人の世は、滞在期間の定め無き、今日一日の旅の宿

 時 人を待たず、光陰 惜しむべし
 古より有道の人、国城 男女 七宝 百物を 惜しまず
 唯 光陰のみ、之を惜しむ

修証一等

2016-09-29 | 日記



アルコール中毒のどん底から出て18年になる。

損得勘定は埒が明かず、頭で酒は止められない。

酒がもたらす快楽と苦痛の間に駆け引きがある。

依存してるのは快楽、捨てようとするのは苦痛。

苦痛が遠ざかれば快楽が手招きし、誘いに来る。

快楽の方は捨ててないので、己が心に騙される。

畢竟、善悪是非の背景は快苦の駆け引きである。

是非の分別が損得勘定なら、快楽は苦痛に勝る。

依存症は、分別心と自己支配では離脱できない。

分別と自己支配を手放す処が、第一関門となる。

分別支配は、我の善悪是非の揀択に他ならない。

修正した過去を未来へ映し、我を運ぶ事である。

もとより実体の無い我を捨てる事はできないが、

分別心と自己支配を放下する事は、可能である。

分別心とコントロールが無い処は、対象も無い。

支配を手放す処は、支配する対象も手放される。

支配を手放す処は、支配する主体も手放される。

支配を放棄する処は、自己を滅し全体性へ導く。

全体性とは、只今に移りゆく因縁に他ならない。

行為は時処に委ねられ、因縁に応じ刷新される。

行為が未来の対価の為なら、己の脚元を見失う。

目的のための踏台に過ぎぬ行為は、砂上の楼閣。

我が虚構する幻想の時間から、一歩も離れない。

事実と理想の狭間が、我が迷う闇に他ならない。

求める他の無い処は、投影する明日も我も無い。

標準を据える処は、想念と事実の間に差を生ず。

事実に座す処は応無処住、比較すべき他がない。

事実が事実として終る処は、矛盾と葛藤が無い。

成功失敗も無く、その時々の在り様だけである。

行為は常に今を離れず、行為自体が果報である。

”既に修の証なれば、証に極なく修に始めなし”
                   道元 

 今日の縁: 求め心を求め心で磨り潰す

  

 ①https://www.youtube.com/watch?v=ojDkgh92zQw
 ②http://matsu880.blog93.fc2.com/blog-entry-191.html

  ※自らの発心が無ければ解脱も離脱も縁なき衆生


備忘録0:情志病と漢方

2016-09-27 | 日記


◇心身一如ゆえに、心の問題と身の養生とは別の事ではない。
 身を疎かにする探求者の思想信条は砂上の楼閣の如きもの。

◎情志病(精神疾病)の漢方治療法
情志病という病名は明時代の張介賓の『類経』に初めて見られる。
七情により臓腑陰陽気血の失調をもたらして、
情緒の異常が現れる疾病である。
http://ameblo.jp/touyouigakukennkoukai/entry-12002186317.html

◎菊参湯の応用・・漢方まんだら
http://youjyodo.cocolog-nifty.com/kimagure/2015/01/post-1ab7.html

菊参湯は、[菊花:6~20、川芎:10~30、丹参:10~60g]の三味からなる処方で、
北京市の名老中医・王彦恒老師が、この処方には「清脳神,通脳神」の作用があり、
精神障碍性疾病の基本方となると推奨しています。
王彦恒 (中医師)

◇日本では野菊花が菊花として扱われているため、本来の菊花を求めたい場合は
「杭菊花」と指定する必要がある。
杭菊花(こうきくか)とは浙江省産のものをさしている。
一般的には杭菊花は頭痛や目の充血など炎症に対する作用が強いといわれている。
◇現在,川芎の主たる栽培地は北海道、東北地方,奈良県などで栽培されていて,
日本国内の需要を満たしている。
品質的には,痩せて,堅く,重実し,内部の色が白く,味が辛く,
香気の烈しいものが良いとされてきた。


http://kenseidou.net/shouyaku-kaisetu62


http://kenseidou.net/shouyaku-kaisetu226


http://kenseidou.net/shouyaku-kaisetu272



http://kanpou-keirin.com/contents/tonyo%20-%20tanzin.html

◎加減方

https://blog.goo.ne.jp/mumei_juku/e/fc26fab2b70650278d61c1627ec118c2

◎菊参湯の応用編
冠心二号方or生薬製剤二号方< 瘀血阻滞の証の方剤
http://murata-kanpo.ftw.jp/u21001.html

◎瘀血の原因(瘀血阻滞の形成原因)
瘀血が除去されないと新血が生じにくいため遷延すると血虚を伴いやすい。
それゆえ、活血化瘀薬を多用するとますます陰血を損耗しやすくなるため、
補血・補陰の薬物の配合が必要となることも多い。
http://murata-kanpo.ftw.jp/u20727.html

◎血府逐瘀湯との比較
地黄や当帰の配合により瘀血によって生じる血虚を補う
あるいは袪瘀しても陰血を損傷することなく便利な方剤
◆活血化瘀薬の加減< 地黄や当帰(補血・補陰).etc

虎杖根とレスベラトロール

2016-09-26 | 日記
(続) 虎杖根(コジョウコン)の臨床
◇原発性肝癌併発の症例に用いて、病状の安定(黄疸の悪化無し、
CRPの正常化)が三年余も得られていることを付記したい。

http://blog.livedoor.jp/doctorkojin/archives/16972410.html

虎杖(こじょう)・・活血定痛、清熱利湿、解毒、化痰止咳

http://kenseidou.net/shouyaku-kaisetu126
http://www.yakuzenjoho.net/chuyaku/kojou.html


https://twitter.com/hanamizuki171

 イタドリと「レスベラトロール」
◇レスベラトロールは外国産に太刀打ちできない理由とは?
◆ブドウからは少量しか抽出できないが、・・
http://antiaging.sora-1.net/article/47153646.html


http://jp.iherb.com/search?kw=resveratrol

無為と空

2016-09-24 | 日記

目に触れても、そのままにしなさい。
業識はそのまんまで、知と意で扱いさえしなければ、
いつでもゼロのはずである。そのこと、それを教えておる。
http://awarenessism.jp/?page_id=13717



業識に因り見聞する処は、我を立てる以前の事。

見よう聞こうと作為せずとも、見え聞こえてる。

己が観念で作ったものでなく、因縁による事実。

事実を事実のままに見聞する処に、我は立たず。

右を得る処は左を滅し、左を得る処に右を滅す。

右の景色と左の景色が重なる事は、決して無い。

右左の景色が重なるなら、色即是空とならない。

色即是空・空即是色は、観念の思想信条に非ず。

法の一切は事実の上の、内外一如の働きを示す。

事実が去った後にも残るのは、想念に過ぎない。

古今東西、釈迦の時代も今も事実に違いはない。

人の頭の数だけ異なるのは、個人的解釈である。

哲学的思惟も思想信条も、自我の解釈を離れず。

絶対と言う言葉はあるが言葉の上に絶対は無い。

言葉の概念は、一言を発すより相対を離れない。

右は左の左は右の概念を、既に前提としている。

故に概念上にある思想信条も、相対を免れない。

事実は対を絶ち、右は右の唯一、左は左の唯一。

法の一切は一得一失の前後際断、後先を知らず。

本来は当たり前、右や左と名付ける以前の面目。

想念の内にのみ、二見相対の比較と選択がある。

念を摑み離さず、揀択するのが我に他ならない。

我も因縁の働きで、実体として有る訳ではない。

計らいと執着の因縁で、我が起き生滅している。

想念も、その時々の事実として生じ滅してゆく。

事実と理想の狭間の、虚構の時間が人の迷い道。

修正された過去を未来に映す処に、標準が立つ。

事実を知と意で扱わない処は、我の建前が無い。

先覚が、"何もしなくとも良い"と示す処である。

我を投げ入れる仏の家とは日々の事実に等しい。

時々の事実に応じる事と法に従う事に別は無い。

ただ我が身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、
 仏の方より行われて、これに随いもてゆくとき、
力をも入れず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる。
                 <生死> 正法眼蔵

今日の縁: 観念でつくったものでは無い
https://www.youtube.com/watch?v=sF1Sq4xPTE0

不合理な説法

2016-09-03 | 日記


信じる信じないは我を立てるが如き処には無い

信不信も縁起であり信がある処は自他を忘じる

信じよう信じまいとする処は我の作為に等しい

自我の信仰は相対に過ぎず信は不信の影を宿す

既に信じている処では自己を忘じ相手もいない

疑念を縁に対象が隔たり同時に認める我を起す

我を立て信じる様な処は信じるフリに過ぎない

指導者が自らへの信仰を強いる処に道理はない

敢えて信仰を強要するのはカルトに他ならない

悟った儂が言う事だから素直に聞けとは不合理

弟子の疑問に釘を刺して封じるのは偽りの説法

法には悟る対象も悟りを得る主体も存在しない

指導者が己の悟りを自ら公称する処に法はない

弟子が決着をつけ導師の悟りを証するのである

特定の観念を植え付けるが如き処に道理はない

禅は自己の問と向き合い自ら問を消滅させる道

自己の疑問こそ肝心要であり答えの方ではない

己が問の滅する処に自己を忘じ答えの残滓なし

資格試験の如き問と答えの蓄積は自己修養の道

約束事は人の習俗にあり法に決まり行事はない

禅は学芸の如く技術や理屈を習得する処に非ず


        
       「 廓然無聖 」
武帝: 「私は、長く寺を作り経を写させ
   僧を育てたが、どんな功徳があるか?」
達磨: 「無功徳」 何の功徳もありません。
武帝: 「では仏教の最高の真理とは何か?」
達磨: 「廓然無聖」・・当たり前の事です。  
武帝: 「私の前に居るそなたは、何者か?」
達磨: 「不識」  ・・・ ぞんじません。