映画、『沈黙―サイレンス』を観る:
いつも、映画は、がらがらの中で、観ているものであるから、こんな満席の中で、映画を観るのは、久しぶりである。それにしても、斜陽産業と云われて久しいが、こんなに、大勢の人が観に来るとは、やはり、良い作品を、作り上げれば、結構、需要があると謂うことなのであろう。買うものがないとか、既に、飽和であるなどと云われているものの、まだまだ、商品企画と丁寧な商品つくりを行えば、需要はあるということに決して、間違いはない。
それにしても、もう、45年以上も前に、原作を読んだものであるから、映画を見終わってからでも、再び、読み返してみることにでもしようか?篠田正浩監督が、1971年、製作した同名の映画は、記憶にない事からすると、見てはいなかいのかも知れない。原作の本だけである。スコッティー監督の『タクシー・ドライバー』は、記憶にあるが、、、、、、。
映画を観る上での時代考証と前後の歴史的な経緯を、他方整理してから、論評に入ることにしたい。時は、1641年キリシタン弾圧が厳しくなりつつある長崎、五島・生月島での話である。ザビエルが、鹿児島にキリスト教を伝えに、鹿児島に上陸したのが、1549年であり、その少し前の1543年には、種子島に、火縄銃が伝来したとされている。1552年には、ザビエルは、マカオで、ぼっしているから、インドのゴアを拠点とした、マカオ等のイエズス会系の極東への布教活動も、安土桃山時代の、信長・秀吉・家康へと覇権が移行してゆく過程での南蛮貿易やキリシタン大名、世界的な政治状況下の中での出来事として、ある程度、理解しておかないと、ポルトガル・オランダ・イギリス・スペインの世界的な覇権をも、充分、念頭に置きながら、観ておかなければ、単なる内面的な『神の問題』としてのみ、尤も、それこそが、主題であることには、変わりはないのであるけれどもである。それは、後半に、論じることにして、これらの一連の流れの中で、1587年の場t4エレン追放令や」九州征伐の過程での秀吉の当時の黙認市井が、1596年サンフェリペ号事件や1597年のフランシスコ会系の日本26聖人処刑事件へと、日本でのキリスト教布教に於ける、ドミニコ系、フランシスコ系、イエズス会系の主導権争いや、日本人奴隷売買の摘発などやらから、これまでの緩やかな間接統治、現地主義から、より根源的な直接的な宣教方式への転換とが相待って、既存仏教宗教勢力への排外主義・衝突も有り、更には、1637年の島原の乱による藩主の切腹ではない、斬首という形で、喧嘩両成敗的に、処罰される絶滅的なキリシタン抹殺へと、突き進んでゆくことになる。それは、皮肉にも、スペイン・ポルトガルから、徐々に、オランダ・イギリス、ウィリアム・アダムスや、八重洲の基になる、ヤン・ヨーステンなどの、事例を皮肉にも、観るまでもなく、世界貿易の実利と宗教の乖離を、徹底して、長崎平戸の出島へと、向かう過程でもあろうか、それは、世界史的にも、丁度、アルマダの海戦から、オランダ独立戦争に至る80年戦争への過程とも、符合する過程なのかも知れない。宗派的には、ポルトガル系のカソリック系から、オランダ流のプロテスタント系へ、或いは、間接統治主義だったキリシタン大名の勃興から、没落へ、至る、二度に亘る大きな殉教事件を引き起こす1619年、1622年という過程を経た上での暗黒の時代の出来事だったという背景を、私達は、十分理解しておかなければならないし、或いは、時の為政者の意図と、思想背景を理解しておかなければ、『内的な問題』、とりわけ、『神の沈黙』、『弱き者達』、『西洋と日本との思想の断絶』、『棄教の背景』、或いは、より、広い意味合いでの『転向・転び』という課題を考えるときに、充分、理解出来ずに、『今日的な課題』として、捉えることを妨げることになりはしないだろうか?心的な課題に立ち入った後で、最後に、映画評論を多生論じてみることにしたい。
それにしても、中世の魔女狩りではないが、『拷問の歴史』、それは、ゲシュタポでも、北朝鮮の秘密警察でも、戦前の日本の特高でも、江戸時代のキリシタン弾圧の、逆さ吊りで、その血を一滴づつ、何日も掛けて、じわじわ苦しめながら、いたぶるやり方の前では、そんな『善意に満ちた信念』などは、木っ端微塵に、砕け散ってしまうことだけは、明らかであろう。とりわけ、今、若い頃を想い起こすときに、60年代の韓国でのキム・ジハの拷問前に宣誓した自白不当宣言文を、想い起こす。それは、如何なる拷問によっても、自らの信ずる『思想・信条・信念』は、決して変わることなく、強制的な拷問による自白は、有効ではないと宣するモノであった。謂わば、やむなく『踏み絵を踏む』ことと違いはない。『踏むがいい。汝を守る為に、この世に生かされ、痛さを分かつために十字架を背負った』と、どこからか、聞こえてくる、囁き掛ける声は、『弱き者』、『罪深き者』、を赦し、生き延びよとも、諭しているかのようである。『棄教』も、信仰を守りつつ、死にゆくものも、『死という鏡』の表と裏という一対だったのかも知れない。それでも、生き延びた者は、必ずその心の底に、悔悟と悔いを引き釣りながら、苦しみながら、日々、生きて行くことになる。弾圧する為政者の側にも、厳しくしても、根っこを徹底的に、叩きつぶしても、決して、根絶やしにすることは不可能であることを悟り、昔の『一向一揆』ではないが、結局、自分たちにも、或いは、キリシタン側にも、お互いに、都合の良い『形だけで良い転び』を、生み出して行くことになる。これは、『戦争中の転向』ではないが、如何にも、日本的な手法で有り、双方の面子を、互いに、折りの良いところで、融合するという一種の面子を重んじた『妥協的な手段』なのであろうか?『形だけで良い、形だけで良いのだ』という甘い悪魔のような囁きは、なかなか、刺激的なものである。棄教でもなく、背教でもなく、転向でもなく、『転ぶ』、転んでも、再び、『起き上がる』のである。日本的なるものとは、一体、何なのであろうか?そんな『甘い魅惑的な囁き』とは、果たして、何なのであろうか?きっと、日本的な思想と西洋的な思想との衝突から生じた『ある種の断絶』を、この時代には、こうしたやり方で、昇華・止揚してしまったのであろうか?究極的な虐殺という行き着いた先に、見いだしたものこそが、『転び』という八方全て、丸く収まる究極の選択であったのであろうか?
一向門徒も、悪人尚もて、往生すという親鸞の教えも、ジハードを厭わずに、殉教するモスリムも、この時代に、タイムスリップしたら、彼らは、どうしたであろうか?そして、肝心要の観客である我々は、果たして、どんな選択をしたことであろうか?密告もせずに、唯ひたすら、何度も形だけの踏み絵を踏み、唾を吐きかけて、転んでは何度もまた、立ち上がり、懺悔を繰り返しながら、結局、キチジローのように、処刑されるのであろうか?それとも、モキチのように、転びながらも、信念の中で、死んで行く途を選ぶのであろうか?『弱き者』は、どう生きて行けば良いのであろうか?
窪塚洋介が、日本側での『よわき者』を代表する、片方の主役とすれば、明らかに、その対極にある相手方の主役は、イッセー緒方演じる、奉行であろう、その英語の演技もなかなかなものであると同時に、如何にも、悪意を内に包みながら、その自覚をおくびにも出さずに、飄々として、冷徹な官僚の役で、確信犯的な役柄と心理的な描写の演技は、実に、特筆すべきモノがある。そして、通史役の浅野忠正は、英語の台詞もあることながら、その小役人的な心情が、微妙に、台詞や演技にも、醸し出されていて、実に、これも面白い。それにしても、この時代の『貧困と格差』とは、映画とは云え、想像を遙かに超えるものがある。映画の中では、その後も、思想の再犯チェックは、とりわけ、厳しく、常に、確認、再確認、再々確認が、行われていたことがよく理解出来る。二時間40分程の大作出るから、その間、ずっと、観客は、嗚咽をひたすら、堪えながら、あるときは、堪え忍び、あるときは、堪えきれすにと、息苦しい連続であった。精根尽き果てると云うが、映画を観ながら、そんな感じで、上映後は、皆、押し黙りながら、映画館を後にしていった。少々、年寄りには、体力を必要とする映画であろうか?若い人には、是非、見てもらいたい映画であるし、無論作品を、読んでもらいたいと思う。もう一度、再読することにしようかな。それにしても、来日する中国人観光客が、きっと、中国の地下教会信者に向けて、DVDのコピーを持ち帰ることは必至であろうが、彼らは、中国現地で、どのように観賞するのであろうか?ロケ地が、台湾で、コストを節約するために、重視されたことは、長崎、五島の隠れキリシタンの子孫達には、少々、残念であった事は確かであろう。もっとも、転んだ人達がいなかったら、今日の子孫も存在しないことは、誠に、歴史の皮肉と云うほかないが、、、、、、、、、。