小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

唄の力・再考=さおり由紀&Pink Martini 1969

2011年12月01日 | 社会戯評
御巣鷹の峰で、突然、航空機事故に遭難して急逝した坂本九が、歌った「上を向いて歩こう」が、米国で、「スキヤキ」という題名に変更されて、当時のビルボードのヒット・チャートを席捲していた頃(1963年)、中学生の私は、「アメリカ人が、日本語の唄を聴いて、感動するんだ」ということに、驚く自分を、今でも、想い出す。当時は、アメリカの音楽を日本流に、意訳・訳詞し、所謂、オールディーズとして、英語の勉強も兼ねて、よく、聞いたものである。(今でも、英語のカラオケは、その当時の歌である。)ポートランドで、旧い由紀さおりの夜明けのスキャットのレコードが、ピンク・マーティニの耳に(?)とまり、その延長線上で、由紀さおりとのコラボで、1969当時の歌謡曲等を、カバー、演奏したものが、米国やカナダで、今、はやっているらしい。(そう言えば、この年には、慶応ベ平連を中心に、新宿の西口地下広場で、反戦フォーク歌声運動が展開されていたことを想い出す。) 私は、音楽評論家ではないので、何とも、今回の米国でのこの現象は、それこそ、東日本大震災を機に、日本国籍を取得して、来日を果たした碩学であるドナルド・キーン先生にでも、じっくり、歴史的・文化的な背景を分析・評論して貰いたいところである。(それは、無理だろうか?キーン先生は、夜明けのスキャットを聴いたことがあるだろうか?)「同時代性」というのは、結構、やっかいなもので、その時点では、その存在や偉大さに、気がつかないものである。美空ひばりでも、ちあきなおみでも、舞台から消え去って初めて、その偉大さが、分かるものなのであろう。カバー曲の佐良直美や、いしだあゆみ、黛ジュン、ボサノバのリズム曲も、耳に、懐かしく、心地良い。唄や音楽は、言語やイデオロギーの壁を超えて、全ての人に、感性・情緒に、何の制限もなく、直接的に、訴えかける何かが、あるのであろう。何も、韓流Kポップのような国を挙げて、輸出産業を、意図的に作る必要があるのだろうか?(もっとも、逆説的に謂えば、輸出産業としての人為的な文化の輸出は、ソフト・パワーのひとつとして、役には立つのであろうが、、、、)日本人は、何とも不可思議な民族である。外国からの評価や、TPPのような外圧がないと、どうも、経済システムのみならず、日本独自の文化的な価値や伝統を、再認識できないようである。ビジネス英語を話せても、江戸時代の醤油の歴史と寿司の文化を、詳しく、関連づけて、英語で、説明できる若い人が、少ないのは残念である。CD業界も、音楽ダウンロードに、押され気味であると聞くが、結局、旧き良きいものは、その新たな価値を吹き込まれずに、ただ、ひたすら、そこに、眠って待っているだけなのであろう。それを発掘し、新しい命を吹き込み、新たな価値に、加工・創造するのは、まさに、一人一人の責務であるように、このニュースを聞いて、想わずにはいられなかった。何はともあれ、元気になって貰いたいものである。歌手の声が、多少衰えていても、良いではないだろうか?良いものは、時空を超えて、良いのである。「温故知新」!吉永小百合が、ロンドンで、詩を朗読して、イギリス人聴衆(日本語に親しんでいる人ではあるが、、、)に感銘を与えたのも、やはり、日本語と英語の壁を、乗り越えた素晴らしいことで、私達は、日本語に、もっと、自信を持って良いのではないだろうか?





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