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一瞬にして過去となる現在も、過去や未来と同様に、思考のなかの想念である。
過去の思い出も、未来への想いも、現在の心も、今に映る出来事に他ならない。
昨日の過去であれ、生前と呼ぶ過去であれ、今の視点から観られた想念である。
明日の未来も、死後の未来も、今の自分を見地とした想念であるに違いないのだ。
過去と未来をどのように評価するにせよ、今の自分の価値観から離れてはいない。
見る主体と客体は一如ゆえ、過去・現在・未来は、今の見地が反映されたものとなる。
それゆえ、過去、現在、未来、は今の心であり、今が変わればすべてが変わるだろう。
過去、現在、未来、にかかわらず、想念の世界は自我の願望と恐れを背景としている。
前世と呼ばれる過去の概念は、同時に来世と呼ばれる未来を含んだ信念に他ならない。
思考は記憶の反応としての過去に他ならず、未来は修正された過去の投影に過ぎない。
過去から現在への継続的記憶と、未来へ投影する想念が、自我の心理的な時間となる。
自我の存続は、思考によって虚構された、心理的な時間の継続に依存しているのである。
子供の頃からの時系列的イメージと、願望が投影する未来が、時間の継続に他ならない。
故に心理的な時間の継続を延長するが如き信念は、自我を強化させるに等しいのである。
一切の事実は、縁によって生じ、同一性もまた、縁により刹那に滅してゆくと観られる。
空の法理を見地とする本来面目の処には、自立して存在する実体を観ることはできない。
それゆえ、自己同一的な実体を前提としている輪廻思想は、諸法無我の仏法と矛盾する。
時空を越えるが如き、継続的な実体を認める輪廻思想は、自我の脱落とは無縁であろう。
過去と未来のイメージを手放す事が、無明を払い、今に目覚めることに他ならないのだ。
今日の縁:
https://www.youtube.com/watch?v=ldSvr_nDjKU