=映画、<ラジオ・コバニ>を観る」
自分の描いていた未来への理想図が、突然のISによる侵攻により、一転したとき、女子学生の彼女は、<ラジオ・コバニ>というミニコミ・メディアを駆使して、情報発信を試みた。そして、その問いかける口調は、<未来の自分の子供達>に、真実を伝えたい、残したいという思いだったのであろうか?親しかった幼なじみの友人のむごたらしい処刑への思い、或いは、クルド女性部隊の軍人達の戦い、そして、何よりも、捕虜として、インタビューを受けることになった、IS戦士の、<家族に会いたい、自分の安全を知らせて貰いたい!>と懇願する、或いは、無知と貧困から、ISに協力せざるを得なかった言う後悔ともつかぬ、告白など、更には、ブルドーザーによる、空爆で死亡したと想われる、敵味方の区別もつかぬような苦悶に満ち満ちた詩風が漂う、ブルドーザーによる死体処理現場、臀部と想われる太ももの一部や頭部と想われる一部や苦悶に満ちた骸骨顔の表情や、戦争の残酷さが、真正面から、画像の中に、描き出される。それにしても、平和というものは、あっけなく、いとも簡単に、日常生活が壊され、破壊し尽くされてしまうモノである。復興を遂げようとする過程や、最期には、主人公が、結婚式に向かうシーンで、人々の祝福を受けながら、<新しい未来に向かって出かける>シーンで、終わっているが、日常生活とは、かように、食べて、恋愛談義をして、日々過ごしながら、IS戦士も、恐らく同様に、敵味方を隔てることなく、時間が過ぎ去っていったのであろうことを、改めて見せつけている。この主人公は、その後、一体、どのような暮らしを、日常生活を取り戻していったのであろうか?そして、捕虜となったIS戦士は、更には、あのクルド女性部隊の指揮官達は、、、、、、、。日常の平和と安寧に、感謝するとともに、その脆さ・はかなさ・不確かさにも、常に、同時に、気配りしていないと、容易に、気づかぬうちに、破壊されてしまい、非日常へと落とし込められてしまうものである。