人の世は、滞在期間の定め無き、今日一日の旅の宿

 時 人を待たず、光陰 惜しむべし
 古より有道の人、国城 男女 七宝 百物を 惜しまず
 唯 光陰のみ、之を惜しむ

三世心不可得

2011-03-11 | 日記


一瞬にして過去となる現在も、過去や未来と同様に、思考のなかの想念である。

過去の思い出も、未来への想いも、現在の心も、今に映る出来事に他ならない。

昨日の過去であれ、生前と呼ぶ過去であれ、今の視点から観られた想念である。

明日の未来も、死後の未来も、今の自分を見地とした想念であるに違いないのだ。

過去と未来をどのように評価するにせよ、今の自分の価値観から離れてはいない。

見る主体と客体は一如ゆえ、過去・現在・未来は、今の見地が反映されたものとなる。

それゆえ、過去、現在、未来、は今の心であり、今が変わればすべてが変わるだろう。

過去、現在、未来、にかかわらず、想念の世界は自我の願望と恐れを背景としている。

前世と呼ばれる過去の概念は、同時に来世と呼ばれる未来を含んだ信念に他ならない。

思考は記憶の反応としての過去に他ならず、未来は修正された過去の投影に過ぎない。

過去から現在への継続的記憶と、未来へ投影する想念が、自我の心理的な時間となる。

自我の存続は、思考によって虚構された、心理的な時間の継続に依存しているのである。

子供の頃からの時系列的イメージと、願望が投影する未来が、時間の継続に他ならない。

故に心理的な時間の継続を延長するが如き信念は、自我を強化させるに等しいのである。

一切の事実は、縁によって生じ、同一性もまた、縁により刹那に滅してゆくと観られる。

空の法理を見地とする本来面目の処には、自立して存在する実体を観ることはできない。

それゆえ、自己同一的な実体を前提としている輪廻思想は、諸法無我の仏法と矛盾する。

時空を越えるが如き、継続的な実体を認める輪廻思想は、自我の脱落とは無縁であろう。

過去と未来のイメージを手放す事が、無明を払い、今に目覚めることに他ならないのだ。

今日の縁:
https://www.youtube.com/watch?v=ldSvr_nDjKU

無明と悟り

2011-03-08 | 日記


既に知ってる何かを求めるのなら、自我の領域から一歩も出ない。

追いかけるイメージの出所は、既知に依存する自我に他ならない。

釈迦の掌を出れぬ悟空の如く、自らの影の世界を彷徨うばかりだ。

悟りを得るものと考えると、悟りが受け渡し可能な印象を与える。

改めて得るのなら、もとより備わっているとは説かれないだろう。

悟りと云う特別な心が有るかの如き前提ならば、本末転倒である。

空の真理も、自覚なき心象や概念に過ぎなければ迷いの種となる。

在るが儘の事実と在るべき理想の狭間は、我が虚構する夢の道中。

影踏み遊びの如く、自らの願望が投影する心象を追う羽目になる。

有るものを無くす為や、無いもの得る処に、道を求めてはいない。

対象の苦ではなく、苦と見る主体の実体なき処を見て取るだけだ。

錯覚を錯覚と見ることは、即ち、事実を事実と見ることに等しい。

事実では無いものを事実と見なすことが、我の錯覚に他ならない。

対象を認識する処は我の懐の内ゆえ、認識は既に過ぎたる影法師。

事実は未だ認識の到らぬ処ゆえ、事実に我の介入する余地は無い。

感覚には感覚者がなく、見る主体と見られる客体の隔たりが無い。

二元のない処は事実が事実を伝え、事実を見る主体は事実である。

事実が錯覚を払う主体であり、錯覚を作る我には錯覚を破れない。

もとより、事実を離れた処に法はなく法を離れた処に事実はない。

文字の意味は認識後の我の懐を離れず、法の説明は法に届かない。

事実を見る他に法は無く、事実を離れて法を求むるは無明である。

錯覚の滅す処が光であり、改めて光を求心するは無益に違いない。

求めて止まぬ心が投影する影に因り、いっそう闇が深まるだろう。

覆われた錯覚の雲が払われるとき、光はもとより眼前に在るのだ。

それゆえ、『 求心歇(や)む処 即ち 無事 』と、臨済禅師は示す。