正念相続
2012-07-12 | 日記
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自我の物差し次第で、如何様にも解釈できる見解などに法はない。
想像力の豊かな自我が、神秘的でどの様な白昼夢を見たとしても、
白昼夢に対して、崇高でもっともらしい意味が与えられようとも、
想念は自我を離れることはできず、思考の反映に過ぎないものだ。
想念に与えられる意味も、自我の恣意的な解釈を離れてはいない。
霊性は命と同様に生きた働きであり、思考では捉えられないのだ。
過去に過ぎない思考が、生きた働きである霊性を捉える術はない。
認識により捕捉できるのは、既に過去となった残像物に過ぎない。
崇高な衣を纏っていても、屍に過ぎない心象や観念に霊性はない。
それゆえ達磨は、悟りとは何か?と問われて『廓然無聖』と示し、
お主はいったい何者なのか?と問われ、『不識』と武帝に応えた。
自らが抱え込む心象や解釈が自我それ自体であり、他に我はない。
事実と同時成道の処は、未だ認める対象なく認める我も未だ不生。
自我とは過去の心象や観念と一体化した、思い込みに他ならない。
理解に依り心象や観念を蓄積するなら、自己を忘じる道理はない。
蓄積した観念と心象に因り、自我は益々強化されてしまうだろう。
法は不立文字ゆえ、思量分別によって理解され得るものではない。
他者の言に眩まされ、己が心の今の様子を留守にしては埒もない。
為すべきは正念相続し、自らを一大事因縁に委ねるより他はない。