地元のコンテンツに考える:
何でも150年あまり前に建てられた農家の自宅で、女房殿と一緒に、夕食に招かれたので、先日の函館土産を携えて、お食事を呼ばれてきた。久しぶりの運転手付きだから、その日は、日本酒を一杯だけ、戴くことにした。成る程、冷や酒を頼んだから、お猪口かと思いきや、大きなコップに、つがれて、出されたが、何かの拍子に、お猪口と徳利の話になり、お母さんが、そんなものは、腐るほど、漆器と共に、裏の土蔵に、埃を被っていると云うではないか?そこで、台所の引き出しから、徐ろに、三つばかりを見せてくれた。なかなか、時代物風である。裏返して、よくよく、見れば、九谷焼と記されている。どうやら、江戸時代の代物でありそうである。話が、それで、盛り上がり、漆器のお膳の話になると、今度は、お祝い用の大きな膳や漆器、お皿のセット共に、古い大きな酒徳利までもが、運ばれてきた。いやはや、あるところには、眠っているものである。全く、明治期の美術品の価値を知らなかった日本人の如きである。何でも、好きな人は、遠慮なく、無断で、ポケットに、お猪口などは、持ち帰ってしまうような不届きな者が多いそうである。そんなこんなで、いつの間にやら、セットが、欠けてしまい、端数になってしまったそうである。全く、勿体ない話である!それにしても、観光のコンテンツというやつは、何処にでも、ひっそりと、眠っているものであることが、実感される。問題は、その価値を知り、どのように、活用するために、付加価値をつけるかと云うことなのであろう。考えてみれば、精進料理なども、所詮、安い野菜なのに、ストーリーを作り、作り方を説明し、食文化の歴史を、食器や漆器と共に、宣ってしまえば、『日本人は、舌で味わう前に、眼で、食べるのである!』などと、説明すれば、もうそれは、立派な文化的な付加価値が、つくことになるのである。誠に、勿体ない話である。これは、溜まらなく、面白くなりそうである。