アジアの歌姫、テレサ・テン BSジャパン2時間スペシャル:
私達の世代ですら、戦前の李紅蘭(山口淑子)や渡辺浜子の唄った「何日君再来」とか、「夜来香」、「蘇州夜曲」などは、子供の頃に、何処かで、耳にした覚えはあっても、実際には、同時代的に、聞いていたわけではない。ましてや、山口淑子が、李紅蘭であったことは、知っているものの、彼女が、戦時中、どのような役割を演じていたのかは、残念乍ら、母の世代は、まさに、同世代・同時代だったから、親近感が強かったものの、我々の世代では、残念乍ら、よく、分からないのが、現実であろうか。どこで聞いたのか、今では、忘れてしまったが、香港だったか、台北だったか、テレサ・テンが唄う「何日君再来」とか、「夜来香」、の曲を日本語と中国語で聴いたとき、何処かで、子供の頃に、聞いたような感じが蘇ってきたものである。逆に、彼女のヒット曲である「つぐない」、「愛人」、「時の流れに身をまかせ」等が、日本の曲であることを、当時、どれ程のアジアの人達や中国人が知っていたであろうか?丁度、それは、李紅蘭というコインの裏表なのかも知れない。実は、テレサ・テンという台湾人が、時代を変えて、形を変えて、この時、日本人を演じていたのかも知れない。それは、インドネシア偽パスポート事件や、台湾・大陸との狭間で生じた中国統一問題、そして、1989年の天安門事件、等、皮肉にも「愛国芸人」と、呼ばれざるを得なかった当時の政治状況に翻弄された国際歌手の宿命だったのかも知れない。「昼は、鄧小平が支配するが、夜は、鄧麗君が、支配する」というアングラでの持ち歌の禁止措置が未だ執られていた時代の所以なのかも知れない。それにしても、作曲家、三木たかしと、作詞家、荒木とよひさの2人のコンビによる楽曲の提供は、壮絶な闘いがあったこと、そして、そこに、隠された彼らの独自の意図と、それを超越する歌手という表現者の合作であることが、改めて、知ることが出来る。そえは、まるで、ある種の馬と名伯楽、或いは、競走馬と騎手との関係、ストラスバリウスとバイオリニストとの関係のようなものであろうか?意図的に、歌手の精神的な高揚を解き放さないような抑制的なメロディー・ライン、逆に、一音階高い次元に、意図的に、歌手を持って行く方策、或いは、日本語の助詞に、韻を踏みながら、強い情感と長い余韻を残させながら、歌わせる歌詞とか、曲先行であったり、逆に、詞先行であったり、まさに、作曲家・作詞家・表現者の歌手という三位一体になった眼に見えない闘いが、そこにはあったことが知れる。日本語の表現力には、恐らく、歌手という表現者の天才的な才能が、実は、彼女の中に、血の中に、身体の中に、宿っていて、それが、メロディー・詞と相俟って、アジアの人々の心に、国籍を問わず、国境を超えて、しみ込んでいったのかも知れない。だからこそ、多数のカバー曲も平気で、こなしていけたのかも知れない。大陸出身の歌手や台湾の歌手が、同じ歌を歌手も、そこにあ、どうも、「歌の世界観」が感じ取られないのは、どうしたわけであろうか?それにしても、42歳の若さで、逝ってしまったのは、おおいに、残念である。最期に歌った、民主化支援集会での「ふるさとの向こうに、、、、、」という歌を聞いた民主化を切望していた当時の中国の人は、何を感じたのであろうか?そして、今、ウクライナでは、どんな歌が唄われているのであろうか?何でも、女房殿によれば、私の友人である関係者の筋から、切符を貰い、まだ、デビュー間近だったテレサ・テンの歌を一緒に、聴きに行ったことがあると云われたが、何故、私は、その記憶がないのであろうか?困ったものである。それとも、女房殿は、他の誰かと行ったのであろうか?歌というものは、聴き方次第で、実に面白いものである。
私達の世代ですら、戦前の李紅蘭(山口淑子)や渡辺浜子の唄った「何日君再来」とか、「夜来香」、「蘇州夜曲」などは、子供の頃に、何処かで、耳にした覚えはあっても、実際には、同時代的に、聞いていたわけではない。ましてや、山口淑子が、李紅蘭であったことは、知っているものの、彼女が、戦時中、どのような役割を演じていたのかは、残念乍ら、母の世代は、まさに、同世代・同時代だったから、親近感が強かったものの、我々の世代では、残念乍ら、よく、分からないのが、現実であろうか。どこで聞いたのか、今では、忘れてしまったが、香港だったか、台北だったか、テレサ・テンが唄う「何日君再来」とか、「夜来香」、の曲を日本語と中国語で聴いたとき、何処かで、子供の頃に、聞いたような感じが蘇ってきたものである。逆に、彼女のヒット曲である「つぐない」、「愛人」、「時の流れに身をまかせ」等が、日本の曲であることを、当時、どれ程のアジアの人達や中国人が知っていたであろうか?丁度、それは、李紅蘭というコインの裏表なのかも知れない。実は、テレサ・テンという台湾人が、時代を変えて、形を変えて、この時、日本人を演じていたのかも知れない。それは、インドネシア偽パスポート事件や、台湾・大陸との狭間で生じた中国統一問題、そして、1989年の天安門事件、等、皮肉にも「愛国芸人」と、呼ばれざるを得なかった当時の政治状況に翻弄された国際歌手の宿命だったのかも知れない。「昼は、鄧小平が支配するが、夜は、鄧麗君が、支配する」というアングラでの持ち歌の禁止措置が未だ執られていた時代の所以なのかも知れない。それにしても、作曲家、三木たかしと、作詞家、荒木とよひさの2人のコンビによる楽曲の提供は、壮絶な闘いがあったこと、そして、そこに、隠された彼らの独自の意図と、それを超越する歌手という表現者の合作であることが、改めて、知ることが出来る。そえは、まるで、ある種の馬と名伯楽、或いは、競走馬と騎手との関係、ストラスバリウスとバイオリニストとの関係のようなものであろうか?意図的に、歌手の精神的な高揚を解き放さないような抑制的なメロディー・ライン、逆に、一音階高い次元に、意図的に、歌手を持って行く方策、或いは、日本語の助詞に、韻を踏みながら、強い情感と長い余韻を残させながら、歌わせる歌詞とか、曲先行であったり、逆に、詞先行であったり、まさに、作曲家・作詞家・表現者の歌手という三位一体になった眼に見えない闘いが、そこにはあったことが知れる。日本語の表現力には、恐らく、歌手という表現者の天才的な才能が、実は、彼女の中に、血の中に、身体の中に、宿っていて、それが、メロディー・詞と相俟って、アジアの人々の心に、国籍を問わず、国境を超えて、しみ込んでいったのかも知れない。だからこそ、多数のカバー曲も平気で、こなしていけたのかも知れない。大陸出身の歌手や台湾の歌手が、同じ歌を歌手も、そこにあ、どうも、「歌の世界観」が感じ取られないのは、どうしたわけであろうか?それにしても、42歳の若さで、逝ってしまったのは、おおいに、残念である。最期に歌った、民主化支援集会での「ふるさとの向こうに、、、、、」という歌を聞いた民主化を切望していた当時の中国の人は、何を感じたのであろうか?そして、今、ウクライナでは、どんな歌が唄われているのであろうか?何でも、女房殿によれば、私の友人である関係者の筋から、切符を貰い、まだ、デビュー間近だったテレサ・テンの歌を一緒に、聴きに行ったことがあると云われたが、何故、私は、その記憶がないのであろうか?困ったものである。それとも、女房殿は、他の誰かと行ったのであろうか?歌というものは、聴き方次第で、実に面白いものである。