依存症離脱の共同体には、教義教則が無い。
有るのは経験則のみ、支配の道具ではない。
目的を共有するが、思想信条は個人に属す。
対等な関係であり、主従関係の柵などない。
自己に習い、他者の教導に習う処ではない。
己の発心が師であり、問いが導き手である。
互いの過去の事実、今の事実を分かち合う。
サクセスストリーの如き、講釈話と異なる。
失敗を認め得る正直さが、回復の鍵となる。
躓きや陥穽は、経験をした者のみが知る処。
失敗の共有が、他者には経験の回避へ導く。
故に他者の経験見解を、模倣する場に非ず。
模倣から権威と依存が生じ、主体性を失う。
宗教組織の如き、共依存的な関係と異なる。
依存できる指導者や、頼るべき観念は無い。
依存心が権威者を生み、盲人が盲人を導く。
法は只今の事実に在り、特定の方向が無い。
主体性が脆弱であれば、離脱には覚束ない。
主体性の成長が、依存症回復の基礎となる。
隔離病棟や矯正施設では、主体性を得ない。
主体性が脆弱なら、放免の途端に再発する。
自由を奪われた処に、主体性は育成しない。
主体性は、自由と自己責任と共に成長する。
観念に頼り自縄自縛する処は、自由を失う。
右へ左へ二転三転と、相対の回廊を彷徨う。
観念と同化する処は、過去の継続に等しい。
法は応無処住の自由と、只今の事実に在る。
故に 「 随所作主 立処皆真 」と臨済は示す。
依存症仲間の死は、常に身近な存在である。
20年目に再発した彼の訃報は意外だった。
支援者が老齢で世を去り数ヶ月後だと言う。
彼の支援者ともども古くからの知人だった。
彼が最後に残した無言のメッセージである。
己の拠り所は何か?改めて考えさせられた。
達成の極なく、始まりと終わりのない道中。
幾年月重ねるも、今日は最初で最後の一日。
”自らを灯明とし法を灯明として他を灯明とせざれ。”
佛陀
今日の縁:「日面仏、月面仏、疾病裏に閑活計たれ」
http://k-r-c.cocolog-nifty.com/takuwa/2008/06/post_7562.html
己事究明
2016-10-22 | 日記
依存症離脱プログラムは己事究明である。
自己の理想ではなく、自己の事実を扱う。
己自身の過去と現在の、事実と向き合う。
嘗てどうであったか、今どうであるのか?
事実には、どうあるべきかの尺度がない。
どうあるべきだったかの釈明も必要ない。
評価がなく、裁かれる者も裁く者もない。
自らを他人事に扱う自己分析とは異なる。
分析は分析する者と分析される者を含み、
自らを対象に、良し悪しの分別を付ける。
尺度が自他を隔て、自己を他人扱いする。
事実を見る処に隔ては無く、自他がない。
見る処は自分自身の事、他人の事に非ず。
自己に背を向け理想を追う事から離れる。
理想は夢に現(うつつ)を抜かすに同じ。
故に、事実と己からの逃避と異ならない。
事実を見る処は、自らの欺瞞が曝かれる。
己を欺むく己の嘘が自ずと明らかとなる。
隠されてた自責の念、羞恥心とも出逢う。
それ故、依存症離脱の第二の関門となる。
事実と向き合う過程で、欲求は枯渇する。
欲求の抑圧も、自分自身との戦いも滅す。
知識の蓄積、納得を求める習学ではない。
事実は、己の納得も他人の承認とも無縁。
事実は、知にも属さず不知にも属さぬ処。
理屈で自己を縛り、自らを運ぶ道に非ず。
自己に親しみ、事実と一如の道中である。
有時
2016-10-17 | 日記
一切の心には玄関や奥座敷など無い。
二元性は、想念の上にのみ存在する。
生じ滅す事実の上に二見は立たない。
今日只今を離れた他の処に法は無い。
心は、身体の内側だけの存在に非ず。
生じ滅す内外一如の処が、本来の心。
己が頭の想念にのみ、隔てが生じる。
当たり前の本来の面目に、別処無し。
法は明歴々露堂々、秘密の処が無い。
それ故、自ら至るべき他の処もない。
”成る”は他を求める己が幻想の時間。
虚構される時間と、己の住す処は同じ。
求め心を求め心で滅す処に、他は無い。
他の無い処は隔てなく時間も己も無い。
”在る”は、道元有時の、只今の事実。
右の景色の生ず処は、左の景色を滅す。
右は右の左は左の、一時の事実に在る。
生じ滅す処は、古いものの延長に非ず。
左の景色が、右の景色に成ると言わず。
夏が秋に成ると言わぬ処に同じである。
薪が燃えて灰に成るのは、想念上の事。
想念にのみ薪と灰の比較と時間がある。
彼此の隔て無ければ、時間も存在せず。
薪の事実、灰の事実、は、只今の事柄。
一方の事実ある処、他方の事実は無い。
一得一失の処、比較は立たず時間なし。
一切は、只今に生じ滅す一時の在り様。
因果は観念では無く、今日只今の事実。
過去現在未来は、今日只今の他に無い。
過去現在未来の分別は、己が想念の内。
”在る”事は、只今の事実に他ならない。
~に成った、~に成ろう、は、己が観念。
”在る”事は、”成る”事の時間を含まず。
事実が生じ滅してゆく処は、今を離れず。
正念も只今の事実、己が善悪以前の事。
事実と理想、善と悪の狭間が己の迷う闇。
善悪も、只今の因縁に応じて生じ、滅す。
迷いは想念上の、二見の狭間に生じる。
今日只今に始まり・終わりの隔ては無い。
一息の如く、最初の一歩が最後の一歩。
事実が事実として生滅する処に迷い無し。
求心やむ処は、隔てなく時間なく己もない。
隔て・時間のない処が、不生不滅の永遠。
何処から来て何処へ去る?の問いも滅す。
答えは問いの滅する処、解釈の上に非ず。
「死にはせぬ何処へも行かぬ此処に居る」
一休
今日の縁: 一得一失の話
http://www7b.biglobe.ne.jp/~zuiun/121ittoku.html
第一五則 洞山三頓
http://plaza.rakuten.co.jp/shhd8/diary/201303280000/
有時 / 正法眼蔵
http://www.asahi-net.or.jp/~zu5k-okd/house.14/shobo/h1syobou2.htm