小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

やっとヤマガラが、きてくれた:

2014年03月14日 | 自然・植物・昆虫
ヤマガラが、やっときてくれた:
もう、あの大雪から、約3週間ほども経つというのに、道の両側は、未だ、雪が膝の高さほども積もり残って溶けない。やっと、日中には、気温も上がり始め、陽当たりの良いところでは、とっくの昔に、雪は溶けきっているというのに、ベランドの工事も、元々、3月に入ったら、開始する予定だったのに、屋根の雪が落下して、膝上まで、積もったままであったが、やっと、あらかた、片付けられた。これで、雨が降ってくれて、その後に、好天が続いてくれたら、宜しいけれども、、、、、。野鳥の餌台も、従って、移動したせいなのか、それとも、冬場に、家を閉めてしまったせいなのか、分からぬが、あの人なつっこいヤマガラの姿が、見えないのは、寂しい限りである。どこか、里山から、暖かい方へでも餌を求めて、移動してしまったのであろうか?野鳥にとっては、誠に、厳しい冬場での生活との闘いである。頼みとする餌台には、餌がなく、ミカンやりんごの実を、もう、残されてはいない。向日葵の種を買ってきて、玄関近くに、移設された餌台に、たんまりと、山盛りに入れておいた。2-3日は、掛かっただろうか?今朝、ピーピーという懐かしい、けたたましい鳴き声と共に、あのつがい(?)とおぼしきヤマガラが、やってきたので、まずは、ホットした。それでも、まだ、シジュウカラやコジュウカラの群れを見かけないのは、どうしたものであろうか?どこへ、姿を隠してしまったのであろうか?おおいに、心配である。早く、安心させるべく、姿を見せて貰いたいところである。連日の雪かきも、やっと、北側の駐車スペースも、地面が見えるところまで、筋肉痛と共に、やっと辿り着きました。森のフクロウも、どうしているだろうか?



ウェッブ・ベルマーク:

2014年03月13日 | 社会戯評
ウェッブ・ベルマーク:
子供の頃は、学校でも、視聴覚設備を充実させるとか、スポーツ用具でも、何でも、日常的に、ベル・マークを家庭で、切り取っては、学級単位とか、学校単位で、これを集めては、商品に交換することが、当たり前であった。まだ、貧乏な頃の話であるが、その頃は、別に、そんなことも考えずに、ベル・マークを収集したものであった。随分と、暮らしも豊かになり、子供達も、成人してしまって、すっかり、そんなマークがあることも忘れ懸けていた頃に、ウェッブ・ベル・マークと言うシステムがあることを新聞で、みかけたが、何とも、簡単な仕組みである。しかも、色々な支援が可能で、参加するビジネス・パートナーも、ネット通販に限らず、メーカーなど、これから、どんどん、増えてゆくのであろうか?昔のように、台紙に貼る方式ではなくて、まさに、電子的に、マークを収集出来、更に、自動的に、支援できる形になるとは、なかなか、面白い仕組みであろう。
一度、アクセスしてみて、試してみたら如何でしょうか?知らず知らず、支援が出来るのはおおいに、興味深いものである。

https://www.webbellmark.jp/


ショート・トラックで垣間見られる隣国の国民性:

2014年03月12日 | スポーツ
ショート・トラックで垣間見られる隣国の国民性:
何とも、実に、面白い競技である。まるで、民族性丸出しの競技ではないだろうか?それにしても、日本人には、少なくとも、この競技というものは、あまり性格上、向いているとは思えないが、、、、、、。兎に角、人を押しのけて、更には、見えないところで、妨害したり、ぶつかったりと、写真判定とか、スロー・ビデオでチェックしない限り、みんな見つからなければすべて、OKという、或いは、先頭集団が転倒でもすれば、一番後方のビリが、金メダルとか、まあ、そういう競技と云えば、それまでであろうが、何とも不可思議な競技である。とりわけ、韓国は、お得意の種目とかで、中国とは、毎回、因縁が生じ、その結果、国家をあげてのお決まりの中傷合戦が行われている。実力が発揮されずに、それ以外の要素で、順位が決まるという競技は、本当に、スポーツとして、如何なものなのであろうか?否、逆に、だからこそ、面白いのであるという議論もあろうが、、、、、、どうしたものであろうか?スポーツ競技と「国民性の相性」というものは、何処かで、関連性があるのであろうか?人を押しのけてまで、あそこまで、やるのか?何とも、複雑な思いで、これらの競技を得意とする隣国人達の仕草をみるのも、又、この競技の愉しみ方の一つであろうか?どうしたものであろうか?オランダは、あれ程、スピード・スケートで、圧倒的な強さを見せたのに、ショート・トラックは、どうだったのであろうか?興味深いところである。タイムを競うのではなくて、万事、結果としての順位を競うところは、「すべて、勝てば官軍」という人生模様が垣間見られて(?)面白いと言えば、面白いが、転倒して、メダルを逃したアスリートに帰国後待ち受けるであろう国を挙げてのバッシングは、たまったモノではない。観ている分には、面白いが、、、、、、。



鹿肉を食して思う:

2014年03月11日 | 男の手料理・食
鹿肉を食して思う:
何でも、ライフル銃は、散弾銃を10年以上、無事故、人格上・管理上も、問題なく、保持している人にしか、許可が下りないそうであるとその人は云っていた。年々、若い人が減っているそうである。それにしても、鹿、猪、山鳥、雉などを撃つらしい。もっとも、この人も、もう、今年からは、体力に自信が持てなくなり、暴発事故や、山中での怪我が心配だそうで、狩猟は諦めるそうである。昔、NZで、仕事の関係から、鹿肉の飼育場を見学したことがあるが、そこには、自然保護ではなくて、輸出産業としての鹿肉養殖と解体業者とが、共存していたものである。ここ、長野県では、そんな悠長なことを言っていられないほど、今や、鹿や猪による農産物の耕作被害が、甚大であるそうである。昔、愛犬と一緒に、山中を散歩していても、一寸した畑には、電気柵や網が仕切られているのを見かけたものである。鹿肉の薄いあぶり肉を食した後、帰り道で、何と、ライトに浮かび上がった鹿の群れと遭遇した。何とも、複雑な思いである。今し方、あんたの仲間の肉を戴きましたよ!ジビエも宜しいとは思うが、何とか、うまく、共存できるような仕組みは、出来ないものであろうか?どうも、奈良公園の鹿のイメージが強くて、何とも、「狩猟」というと何か、残酷なメメージがつきまとってしまうのは、どうしたものだろうか?やはり、農耕民族だからであろうか?どこかで、自然のバランスがうまくとれて、動植物の生命の大切さも、同時に、勉強できるような仕組みつくりが、必要では無かろうかと鹿肉を食べながら、思ってしまうのは、一寸、贅沢であろうか?肉の臭みを、スパイスで、消そうという努力が理解されるものの、ほのかな獣の臭いというか、味がするのは、これ又、何か、愉しい非日常の食事でもある。しかも、おいしい新酒の日本酒があれば、それに超したことは無いが、、、、、、。たまには、こういう経験も宜しいのではないだろうか?そう言えば、牡丹鍋も、ここ、何年間も、食べていないことをふと、思いだした。雉焼き丼等も、もっと、こうした肉が、身近なものになっても良さそうであるが、、、、、何でも鹿肉は、食用の可食歩留まりが、極めて、低いとのことであったことも、教えて貰った。そう言えば、昔、シカゴで、ライオンやヘラ鹿、熊肉を専門に食べさせる有名なレストランで、食事をしたことを想い出す。



別荘地孤立、情報提供に課題!?:

2014年03月10日 | 社会戯評
別荘地孤立、情報提供に課題!?:
今回の雪害に伴って、荘内でも、管理事務所の説明では、当日から、除雪が出来るまでに、相当な苦情と鬼のようなクレームが、殺到したという話であったが、信濃毎日新聞によれば、相当数の別荘で、定住している住民は、とりわけ、年寄りが多いのであろうが、或いは、会社勤めの人も含めて、情報へのアクセスが、極めて、懇談であったことが、浮き彫りにされてきた。私の場合には、冬場は、避寒であるから、現地に、たまたま、居合わせていなくて、東京で、客観的に、自体の推移を美馬も折ることが出来たが、どうやら、次のことは、云えそうである。
1. マスメディアは、とりわけ、新聞などは、後つけで、分析には、向いていても、即応性という点では、情報の発信手段には向かない。
2. 様々なメディア・ミックスが、必要であること。とりわけ、情報の発信という点では、フェースブック・ツイッター・ラインなども含めて、個人の即応性を伴う発信が可能な媒体と、地域ケーブル・テレビによる文字情報・テロップ報道、地域FM放送曲からのきめ細かな情報発信が、メディア・ミックスで必要であること
3. 市や町のHPは、残念乍ら、管理人が出勤できない以上、HPの更新も情報発信も後付けであったこと。管理人が、自宅でも、オフ・サイトでも情報収集出来る体制がとれないのであろうか?
4. 検証を具体的に進める場として、例えば、「小諸日和」の活用事例が、もっと、具体的に、検証されるべきであろう。例えば、実際、個々人は、公務員も含めて、役所の対応も含めて、どのような情報が、一番必要だったのか?何が一番欲しかったのか?どのように、情報にアクセツしたのか、どのように、逆に、情報を発信したのか?だれが、いつ、どのように、何をしたのかも含めて、あるべき、メディア・ミックスの理想的な検証体制が、管理人には、情報公開の責務があろうか?時間を追ってのPVの数とかも含めて、実際の検証が必要では無かろうか?こういう情報公開が、待たれますが、、、、。ICTを活用したアンケートでも宜しいではないでしょうか?
5. 次に来たるべき自然災害の、それは、風水害で荒れ、地震で荒れ、浅間山の噴火で荒れ、何はともあれ、住民の安心・安全・命を自らの手で、構築できる体制を、行政も含めて、もっとも、ひとえに依存するということは、決して無く、そういう体制を個々人の中に活かせるような仕組みをITCを活用して、地方でも構築できるのではないかと思われるが、、、、、、、。
既に、FB上では、こうした個人レベルでの運動が起こりつつありますが、専門家も含めて、行政・地域活動組織も含めて、横断的に、しかも、スピード感を伴って、又、忘れてしまわないうちに、ICTを活用したもっと有効な対応策を構築したものです。又、雪がパラパラ、降り始めてきました。住民が、弱者も含めて、どのように、協力して、来たるべき将来のことに当たるべきかを、速やかに、構築しないと、又、同じことの繰り返しになりかねないでしょう。別に、別荘地だけの問題ではなくて、中山間部や限界集落の問題でもありましょう。



今年も、小諸里山生活をスタート!:

2014年03月09日 | 社会戯評
今年も、小諸里山生活をスタート!:
大雪の被害から、3週間余りも経過しているというのに、里山のそこかしこに、未だ、雪が膝の高さ程度は、ゆうにあるだろうか、相当残っている。北側の車を駐めるスペースは、道の除雪も手伝ったのであろうか、しっかりと、仕事を残してくれていた。ほとんど、陽の当たる所は、既に溶けていて、はるめいてはいるものの、まだまだ、今年は、気温がなかなか上がってきているようには、感じられない。「茶房、読書の森」での土壁塗りのワークショップは、昼の部は、肉体労働なので、夜の部の和久井ガーデンの和久井さんによる近江・京都・高雄でのお気に入りの庭・寺社巡りの報告会に参加することにした。司馬遼太郎によれば、庭というものは、一代で出来るものでは決してなくて、何世代にも亘って、又、ゆったりと時間を掛けて、完成してゆくものあって、我々は、どうやら、その後の完成された庭を堪能しているだけであって、なかなか、その変遷を時系列を追って、愉しめるものではなさそうである。坪庭などと言うものは、小さな猫の額ほどの面積の空間をも、上手に、別の世界に仕立ててしまうが、都会に住む人間にとっては、今や、そういう空間であっても、なかなか、敷居が高いものになりつつあるのは、残念なことである。出来ることなら、広い土地に、最低でも300坪以上の面積の土地に、自分の理想とするような庭を石や流水や草木を配して、作ることは、今の時代には、贅沢なものになってしまった。況んや、小さな敷地に、やたらとフェンスや樹木で、境界線を主張するかの如き庭作りには、辟易とするものの、残念乍ら、街つくりのコンセプトが、全く、訳の分からないものになってしまってきている。貧乏人だから、どうしても、色々な樹木を年々歳々、増やしてしまい、気が付くと、何とはなしに、訳の分からぬ景観になってしまうのは、残念なことである。おまけに、木々が、年を追う毎に、成長し、大きくなるにつれ、景観もおおいに、予定通り、見通し通りとはゆかずに、結局、埜坊主なものになってしまう。歯がゆいものである。どうしても、庭作りというものを勉強したわけではないから仕方が無いのであるが、私の庭への思いというものは、一言で言えば、「季節感」というものを大切にしたいと思うことである。春は、春なりに、梅や桃や桜を、愉しめ、夏は、夏なりに、秋は、秋で、紅葉を、落ち葉を愉しめ、冬は、冬で、雪化粧を愉しめ、どちらかと言えば、草花中心の庭と云うよりも、根が無精だから、自然な樹木の成長と衰退・世代交代を愉しむタイプだから、おおいに、無手勝流の、あちら様、自然様任せの愉しみ方であろうか?自然と人間という間の闘いなのか、それとも、調和なのであろうか?久しぶりに、フランス人ウーファーの上田で修行中のメジ君とも、逢えた上に、彼が作った一番搾りの初純米酒を一緒に、試飲できたし、和久井さんにも、今後、庭の観賞の仕方を色々と教えて貰おうかとも、思いました。併せて、近江という地にも、一度は、旅してみたいと思いました。今年も、又、新しいことを勉強できそうである。おおいに愉しみである。



HALAL 対応食品の増加に期待する:

2014年03月07日 | 社会戯評
HALAL 対応食品の増加に期待する:
昔、タイの鶏肉加工工場を見学した時に、HALALというイスラム教徒向けの認定人が、したものでないと、現地では口にすることが出来ないと云うことを聞いたことがある。来日するイスラム圏からの観光客は、一体、日本で、何を食べているのであろうかと思っていたら、新聞記事の片隅に、フーデックスの中で、こうしたイスラム圏の人達向けに、豚の脂を排除した和菓子とか、食事のメニューを開発している人がいるらしいと報道されていた。確かに、世界的な注目を浴びている「ラーメン」にしても、豚骨ラーメンなどは、チャーシューにしても、そのスープ・ベースにしても、何でも豚由来では、美味しいラーメンも食べられそうにない。もっとも、魚介ベースなら、豚の背脂も入っていないから、安心して食べられるのかも知れないが、それにしても、随分と、遅い対応であるし、農水省のこれに対する取り組の促進キャンペーンも、手ぬるい感じがしなくはない。もっと、積極的に、モスリム教徒向けの日本食の輸出を推進しても宜しいのではないだろうか?認定工場にしても、HALALの入手の仕方などが分かりやすく説明されていて、街中のレストランなどでも、他店との差別化の中で、工場とは別に、一寸、工夫することで、活用も可能であろう。考えてみれば、豚肉が駄目であれば、大豆の植物性タンパクを利用したり、既に、カップラーメンなどでは、おなじみであろう。成る程、考えるまでもなく、日本人は、昔から、ガンモドキを、巧みに、日常生活の中で、活用してきている歴史があるではないか?日本食の美とうまさと伝統を、生かしたものつくりを、もっと、知恵を絞って、アレルギー食のきめ細かな対応が可能である以上、HALAL対応の日本食が、もっと、積極的に、海外の旅行業者へも、アピール出来れば、来日する海外旅行者もイスラム圏から増加することは間違いなかろう。そうした方策ももっと、官民一体となって、観光業に限ったことではなく、広い視野に立って、進めてもらいたいものであることを切望する。
日本ハラール協会HP:ご参考まで、
http://www.jhalal.com/halal


人間風車、ビル・ロビンソンとTBSプロレス:

2014年03月06日 | スポーツ
人間風車、ビル・ロビンソンとTBSプロレス:
世に憚れし、隠れプロレス・ファンである。何でも、「人間風車」で、一世を風靡した英国を代表するビル・ロビンソン氏が、亡くなったという記事が目に止まったが、プロレスに興味のない人に取っては、何が、人間風車なのかも、分からないであろう。想い起こせば、日本テレビの4チャンネルでのプロレス人気に、あやかったのであろうか、TBS系列でも、プロレスを放映するとかで、グレート草津、サンダー杉山、ラッシャー木村、ストロング小林らが、TBS後援の下、国際プロレスという名前で、リングに、登ったものの、その対抗馬に、なかなか、アメリカの有名レスラーでは、実力・人気でも叶わなかったのかも知れないが、恐らく、そんな経緯もあったのであろうか、詳しくは分からないが、大英帝国欧州(?)チャンピオンで、虎の穴出身のビル・ロビンソンが、招聘されたものである。イギリス紳士という触れ込みだから、アメリカン・ヒールのようなきわどい反則技は使わずに、ロープ際でのブレイクも、綺麗に分かれたものである。決め技は、所謂、「人間風車」で、相手の両腕をチキン・ウィングのようにリバースに決めて、これをアマレスのブリッジの反り返しを利用して、後方に、受け身を取らせないように、投げ倒して、したたか、腰を強打させて、フォールするという、今から思えば、何とも、子供じみたような技である。今のような派手に、コーナー・ポストから、或いは、鉄柱の最上部からの身を挺しての危険、且つ派手な空中殺方などではない。それでも、当時は、「おぉ!」という驚愕の声が聞こえてきたものである。何とも、懐かしい往事の風景ではないか。後に、アントニオ猪木との試合が組まれた頃が、全盛期をやや、過ぎた頃だったことだろうか、レスラーの「賞味期限」も、こうして振り返ると、やはり、生まれてきた時間という制約を、超越出来るアスリートは、少ないものである。想い起こせば、そんなTBSによる国際プロレスの中継も、今や、47年余り前の話で、それも、僅か、5年程で、終了の憂き目に遭うことになる。TBSのプロスポーツ中継というものも、今にして思えば、キックボクシングの沢村と良い、この国際プロレスと良い、なかなか、視聴率を取りにくいものだったのであろうか?又、懐かしいレスラーが、1人、逝ってしまったものである。



アジアの歌姫、テレサ・テン BSジャパン2時間スペシャル:

2014年03月05日 | 映画・テレビ批評
アジアの歌姫、テレサ・テン BSジャパン2時間スペシャル:
私達の世代ですら、戦前の李紅蘭(山口淑子)や渡辺浜子の唄った「何日君再来」とか、「夜来香」、「蘇州夜曲」などは、子供の頃に、何処かで、耳にした覚えはあっても、実際には、同時代的に、聞いていたわけではない。ましてや、山口淑子が、李紅蘭であったことは、知っているものの、彼女が、戦時中、どのような役割を演じていたのかは、残念乍ら、母の世代は、まさに、同世代・同時代だったから、親近感が強かったものの、我々の世代では、残念乍ら、よく、分からないのが、現実であろうか。どこで聞いたのか、今では、忘れてしまったが、香港だったか、台北だったか、テレサ・テンが唄う「何日君再来」とか、「夜来香」、の曲を日本語と中国語で聴いたとき、何処かで、子供の頃に、聞いたような感じが蘇ってきたものである。逆に、彼女のヒット曲である「つぐない」、「愛人」、「時の流れに身をまかせ」等が、日本の曲であることを、当時、どれ程のアジアの人達や中国人が知っていたであろうか?丁度、それは、李紅蘭というコインの裏表なのかも知れない。実は、テレサ・テンという台湾人が、時代を変えて、形を変えて、この時、日本人を演じていたのかも知れない。それは、インドネシア偽パスポート事件や、台湾・大陸との狭間で生じた中国統一問題、そして、1989年の天安門事件、等、皮肉にも「愛国芸人」と、呼ばれざるを得なかった当時の政治状況に翻弄された国際歌手の宿命だったのかも知れない。「昼は、鄧小平が支配するが、夜は、鄧麗君が、支配する」というアングラでの持ち歌の禁止措置が未だ執られていた時代の所以なのかも知れない。それにしても、作曲家、三木たかしと、作詞家、荒木とよひさの2人のコンビによる楽曲の提供は、壮絶な闘いがあったこと、そして、そこに、隠された彼らの独自の意図と、それを超越する歌手という表現者の合作であることが、改めて、知ることが出来る。そえは、まるで、ある種の馬と名伯楽、或いは、競走馬と騎手との関係、ストラスバリウスとバイオリニストとの関係のようなものであろうか?意図的に、歌手の精神的な高揚を解き放さないような抑制的なメロディー・ライン、逆に、一音階高い次元に、意図的に、歌手を持って行く方策、或いは、日本語の助詞に、韻を踏みながら、強い情感と長い余韻を残させながら、歌わせる歌詞とか、曲先行であったり、逆に、詞先行であったり、まさに、作曲家・作詞家・表現者の歌手という三位一体になった眼に見えない闘いが、そこにはあったことが知れる。日本語の表現力には、恐らく、歌手という表現者の天才的な才能が、実は、彼女の中に、血の中に、身体の中に、宿っていて、それが、メロディー・詞と相俟って、アジアの人々の心に、国籍を問わず、国境を超えて、しみ込んでいったのかも知れない。だからこそ、多数のカバー曲も平気で、こなしていけたのかも知れない。大陸出身の歌手や台湾の歌手が、同じ歌を歌手も、そこにあ、どうも、「歌の世界観」が感じ取られないのは、どうしたわけであろうか?それにしても、42歳の若さで、逝ってしまったのは、おおいに、残念である。最期に歌った、民主化支援集会での「ふるさとの向こうに、、、、、」という歌を聞いた民主化を切望していた当時の中国の人は、何を感じたのであろうか?そして、今、ウクライナでは、どんな歌が唄われているのであろうか?何でも、女房殿によれば、私の友人である関係者の筋から、切符を貰い、まだ、デビュー間近だったテレサ・テンの歌を一緒に、聴きに行ったことがあると云われたが、何故、私は、その記憶がないのであろうか?困ったものである。それとも、女房殿は、他の誰かと行ったのであろうか?歌というものは、聴き方次第で、実に面白いものである。



魚料理、激減の怪?:

2014年03月04日 | 社会戯評
魚料理、激減の怪?:
何でも、10年間で、魚の消費が、25%減ってしまったそうであると、、、、、。魚料理の消費が、おおいにある我が家にとっては、何とも、不可思議な数字である。若い世代は、健康によいとかで、主に、外食主体で、内食は、逆に減ってしまったのであろうか?肉に較べて買い置きが難しいとか、食事後の生ゴミの後片付けが、面倒くさいとか、骨を綺麗に取らなければ食べられないとか、様々な理由が挙げられるそうである。成る程、年寄りは、肉よりも魚の方が好まれるようであるものの、若い人には、面倒くさい料理なのであろうか?そうすると、回転寿司人気ではないが、逆説的に、外食の需要がありそうな気がしないでもないが、、、、、、。昔、米国に駐在中に、アメリカ人から、海釣りの楽しみを教わり、よく、ハーフ・デイ・ボートに、週末出掛けては、釣ってきた獲物を自宅で、捌いては、塩焼きやら、ムニエルにしたものである。要するに、狩猟もそうかも知れないが、釣りなども、獲ってきた獲物を捌いて、料理するということは、当たり前のことで、命の連鎖の重要性を学ぶ良い機会であった。魚が、泳いでいることも、分からずにいるような小さな子供には、こうした食育教育とまではいかなくても、日常の中での親しみやすさというものが、必要では無いかと思われる。小諸での生活でも、鯉の甘煮などを、圧力鍋で、料理すると、あの微細な小骨も、20分ほどでの調理で、何事もないかの如く、ペロリと丸ごと食べられてしまうのは、不思議なものである。鰯も、秋刀魚も、皆この方式で調理すると、生ゴミを棄てることもなく、すべて、栄養となって面白いものである。コンビニなどでも、最近では、調理済みの魚のパックが、湯煎や、レンジ加熱対応で、料理の手間を掛けずに、食べられるのは、嬉しい限りである。フルーツの消費も減ってきて、その理由が、皮を剥いたり、手が汚れることだとか、何とも、人間は、随分とモノグサに退化してきてしまったものである。何とかして、魚の骨の取り方を、家庭でも、学校でも、何らかの形で、食べ方や料理の仕方を学ぶそういう教育が、歯止めになるのであるのではないかとも思われるが、、、、、、、、。久しぶりに、舌平目のムニエルを食べた後、こんな記事を目にして、思いついた次第です。いずれにせよ、鶏肉・豚肉・牛肉や、野菜、魚とのバランスが、大切なようである。



クリミアという地政学:

2014年03月03日 | 社会戯評
クリミアという地政学:
「在留自国民」の保護なる言葉は、昔から、随分、出兵の為の、或いは、もっと明白な露骨な言い方をすれば、結果、「侵略」のための口実に過ぎないことは、歴史を見れば、何も時間を逆廻しにするまでもなく、明々白々であろう。成る程、ついこの間まで、こぞって、ソチの冬季オリンピックに、夢中になっていたが、ウクライナの南部の黒海に面したクリミアとは、本当に目と鼻の先であることが、地図を開くと一目瞭然である。第一次大戦のドイツとフランスの当時の関係が、現代にも通じるところがあると云った何処かの国の総理大臣も、流石に、ロシアにとってのクリミアの地政学上、否、軍事学上での重要性は、ソチの開会式でも見透せなかったのであろうか?日露戦争でのバルチック艦隊のことを想い起こせば頷けるように、考えてみれば、ロシアにとっては、バルト海・黒海・極東というそれぞれ3つの海域は、地政学上、重要であることは、容易に分かろう。確かに、黒海艦隊は、黒海・トルコのボスポラス海峡を抜けるエーゲ海・地中海へと繋がる海路であることは、地図をみるまでもなく、明らかであろう。それにしても、国際法上等という言葉は、現実の危機、ロシアにとっての国家存亡(?)の危機と考えれば、何とも、余りにも、力の無いものであろうか?国連の安全保障理事会などと云うものも、全く、むき出しの国益の前では、なす術も無いものである。昔ならば、とうの昔に、戦争になっていたのであろうが、そんなことは、アメリカもEU側も、選択することはできない。まるで、グルジアの独立運動とその後のロシアによる軍事的強圧的な戦争状態の二の舞寸前なのであろうか?それにしても、「地政学」というものは、今日でも、依然として、18-19世紀頃と変わっていないことが、これからも、再確認されようか?沖縄という要石論、台湾海峡、統一の問題、朝鮮半島の有事、尖閣の問題、竹島の問題、北方領土の問題、そして、未だ、戦後平和条約締結もされていないロシアとの関係、現実の問題は、容赦なく、我々の上に、重くのしかかってくるようである。遠く、ソチのオリンピックゲームに熱狂していたすきに、着々と軍事侵攻のシナリオが、クレムリンの何処かで、綿密に練られていたのかと思うと、複雑な気持ちにならざるを得ない。今日でも、地政学的な重要性は、変わらぬことに思いを巡らそう。考えてみれば、3.11の際には、米国は、いち早く、自国民の避難支援を極秘裏に検討していたことは明らかで、居留民の保護とは、国益の保護そのものにも、重なることになるのであろうか?改めて、考えさせられるものである。アフガニスタン侵攻とは、又、異なる次元であろう。



10代選手の活躍に思う:

2014年03月02日 | 社会戯評
10代選手の活躍に思う:
どうやら、共通する点として、彼らは、「日本標準」というものを初めから、身体の中で、体感することを超越して、「世界標準」を、初めから、目指していたようである。成る程、本田宗一郎が、パタパタを世に送り出したときから、既に、「世界一への夢」を抱いていたように、10代のアスリート達も、最初から、世界標準を目指して、それに向けて、小さな頃から、外国の色々な人達の中で、揉まれて、アスリートとして、或いは、個人として、自我や、アイデンティティーに、目覚めて、狭小な島国根性を何処かで、払拭しなければ世界では戦えない、と思えたのであろうか?何も英語やドイツ語やイタリア語は、教科書や塾で、勉強するのではなくて、サッカーやゴルフやスノー・ボードを通じても、十分、身につけられることがこれからも分かろうか。外国に行けば、そういう共通の趣味で、会話も自ずと弾み、親しい友人も出来て、おおいに、面白いではないか?それにしても、スイスのナショナル選抜チームに、単独で、猛烈にネゴして、練習に参加させてくれとか、おまけに、ドイツ語も、現地で、マスターしたり、季節の違う南半球へ、度々、遠征したり、小さい子供の頃から、外国のメーカーとプロ契約したり、中学生や高校生でありながら、ご両親や道具メーカーが、間に立たれたとは想像に難くないが、それを割り引いても、なかなか、出来ないことである。そういう世界標準に合わせた生活つくりをしてしまうことこそ、或いは、そういう考え方・生活態度を出来ること自体が、素晴らしいことである。何か、そこには、「新しい日本人像」のようなものを感じざるを得ない。もともと、競技自体が、10代の柔軟な身体を生かせるものであったと言ってしまえばそれまでであろうが、ローザンヌ国際バレー・コンクールでの若い人達の活躍と云い、冬季オリンピックでの活躍と云い、そこには、何か、今後の日本人へ向けての「新たなヒント」になる要素が、潜んでいるように思われるが、、、、、、。若年層貧困問題とか、引きこもりとか、陰湿な虐めとか、全く、耳が汚れてしまうような日々の報道に、少しでも、耳濯ぎたくなるようなニュースで、嬉しくなってしまうが、そこには、「新しい日本人像」なるものが、芽生え始めているような気がしてならない。団塊の世代も、団塊ジュニアの世代も、これを良いお手本にして、「新しい生き方」を模索する必要があろう。4年後、或いは、10年後には、この人達は、どうなっているのであろうか?おおいに、愉しみである。



ビット・コインに考える、通貨とは?:

2014年03月01日 | 社会戯評
ビット・コインに考える、通貨とは?:
ITセキュリティ・ホールという脆弱性の故に、一瞬にしてかどうかは分からぬか、その説明によれば、数十億円規模の資金が、(一説によれば、百億円を越えるとも云われている)何者かにより、詐取され、従って、民事再生法の申請を突然に、ビット・コインの大手の取引所が、申請したという。何とも不可解な事件である。仮想ネット通貨と喧伝されたビット・コインも、所詮は、最期には、現実世界の厳しい掟からは、超然としていられなかった訳なのであろうか?それにしても、この説明だけは、何が何だかよく了解出来ないことも事実であろう。まぁ、直接関係ないと云えば、これをやっていない人間にとっては、被害も、損得も関係ないわけであるものの、考えてみれば、そこには、改めて、「通貨」とは、「国家権力」とは、一体、何なのかという現実を改めて、考えさせられるものがあろう。この得体の知れない言葉上での、「仮想ネット上での通貨」という言葉自体が、何とも、怪しげなもの、或いは、錯覚を起こさせる要素があることは、誰もが、了解はしていよう。もっとも、仮想と云っても、現実的には、ギリシャ金融危機に際して、驚いたことに、信用取り付けの騒ぎの火中に、全財産を、現実通貨、ハード・カレンシーを、ビット・コインに変換したというニュースを聞いたことがあったが、一体、この人は、投機で、無事に、売り逃げできたのであろうか?それとも、全財産をすってしまって、一文無しに、陥ってしまったのであろうか?そんな下らぬ憶測を、勝手にしてみたが、、、、、、。そこには、通貨に裏打ちされた「信用」という現実世界の厳しい「現実」があることを、思い知らされる。そして、何よりも、通貨の発行権限というものは、現実的に、国家による中央銀行というものが、唯一、発行できるものであって、実に当たり前なことであるが、電子マネーも、株式などの証券も、一企業が、発行するものなのであることは、どこかで、忘れがちである。しかも、金本位制の時代ならいざ知らず、それでも、依然として、金に替えられるということから、ハード・カレンシーと言われる所以なのであることも、実際、忘れがちであろう。戦時国債を後生大事に、守り抜いていても、戦後には、結局、紙くず同然になってしまったように、国家の帰趨と信用の如何によっては、結局、現実世界では、一種の暴力装置である国家権力の別の側面である「通貨管理」は、成る程、国家の帰趨に関わることになり、逆説的に言えば、ビット・コインのそもそもの理想主義的な思惑は、その初めから、国家主権と対立・侵害するものであり、穿った見方をすれば、「いつか、破綻するとは、思っていた」という麻生発言に、端的に、言い表されているのかも知れない。依然として、インターネット同様、問題があろうが、矛盾を孕んでいようが、長期的には、こうした流れは、国境を超えて、更に、拡がるであろうというオプティミスティックな将来への「進化論」を唱える専門家がいるが、門外漢の私には、どうなるのかは、判別不能である。しかしながら、一つだけ、今回の事件から、学ばせてもらったモノは、少なくとも、基軸通貨とは、一体、どういうことを意味し、又、国家とは、通貨の信用、そのものであることが、改めて、浮き彫りにされたことであろうか?それにしても、詐取された現実世界のカネは、何処の空間に消え合ってしまったのであろうか?今後の詳細な調査・報道が、望まれよう。