安倍首相がナントカのひとつ覚えみたいに「アベノミクスの成果」として、真っ先に雇用改善を挙げるのに、一向に我々の賃金が上がらないのは、どうしてなのか。

  答えは明快だ。安倍政権が現実を直視せず、「今そこにある危機」に有効な処方箋を出さないどころか、まるで関心がないためだ。今そこにある危機とは、急激な人口減のことである。

 ■猛烈な勢いで内需が縮小していく悪夢

  日本は経済需要の8割以上を内需に頼っている。米国に次ぐ世界第2位の超内需国でありながら、2006年をピークに人口減社会に突入。今後も猛烈な勢いで市場(需要)は縮小していく。

 生産年齢人口(15~64歳)はさらに早い1995年にピークを迎え、2015年までの20年間で約1000万人も減少した。なるほど、人手不足も生じるわけだが、人口減に歯止めをかけなければ、経済活動は活気を失い、国力の低下は避けられない。前出の斎藤満氏はこう指摘する。

 「賃金だって旺盛な市場が出現する見込みがなければ、絶対に増えません。人件費は固定費である以上、経営者は経済成長を実感できなければ、賃上げを躊躇する。コスト上昇分を製品やサービス価格に転嫁できなければ、企業収益が悪化するためです。景気の現状は、イオンの岡田社長が『脱デフレは大いなるイリュージョン』と表現したように、賃上げ分の価格転嫁に慎重にならざるを得ません。賃金が上がらないから、需要はますます衰えるの繰り返し。この悪循環を断ち切るには、人口減という日本経済の構造的問題の解決に取り組むしかない。力強い市場を生み出すためにも、出産の奨励や子育て支援など地道な努力を重ねるしかないのです」

   ところが、安倍政権の少子化対策はやることなすこと中途半端。本丸の人口減問題を放置し、「働き方改革」を最大のチャレンジと位置付けるトンチンカンだ。その改革とやらも、目玉は罰則付きの「残業時間の上限規制」という机上の空論に過ぎない。とことん、労働現場の苦悩を理解しようとしない。血も涙もない政権ではないか。

人口減を断ち切り、力強い市場を創出せよ

  安倍政権がジリ貧必至の人口減社会を放置する限り、長時間労働はなくならない。市場が縮小する中、企業に余剰人員を抱える余裕はない。新たな人材を雇えなければ、シワ寄せは過酷な労働環境となって、社員一人一人にはね返る。

  今や労働者は、1人分の賃金で2、3人分の仕事をこなしているのが実態だ。中小・零細には、かつての就職氷河期に新規採用を見送った企業が多い。社内に働き盛りの人材が薄いため、不惑を過ぎた社員でも馬車馬のように働かされている。

  こんな過酷な状況下で、安倍政権に罰則付きの「残業時間の上限規制」を押し付けられたら、中小・零細はたまらない。長時間労働解消のために無理して社員を増やせば、人件費に圧迫されて経営は傾いてしまう。

 「過労うつや過労自殺の増加など、それこそ『改革』を迫られるほど日本人の働き方が混迷を極めているのに、安倍政権が現状を把握できているかは疑わしい。改革を進める首相自身が3代にわたる世襲議員で、神戸製鋼でサラリーマン経験があるといってもしょせんは政治家になる前の“腰掛け”程度。働く者の気持ちなど理解できないのでしょう。経団連がバックについた政権が『働き方改革』を標榜しても、『働かせ方改革』になるだけ。働く者に安倍政権の働き方改革は「労働生産性の向上」も追い求めている。安倍自身、2年前には「日本経済の生産性を抜本的に高める生産性革命に取り組む」と宣言したが、この発想は危うい。生産性の向上と効率良く働くことを混同しているように見えるからだ。

  ハッキリ言って生産性と効率化は無関係だ。仮にスーパーのレジ打ちのパート店員たちの効率化を進め、2倍の速さで客をさばけたとする。それだけで売り上げが伸びるかといえば、答えは「ノー」だ。肝心の客足が伸びなければ必死の努力も水の泡。逆にパート店員の半分のクビを切る口実に利用されかねない。

  今後は労働現場に、人工知能やロボットがどんどん進出していく。そんな時代にAIと労働者の効率性を競争させるような政策は、人の道に反している。

 ■この国の持続可能性は風前の灯火

何ひとつメリットはなさそうです」(労働政策が専門の政治学者・五十嵐仁氏)

まともな経営者なら、レジの効率を上げる前に、まず客を呼び込み、商品を買わせることを優先させる。それと同じように、今の日本が真っ先に取り組むべきなのは、人口減対策であり、力強い市場の創出である。

  急激な人口減下では、長期にわたる「後退戦」を覚悟しなければならない。限りある資源をできるだけ温存し、次世代に渡すことが重要な使命となるが、安倍政権はアベコベだ。

  少子高齢化社会では「虎の子」となる年金基金を、鉄火場の株式市場に平気でつぎ込む。人口減対策はソコソコに「高度成長期よ、もう一度」とばかり、東京五輪開催費や万博誘致になけなしの血税を投入する。思想家の内田樹氏は3日付の神奈川新聞のインタビューで、こう嘆いていた。

 〈後退戦局面で、「起死回生の突撃」のような無謀な作戦を言い立てる人たちについてゆくことは自殺行為である。残念ながら、今の日本の政治指導層はこの「起死回生・一発逆転」の夢を見ている。五輪だの万博だのカジノだのリニアだのというのは「家財一式を質に入れて賭場に向かう」ようなものである。後退戦において絶対に採用してはならないプランである〉

「10年前から人口減は顕在化していましたが、今からでも遅くない。五輪やカジノに注力する頭脳やマンパワー、数兆円もの予算を人口減対策に振り向ければ、劇的な改善が望めます。正規と非正規の賃金格差を是正し、雇用の安定化を促す。安心して結婚や子育てができる環境を、国を挙げてつくり出すべきです。さもなければ、日本という国の持続可能性は日々すたれていくだけ。安倍政権は、人口減下のマヤカシの完全雇用に浮かれている場合ではない」

  五輪や万博が成功すればバラ色の未来が待っているかのような、冷酷政権の国民騙し。その犯罪的無能は万死に値する。
         


旭日旗」擁護はデタラメ! 侵略戦争で「天皇の分身の旗」

2017年05月14日 | 社会・経済

ネトウヨや菅官房長官の「旭日旗」擁護はデタラメ! 侵略戦争で「天皇の分身の旗」と崇めた負の歴史を直視せよ

             リテラ 2017.05.08

   サッカーJ1・川崎フロンターレのサポーターが、韓国のクラブ・水原三星ブルーウィングスとの試合で旭日旗を掲げ、処分が下された問題。報道によれば、4月25日に韓国で行われたアジア・チャンピオンズリーグの一戦で、川崎サポーターが旭日旗を掲揚したところ、水原のスタッフが没収。両サポーターが掴み合いになるなどの騒ぎが起きたという。 
   アジアサッカー連盟は、旭日旗を掲げる行為は人種や政治的な心情による差別を禁じる規定に違反するとして、川崎に1年間の執行猶予付き無観客試合の処分を科した。

 当然だろう。そもそも、旭日旗は日の丸から伸びる放射状の光線を意匠とするが、これは戦中の旧日本軍が使用した「軍旗」(詳しくは後述)であり、日本の軍国主義や帝国主義の象徴、というより“軍国主義そのもの”である。FIFAの規約では、あらゆる政治的ないしは宗教的なアクションならびメッセージ等を禁じており、旭日旗の掲揚がこれに抵触するのは当たり前の話だ。

 ところが、この旭日旗問題に一斉に飛びついたのが、日本のネット右翼たちだ。ツイッター上などでこんな意見をがなりたてている。

〈日章旗も旭日旗も私達日本人にとって大切な国旗です。旭日旗を軍国主義の象徴だとか右翼だとか間違った認識で貶めないで下さい〉

〈旭日旗は日本の国旗です。国旗を掲げて何が悪い。政治を持ち出すのはいつもK国やT国〉

〈旭日旗の事は日本人を守って下される海上自衛隊の隊旗です。それを外国の人間に文句を言われる筋合いはない〉

〈旭日旗かっこいいよね…?何で関係ない韓国ちゃんぴいぴいしゃしゃり出てくんの???〉

 あまりに頭が悪すぎて驚愕である(だいたい、旭日旗が日本国旗だった時期など歴史上存在しない)。だが、これが単にネトウヨの妄言にとどまらないのだから、本当にヤバいとしか言いようがない。

 実際、川崎と日本サッカー協会は「旭日旗に政治的な意図はない」として頬被り、さらには日本政府も菅義偉官房長官が「旭日旗は差別的ではないとの認識か」との質問に対して、「自衛隊旗や自衛艦旗だけではなくて、大漁旗や出産、節句の祝い旗など、日本国内で現在も広く使用されていると考えている」などと会見で述べるなど、事実上、旭日旗の使用は不適切ではないとの認識を示している有様なのだ。

 まったくため息しか出ないが、だとしたら、一度きちんと歴史を振り返っておく必要があるだろう。旭日旗をめぐる問題は、“日本国内と海外の単なる認識のギャップ”という一般論では説明不十分であり、ましてや“現在の自衛隊も使っている伝統的デザインであって、悪意はない”という正当化は妥当ではない。それは、つぶさに歴史を検討すれば明らかなのだ。

陸軍では旭日旗は「天皇の分身」だった

  まず「旭日旗」の定義とは何か。『広辞苑』によれば、「旭日」とは「朝日」のことで、「旭日旗」は「朝日を描いた旗。もとの日本の軍旗・軍艦旗などの類」とある。戦前・戦中でいう「軍旗」(「連隊旗」とも呼ばれた)は大日本帝国の陸軍、「軍艦旗」は海軍での呼称だ。それぞれ姿形が微妙に異なり、使用態様も違った。

 陸軍の軍旗は、中央に日章(日の丸)を位置し、そこから放射状に16条の光線が先端になるにつれ太く伸びる意匠。法令で制定されたのは1874(明治7)年だ。一次資料に近いところをみると、その授与に際しては、天皇の名で「軍旗一旋ヲ授ク 汝軍人等協力同心シテ益々威武ヲ宣揚シ以テ國家ヲ保護セヨ」という勅語があり、「親授」(手渡し)で行われた。連隊長はこれを拝受し、謹んで「敬テ明勅ヲ奉ス 臣等 死力ヲ竭(尽)シ誓テ國家ヲ保護セン」と奉答している(都立中央図書館所蔵「皇軍連隊旗写真帖」昭和7年)。

 こうして、軍旗は単なる連隊の標識にとどまらず、連隊の魂として意識されるようになり、軍旗に関する礼式、取り扱い等も規定された(秦郁彦『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会)。まさに「天皇の分身の旗」であったから、これを紛失したり、奪取されることなどもってのほかだったのである。勝利のときは部隊の戦闘に立ち、敗北・玉砕の際は連隊長が腹を切って、軍旗を奉焼の儀式にて灰にしたという(寺田近雄『完本 日本軍隊用語集』学習研究社)。

 戦中、陸軍近衛歩兵第6連隊で旗手をつとめた作家の故・村上兵衛はこう書いている。

〈軍旗を失った歩兵連隊などというものは、もはや晒い者にすら価しなかった。それは存在しないのである。また存在させてもならないのである。だから、わが陸軍においては「軍旗喪失」と「連隊全滅」とは数学的正確さを持った同義語に過ぎなかった〉(小説「連隊旗手」)

 実際、前掲『日本陸海軍総合事典』によれば、第二次大戦末期には爆薬によって旗手が軍旗もろとも自爆する処置がとられたという。1945年の敗戦に際し、陸軍大臣は全軍に対し、8月末日までに軍旗を奉焼せよと命令。現存するのは、靖国神社に保管されている一本(歩兵第321連隊旗)のみである。

 いずれにせよ、旭日旗をたんに「かっこいいデザイン」とみなして無害化する考え方は、道化にもほどがある。日本の軍国主義が、神格化した天皇を頂点として侵略を正当化するイデオロギーであったことを考えれば、同様に陸軍で神格化された軍旗=旭日旗の存在は、まさに、国内的対外的に関わらず、象徴という抽象的なレベルを超えた“軍国主義そのもの”としか言いようがないのだ。

海自の自衛艦旗は海軍の軍艦旗の亡霊

  一方、海軍の「軍艦旗」がどう扱われたかも見ておきたい。日本では、幕府時代から日章旗が軍艦旗としても使われたが、1889(明治22)年の海軍旗章条例によって16光線条の旭日旗が正式な軍艦旗として定められた。陸軍の軍旗と比べて全体的に横長であり、日の丸の位置はやや左(竿側)にずれる。後述するが、これは現在、海上自衛隊の自衛艦旗にそのまま継承されている(なお、陸自は8光線条である)。

『日本陸海軍総合事典』によれば、軍艦旗は海軍の艦船たることを示す旗章で、日本国主権の存在を表示したという。内地においては、午前8時から日没までの多くの場合、艦尾の旗竿に掲げ、航海中は昼夜通じて掲げられた。

 1902(明治35)年に海軍少佐・奥田貞吉の名前で著された「帝國國旗及軍艦旗」には、〈軍艦旗ハ海軍ニ於ケル主權ノ表章ニシテ戦時平時ヲ問ハス軍艦及海軍所用の船艇ニ掲揚セラルヽモノトス〉とあり、その意匠には〈我帝國ノ武勇ヲ世界ニ輝カセ〉とか〈帝國ノ國權ヲ地球ノ上ニ發揚セヨ〉という意味があるとしている。つまり、たんに所属を表す目的ばかりでなく、国威発揚および帝国主義の正当化を図る示威行為の意図があったと考えられる。

 前述の通り、海軍の軍艦旗もまた陸軍同様、敗戦を機に一度は消滅する。それがなぜ、自衛隊旗として復活したのか。結論から言うと、ネトウヨや菅官房長官(これを並列すること自体情けない)は「旭日旗は自衛艦旗にも使われている」ことを理由に“問題なし”とするが、それは戯言でしかない。

 実際、防衛省・自衛隊ホームページでも、〈自衛艦旗は戦前の日本海軍の軍艦旗そのままのデザインですが、その制定にあたって海上自衛隊の艦旗はすんなりと旧軍艦旗と決まったわけではありませんでした〉と解説されている。1954(昭和29)年の自衛隊設置を前に、その前年から旗章が全面的に見直されることになったのだが、〈多くの部隊が希望している旧軍艦旗を採用することについても、情勢はこれを許す状況にはないのではないかとの議論〉があったというから、やはり、この旭日旗が軍国主義を示すものであるとの認識は当時の関係者にもあったわけである。

 ところが、〈各部隊・機関の意見を集めたその結果、各部隊等の大部分は旧軍艦旗を希望している意見が多いことが判明〉して、結局、旧日本軍の軍艦旗がそのまま制定されたという。実際、別の証言を探したところ、元海軍軍人の大賀良平・第12代海上幕僚長(故人)が、「海自50周年」の記念特集をくんだ「世界週報」(時事通信社)2002年8月20・27日合併号に、「旭日旗、再び」なる文を寄稿しているのが見つかった。

 それによれば、1951年、吉田茂はサンフランシスコ講和条約締結と前後し、米国から艦艇の貸与を打診され、これを受け入れた。その際、貸与艦をどう運用すべきかを検討する秘密委員会が設けられた。山本善雄元海軍少佐が主席となり、旧海軍側から8名が参加したという。この答申によって、翌52年に海上警備隊が創設されたのだが、大賀元海幕長は当時をこう述懐している。〈この時、関係者が感激し狂喜したのは、かつての軍艦旗“旭日旗”が再び自衛艦旗として使えるように決まったことだ〉と。

 大賀元海幕長の言う「感激し狂喜した関係者」とは、帝国海軍出身者をさすのだろう。自衛艦旗の「旭日旗」の復活は、大日本帝国海軍の強烈な“自尊心の残滓”が、そのメンタリティを継承しようとした結果だということは明らかだ。菅やネトウヨ連中が言うように、たんに伝統的な「旭日」のデザインだけを拝借したわけでは決してないのである。

日本が“旗に命を捧げるカルト国家”だった負の歴史

  こうして歴史を振り返ってみれば、旭日旗が意味するのはミリタリズムそのものであり、その掲揚を韓国や中国が批判するのは、ごく自然としか言いようがない。

 あるいは昨今、右派やネトウヨの間では、旭日旗をナチスのハーケンクロイツと同質として忌避することに対して「旭日旗は軍旗だから鉤十字とは由緒が異なっていて、ドイツ軍が現在でも使っている鉄十字章と同じだから問題ない」というような理屈をこねる向きがあるが、先に見てきた通り、戦中軍部での旭日旗の扱い方と、それを「感激狂喜」しながら復活させた海自の成り立ちを考えれば、もはや反論にすらなっていないだろう(というか、鉄十字もサッカースタジアムに持ち込めば処罰の対象となる)。

 また付言すれば、「朝日新聞の社旗だって旭日旗じゃないか!」などと見当違いなバッシングを展開しているネトウヨ連中もいるが、だからなんなの?としか言いようがない。『朝日新聞社史 資料編』(朝日新聞社)によれば、朝日の社章(社旗)は、もともと発行許可が下りた明治12年につくられ、以後、何度も図柄が変わって現在の「旭日」を四分割した意匠(ちなみに7光線条)になったという。無論、「これは旭日旗によく似ているが旭日旗ではない」というようなイタチゴッコに与するつもりはないが、さすがにネトウヨの悪ノリは馬鹿げている。繰り返すが、問題は「旭日」=朝の太陽の“デザイン性”にあるのではなく、「旭日旗」=帝国軍旗・戦艦旗という“史実”にあるのである。

 なお、旭日旗と戦中のミリタリズムを意図的に(?)断絶させたうえで「別の日本の伝統的なモチーフを使用しているだけ」「“健全な愛国心”を示しているにすぎない」と主張する人がいると仄聞するが、それも認識が浅薄すぎると言わざるをえない。戦中の陸軍が軍旗を神格化し、これを守るために作戦まで変更して、ましてや軍旗と“心中”までしていたという事実を知っていれば、「健全な愛国心」などとは口が裂けても言えまい。旗を天皇の分身と見なして人命より重く扱う価値観は、どう考えてもカルトである。

 逆に言えば、戦中日本はそのような“カルト国家”だったのだ。あらためていうが、旭日旗は決して軍部だけの独占的なデザインだったわけではなく、軍国主義の進展とともに、ポスターのなかに盛んに登場するようになったり、学校の校旗にまで登場した。あるいは、子どもたちまでもが手旗サイズの軍旗を振っている様子も、記録写真などでいくらでも確認できる。つまり、庶民にも戦意高揚のために使われていたのである。

 結局のところ、サッカーの試合などで繰り返される旭日旗の問題は、日本が侵略国家であったという歴史を軽視しているばかりか、日本の国民がその御旗のもとで戦争へ動員させられたという事実を忘却しているのだ。外国からどう見られるかという国際的な視点ももちろん大事だが、その前に一度立ち止まり、自分たちの祖先が旭日旗の下で何を強要されてきたかについて、真摯に向き合うべきだろう。でなければ、外的な抑圧感情が反動に結びつき、同じことが反復されてしまうだけだ。

 ネトウヨや安倍政権は論外だとしても、心あるサッカーファンたちが「健全な愛国心」を標榜するのならば、いまこそ、冷静な視座に立つことを求めたい。


 安倍総理、もうにっちもさっちもいかなくなったか。「森友疑惑」から逃れるために「北の脅威」を持ち出し、滑稽なことに「北のミサイル」から身を守るために国民の避難訓練を実施するよう呼びかけた。大手マスコミが煽ったがそれも効き目がなくなった。今度は「改憲」を持ち出すが、かえって自身が窮地に追い込まれている。今度は「尖閣」でドンパチか?もうあなたがおっしゃったように議員をやめて責任をとりなさい。
       


風の中で・・・・・

2017年05月12日 | 自然・農業・環境問題

昨日から天気予報を調べ、今日はあまり風がないと判断した。
特に昼頃はほとんどなく、0という時間帯もあったので、いざ準備。

ところが、なんです。
一向に風が弱まらない。
この風なら絶対に嫌です。
カミさんのパート勤務もあるし今日のがしたらまた大変なんだよね。
それで、とうとう始めてしまいました。
やっぱり、風にあおられて2回も落とし、あちこちひっかけては穴をあけてしまいました。


補修の後です。
てなわけで、疲れました。
これにて。
         


自殺大国日本,その原因に『向精神薬』

2017年05月11日 | 健康・病気

 精神医学、一刀両断!!!http://blog.livedoor.jp/psyichbuster/archives/51329276.html

 医学とは名ばかりの 「似非科学 = 精神医学」  そこにあるのは、 治らない患者、 更に悪化させられた人々、 巨利を貪る精神科医と製薬会社。

 < 京成江戸川クリニック 院長 小倉暢夫被告 裁判膨傍聴記精神医学のホンネ >

 死にたくないなら向精神薬は飲むな! 

  これは私が貫して訴えてきたものです。

 自殺したくなる、自殺したくなる!

 まさにこれこそ向精神薬が人々にもたらす最悪の副作用です。

  先日も、(*この記事は2010.1に書かれたものです)読売新聞(下記参照)に大きく掲載されていましたが、うつ病患者の増加と向精神薬の売上は完全にリンクしています。

新型抗うつ剤(SSRI、SNRI)が発売された1999年以降自殺者は3万人を切ることがありません。

 向精神薬に効果があるのなら、これらの状況は劇的に改善されていてしかるべきです。しかし、状況は全くこれと反し、悪化の一途を辿っています。

 向精神薬の医薬品添付文書にははっきりと「自殺企図」という言葉が副作用欄に明記されています。

 向精神薬がこれまで多大な破壊作用を呈してきたにもかかわらず、厚労省、製薬会社、精神科医たちはその作用に目を向けないばかりか、更なる消費拡大のために大々的な「キャンペーン」を展開してきました。

 「うつは心の風邪、早期発見早期治療が大事です。今では副作用の少ない、効果的なお薬がありますから」 という…キャンペーンです。

 これは受診促進には非常に効果がありました。そして精神科医や製薬会社に多大な利益をもたらしました。

 そろそろこの事実に国民が気がつく必要があるでしょう。

■「うつ百万人」陰に新薬?販売高と患者数比例

(読売新聞 - 01月06日 03:03)

 うつ病患者が100万人を超え、この10年間で2・4倍に急増している。不況などの影響はもちろんだが、新規抗うつ薬の登場との関係を指摘する声も強い。安易な診断や処方を見直す動きも出つつある。

  東京の大手事務機器メーカーでは、約1万2000人いる従業員中、心の病による年間の休職者が70人(0・6%)を超える。2か月以上の長期休職者も30人を超えた。多くがうつ病との診断で、10年前までは年間数人だったのが、2000年を境に急増した。

  この会社の産業医は、「『うつ病は無理に励まさず、休ませるのが良い』との啓発キャンペーンの影響が大きい」と話す。うつ病への対処としては正しいが、「以前なら上司や同僚が励まして復職させたタイプにも、何も言えなくなった。性格的な問題で適応できない場合でも、うつ病と診断されてしまう」と、嘆く。国の調査では、うつ病など気分障害の患者は、2000年代に入り急激に増えており、一概に不況だけの影響とは言えそうにない。

  患者急増との関係が指摘されているのが、新規抗うつ薬「SSRI」だ。年間販売高が170億円台だった抗うつ薬市場は、1999年にSSRIが登場してから急伸。2007年には900億円を超えた。

  パナソニック健康保険組合予防医療部の冨高辰一郎部長(精神科医)によると、欧米でも、この薬が発売された80年代後半から90年代初めにかけ、患者の増加がみられた。

  冨高部長は「SSRIが発売されたのに伴い、製薬企業による医師向けの講演会やインターネット、テレビCMなどのうつ病啓発キャンペーンが盛んになった。精神科受診の抵抗感が減った一方、一時的な気分の落ち込みまで、『病気ではないか』と思う人が増えた」と話す。

  田島治・杏林大教授が、学生にテレビCMを見せた研究では、見なかった学生の倍の6割が「気分の落ち込みが続いたら積極的な治療が必要」と答え、CMの影響をうかがわせた。

  ◆安易な投薬…薬なしで回復の例も

  うつ病は一般的に、きまじめで責任感が強い人が陥りやすいとされる。自殺に結びつくこともあり、早期発見・治療は自殺対策の柱のひとつにもなっている。

  ところが近年は、「自分より他人を責める」「職場以外では元気」など、様々なタイプもうつ病に含まれるようになった。検査数値で測れる身体疾患と違い、うつ病の診断は難しい。このため、「抑うつ気分」などの症状が一定数以上あれば要件を満たす診断基準が普及した。「なぜそうなったか」は問われず、性格や日常的な悩みによる落ち込みでも診断され、かえって混乱を招いた面がある。

  田島教授が行った精神科診療所の医師に対する調査では、約8割の医師が、うつ病の診断が広がり過ぎていることに懸念を示した。

  安易な投薬を懸念する声もある。抗うつ薬は、うつ病治療の柱とされているが、宮岡等・北里大教授は「薬なしでも自然に回復するうつ病も多い」と話す。

  海外では、軽症には薬物療法ではなく、カウンセリングや運動などを最初に勧める治療指針も多い。渡辺衡一郎・慶応大専任講師は「日本でも、まず抗うつ薬ありきという認識を見直す時期に来た」と話す。(医療情報部 高橋圭史、佐藤光展)

 ほんの一例ですが、以下のような事件が、精神医薬摂取後に発生しています。

(順不同)

・大阪池田、国立池田小学校に乱入し児童を殺傷した事件

・寝屋川、母校の小学校に乱入し教諭を刺殺した事件

・宇治、塾講師による小6女児殺害事件

・会津若松、母親の首をのこぎりで切断し殺害した事件

・横浜、2歳の女児をいきなり襲った事件

・池袋、東急ハンズ前での通り魔事件

・アメリカ、大学構内での銃乱射事件(複数件発生)

・西鉄バス、バスジャック・乗客刺殺事件

・全日空機内、ハイジャック・機長殺害事件

・川崎、マンション15階から子供を投げ落とす事件

・奈良、幼女誘拐殺人事件

・秋田、自分及び友だちの子供を殺人した事件

・長崎、少年による駐車場から幼児を投げ落とす事件

・長久手、自宅に篭城し警察官を射殺した事件

・豊中、中学生らがカマを持った自転車の男に襲われた通り魔事件

・渋谷、、少年による金属バット通り魔事件

・下関、駅で8人に包丁で切り付け、5人を殺害した事件

・御代田、妻による一家殺人事件

・吹田、千里郵便局員によるタクシー運転手殺害事件

・延岡、男に高校生5人組に刃物で襲われ死亡した事件

・習志野、息子が逃げる両親を追いかけて路上で殺害した事件

・佐世保、スポーツクラブ内での銃乱射殺人事件

・品川区、商店街で男子生徒が両手に包丁を持ち通行人5人に襲いかかた事件。

・八戸、長男が母親・次男・長女を刃物で殺害し、アパートに放火したした事件。

・徳島、長女が母親と弟・妹などを包丁で首などを刺して殺傷した事件。

・相模原、57歳の女性が、自宅で子供を殺害した事件。

・文京区、42歳の女が、2人と遊んでいた小1女児に突然包丁で切りつけた事件。

・坂戸、12階建てマンションから、26歳の双子姉妹が飛び降り死亡した事件。

・藤沢、33歳の主婦が我が子を投げ落とした後、自らも飛び降りた事件。

などなど・・・ まだまだあります。

 ********************

 日本の自殺が多い原因は、向精神薬の乱処方とその副作用にある。・自殺者の過量服薬は、結果であって、原因ではない。・その本当の原因は、不適切な処方にある。・抗うつ剤の自殺リスクは、多剤併用により、その本来のリスクが相加的に高められている。

出典  向精神薬と自殺

クスリの成分、作用が麻薬と同じようなものがあり、薬をやめられなくなります。

とにかく、ご自分で飲んでる薬についてよく調べてみましょう。


弱者への攻撃は自己責任論ではなく「全体主義」だ

2017年05月10日 | 社会・経済

くらし下流化ニッポンの処方箋

2017年5月3日 藤田孝典 / NPO法人ほっとプラス代表理事

 格差が広がり、貧困家庭が増えても、自分が当事者にならない限りその存在が見えにくい社会。生活の質を底上げし、分断を埋める方法は見つかるのか。「貧困クライシス」(毎日新聞出版、972円)の著者・藤田孝典さんと、芥川賞作家の平野啓一郎さんが、閉塞(へいそく)感あふれるニッポンの今と未来への希望を熱く語り合いました。
【構成/経済プレミア編集部・戸嶋誠司】

藤田孝典さん×平野啓一郎さん対談(その1)

  平野 藤田さんの「貧困クライシス」を読ませていただきました。細かなデータと問題点の指摘だけではなく、どこに助けを求めたらいいのか、どんな制度をどう活用すればいいかについても細かく書かれていて、とてもいいと思いました。

 自殺対策支援センターライフリンク代表の清水康之さんは、「報道は、問題を指摘するだけではダメで、どこに助けを求めればいいかをフォローしなければならない」と強調していましたが、これはまさにそういう作りになっていますね。本の形でこのようにまとまっていると、今後、自分が誰かに何かを相談されたときもうまく説明できそうです。

  藤田 ありがとうございます。僕は普段、NPO法人ほっとプラスで活動しています。学生時代から、ホームレスや生活に困っている方の相談を受けていて、生きにくさを抱える人たちが次々相談に来ます。

  そんな時、平野さんの作品を読みながら得るものが多いんです。みんなが生きにくさを抱えていて、「こうでなきゃいけないんだ」とか、「こう生きるべきだ」みたいなあるべき論に縛られ、生きにくくなっていますから。

  平野さんが提唱する「分人主義」--いろんな生き方があっていいし、いろんな考え方があっていいし、そのときそのときで人は変わっていくんだ--という考え方を、どう伝えられたらいいかなと考え、実践しています。

 ※分人主義……人間は分割不可能な個人ではなく、いくつもの顔を持つ、複数の「分人」が集まった存在である、という独自の概念

  社会を見る目線、人に対する関わり方に自分と共通点があると感じていて、ぜひご一緒に語り合いたいと思っていました。うちの子供は3歳ですが、平野さんのところも確か……。

  平野 うちは3歳と5歳です。下の子が同い年ですね。

  藤田 お子さんが生まれて、変わったような。

 子供ができて見えてきた社会の問題

  平野 今までよく分からなかった社会問題、いろいろな要素が、子どもができて分かるようになりました。待機児童問題とか、あと保育園の保育士さんたちの重労働と精神的なプレッシャー、低賃金とか。

  藤田 うちも待機児童で、最初は認可保育園に入れなくて、無認可に入れていました。まさか保育園に入れないとは思っていませんでした。

平野 うちは、最初は2人が別々の保育園に入れられました。送り迎えが大変で、僕は不平を言っていましたが、一方で、「入れない人もいるんだから、その人たちのことを考えればぜいたくだ」と、不平を言いにくい雰囲気がありましたね。

  藤田さんの本に書かれている「ひどい状況なのに、自分はまだ恵まれている」「がまんしなきゃいけない」という社会風潮と通底していますね。本当は制度が悪いのに、がまんさせられている。

  藤田 引き下げデモクラシーですね。下の人がいるから自分はまだましな方だと思う感覚。今まさに話題になっている「忖度(そんたく)」です。

  平野 忖度はいつか、外国の辞書に「SONTAKU」って載るんじゃないですか。「KAROUSHI」や「HIKIKOMORI」のように。

  藤田 本当は社会構造や政治を批判的に見なければいけないのに、市民全般に「何をやっても変わらないんだ」「しょうがないじゃないか」というあきらめ感がまん延しています。

  平野 人格攻撃のために批判するわけではなくて、改善したらどうかという意見の表明なんですけどね。僕は世の中のいろんなことにいつも不平不満を感じていて、ツイッターでつぶやくんですが、そうすると、思いもかけないリプライ(返信)があって驚きます。不便なら変えればいいのに、なぜか「がまんしましょう」「みんながやってることですから」という話がやってくる。

 藤田 貧困問題も同じですよ。当事者は生存権すらも脅かされていて、生きられない状況なのに、いろんなことをがまんさせられています。異常なほどのがまん強さです。制度がおかしいのに。人口減少や自殺率の高さを見ても、今は異常な社会という認識が必要で、平野さんのように小さなことでも指摘して声を上げる、抵抗していくことが大事だと思います。

 自己責任論よりもひどい「全体主義」

  編集部 不便をがまんしろと言われるだけでなく、「お前が悪いんだ、がまんが足りない、もっとがんばれ」という自己責任論も幅をきかせています。

  平野 自己責任論以上の深刻さを感じます。小泉政権時代に勝ち組・負け組を分けたがる新自由主義的な風潮、片山さつき的世界観がはやりました。でもあのころは、「金持ちは努力している」、貧しい人たちは「努力が足りない」と、富裕層を擁護し、貧困層を放っておく、という感じでした。

  しかし、昨今の風潮はもっと全体主義的です。「貧困状態の人は社会保障費を食いつぶし、人に迷惑をかけている」という発想。自己責任だから放っておくのではなく、むしろ積極的に彼らを攻撃する。これは全体主義の発想だと思います。

  藤田 貧困状態の人たちだけではなく、人工透析患者、健康でない人、高齢者、障害者も攻撃されていますね。

  社会にはいろいろな人間がいて、いろいろな役割があるはずなのに、相模原の事件もそうですが、社会の役に立つか立たないか、働けて税金を納められるかどうか、子どもを産めるか産めないかで人間の価値を決めてしまう。人間を経済原理でしか見ていません。

  平野 僕も税金を払っていますし、自分の税金をオリンピックに使われると思うと腹立たしいですが(笑い)、税金は社会のために使われていると思っていますし、そこに怒りはありません。しかし今、その税金が貧困状態にある人に使われるときにだけ、ものすごく損した気分になり、攻撃する人がいるのは不思議です。

 江戸時代のように民を食うや食わずの状態で生かしておくより、健康を管理して、国民の生活水準を上げた方が、自己責任論よりも国全体が富む、という考え方が近代化の基本です。それに対する批判的な検証も四半世紀ほど続きました。

  ところが今、自己責任論を言っている人たちはその前提すらなく、「愛国」でかつ「自己責任論」という奇妙な主張です。

  また、1人の人間を労働力としてしか見ていないことも問題です。貧しい人もまた消費者です。彼らに税金を投入するとほとんど消費財に回ります。投入したお金は社会に還元されます。それと、人は1人の人間であって、経済学だけでは測れない存在理由があります。誰かにとって大事な人であるとか、誰かの親であるとか。

  誰かが病気になったとして、健康に気をつけている人をまず助けるべきだという考え方もおかしい。不摂生の人は自己責任だから助けなくていいのか。そんなことを言い出したら、健康オタクの極悪人と、不摂生な善人のどちらを助けるかという、バカな議論になってしまいます。

  そのような歪(ゆが)んで偏向した考え方を炎上商法的に叫ぶ人たちがいて、それに同調する人たちもいて、うんざりします。話すと4日ぐらいかかりますよ(笑い)。

藤田 うんざりする気持ち、分かります。平野さんのツイッターやフェイスブックはいつも怒っているというイメージがありますが。

平野 そういう人間でないはずなんですよ。わりと温厚なので(笑い)。

藤田 僕も平野さんとまったく同じ考えです。生活保護受給者、障害者の方もそうですが、生活保護費も年金もその地域に還元されます。生活保護費は4分の3が国からの補助、4分の1が自治体負担です。その4分の1も地方交付税交付金で補われます。いわば、国家の再分配の仕組みなんです。それが地域に回るという考え方です。

  彼らがお金を使えば、それだけでも何かの役割を発揮することになる。「お金を使う」というプラスの側面をなぜ評価しないのかと思います。

 平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)/1975年生まれ、福岡県出身。作家。98年「日蝕」でデビュー。同作で第120回芥川賞受賞。「決壊」「透明な迷宮」「私とは何か『個人』から『分人』へ」など著書多数

  


  桜も見頃なのだろうけれどゆっくりと花見する時間もない。相変わらず風も強い。ビニールをかけてしまいたい。天気予報を見ると4時くらいから治まっていきそうなので、何とか狙ってはいたのだが、今日は断念。
 明日は一日雨模様。今夜はハウスのストーブなし。もうブヨが出てきた。
                             


「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない訳

2017年05月09日 | 社会・経済

 人生には多くの選択肢がある。逃げればいい

                東洋経済オンライン - 2017年5月8日

   過労死や過労自殺の事件が報道されるとしばしば聞かれるのが、「死ぬくらいなら辞めればいいのに」という声です。昨年発覚した電通の新入社員の過労死事件により、過労や長時間労働の暗部があらためてクローズアップされる中で、声に出さないまでも「そこまで行く前に辞めればいいのに」と感じる人は案外多いのかもしれません。

   なぜ、過労によって命を落とす人は、会社を辞める、仕事を辞めることを選択しないのでしょうか。「命より仕事のほうが大事」だと思うのでしょうか。

   過労死等防止対策推進法よると、過労自殺とは「業務における強い心理的負荷による精神障害を原因とする自殺による死亡」と定義されています。つまり、過労自殺は心の問題と切っても切れない関係にあるものです。

   そして、どんな人でも、ストレスの強すぎる環境にいれば精神的に追い込まれ、うつになる可能性があります。精神科医の私でさえ、ストレス過多状態が続き、食欲が落ち、うつ状態になったことはあります。連休が明け、いわゆる「5月病シーズン」が始まります。ストレス社会で働く人たちにとって「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができなくなる理由は誰しもが知っておくべきことではないでしょうか。

 あなたは「サーカスの象」になっていないか?

    私が監修・執筆させていただいた『「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由(ワケ)』では過労でうつに陥る人の心理状態が非常にわかりやすく表現されています。過労自殺をする人は、「会社を辞める、仕事を辞めることを選択しない」のではなく、判断力がなくなることによって、「選択できない」状態になるのです。

   心理学の有名な概念に「学習性無力感」と呼ばれるものがあります。これは長期間、人間や動物がストレスを受け続けると、その状況から逃げ出そうとする努力すら行わなくなるという現象です。よく引き合いに出されるのが、「サーカスの象」の例です。サーカスの象は足首にひもをくくられ、地面に刺した杭(くい)とつながれています。象は力が強いので、杭ごと引っこ抜いて逃げ出すことができるはずです。

 本当なら杭を抜いて逃げることができるのに

   しかし、サーカスの象はおとなしく、暴れたり逃げ出そうとしたりしません。サーカスの象は、小さい頃から足にひもをくくられ、杭につながれて育ちます。小さい象の力では当然杭は抜けません。つまり、小さいうちに、「抵抗してもムダ」ということをインプットしてしまうため、大きくなれば簡単に杭を抜いて逃げることができるのに、小さい頃の「ムダだ」という無力感を学習したことで、「逃げる」という発想がなくなってしまったのです。

   これは人間にも当てはまります。人生にはたくさんの選択肢が存在します。ですが、ずっと杭につながれていた象が杭を抜いて逃げ出そうとしないように、人間も過度のストレスを受け続けると、逃げ出すという選択肢が見えなくなるのです。

   選択肢が見えていたとしても、「辞める」という決断ができない人もいます。「辞める」決断ができない人のお話を聴いていると、その大きな理由のひとつに、「辞めた後の生活が想像つかない」というのがあります。

   人は、新しい環境、つまり未知の世界に不安を抱きます。学生のとき、「転校」や「進学」のタイミングで、不安や心配が湧き上がってきたのと同じように、「辞める」決断をして、新たな環境を選んだとしても、その新たな環境が必ず「より良い環境」とは限りません。そういった不安があるからこそ、「辞める」という決断がしづらくなるのです。

 まずは休んでみるのも1つの手だ

   このように、「辞める」選択肢が自分の中にあっても、不安があることで決断できずにいる人が、過度のストレスによりどんどん追い詰められ、選択肢があったことすらわからなくなり、「もう何もできないから、死ぬしかない」と考えてしまうこともあります。

   もしも「辞める」勇気が出ないなら、「まずは休んでみる」のも選択肢ではないでしょうか。メンタルクリニックで、うつの診断テストを受けてみたり、話を聞いてもらったりしてみるのも1つの方法です。

   休むことができたら、そのときに、新たな環境になりそうな職場について調べてみるといいでしょう。たとえば、転職エージェントに登録してみてもいいと思います。そして「あぁ、こんな職場なら、楽しいかも」「こんな仕事やってみたかった」と思うことができれば、「職場が変わることへの不安」も解消されるはずです。また休んでいるあいだに、会社が職務内容や環境を調整してくれて、その結果、今の職場で働きやすくなるケースもあります。

   環境を変えることで初めて気づくこと、見えてくるものがあります。会社が異動をさせてくれたり、職務を見直してくれたりする可能性が低い、そもそも会社そのものが「ブラック」であるケースも想定されます。そのようなときは「辞める」の選択肢が見えているうちに、誰のためでもなく、自分自身のために行動を起こしてほしいと思います。世界は本当に広いのです。


  町内会で不幸があり、お手伝いしてきました。明日昼すぎまで。
 一日いい天気でした。でもこれから明日朝にかけての予想最低気温は2℃です。ということは、ここでは氷点下になる可能性大です。

      


文科相「LGBTはNGで教育勅語OK」

2017年05月08日 | 社会・経済

文科相「LGBTはNGで教育勅語OK」

安倍政権のLGBT差別教育は相変わらず…「異性への関心」指導要領の改訂を拒否、文科相は“LGBTは科学的に認められてない”

                リテラ 2017.05.06

 指導要領へのLGBT記述を拒否した文科省

  国内最大の性的マイノリティへの理解を深めるためのイベント「東京レインボープライド2017」が、今年も東京・代々木公園などで開催されている。このイベントは、〈性的指向や性自認のいかんにかかわらず、差別や偏見にさらされることなく、より自分らしく、各個人が幸せを追求していくことができる社会の実現を目指す〉ものだが、一方、安倍政権の政治家たちの間ではいまだ差別や偏見が蔓延っている。

 それを象徴するのが、今年改訂された教育指導要領だ。これまでの小学校の学習指導要領では、思春期の変化として〈異性への関心が芽生える〉ことが〈だれにでも起こる,大人の体に近づく現象〉として理解できるようにすると記述。中学校学習指導要領(保健体育)でも〈異性への関心が高まったりする〉と書かれていた。そこで、今回の改訂にあたって、この記述をなくして性的マイノリティについて盛り込むことを求めるパブリックコメントが数多く寄せられていた。

 だが、文科省は「LGBTを指導内容として扱うのは、保護者や国民の理解などを考慮すると難しい」として却下。新学習指導要領でもこうした記述が残ってしまったのだ。

 2017年度の高校教科書の一部では、はじめて「LGBT」という言葉が登場したが、このように小学校から「異性愛が普通」と教えていては、多様な性への理解を深めることは難しい。文科省は昨年、性的マイノリティである児童・生徒への教職員の対応を手引きとして発行したが、まずは授業内で多様な性のかたちがあることを周知することのほうが先決だろう。

松野文科相の「LGBTはNGで教育勅語はOK」という異常な認識

  しかも、この文科省の判断に輪をかけて酷いのが、担当大臣である松野博一文科相の認識だ。4月24日に開かれた衆院決算行政監視委員会では、民進党の西村智奈美議員がこの学習指導要領改訂の問題を取り上げ、学習指導要領にLGBTに関する内容を盛り込むことを求めたのだが、このときの松野文科相の答弁は、唖然とさせられるものだった。

「LGBTに対する科学的な知見が確立していないということがございます。それがなかなか授業において先生方が合理的な説明の元に進められない、問題があるかと思います」

 LGBTの科学的知見が確立していないから授業では取り上げるのは問題がある──。この答弁に対して、西村議員は「性的指向、性自認にかかる悩みをもっている子どもたちは、そうではない子どもたちに比べると自殺のリスクが6倍高いとも言われている。そうしたなかでほんとうに科学的知見が確立していないということが学校でこのことに言及しない理由になりえるのか」と反論したが、まさにその通りだろう。

 たとえば同性愛の場合、先天的なものなのか後天的なものなのかという研究においても、科学的にははっきりとした答えはまだない状態だ。しかし、そうした「科学的知見」は、性的マイノリティの権利を認める上で必要なものではない。性的指向や性自認について学び、性にはさまざまなかたちがあることを知る。そうして多様性を認めることができる教育が求められているはずだ。

 だが、松野文科相は、教育現場において性的マイノリティの理解を深めることの重要性など考えていないのだろう。

 だいたい「科学的知見が確立されていない」というなら、文科省がつくった小学校高学年用の道徳教材「私たちの道徳」に、まったく科学的根拠や史料的裏付けのない「江戸しぐさ」を載せたのはどう説明するのか。

 結局、安倍政権は平等や人権、多様性などの教育を否定して、戦前的価値観を復活したいだけなのである。

 実際、松野文科相は教育勅語については「教材として用いることは問題としない」と発言している。教育勅語はそもそも家父長制、男尊女卑を前提にしたもので、男は男、女は女という性別によって役割が固定されている。当然、性的マイノリティは排除された世界のものであって、こんなシロモノをいま「問題なし」と言うのである。松野文科相は日本会議国会議員懇談会のメンバーだが、「LGBTについて授業でふれることはアウト、教育勅語は無論OK」という極右的価値観でものをいっているにすぎない。

自民党「同性愛は考えるだけでぞっとする」安倍政権の伝統的家族観

  いや、これは松野文科相だけではなく、安倍政権を覆う認識だ。昨年の参院選の公約で〈社会全体が多様性を受け入れていく環境を目指します〉などと表向きはLGBTフレンドリーを装ったが、内実はまったく違う。

 事実、現行憲法では家族のなかでの個人の尊重が謳われている24条を、自民党の憲法改正草案では〈家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない〉としている。ここで自民党がいう「家族」とは夫がいて妻がいて子どもがいるという、何かと極右が口にする「伝統的な家族」であり、「個人よりも家族」という考え方といい、真っ向から多様性を否定する内容だ。

 そうした考えを裏付けるように、2015年3月に開かれた自民党の「家族の絆を守る特命委員会」の会合では、渋谷区の同性パートナーシップ条例に対して疑義が呈されただけでなく、複数の議員が同性愛について「考えるだけでぞっとする」などと発言し、しかも場内には笑いが起きたという(朝日新聞2016年11月20日付)。

 昨年、「レインボープライド」の会場を視察に訪れた稲田朋美防衛相(当時は自民党政調会長)は、「私自身は男らしさとか女らしさということを言ったことは今まで一度もない」と嘯いたが、本サイトではいかに稲田氏が性別による押し付けを肯定する発言をし、さらには“男女は支配者/被支配者の関係であるべき”“異性愛を中心とする法律婚を守ることが重要で、同性婚は法的に認めてはならない”とする主張を行ってきたかを紹介した。

 今年も、このイベントが性の多様性について多くの人が理解を深めるきっかけになってほしいと願うが、同時に、そうした動きに対して足を引っ張るどころか、性にもとづく差別や偏見を助長し、個人の権利を認めない安倍政権の実態にもNOと言っておきたい。

(編集部)  


 

   今日も降ったり止んだり、時にパッと晴れたりと落ち着かない天気。明日朝の最低予想気温3℃。ストーブに点火です。                    
カタクリの花もそろそろ終わりです。
こちらは出てきたアスパラです。

 これから町内会の集まりです。
   

 

            


家財一式を質に入れて賭場に向かう

2017年05月07日 | 社会・経済

内田樹の研究室

神奈川新聞のインタビュー

憲法記念日に神奈川新聞にロングインタビューが掲載された。いつもの話ではあるけれど、これを愚直に繰り返す以外に悪政を食い止める方途を思いつかない。

反骨は立ち上がる

 いま日本で起きている絶望的なまでの「公人の劣化」は何に由来するのか。結論から言ってしまえば「日本はアメリカの属国でありながら、日本人がその事実を否認している」という事実に由来する。日本社会に蔓延している「異常な事態」の多くはそれによって説明可能である。

 ニーチェによれば、弱者であるがゆえに欲望の実現を阻まれた者が、その不能と断念を、あたかもおのれの意思に基づく主体的な決断であるかのようにふるまうとき、人は「奴隷」になる。「主人の眼でものを見るようになった奴隷」が真の奴隷である。彼には自由人になるチャンスが訪れないからである。日本はアメリカの属国であり、国家主権を損なわれているが、その事実を他国による強制ではなく、「おのれの意思に基づく主体的な決断」であるかのように思いなすことでみずからを「真の属国」という地位に釘付けにしている。

 日本が属国なのだと明確に認識したのは、鳩山由紀夫元首相が2009年に米軍普天間飛行場の移設を巡り「最低でも県外」と発言した際の政治と社会の反応を見たときだ。

 鳩山氏は軍略上の重要性を失った日本国内の米軍基地を移転し、日本固有の国土の回復を求めただけである。首相として当然の主張をしたに過ぎない。だが、これに対して外務省も防衛省もメディアも猛然たる攻撃を加えた。その理由は「アメリカの『信頼』を損なうような人間に日本は委ねられない」というものだった。ニーチェの「奴隷」定義を援用するならば、宗主国の利益を優先的に配慮することが自国の国益を最大化する道だと信じる人々のことを「属国民」と呼ぶのである。

 北朝鮮を巡る情勢が緊迫している。米国が北朝鮮に対し先制攻撃した場合、日本国内にミサイルが飛来して国民が死傷するリスクはある。だが、これを「アメリカがする戦争になぜ日本が巻き込まれなければならないのか」と憤る声はほとんど聞かれない。主権国家であれば、国土と国民を守ることをまず第一に考えるはずだが、日本政府は北東アジアの危機を高めているアメリカに一方的な支持を与えて、米国に軍事的挑発の自制を求めるという主権国家なら当然なすべきことをしていない。

 「対米従属を通じて対米自立を達成する」という国家戦略は敗戦後の日本にとってそれ以外に選択肢のないものだった。ことの適否を争う余裕はないほど日本はひどい負け方をしたのである。そして、この国家戦略はその時点では合理的なものだった。徹底的な対米従属の成果として、日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で国際法上の戦争状態を終わらせ、国家主権を回復した。68年には小笠原諸島、そして72年には沖縄の施政権が返還された。戦後27年間は「対米従属」は「対米自立」の果実を定期的にもたらしたのである。

 だが、この成功体験に居ついたせいで、日本の政官は以後対米従属を自己目的化し、それがどのような成果をもたらすかを吟味する習慣を失ってしまった。沖縄返還以後45年で対米自立の成果はゼロである。米軍基地はそのまま国土を占拠し続け、基地を「治外法権」とする地位協定も改定されず、首都上空には米軍が管轄する横田空域が広がったままである。主権回復・国土回復という基本的な要求を日本は忘れたようである。

 それどころか、対米自立が果たされないのは「対米従属が足りない」からだという倒錯的な思考にはまり込んで、「年次要望改革書」や日米合同委員会を通じて、アメリカから通告されるすべての要求を丸のみすることが国策「そのもの」になった。郵政民営化、労働者派遣法の改定、原発再稼働、TPP、防衛機密法の制定、PKOでの武器使用制限の見直しなど、国論を二分した政策は全部アメリカの要求が実現された。そして、わが国の国益よりもアメリカの指示の実現を優先する政権にアメリカは「同盟者」として高い評価を与え、それが属国政権の安定をもたらしている。

 日本人は心のどこかで「属国であること」を深く恥じ、「主権の回復」を願っている。けれども、それは口に出されることがない。だから、その抑圧された屈辱感は病的な症候として現れる。安倍政権とその支持者たちの「かつて主権国家であった大日本帝国」に対する激しいノスタルジーは「主権のない戦後日本国」に対する屈辱感の裏返しである。けれども主権回復のための戦いを始めるためには、まず「日本は主権国家でなく、属国だ」という事実を受け入れるところから始めなければならないが、それはできない。痛苦な現実から目をそらしながら少しでも屈辱感を解除したいと思えば、「大日本帝国」の主権的なふるまいのうち「今でもアメリカが許諾してくれそうなもの」だけを選り出して、政策的に実現することくらいしかできることがない。それが対外的には韓国や中国に対する敵意や軽侮の表明であり、国内における人権の抑圧、言論の自由や集会結社の自由の制約である。だが、日本が隣国との敵対関係を加熱させることには宗主国アメリカから「いい加減にしろ」という制止が入った。米日中韓の連携強化は、トランプ政権のアメリカにとっても東アジア戦略上の急務だからである。やむなく、日本の指導層の抱え込んでいる「主権国家でないことの抑圧された屈辱感」は日本国民に「主権者でないことの屈辱感」を与えるというかたちで病的に解消されることになった。

それが特定秘密保護法、集団的自衛権行使の閣議決定、安保法制、共謀罪と続く、一連の「人権剥奪」政策を駆動している心理である。

 安倍政権の改憲への熱情もそれによって理解できる。憲法に底流する国民主権のアイディアはアメリカの統治理念そのものである。それを否定することで、対米屈辱は部分的に解消できる。そして政権担当者は「国民に対してだけは主権的にふるまう」ことで国家主権を持たない国の統治者であるストレスを部分的に解消できる。

 自民党改憲草案は近代市民社会原理を全否定し、剥き出しの独裁政権を志向する病的な政治文書だが、それが全篇を通じて「決してアメリカを怒らせないような仕方で対米屈辱感を解消する」というねじれた政治目標に奉仕しているのだと思えば、理解できないことはない。

 日本人に対して、私から言いたいことは「現実を直視しよう」ということに尽きる。国防についても、外交についても、エネルギーについても、食糧についても、基幹的な政策について日本は自己決定権を持ってないこと、国土を外国の軍隊に占拠されており、この状態がおそらく永久に続くこと、明治維新以来の悲願であったはずの「不平等条約の解消」という主権国家の基礎的目標を政治家たちが忘れたふりをしていること、海外の政治学者たちは特段の悪意もなく、日常的に「日本はアメリカの属国である」という前提で国際関係を論じていること、そういう事実を直視するところからしか話は始まらない。

 この否定的現実をまず受け入れる。その上で、どうやって国家主権を回復するのか、衆知を集めてその手立てを考えてゆく。鳩山一郎や石橋湛山や吉田茂が国家的急務としていた問題をもう一度取り上げるということである。

 日本が属国であることも、その事実を否定するために異常な人権抑圧が行われていることは沖縄や福島へ行けばわかる。現場に行けば政治家や官僚やメディアがどのように隠蔽しようとも痛ましい現実が露呈する。まずそこに立つこと。幻想から目を覚ますこと。それが日本国民のしなければならないことである。

 日本ははっきり末期的局面にある。これから急激な人口減を迎え、生産年齢人口が激減し、経済活動は活気を失い、国際社会におけるプレゼンスも衰える。日本はこれから長期にわたる「後退戦」を戦わなければならない。

 後退戦の要諦は、ひとりも脱落させず、仲間を守り、手持ちの有限の資源をできるだけ温存して、次世代に手渡すことにある。後退戦局面で、「起死回生の突撃」のような無謀な作戦を言い立てる人たちについてゆくことは自殺行為である。残念ながら、今の日本の政治指導層はこの「起死回生・一発大逆転」の夢を見ている。五輪だの万博だのカジノだのリニアだのというのは「家財一式を質に入れて賭場に向かう」ようなものである。後退戦において絶対に採用してはならないプランである。けれども、今の日本にはこの「起死回生の大ばくち」以外にはプランBもCもない。国として生き残るための代替案の案出のために知恵を絞ろうというひとが政官財の要路のどこにもいない。

 だがそうした危機的現状にあって、冷静なまなざしで現実を眺め、自分たちが生き残るために、自分たちが受け継ぐはずの国民資源を今ここで食い散らすことに対して「ノー」を告げる人たちが若い世代からきっと出てくると私は思っている。

 日本の人口はまだ1億2千万人ある。人口減は止められないが、それでもフランスやドイツよりははるかに多い人口をしばらくは維持できる。指導層の劣化は目を覆わんばかりだけれど、医療や教育や司法や行政の現場では、いまも多くの専門家が、専門家としての矜持を保って、私たちの集団を支えるために日々命を削るような働きをしている。彼らを支えなければならない。

 後退戦の戦い方を私たちは知らない。経験がないからだ。けれども、困難な状況を生き延び、手持ちの資源を少しでも損なうことなく次世代の日本人に伝えるという仕事について私たちは好き嫌いを言える立場にはない。それは国民国家のメンバーの逃れることのできぬ義務だからである。


 今日もすさまじい風、暴風である。おまけに黄砂まで運んできている。山がかすんで見える。こんな日には晴れてほしくない。換気のためにビニールをたくし上げることもできない。ハウスの出入り口だけを開けてもヤバくなる。ついに完全封鎖。40℃を超えてしまった。鉢が乾いてるものに少しづつ水をやる。これからの最低気温は4℃。まだスト―ブの世話になる。


『あの花』と、『ここさけ』で描かれたひきこもりの設定

2017年05月06日 | うつ・ひきこもり

『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(以下、『あの花』)と、『心が叫びたがってるんだ。』(以下、『ここさけ』)は自らのひきこもり体験から生まれた…脚本家の岡田麿里が告白した自伝が話題!

           リテラ 2017.05.05

 『あの花』と、『ここさけ』で描かれたひきこもりの設定

 『あの花』と、『ここさけ』それぞれ人気テレビアニメシリーズであり、大ヒットアニメ映画だが、実は両者の作品には共通点が2つある。

 ひとつは、両方とも同じ脚本家によって書かれているということ。そしてもうひとつは、ストーリーの核となるテーマとして「ひきこもり」が描かれているということだ。

 『あの花』)の主人公・宿海仁太(じんたん)は、幼なじみと母親の死や高校受験の失敗などが重なり、登校拒否に。普段は家に引きこもってゲーム三昧、用があって外出せざるを得ないときはニット帽や眼鏡で変装。偶然知り合いに遭遇すると慌てて逃げたり目をそむけたりする人物として描かれている。

 また、『ここさけ』の主人公・成瀬順は、幼少時に自分のおしゃべりがきっかけで父の不倫を母に悟らせてしまい、結果として両親は離婚。そのトラウマから声を出して話そうとすると腹痛に襲われるようになってしまう。一応高校には通っているものの、一言も話さないので当然友だちもおらず、クラスメイトからはのけ者にされている。

 この2つの作品に共通する「ひきこもり」というテーマは、実は脚本を務めた岡田麿里の実体験を色濃く反映させたものだった。彼女の自伝『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』(文藝春秋)では、なぜひきこもる学生生活を送ることになったのか、そしてどうやってそこから抜け出すことができたのかを赤裸々に綴っている。

岡田麿里が学校に行けなくなった理由

  彼女がひきこもり生活に突入し始めたのは小学校高学年の頃だった。きっかけは、いじめ。もともと、運動が得意でなく、思ったこともあまりはっきり口にできない性格の彼女は、小学校低学年のときから、いじめやからかいのターゲットにされていた。

〈教室を歩けば、横から足を出されて転ばされそうになったり。キキララの可愛い鉛筆を学校に持っていけば、「交換してあげる!」と、キャンディ・キャンディのばったもんの謎女子が描かれた、ちびた鉛筆と無理やり交換させられたり。ひどい時は、「もらってあげる!」と無理やり取り上げられたり。体育の授業から教室に戻って来ると、クラスメイトの筆箱やら理科の教材やらが私の机の中にぎっしり入っていて、「麿里ちゃんがどろぼうした」と糾弾されたこともあった〉

 とはいえその後、身の処し方を覚えた彼女はそういったいじめのターゲットにもされにくくなっていく。しかし、小学校5年生になると、また状況が変わる。思春期に入り始めるこの時期、クラスメイトの関係は小学校低学年のときとはまた違う複雑さをもち始めていた。

〈私はクラスでも目立たないグループに所属していたのだが、そこにもきっちりリーダー格がいた。リーダーは突然、「○○ちゃんと喋っちゃ駄目」と皆に号令をかける。ターゲットに選ばれれば、休み時間も一人になり、こそこそとあることないこと悪口を言われる。それは持ち回りでやってくるので、じっと待てば嵐が収まるのはわかっていた。それでも、いつ自分の番がくるだろうと緊張しながら過ごす日々はきつく、それまで月に一、二回だった休みが週に一、二回になった〉

 もち回りでいじめの順番がまわってくる、この陰湿な感じには覚えのある人も多いだろう。そんな状況に耐えかね、彼女は本格的な登校拒否児童になってしまったわけだが、それからずっと登校拒否をし続けていたわけではない。中学入学を機に彼女は「自分改革」を断行。クラスの人気者だった時期もあったようだ。

〈ハブられる恐怖におびえる休み時間は、もうない。授業だって、中学では教わることがいっぱいなので大嫌いな体育の時間も減らされた。なのに、一日がとてつもなく長い。〉

『ここさけ』での母親のセリフも岡田麿里の体験から生まれていた

  太宰治『人間失格』では、他人を恐れるあまり道化を演じる主人公に同級生の竹一が「ワザ。ワザ」と、その道化がつくられたキャラクターであることを指摘し、主人公が発狂しそうになるシーンがあるが、岡田のこのエピソードはまさしくそれを彷彿とさせる。

 そして、偽りのキャラクターを演じることに疲れを感じ始めた彼女はついに学校を休み始める。そして、年に3、4回しか登校しない、本格的なひきこもり生活に突入するのだった。中学は登校拒否のまま卒業し、なんとか合格した高校も半年ほど通ってドロップアウト。

 24時間365日、家でふさぎ込んでいる日々。彼女はほとんどの時間を母親とともに過ごすことになる。そんな日々のなかで母との関係も悪化していく。

〈母親が気にしていたのはあやふやな未来ではなく、今現在の周囲の目だった。

「こんな子供がいるなんて、恥ずかしい」

 これは本当によく言われたし、母親が一番に傷ついているのもそこだったと思う。周囲から、私が今どうなっているか聞かれる。噂される。なにしろ当時、田舎では登校拒否児は本当に珍しかったので、ちょっとした珍獣扱いだった〉

『ここさけ』では、成瀬順が母の不在時に町内会費を徴収しにきた近所の人に対応してしまい(言葉が口から出てこないので異様にギクシャクしたやり取りになり近所の人は困惑する)、それを知った母が「私がいないときは呼び鈴鳴っても出ないでって言ったでしょ」「そんなに私が憎いの?」「もう疲れた」といったようなセリフを口にするシーンがある。ここまで、脚本家である岡田自身の経験を基にしているとは驚きだ。

アニメの主人公がひきこもりを克服する過程にも岡田の実人生が

  では、岡田麿里はどのようにして登校拒否および引きこもり状態から脱したのか?

『あの花』のじんたんは、亡くなった幼なじみ本間芽衣子(めんま)の亡霊を成仏させるため、めんまが不慮の事故で亡くなってしまうまで仲の良かった幼なじみグループ(超平和バスターズ)と一緒に奔走するうちにひきこもりから脱した。また、『ここさけ』の成瀬順は、地域ふれあい交流会でミュージカルを演じることになり、クラスメイトと一緒に舞台制作や稽古に奔走するうちにトラウマを克服することができた。

 しかし、現実の人生はアニメや映画のようにドラマチックな展開は起きない。高校卒業後、周囲からの心配をよそに彼女は単身、地元の秩父から東京へ。シナリオライターになるために、ゲームの専門学校に通うことになる。

 中学も高校もダメだった彼女が、この専門学校には通うことができたというが、登校拒否および引きこもり生活からの脱却は、そんな簡単ではなかった。決まった時間に登校するのは難しく、やはり週に2回は休んでいたし、人とのコミュニケーションには多くの悩みを抱えていた。

 社会に出てアニメのシナリオライターとして踏み出した後も、あまりうまくいっていない現場だと〈誰に挨拶していいかわからなくて教室に入れなくなった時のように、会社の玄関の前でためらってしまう〉という。

 ただ、それでも、「あーあーはいはい、もうやるしかねぇんじゃねえん」と頭のなかで叫び現場へ向かう。かつてのようなひきこもり生活に戻ることはない。それは、たとえつらくて苦しくとも、作品づくりに生きがいを見出しているからでもあるだろう。本のなかで彼女は仕事についてこのように綴っている。

〈アニメは、皆で作っている。その作品に関わった皆が、同じように苦しんで、同じ痛みを同時に持つことができる。だからこそ、強烈に幸せを感じられるときも一緒。それは、観てくれている人も同じ。観てくれた人が喜んでくれたら、泣いてくれたら。私もこうして涙がとまらないのだ〉

 となると、「チームプレーで共通の目的を達しようと頑張るうちに引きこもりから脱する」という『あの花』と『ここさけ』の展開は、やはり彼女の人生の投影といえる。そんなことを念頭に彼女の作品を見返すと、また新たな味わいが生まれるかもしれない。
(新田 樹)


 

 連休で札幌にいる息子が帰ってきた。帰ってきてもほとんど家にはいない。今日はハウスビニールを張る手伝いをしてもらおうと約束していたのだが、あいにくの天気になってしまい、オジャンになってしまった。それでも昼前は晴れ間も出て、うっかりしているとハウス内の気温が40℃を超えていた。慌ててビニールを捲り上げるが、風が強い。2重にしてあるビニールの内側は、支柱や針金を張ったところに置いてあるだけなので風には弱い。これが芽を出したばかりの苗の上を走ると折れてしまう。カリフラワーが1/3ほど折れてしまった。こうなったらある程度の高温になるのも仕方がない。鉢の中に水分があれば焼けることはない。そんなことをしているうちに昼となり、雨も降りだし、気温も下がっていく。明日朝までの予想最低気温は4℃。2台のストーブに点火。
 少し離れた山を見るとうっすらとピンクになっている。桜が咲き始めたのだ。北海道の桜の花の寿命は短い。夏を告げる桜なのだ。
 アスパラもまだ数本だが初物をいただいた。
さて、息子に何を食べさせてやろうか。


「北朝鮮ミサイル」から「改憲」へ

2017年05月04日 | 社会・経済

安倍「護憲派の国民は少数になった」は嘘! 各社世論調査で改憲反対が増加、9条は6割以上が「改正不要」

           リテラ 2017.05.03

安倍首相が今年中には憲法改正の一手を打つと宣言

  5月3日、日本国憲法の施行から70年を迎えた。しかし、この記念日にあわせて、安倍首相は“年内中の宣戦布告”を行った。

 中曽根康弘元首相が会長を務める「新憲法制定議員同盟」が1日に開催した「新しい憲法を制定する推進大会」に出席した安倍首相は、「足元の政局や目先の政治闘争ばかりにとらわれ、憲法論議がおろそかになることがあってはならない」と野党を批判。森友学園や加計学園疑惑などは安倍首相に直接かかわる問題であり、さらには防衛省の南スーダン日報隠蔽や担当大臣がまともに答弁できない共謀罪法案、今村雅弘前復興相の被災者冒涜発言など、国会を空転させているのは政権側だというのに、いけしゃあしゃあと責任を転嫁した。

 そして、安倍首相は憲法改正について、堂々とこう宣言したのだ。

「機は熟した。今求められているのは具体的な提案だ。理想の憲法の具体的な姿を自信を持って国民に示すときで、しっかりと結果を出さなければならない」

「この節目の年に必ずや歴史的一歩を踏み出す。新しい憲法を作っていくことに全力を傾けると誓う」

 節目の年に歴史的一歩を踏み出す──つまり、今年中には憲法改正の一手を打つと宣言したのである。

 ちょっと待ってほしい。改憲に「全力を傾ける」と誓う前に森友学園疑惑の真相究明のために昭恵夫人を国会に招致するなど全力を傾けるべき目下の課題があるだろう。しかも、この日のスピーチで安倍首相は、こんなことも言った。

「憲法を不磨の大典と考える国民は非常に少数になってきた。もはや改憲か護憲かといった抽象的で不毛な議論から卒業しなくてはならない」

読売の調査でも改憲賛成反対が互角、NHKの調査では改憲不要が急増

    とんだ詭弁だ。こちとら忘れてなどいない。2014年の解散総選挙では、安倍首相は「アベノミクス」一辺倒で憲法改正はおろか安保法制の話などほとんど口にしなかった。さらに昨年の参院選の遊説では、ついに一度も憲法改正に言及しなかった。これで「不毛な議論」も何もあるはずがはない。国民は安倍政権に白紙委任したわけではないのだ。

 にもかかわらず安倍首相は、選挙が終わるとすぐさま「憲法改正の必要性を訴えていく」(14年総選挙後の会見)などと言い出し、昨年の参院選後も「(改憲へ)橋がかかったと思う」「(自民党改憲案を)実現していくのは総裁としての責務」「わが党の案をベースにしながら3分の2を構築していく。これは政治の技術と言ってもいい」と、選挙中に俎上に載せなかった憲法改正があたかも争点であったかのように振る舞ったのである。

 国民からの信任もないまま、しかも国民の権利や自由を制限し独裁を許すという自民党の憲法改正草案の危険な内容にはまったく踏み込まないまま、勝手に憲法改正に「全力を傾ける」ことなど、言語道断の暴走だ。

 しかし、この総理の横暴さに、国民も気づきはじめているのではないか。憲法記念日にあわせて実施された各社の世論調査の結果には、そうした国民の危惧が表れていたからだ。

 まず、憲法改正する必要があるか否かという質問に対しては、朝日新聞は「変える必要はない」が50%、「変える必要がある」は41%と反対が上回り、改憲派の読売新聞も「改正する方がよい」49%、「改正しない方がよい」49%と拮抗。NHKは「必要」43%、「必要ない」34%という数字となった。NHKの場合、同じ調査方法をとった前回02年には「必要」が58%、「必要ない」が23%だったため、改憲に賛成する人は大幅に数が減り、改憲に反対する人が増えた結果となった。

 しかも、より具体的に「憲法9条を改正する必要があると思うか」という質問では、朝日新聞が「変えるほうがよい」が29%、「変えないほうがよい」が63%。JNNも「9条改正に賛成」が31%、「反対」が56%と、過半数以上が9条の改正に反対。読売新聞でも、9条については「解釈や運用で対応するのは限界なので改正する」が35%に対し、「これまで通り、解釈や運用で対応する」が42%、「厳密に守り、解釈や運用では対応しない」18%と、改正に反対する意見が60%を占めた。また、NHKも「必要があると思う」が25%、「必要はないと思う」が57%と改正反対が半数を超え、「9条は日本の平和と安全にどの程度役に立っているか」という質問には、「非常に役に立っている」が29%、「ある程度役に立っている」が53%と、「役に立っている」と回答した人が調査以来はじめて8割を超えた。

あの読売新聞の調査でも9割の人が現行憲法を評価

  さらに、読売では「憲法が日本の社会で果たしてきた役割」という質問で、「大いに評価」が27%、「多少は評価」が59%で、89%の人が現行憲法を評価するという結果に。同じく朝日でも、いまの憲法が「日本にとってよかった」とする回答は89%に上った。

 逆に、「改憲は優先的に取り組むべき課題だと思うか」という質問では、朝日が「優先的に取り組むべき課題」と回答した人が33%に対し、「そうは思わない」62%と圧倒的な数字が出た。これはNHKでも同じで、「国の政治に優先的に取り組んで欲しいこと」(3つまで回答)という質問では、「社会保障や福祉政策」と答えた人がトップで62%、「景気・雇用対策」55%、「少子化対策や教育政策」37%とつづいた。一方、「憲法改正」は最下位、たったの6%だったのだ。

 日本の平和の役に立ってきた9条は変える必要はない。憲法改正の議論より、社会保障や福祉に力を入れるべき──。こうした世論調査の結果は、安倍首相の姿勢とはまったく相容れないものだ。とくに国民の9条への評価は、9条を目の敵にする安倍首相と真っ向から対立する。

 だが、こうして声が数字になっても、我田引水なこの総理は無視するのだろう。しかし、憲法はファシズムの流れに抵抗する最後の砦だ。憲法施行70年という記念の年に、独裁総理の傍若無人を許すわけにはいかない。(水井多賀子)


 まさに、自分の立場が危うくなってきた。「北朝鮮ミサイル」から「改憲」へ話題を移さなければならなくなってしまった。ところがどっこい、藪蛇だ!

    

 今日も20度超え。いささか体がついていかない。夜はまだ寒く、昨夜も車のフロントガラスが凍っていた。今夜から明日朝にかけては6度の予報で石油ストーブは点けてこなかった。ビニールを2重にしてあるので10℃を下回ることはないだろう。


首相,憲法改正「2020年に施行したい」

2017年05月03日 | 社会・経済

     朝日新聞デジタル - 2017年5月3日

   安倍晋三首相は3日、憲法改正を求める集会にビデオメッセージを寄せ、「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と表明した。首相は改正項目として9条を挙げて「1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込むという考え方は国民的な議論に値する」との考えを示した。

   18年秋の自民党総裁選での3選を前提に、自らの悲願である憲法改正の実現に意欲を示した。野党の反発は必至だ。

   首相がメッセージを寄せたのは、日本会議が主導する美しい日本の憲法をつくる国民の会などの改憲集会。

   首相はメッセージで「憲法改正は自民党の立党以来の党是」とした上で、「憲法を改正するか否かは最終的には国民投票だが、発議は国会にしかできない。私たち国会議員は大きな責任をかみしめるべきだ」と強調。20年に東京五輪・パラリンピックが開催されることについて「日本人共通の大きな目標。新しく生まれ変わった日本がしっかり動き出す年」として20年に改正憲法の施行を目指す考えを示した。

   憲法9条について、首相は「多くの憲法学者や政党には自衛隊を違憲とする議論が今なお存在する。あまりにも無責任だ」として、自衛隊の根拠規定を9条に追加すべきとの考えを強調。さらに「改憲勢力」と位置づける日本維新の会が改正項目に掲げる教育無償化についても「一億総活躍社会を実現する上で教育が果たすべき役割は極めて大きい」と前向きな姿勢を示した。

   首相のメッセージに対して、米ハワイ・ホノルルを訪問中の自民党の二階俊博幹事長は2日午後(日本時間3日午後)、「総理がそういうことを熱烈に希望しているなら、安倍内閣を支持している以上、積極的に支持、協力していくことが当然ではないか」と同行記者団に語った。(藤原慎一、ホノルル=山岸一生)

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 安倍晋三首相が3日、憲法改正を求める集会に寄せたメッセージの全文は以下の通り。

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 第19回公開憲法フォーラム(5月3日)

安倍晋三自由民主党総裁メッセージ

 ご来場の皆様、こんにちは。「自由民主党」総裁の安倍晋三です。

   憲法施行70年の節目の年に、「第19回 公開憲法フォーラム」が盛大に開催されましたことに、まずもって、お慶びを申し上げます。憲法改正の早期実現に向けて、それぞれのお立場で、精力的に活動されている皆様に、心から敬意を表します。

   憲法改正は、自由民主党の立党以来の党是です。自民党結党者の悲願であり、歴代の総裁が受け継いでまいりました。私が総理・総裁であった10年前、施行60年の年に国民投票法が成立し、改正に向けての一歩を踏み出すことができましたが、憲法はたった一字も変わることなく、施行70年の節目を迎えるに至りました。

   憲法を改正するか否かは、最終的には、国民投票によって、国民が決めるものですが、その発議は国会にしかできません。私たち国会議員は、その大きな責任をかみしめるべきであると思います。

   次なる70年に向かって日本がどういう国を目指すのか。今を生きる私たちは、少子高齢化、人口減少、経済再生、安全保障環境の悪化など、我が国が直面する困難な課題に対し、真正面から立ち向かい、未来への責任を果たさなければなりません。

   憲法は、国の未来、理想の姿を語るものです。私たち国会議員は、この国の未来像について、憲法改正の発議案を国民に提示するための、「具体的な議論」を始めなければならない、その時期に来ていると思います。

   我が党、自由民主党は、未来に、国民に責任を持つ政党として、憲法審査会における、「具体的な議論」をリードし、その歴史的使命を果たしてまいりたい、と思います。

   例えば、憲法9条です。今日、災害救助を含め、命懸けで、24時間、365日、領土、領海、領空、日本人の命を守り抜く、その任務を果たしている自衛隊の姿に対して、国民の信頼は9割を超えています。しかし、多くの憲法学者や政党の中には、自衛隊を違憲とする議論が、今なお存在しています。「自衛隊は、違憲かもしれないけれども、何かあれば、命を張って守ってくれ」というのは、あまりにも無責任です。

   私は、少なくとも、私たちの世代の内に、自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、「自衛隊が違憲かもしれない」などの議論が生まれる余地をなくすべきである、と考えます。

   もちろん、9条の平和主義の理念については、未来に向けて、しっかりと、堅持していかなければなりません。そこで、「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」という考え方、これは、国民的な議論に値するのだろう、と思います。

   教育の問題、子どもたちこそ、我が国の未来であり、憲法において、国の未来の姿を議論する際、教育は極めて重要なテーマだと思います。誰もが生きがいを持って、その能力を存分に発揮できる「一億総活躍社会」を実現する上で、教育が果たすべき役割は極めて大きい。

   世代を超えた貧困の連鎖を断ち切り、経済状況にかかわらず、子どもたちが、それぞれの夢に向かって頑張ることができる、そうした日本でありたいと思っています。

 70年前、現行憲法の下で制度化された、小中学校9年間の義務教育制度、普通教育の無償化は、まさに、戦後の発展の大きな原動力となりました。

   70年の時を経て、社会も経済も大きく変化した現在、子どもたちがそれぞれの夢を追いかけるためには、高等教育についても、全ての国民に真に開かれたものとしなければならないと思います。これは、個人の問題にとどまりません。人材を育てることは、社会、経済の発展に、確実につながっていくものであります。

  これらの議論の他にも、この国の未来を見据えて議論していくべき課題は多々あるでしょう。

   私は、かねがね、半世紀ぶりに、夏季のオリンピック、パラリンピックが開催される2020年を、未来を見据えながら日本が新しく生まれ変わる大きなきっかけにすべきだと申し上げてきました。かつて、1964年の東京五輪を目指して、日本は、大きく生まれ変わりました。その際に得た自信が、その後、先進国へと急成長を遂げる原動力となりました。

   2020年もまた、日本人共通の大きな目標となっています。新しく生まれ変わった日本が、しっかりと動き出す年、2020年を、新しい憲法が施行される年にしたい、と強く願っています。私は、こうした形で国の未来を切り拓いていきたいと考えています。

   本日は、自由民主党総裁として、憲法改正に向けた基本的な考え方を述べました。これを契機に、国民的な議論が深まっていくことを切に願います。自由民主党としても、その歴史的使命を、しっかりと果たしていく決意であることを改めて申し上げます。

   最後になりましたが、国民的な議論と理解を深めていくためには、皆様方、「民間憲法臨調」、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」のこうした取組みが不可欠であり、大変心強く感じております。

 憲法改正に向けて、ともに頑張りましょう。


 

  この文面に惑わされてはいけません。
実際はどうでしょう。要は「戦争できる国」造りを目指しているのです。アメリカと一緒に戦争できるようにしたいのです。1日、海上自衛隊最大の護衛艦「いずも」が横須賀を出港。平時から武器を使って米軍の艦船を守る「米艦防護」を初めて実施。2年前の安全保障関連法の成立で可能になった任務で、南スーダンPKO部隊の「駆けつけ警護」に続き、自衛隊の戦闘参加に道を開くものです。
 なし崩し的な憲法蹂躙で、もはや9条は有名無実化。安倍政権はあっという間に「戦争できる国」へと突っ込んでいます。

 「教育の重要性」が強調されています。その理念は「森友」に現れています。
「美しい言葉」に惑わされず、現実にやっていることを検証しましょう。
自由と民主主義の危機も叫ばれています。
現実を見てください。

       


作家たちが語るうつとの向き合い方

2017年05月02日 | うつ・ひきこもり

うつは心の風邪じゃなく心のガンだ! 田中圭一、内田樹、大槻ケンヂ…作家たちが語るうつとの向き合い方

                  リテラ 2017.05.01

   長時間の残業など労働に関する問題が改めて浮き彫りになった昨年。厚生労働省の発表によれば、2015年度に仕事によるストレスなどが原因で心の病になったとして労災申請をした数は過去最多になったとのことだが、今年度もその状況は間違いなく変わらないであろう。

 そんななか、手塚治虫などの絵柄をパロディー化した作風で人気の漫画家・田中圭一によるエッセイ漫画『うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち』(KADOKAWA)が話題を集めている。この本では、ミュージシャンの大槻ケンヂ、思想家の内田樹、AV監督の代々木忠、小説家の宮内悠介と熊谷達也、脚本家の一色伸幸など、かつて心の病を患い現在ではそれを克服した著名人たちに取材し、病気との向き合い方を聞き出している。

 そんな『うつヌケ』の作者である田中圭一自身、かつてうつを患った経験をもつ。そのきっかけは転職だった(田中はサラリーマン兼業の漫画家である)。ゲーム開発ツールの営業職という畑違いの会社に転職をした彼は、気負いながら頑張って入社早々素晴らしい営業成績を残す。しかし、その勢いは程なくして失速。営業成績も下がり、彼は「自己嫌悪」に苛まれるように。これが病への入口だった。

 医者にかかって薬を処方してもらうが苦しみは晴れない。頭に「もや」がかかったような感覚が続き、活字が頭に入ってこない、記憶が曖昧になる、音楽などにも感動できずあらゆる感情が湧いてこないといった状況にまで陥ってしまうが、それでも身体に鞭を打って肌に合わない仕事を続けていく。

 そんな状況が何年も続いたある日、コンビニの文庫本コーナーで見つけた本に書いてあった言葉が彼を変える。それはとてもシンプルな発想の転換だ。

「ありのままの自分を受け入れ、自分を好きになる」。そのように考え方を変えるため、彼は朝起きた瞬間に自分を褒める言葉を唱えることにした。会議や商談などの嫌なことがある日も、ひとまずそのことは考えないようにし、目覚めたらすぐに自分を肯定する言葉を唱えるのだ。この「アファーメーション(肯定的自己暗示)」を3週間続けただけで彼は気持ちが明るくなっていく。それまで死んでいた感情も徐々に戻ってきて、日々の生活で笑顔になることも少しずつ増えていくのだった。時を同じくして会社を辞めたのも病の克服にはプラスだった。その後も、うつが簡単に治ったわけではなく、急な不安に押しつぶされそうになることもあったというが、病気とうまく付き合っていくやり方を会得できたという。

 内田樹も「頑張り過ぎた」ことが原因で心の病も患ってしまったひとり。その大きなきっかけのひとつが阪神淡路大震災だった。家は半壊状態になったうえ、職場である神戸女学院大学の復旧に、シングルファーザーとしての子育てが重なり、震災以降馬車馬のように働く日々が続く。そして、地震発生から半年の月日が経ち、ようやく家に帰ってきたときに変化は起きるのだった。

 落ち着いた日々を取り戻すと同時に心は病み始めていく。ちょっとした音にも震災のことがフラッシュバックして恐怖を感じて不眠状態になり、無理に眠ろうとして服用した睡眠薬により授業中も記憶が飛ぶようになってしまう。そんな生活が続き、自己否定の感情が心を蝕んでいく。

 そんなとき彼を救ってくれたのは、趣味の合気道だった。合気道は試合に勝つために負荷をかけて練習し、頭にも身体にもストレスをかけるといった一般的な競技スポーツとは違い、むしろ、脳を休ませ、身体がどう動きたいのかを見つめる武道。心を休ませ、身体が心地いいと感じることを優先的にしてあげるという生活の送り方を合気道から学んだのだ。田中圭一の場合とかたちは違うが、内田樹の場合も、脳に負荷をかけないような生活を心掛け、無理をしない生活の送り方を会得することで心の病を寛解させていった。

 無理をしない──。『うつヌケ』に登場する人たちの多くに共通するキーワードはこれだ。大槻ケンヂもまた、現代人がどうしても心にかけてしまう「無理」な負荷との付き合い方を学んで病を乗り越えたひとりだ。

 彼がだんだんとおかしくなっていったのは、あまりに若くして成功してしまったのが原因だった。24歳で武道館のステージに立つなど大ブレイクを果たすも、もともとネガティブな思考が強かった彼は「こんな状況がずっと続くわけがない」という心配と不安に苛まれるようになり、そのうち「自分はエイズなのではないか?」と怯える心気症になってしまう。一番ひどい時期は、カタカナの「エ」の字を見ただけでパニックになってしまうような状況だったという。

 そんな状況を変えたのは心療内科で受けた診療と投薬。そして、本で出会った「森田療法」であった。彼は心の病を変えてくれた発想法の変化をこのように語っている。

〈それは仏教の考え方をとり入れた治療法で、「不安」も「葛藤」もなくすことはできない。人間生きていく限り、老いも病気も死もさけられない。だから、「不安」はあるがままにすておいて、今自分がすべきことをすればいい。そのうえで、成功しても失敗してもその人生はまちがいではない。ここでボクは自分を俯瞰する視点を持てるようになって、一気に気が楽になりました。「不安」は消えることなく、時々ちょっかいを出してくる困った存在だけど、いっしょに歩くことが可能なヤツだ──そう思えるようになってきたんです〉(筆者の判断で句読点のみ付け加えた)

『うつヌケ』では、巷間よく言われる「うつは心の風邪」という表現に強く異を唱えている。うつは風邪なんて生易しいものではなく、「うつは心のガン」と断言する。風邪のようなものだと認識してしまうと、「風邪ぐらいで会社は休めない」と頑張ってしまうが、その頑張りが良くないのだ。ガンが分かってもまだ頑張って出社しようとする人はいないし、また、ガン患者に出社を強要する人間もいないだろう。うつとは最悪の場合は死にいたる病であり、それほどの緊急性と深刻さをもった病である。

 だから、疲れ果てて、不安がもたげたり、自分のことが嫌いになったりしてきたら、気兼ねせずに一歩踏みとどまって休むべきなのだ。『うつヌケ』からはそういった考え方の重要さを学ぶことができる。病気で苦しんでいる人はもとより、いまは元気な人こそ一読しておくべき本だろう。

 ちなみに、吉田豪『サブカル・スーパースター鬱伝』(徳間書店)でインタビューに応えているリリー・フランキーはこんなふうに語っていた。リリーはかつてストレスを抱え込み味覚障害になった過去をもっている。

「鬱は大人のたしなみですよ。それぐらいの感受性を持ってる人じゃないと、俺は友達になりたくないから。こんな腐った世の中では少々気が滅入らないと。社会はおかしい、政治は腐ってる、人間の信頼関係は崩壊してる、不安になる。正常でいるほうが難しいですよ」

 発想の転換としては、こんな開き直りもアリかもしれない。休むことも、開き直ることも悪いことではない。心身ともに健康に生きていくためには、どんどんやっていくべきことなのだ。(新田 樹)


シャコバサボテンの花が咲きました。「いまごろ?」と思う方もいるでしょう。

実は日が短くなると咲く短日性なのです。
うちでは、観葉植物などの鉢物は寒さにやられないように居間に置いています。
居間の照明は年中変わりなく,夜中までついていますので、この時期2Fの苗立て場に持っていくと、あまり電灯をつけないので日が短くなったと認識するようです。
 居間にずうっと置きっぱなしの方は、カーテンや段ボールに入れるなどで遮光してあげるといいようです。
         


自閉症の人と話す時に、

2017年05月01日 | うつ・ひきこもり

自閉症の人と話す時に、
  
心がけてほしい3つのこと 
        (イギリス・支援協会)

         Yasuko.M - TABI LABO - 2017年4月30日

   自閉症の人には、世界がどんな風に見えているのでしょう?私たちが親切のつもりで声をかけいても、本人にとってはそれが負担になっているかもしれません。

  イギリスで50年以上にわたり自閉症の人たちの学校を運営してきた「The National Autistic Society (NAS)」が、彼らの脳内で起きていることを、動画で表現しました。

情報が多すぎる…

   動画は12歳の自閉症の女の子、ホーリーがバスに乗るところから始まります。

   バスの運転手が「やぁ、元気かい?」と声をかけてくれますが、すぐに返事をすることができません。さらに「大丈夫?」と心配してくれる言葉すら、うまく整理ができず、むしろ負担になってしまいます。

   次にバスの中で声をかけてきた少年にも、返事をすることができません。彼女の脳内ではまだ、バスの運転手の言葉を理解しようとしているのです。

運転手と少年の言葉は、バスを降りたあとも彼女の脳内で響き続けます。

そんな時に、犬に吠えられたりしたら大変。冷静さを失いかけてしまいます。

周りが見えなくなって、バイクとぶつかりそうに。

「なにやってんだ、危ないだろう!」

んな風に男の人に怒鳴られたら、誰だって萎縮してしまいます。

次第に、頭の中で色んな人の声が混ざり合い、ホーリーは混乱してしまいます。

穏やかに

時間をかけて接して欲しい

動画の最後は、ホーリーの言葉で締めくくられます。

「私は自閉症で、ときどき、情報が多すぎて分からなくなってしまうのです」

NASはこれまでも「Too Much Information(多すぎる情報)」キャンペーンと称して、いくつかの動画を公開し、自閉症への理解を広めようとしてきました。

彼らが混乱しているときには

「勝手に判断しないこと」
「辛抱強く、穏やかに接すること」
「回復する時間と空間を与えること」

この3つを思い出してほしい。


 午前中は晴れ間も出て、ハウスの肩を開けたりと、温度調整。ところが昼近くから曇り出し寒くなってきました。ハウスもみんな閉めて・・・
 昼からはまたダウンベストに冬物ジャンバー。重労働だったので少し汗ばみました。