平日の昼間だというのに、なかなかの入りである。カンヌ映画祭、パルムドール受賞作品であるせいなのだろうか、それとも、今後、日本でも、予想される格差社会招来に対する密かな関心と微妙な最近の日韓関係を危惧している中年韓流マダム達のグループが後押ししているせいだろうか、よく事情は、飲み込めぬが、なかなか、興味深いものがある。
それにしても、多少はブラックコメディー風な筋書きであるものの、映画を観る立場の側の観客からすれば、心の奥底では、ひょっとしたら、上流富裕階層に寄生するパラサイト生活がヒョッとしたら、うまくゆき、ハッピーエンドに終わるのではないかと、淡い期待を抱かせてしまうものであるが、映画の脚本とは、そもそも、そんなに甘いものではないのが、この映画を見終わって初めて知ることになる。ネタバレは決してしないで貰いたいというポン・ジュノ監督の気持ちも分からなくはない。
日本では、半地下なる方向へ向かうのではなくて、寧ろ、上へ上へと高層化を果たしたのに対して、1960年代の北朝鮮と対峙してきたという政治的・軍事的な状況から、どうしても、地下壕や地下室避難は、不可欠な建築様式でもあり、成る程、有事の避難場所であることを推奨されたことも、納得されるものがある。(この映画の中では、ヤミ金融業者からの取り立てから逃れるための一種のパニック・ルームのような位置づけであることは興味深いことである。)そのことは、映画の中でも、奇しくも同じような境遇であることを共通項に持つ二つの家族の地下生活家族同士の会話の中にも、金正恩のおなじみの演説の応酬にも垣間見られて面白い。
それにしても、半地下式の<窓>を通じて、<社会の窓>を<下から上へ><高低差>として眺めることは、如何にも、現実社会の<階級格差の上下階層>を象徴しているようであるし、様々な場面で展開される、<階段や石段>も、そして、そこから<躓いたり、転げ落ちる>行為なるものも、又、<中産階級からの転落・没落を暗示>しているとも考えられる。それは考えすぎだろうか?それとも、<まだ、没落を実感していない人間の上から目線的余裕>なのであろうか?
人生は、自分の意図した計画通りに、進むものでもないし、むしろ、予期せぬ方向へと現実は自分を推し進めてゆくものであることを、改めて父と息子は洪水被害に遭って命からがら逃げてきた避難所でしみじみと、友人の祖父から譲り受けた<山水景石>を金運の象徴の如く、持ち出すのも、何か、自分の中で、<譲れないもの>、一種の誇りのようなもののようにも、目に映ってしまう。それにしても、父にしても様々な事業に失敗し、母にしても、スポーツ競技の中で、大成できず、主人公も、大学受験に何度も失敗し、妹にしても、まんまと絵画心療療法なるものを使って、優れたコンピューター・スキルがあるにも関わらず、気軽な感じで、いとも簡単に、まるで、タマネギ男と揶揄されたどこかの国の前法相の妻同様に、いとも簡単に、美術大学の在学証明省を私文書偽造してしまうことは、一度、失敗して、階段を踏み外してしまうと、<敗者復活制度>がなく、又、<セイフティー・ネット>という網からも、外れてしまうことになるのかもしれない。否、そんなものすら存在することのない、<非情な競争社会制度>であり、だからこそ、芸能人の韓流歌手でも、自殺率外乗に高い社会背景があるのかもしれない。
まるで、大雨の豪雨は、何もかも流し去ってくれるし、あたかも、それは、万人に平等であるかのように、<罪も悪も>等しく、帳消しにしてくれることを暗示しているのであろうか?それでも、どんなに、分をわきまえつつも、一線を越えないという父親の運転手としての矜持も、所詮は、突然の雷鳴の轟きの如く、<貧しさの臭い>というものは、着衣に、染みついている<かび臭い、すえたような、下水や汚水が、丁度、マンホールの蓋から逆流して溢れてきたような臭い>が、子どもには、それとなく、分かってしまうものなのであろうか?臭いと謂えば、昔、50年ほども前、新入社員時代に、韓国の取引先の関係者と金浦空港に入国するときの臭いが、キムチ臭がすると私の上司が言ったところ、それなら、羽田空港は、どんな臭いがするだろうかと議論になり、味噌汁か、たくあん臭いねなどと冗談交じりに話したことを想い出す。もはや今日では、日本の公衆トイレも含めて、消臭付き設備で、あのおつりの来る独特な臭いのする和式便所から、快適な化粧室空間へと世界的にも評価が上がってきているのは、何ともおかしな風景である。あの当時の韓国の取引先の関係者達は、50年後の今日どうしていることだろうか?この映画を観ているだろうか?
尤も、我々の中に潜むところの<心理的な臭いによる差別感>というものは、それが、トリガーとなり、やがて、映画の中でみられた、父親の目付きのなかに、微妙に変化が現れていて、それが、<怒りへと転嫁・醸成>されていくようである。尤も、韓国での経営者に対するリスペクトという言葉は、余り、日本人には、理解出来ないものがあるかもしれないし、緑の芝生での息子のお誕生日会のパーティー設営の際のテーブルの並べ方にも、日本に対する歴史認識が、垣間見られて、なかなか、手が込んでいて面白い。
<父子の関係性>というものも、母子との関係性とは若干、別なものとして如何にも、男子中心の儒教の影響の濃い見方が、富裕層にも貧乏人の中でも<共通な心情>を描かれていることは、実に興味深い。主人公が、奇跡的に、回復し、父に手紙を出す中で、もう一度やり直して、未来に希望を見いだし、父とのいつの日にかの再会を果たそうとする意思表示(迎い入れようとする幻想的な希望?)には、何か、やるせない、もはや、この社会には<そう選択せざるを得ないような現実しかないのか!>と、父子のほのぼのとした関係を感じると共に、実に、やるせない忸怩たる思いを感じざるを得ないのは、<これが逃げられない現実社会なのか>と、複雑な思いで、エンディングを迎える。主題曲の訳詞にある、<爪の隙間に染みこむ垢が湿ってくる>という言葉は、映画の中でみられた<父の両脚裏の黒さ>とも重ね合わせると、思わず、自分の爪と脚裏を見つめ直してしまう。それにしても、映画を鑑賞していて、いつも、感じる事であるが、どうして、一部の観客は、最期のエンディング・ロールに流れる音楽と終了後の映画鑑賞後の余韻を、愉しむことなく、そそくさと、まだ暗い中で、出口へと向かうのであろうか?誠に、勿体ない、犯罪的な所業で、映画制作者への敬意もない、冒涜にしか他ならないのではないだろうか?実にこのマナーは、残念である。一連の映画でも、<ジョーカー>、<万引家族>、<パラサイト>と、米国・日本・韓国とそれぞれに共通する課題である<格差社会>をみてきたが、どれ一つとっても、映画の中の出来事であるとは思えないのは、<余りにも重い現実>で、<それぞれに登場する子供達>は、その後、一体、どうなっているのであろうかと思いを巡らせると、実に、<心苦しく、心痛い思い>がする。それは映画の上でのエンディングとは別に、観客が想像するしかないけれども、、、、、、。
映画館のパンフレットを見ていると、これからは、2月には、斎藤工初監督による、<コンプライアンス>、中学生の頃に読んだ<ジャック・ロンドンの野生の呼び声>の映画化作品、3月に、<三島由起夫と東大全共闘(50年目の真実)>、5月には、司馬遼太郎の<燃えよ剣>の映画化、他にも、問題作の<岬の兄妹>など、映画鑑賞も忙しそうである。