人の世は、滞在期間の定め無き、今日一日の旅の宿

 時 人を待たず、光陰 惜しむべし
 古より有道の人、国城 男女 七宝 百物を 惜しまず
 唯 光陰のみ、之を惜しむ

自灯明 法灯明

2016-10-24 | 日記



依存症離脱の共同体には、教義教則が無い。

有るのは経験則のみ、支配の道具ではない。

目的を共有するが、思想信条は個人に属す。

対等な関係であり、主従関係の柵などない。

自己に習い、他者の教導に習う処ではない。

己の発心が師であり、問いが導き手である。

互いの過去の事実、今の事実を分かち合う。

サクセスストリーの如き、講釈話と異なる。

失敗を認め得る正直さが、回復の鍵となる。

躓きや陥穽は、経験をした者のみが知る処。

失敗の共有が、他者には経験の回避へ導く。

故に他者の経験見解を、模倣する場に非ず。

模倣から権威と依存が生じ、主体性を失う。

宗教組織の如き、共依存的な関係と異なる。

依存できる指導者や、頼るべき観念は無い。

依存心が権威者を生み、盲人が盲人を導く。

法は只今の事実に在り、特定の方向が無い。

主体性が脆弱であれば、離脱には覚束ない。

主体性の成長が、依存症回復の基礎となる。

隔離病棟や矯正施設では、主体性を得ない。

主体性が脆弱なら、放免の途端に再発する。

自由を奪われた処に、主体性は育成しない。

主体性は、自由と自己責任と共に成長する。

観念に頼り自縄自縛する処は、自由を失う。

右へ左へ二転三転と、相対の回廊を彷徨う。

観念と同化する処は、過去の継続に等しい。

法は応無処住の自由と、只今の事実に在る。

故に 「 随所作主 立処皆真 」と臨済は示す。

依存症仲間の死は、常に身近な存在である。

20年目に再発した彼の訃報は意外だった。

支援者が老齢で世を去り数ヶ月後だと言う。

彼の支援者ともども古くからの知人だった。

彼が最後に残した無言のメッセージである。

己の拠り所は何か?改めて考えさせられた。

達成の極なく、始まりと終わりのない道中。

幾年月重ねるも、今日は最初で最後の一日。

”自らを灯明とし法を灯明として他を灯明とせざれ。”
                     佛陀
今日の縁:「日面仏、月面仏、疾病裏に閑活計たれ」
http://k-r-c.cocolog-nifty.com/takuwa/2008/06/post_7562.html


己事究明

2016-10-22 | 日記


依存症離脱プログラムは己事究明である。

自己の理想ではなく、自己の事実を扱う。

己自身の過去と現在の、事実と向き合う。

嘗てどうであったか、今どうであるのか?

事実には、どうあるべきかの尺度がない。

どうあるべきだったかの釈明も必要ない。

評価がなく、裁かれる者も裁く者もない。

自らを他人事に扱う自己分析とは異なる。

分析は分析する者と分析される者を含み、

自らを対象に、良し悪しの分別を付ける。

尺度が自他を隔て、自己を他人扱いする。

事実を見る処に隔ては無く、自他がない。

見る処は自分自身の事、他人の事に非ず。

自己に背を向け理想を追う事から離れる。

理想は夢に現(うつつ)を抜かすに同じ。

故に、事実と己からの逃避と異ならない。

事実を見る処は、自らの欺瞞が曝かれる。

己を欺むく己の嘘が自ずと明らかとなる。

隠されてた自責の念、羞恥心とも出逢う。

それ故、依存症離脱の第二の関門となる。

事実と向き合う過程で、欲求は枯渇する。

欲求の抑圧も、自分自身との戦いも滅す。

知識の蓄積、納得を求める習学ではない。

事実は、己の納得も他人の承認とも無縁。

事実は、知にも属さず不知にも属さぬ処。

理屈で自己を縛り、自らを運ぶ道に非ず。

自己に親しみ、事実と一如の道中である。

有時

2016-10-17 | 日記


一切の心には玄関や奥座敷など無い。

二元性は、想念の上にのみ存在する。

生じ滅す事実の上に二見は立たない。

今日只今を離れた他の処に法は無い。

心は、身体の内側だけの存在に非ず。

生じ滅す内外一如の処が、本来の心。

己が頭の想念にのみ、隔てが生じる。

当たり前の本来の面目に、別処無し。

法は明歴々露堂々、秘密の処が無い。

それ故、自ら至るべき他の処もない。

”成る”は他を求める己が幻想の時間。

虚構される時間と、己の住す処は同じ。

求め心を求め心で滅す処に、他は無い。

他の無い処は隔てなく時間も己も無い。

”在る”は、道元有時の、只今の事実。

右の景色の生ず処は、左の景色を滅す。

右は右の左は左の、一時の事実に在る。

生じ滅す処は、古いものの延長に非ず。

左の景色が、右の景色に成ると言わず。

夏が秋に成ると言わぬ処に同じである。

薪が燃えて灰に成るのは、想念上の事。

想念にのみ薪と灰の比較と時間がある。

彼此の隔て無ければ、時間も存在せず。

薪の事実、灰の事実、は、只今の事柄。

一方の事実ある処、他方の事実は無い。

一得一失の処、比較は立たず時間なし。

一切
は、只今に生じ滅す一時の在り様。

因果は観念では無く、今日只今の事実。

過去現在未来は、今日只今の他に無い。

過去現在未来の分別は、己が想念の内。

”在る”事は、只今の事実に他ならない。

~に成った、~に成ろう、は、己が観念。

”在る”事は、”成る”事の時間を含まず。

事実が生じ滅してゆく処は、今を離れず。

正念も只今の事実、己が善悪以前の事。

事実と理想、善と悪の狭間が己の迷う闇。

善悪も、只今の因縁に応じて生じ、滅す。

迷いは想念上の、二見の狭間に生じる。

今日只今に始まり・終わりの隔ては無い。

一息の如く、最初の一歩が最後の一歩。

事実が事実として生滅する処に迷い無し。

求心やむ処は、隔てなく時間なく己もない。

隔て・時間のない処が、不生不滅の永遠。

何処から来て何処へ去る?の問いも滅す。

答えは問いの滅する処、解釈の上に非ず。

「死にはせぬ何処へも行かぬ此処に居る」
                      一休

今日の縁:    一得一失の話
http://www7b.biglobe.ne.jp/~zuiun/121ittoku.html
         第一五則 洞山三頓
http://plaza.rakuten.co.jp/shhd8/diary/201303280000/
         有時 /  正法眼蔵
http://www.asahi-net.or.jp/~zu5k-okd/house.14/shobo/h1syobou2.htm