根津美術館、『物語をえがく』展を観る:
王朝文学から、お伽草紙まで、という副題の絵巻物を中心とする美術展である。一体、どれ程の人が、今日、本を読んでいるのであろうか?電車に乗れば、ほとんど、向かいに座っている人は、スマホをいじっているが、本を読んでいる人は実に少ない。幕末から、明治期に掛けて、学校を作って、教育を受ける機会の均等ということを目指したものであるが、一体、平安時代や、それ以前には、文字を読むということは、どれ程の人が出来たのであろうか、又、どのように、文化とは、創造され、或いは、継承されていったのであろうか?思わず、この展示会を観ながら、そう思わずにはいられない。絵巻物をみていると、確かに、当時の人々の様子や生活の様が、如実に実感されるが、文字だけでは、確かに、確認されないのかも知れない。その意味では、当時の絵の描き方というものも、絵画史の中では、重視されなければならないのかも知れない。又、それは、日本だけではなくて、アジアの歴史や西洋との文化史や絵画史として、正当に評価されなければならないのかも知れない。そういう比較文化史や絵画史という側面から、改めて、この絵巻物を眺めると、大変興味深いものがある。物語というものは、どうやら、書物としての存在よりも、絵巻物として、描かれていることで、その存在が、再発見されていることは、実に面白い。この伊勢物語などは、文献上では、源氏物語の中で、知られているものであるが、そこにおいては、既に、絵巻物として、登場する。もっとも、墨画淡彩故に、(墨を主体に淡く、描かれている以上)、現物の屏風絵や画帖は、残念乍ら、薄く霞んでいて、絵の解説が施されていないと、何の事やら、さっぱり、認識できないのも、事実である。それにしても、絵巻、冊子、色紙、懐紙、扇子、巻物、画帖、屏風、画巻、等のこれらが、やがて、大画面の襖、屏風へと、室町・江戸時代へと、技法や絵の具の発展と共に、近世へと進化して行くことになる訳である。この物語の描写では、『和歌のやり取りの情景描写』が、名場面として、描かれていたり、或いは、軍記物や仇討ちものや、お伽草紙などのストーリーともに、順に、その描かれた絵を目で追って、楽しむという手法は、現代の漫画のようでいて、面白い。西行物語絵巻・酒呑童子絵巻・曽我物語図屏風・平家物語画帖、等は、絵を目で追うだけでも、当時の人が、どのように観ていたのかを想像するだけでも、往事に、タイム・スリップしたみたいで、不思議な感覚に陥る。江戸時代、17世紀頃に、描かれたとおぼしき『源氏物語・浮舟図屏風』は、巨大な6曲1隻な屏風で、しかも、俵屋宗達にも、影響を及ぼしたであろうと思われる黄金色の金箔色に塗られた(もっとも、現物は、今日、くすんでしまって、その輝きを失ってしまっているが、)左下から、右上へ大胆に描かれた舟の中で、男女が、情交をかわす情景を、和歌で、描いているのは、何とも、印象的である。
『年経とも 変わらぬものか 橘の 小島の崎に 契る心は』
(何年経とうとも、変わりません、橘の小島の崎で約束する私の心は)
『橘の 小島の色は 変わらじを この浮舟ぞ 行方知られぬ』
(橘の小島の色は変わらないでも、この浮き舟のような私の身はどこへ行くのやら)
往事の人々は、この屏風図を眺めたときに、何を、一体、感じたのであろうか?想像するだけでも、興味深い。
美術館の日本庭園には、旧い石像が多数配置されていて、それが、茶室や池や樹木と実に、大都会の喧噪の中で、そこだけは、微妙な静寂と日本的な空間が織りなし、しし威しの音色だけが、初冬の温かな午後に、突然、コツンとこだましていた。展示物を見終わったら、庭園内のカフェで、一服しながら、庭園を散策するのも、これ又、一興であろう。12月23日(水・祝)まで開催予定、