人の世は、滞在期間の定め無き、今日一日の旅の宿

 時 人を待たず、光陰 惜しむべし
 古より有道の人、国城 男女 七宝 百物を 惜しまず
 唯 光陰のみ、之を惜しむ

徳山托鉢

2012-01-30 | 日記




食事の合図をしてないのに、徳山が托鉢に来た。

雪峰が徳山をたしなめると、徳山は無言で帰る。

徳山を見抜けない雪峰を、巖頭はたしなめない。

巖頭が徳山を得心させた言葉の禅機は、何か?

もとより、無心を演じる事などできる筈もない。

幼心は無心に通じてるが異なる、と無門は云う。

自我未明と自我回帰が、同じ心で無いのは道理。

事実と一如の処は随処に応じ、自他を忘じてる。

認識が未明の処は不生ゆえ、始り終りを知らず。

徳山が従ったのは縁であり、雪峰の文句に非ず。

徳山の無言が末期の一句なら、生死に差別なし。


「形見とて 何か残さん 春は花
      夏ほととぎす 秋はもみぢ葉」良寛


 今日の縁: 第13則 「徳山托鉢

 https://plaza.rakuten.co.jp/shhd8/diary/201304280000/


清税孤貧

2012-01-27 | 日記


無力な若輩者ですので御力添えを、と清税が乞う。

名酒を三杯も飲んでいて、まだ足りないのか?と、

先生と呼ばれて気を良くした清税に、曹山は問う。

先生とおだてられ、清税は酔った我心を露呈する。

名称や呼称に、自我は己の矜持を隠し持っている。

謙虚さを装ってみても、自我の衣はすぐに綻びる。

装われるものが何であれ、却って我を養うだろう。

外ずらを装う程に、自己の本心は空洞化してゆく。

事実と装うべきイメージの狭間に、我が繁茂する。

為すも為さぬも、念を抱えた二人道中に謙虚なし。

法に己の境涯を知る己なく我の懐に宿る法も無し。

「水鳥の行くも帰るも跡絶えて、
      されども路は忘れざりけり」 ..道元

今日の縁:雪担語録 「清税孤貧」
http://tozanji.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-644d-7.html

大通智勝

2012-01-26 | 日記


長く修行する大通智勝仏が、仏道を完成しないのは何故か?

大通智勝は完成を目的としない仏だからだ、と讓和尚は答えた。

無我の法門は、達成して何か別の自分になる道中ではないのだ。

定規のある門ならば、概念を習得すれば卒業に至るかもしれない。

知識に基づいた見識に依って身を立て、栄達も可能となるだろう。

無我の入門は、自己という存在の無を明らめる道中に他ならない。

自在れば他在り、他を認めることは自らを認めることに等しい。

他者を意識する処に自己を意識し、自己の忘じられる道理はない。

それ故、他者に認めれる自己という身の確立は、目的とならない。

相対の知識で一角のものには成れても、安心立命には至らない。

自らが自らの無明を救う為のプロセス自体が、道の目的である。

無明なものが他者救済の旗を掲げても、何処へ導こうというのか。

自らを光りとなすならば、作せずして他も照らしてゆくに違いない。

胡子無鬚

2012-01-21 | 日記


或庵和尚が問う、西から来た祖師に髭がないのは、何故なのか?

ダルマ(法)と一体であれば、ひげ(法)が見えないのは道理。

法を認める瞬間には、法の抜け殻(影)と我の二人連れとなる。

事実(今)は認識の以前に在って、法と我は一如に動いている。

法と一体である処(今)は、認められる法も認識する我も無い。

法が認識される瞬間には、既に法と我に分かれてしまうだろう。

対象を認める処は、見ている我(過去)が既にそこに居るのだ。

認識後に見てる対象は、事実に映す我の影(過去)に過ぎない。

分別が立つ処は我の懐に他ならず、文字の上には既に法は無い。

物事を認識している自我が不在ならば、一切は法に他ならない。

随所の只今に我を忘じる処は、認識の対象も無に帰ってしまう。

無心の処には我も対象も無く、迷う者も悟った者も居ないのだ。

  「花は無心で蝶を招き、蝶は無心で花を尋ねる」 ..良寛

今日の縁: 第4則 胡子無鬚(こすむしゅ)
http://www.asahi-net.or.jp/~zu5k-okd/house.14/mumonkan/gate.3.htm