小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その4:歩くという行為:

2015年07月15日 | 旅行
=四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その4:歩くという行為:
動力を使用して、移動するという事が可能になる以前には、所詮、自分の脚以外に、頼るべきモノがなかったから、結局、馬やロバや駱駝にも乗らない限り、自力で、歩いたのであろう事くらい、誰しもが、頭の中で、理解は出来ている。しかしながら、そんな単純明快な理屈は、歩いたり、自転車を自力で、自らの脚力を信じて漕いでも、所詮、それは、自分の力だけで、誰の助けも期待できないのが、真実であることを了解する。一度、始めてみれば、もう、後戻りは、出来ないことにもなるわけなのである。
2番極楽寺の宿坊では、早朝五時半からの勤行である。急な内階段を右に左に何度も上り詰めるとやっと本堂に出る。若いお坊さんの後について、(正座が、出来ないので、事情を説明して、)和椅子に座らせて貰って、開経偈、懺悔文、三帰、三竟、十善戒、般若心経を、少し遅れながら、唱えることになる。毎朝、この時間帯に合わせて、お参りに来る人もいるようで、外で、一人のお年寄りが、拝んでいた。都会の飲んだくれが、朝の始発を目指して、繁華街から、フラフラと歩き出てくる情景とは、全く大違いな風景である.同じ時間帯を共有していても、随分と場所が異なると、大変な違いがあることを改めて、思い知らされるモノである。同じ地上世界には、戦争もあれば、平和もあるし、酔っ払いも、読経を毎朝する人もいる訳である。そういうことを改めて実感する。
事前に作成した日程表では、当日は、11番の藤井寺の近くの旅館、吉野に午後3時までには、入らなければならない。おおよそ、40キロ弱の行程である。それにしても、朝から、梅雨の雨で、完全防水対策の予定だったのであるが、結局、それは、絵空事であった事をこれ又、後になってから、思い知らされようとは、まだ、この時点では、分かっていない。3番金泉寺までは、近いので、そこで、詳細な地図が入手出来ると云われている。(何のことはない、この地図も、びっしょり濡れて地図の紙は、ボロボロになってしまった。)結局、4番の大日寺を後回しにして、まずは、5番の地蔵寺、そして、6番安楽寺、そこから、7番十楽寺へ、ここで、現在、眼の病気を患っている学生時代の友人二人に、眼のお守りを購入してお土産も兼ねて、帰京後、贈ることにした。8番熊谷寺につく頃には、坂が、多くて、結局、雨中、自転車を押しながら、歩き遍路になってしまい、もう、へろへろになってしまった。おまけに、雨は止む気配がない。残りの距離計算では、約17キロ程度であるが、これでは、所定の時間に間に合わず、10番の切幡寺の333段の急な石段は、到底、金剛杖を以てしても、上り下りは、難しいと判断して、急遽、順番を逆にして、10番・9番とタクシーで、打ってから、ストレートな道なりに、192号をひたすら目指して、南下して、吉野川を渡って、本日の最終目的地たる11番藤井寺を、目指すことに変更した。後で、宿で一緒になった歩き遍路の人達によれば、結構、切幡寺の急峻な石段で、脚を痛めて、12番の焼山寺に向かう「遍路転がし」の前に、断念する人が多いらしい。何せ、こちらは、そんな無理は、ご勘弁願いたいので、適宜、自転車で、行けないところは、無理せずに、文明の利器を活用させて貰うというポリシーで行くことに初めから、決していた。もっとも、ここまででも、結構、毎日、自力走行だったから、既に、太腿の筋肉は、右も左も、パンパンである。しかも、尾てい骨が、ひどく、痛んでいることが、漕ぐ度に、認識され始めた。もう雨には、慣れたと思いきや、これも又、その後、見事に、打ち砕かれることになるとは、この時点では、未だ、実感していない。いつも、毎日、毎日、期待が裏切られることになる。吉野川の橋を渡るときに、関西から来たとおぼしき大阪弁の女性の一人歩き遍路の人が休んでいたので、声を掛けると、「想像以上に、しんどいですね!この先、もうどうなるのでしょうか?」と嘆いていた。後で、旅館で一緒になった歩き遍路の人の話では、どうやら、この女性を追い抜いて歩いてきたようである。この女性は、どうしたであろうか?この地点からでも、有に、10キロ以上は、残りの距離があったであろうか?それにしても、山寺というのは、近づくにつれて、いつも、決まって、人を試すかの如く、急な坂道が待ち構えているのである。人生とはそんなものであろうかとも達観し始めるのも、不思議なことでは決してない。もう、この頃になると、般若心経の読経も、悪びれもせずに、堂々と、唱えられるようになった。もっとも、後から来た人の方が、ずっと、堂に入っている時には、流石に、へこんでしまうが、それにしても、色々な読経のスタイルがあるものである。途中の札所で、納経帳が、汗の湿気で、墨が滲んで、濡れてしまいかねないので、わざわざ、小さなポリ袋を2枚戴きました。成る程、雨の時には、必要な準備である。雨だけではなくて、汗の湿気で、ぐっしょりになるのである。既に、手帳も地図帳は、湿気で、ボロボロになってしまった。今日も又、へろへろになりながら、旅館、吉野へ、少々予定より遅れたもの、やっと、辿り着いた。
同宿の熊本からやってきた歩き遍路の人は、一日約3万歩くらい歩いてきたそうである。1万歩が、約7-8キロ程度だから、一日21-24キロくらいも歩くことになるのか?それにしても、朝、6時過ぎ頃から、午後4時頃まで、休みながら歩くのであるから、人間とは、凄いものである。自転車でも、この日は、約40キロ弱を走行した計算になるが、、、、、、、、、。それにしても、昔の人は、何処へ出掛けるのにも、歩いたわけだから、それは、人に会いにゆくためでも、情報を入手するためにも、連絡をする為にも、すべてが、自力で、歩いて行ったわけである。それを考えると、もはや、歩くという行為は、只単に、歩行をするというモノだけではないのは、明らかである。歩きながら、何を考えたのであろうか?簑笠を被って、雨に打たれながら、或いは、菅笠を被りながら、びしょ濡れになりながら、何を考えて歩いたのであろうか?伊能忠敬も、吉田松陰も、坂本龍馬も、芭蕉も行基も、山頭火も、お太師様も、皆、自分の脚で、歩いて旅をして、情報をとり、人と人的ネットワークを結び、何かを学んだのであろうか?今日、これだけ、文明の利器が発達しても尚、人は、歩くことを欠かそうとしないし、むしろ、そこから、学ぶべき事が多いにありそうである。そう言えば、ガンジーは、独立闘争の時にも、塩の道を行進して歩きながら、植民地主義からの脱却、自立を企てたことも、想い出す。足許不如意の自分にとっては、自転車を漕ぐこと、そして、荷物を押しながら、坂を上り下りして、越えることの意義は、或いは、雨に打たれて走行することは、何ほどかの意義があるのであろうか?明らかに、この3日間で、既に、答は、見いだされている。同宿の歩き遍路の人は、明日、いよいよ、「遍路転がし」を経て、焼山寺へと向かうそうである。こちらは、宿の人の勧めもあって、自転車なら、逆に、先に、17番井戸寺から、逆打ちで、13番大日寺までを攻めた方が、宜しいと勧められて、192号線をひたすら、東へ走行することにした。目指すは、神山温泉で、一泊するというコースを選択する。

四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その2:船旅で思う:

2015年07月14日 | 旅行
四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その2:船旅で思う:

前回の船旅は、いつのことだったろうか?うまく想い出せない。よくよく、考えてみれば、学生時代の夏休みに、青函連絡船に乗船して、青森から、函館へと、大部屋で、渡ったことを想い起こす。もう、45年も前のことになるであろうか?それにしても、有明埠頭のオーシャン・フェリーの乗り場というモノも、随分とうらぶれた寂れた感じの漂うところである。これが、今日のフェリーという乗り物の於かれている立場とポジショニングを象徴しているかのようである。非常時の災害時の輸送などで、もっと、見直されて然る出来であろうが、、、、、何とも勿体ない限りである。それにしても、今回、交通費を節約するために、手荷物として、2900円ばかりをセーブし、輪行バッグ(アマゾンで、ドッペルゲンガーと言うブランドのマルチ・ユース輪行バッグを購入したが、これは、なかなかの優れもので、前輪を外すことなく27インチのシティー・自転車をハンドルを捻るだけで、包婿とが可能である。後で、バスを利用するときに、改めて、納得するが、、、、、)に、梱包して、船内持ち込みを図ったところまでは、大正解であったものの、乗船時、船底の倉庫から、狭くて、やたら、急峻な階段をリュック・手荷物を持ちながら、3階分上り詰めるとは、全く、想像だにしていなかった。おまけに、デッキ階から、船室へ、荷物をもったまま、更に、もう2階、登るというので、デッキ階にして貰いたいと要望すると、20畳ほどの2等部屋に、私一人で、寝ることになった。輪行バッグは、便利のようでいて、多いに、問題であることが、この後、徳島港に接岸して、下船するときに、これ又、思い知らされようとは、この時点では、知るよしもなかった。有明埠頭では、ビルには、エレベーターとエスカレーターがあるものの、徳島港には、一切なかったのである。今度は、デッキ階から3階分の階段を下りなければならなかったのである。既に、この時点で、帰りの便では、往復割り引きを利用して、自転車を預けることに、半ば、内心決していたのは、至極、当然の成り行きであった。
それにしても、大型船である。自家用自動車は、僅か、12台ほどと大型バイク2台と自転車1台、乗船手続きも、出港1時間前開始で、すぐに、完了してしまう。韓国のセウォル号の事故もあってか、念の為に、救命胴衣とか、安全確認をしたが、考えてみれば、空海が唐のを目指して、船出した時代には、まさに、風次第、命懸けだったのであろうかと、想像を巡らせる。それに比べると、蒸し暑い梅雨の中にも拘わらず、船内は、冷房管理、空調設備有り、食事や飲み物は、すべて、自動販売機や、セルフの電子レンジで、チンであるから、成る程、簡便である。更には、浴室からは、いつでも、航海中、風呂を愉しみながら、景色、といっても、大海原だけであるが、一応、愉しめる。僅かな干飯とごく少量の飲料水で、毎日、揺れと長期の航海に堪え忍ぶのとでは、全く、天国と地獄の差もあろうことか?現代の船旅などと云うものは、実に、ゆったりとした時間が流れる贅沢なモノである。要するに、カネさえ払えば、日常の生活の延長以外の何ものでもない。とにかく、一番下の等級である2等大部屋であるから、そんなに、贅沢は言っていられない。存外、太平洋に出てからも、それ程、大きな揺れに会わずに、夜の9時半頃には、消灯になってしまう。すると、スマホの充電なども、夜中にしようと思っていると散々な目に遭ってしまう。その前に、やっておかなければ駄目である。予備のバッテリーの充電と本体の充電、最低限これは、必要不可欠である。そのうち、風呂も済ませて、夕食も終わり、テレビを観ながら、消灯後は、すぐに、就寝である。東京湾内を過ぎる頃までには、東京湾ベイブリッジの下を通過したり、景色を愉しみながらしていたが、あっと言う間もなく、景色が遠ざかって終い、東京湾外の太平洋の大海原へと出て行ってしまう。飛行機であれば、上空から、海岸線沿いが愉しめるのであるが、夜間のフェリーは、案外と沖合を航行するものなのである。全く、陸地が見当たらない。航海術がまだ、発達していなかった時代には、結局、陸地伝いに、港、港に、立ち寄りながら、風任せに、航行していたのであろう。水や食料の補給は、一体どうしていたのであろうか?しかも、船倉は、夏場などは、蒸し風呂状態ではなかったのではなかろうか?結局、航海術とは、後の世、幕末に、ジョン万次郎ではないが、西洋から、羅針盤やら、星の方位の測定方法、或いは、操舵術や造船工学、或いは、蒸気船というモノが紹介されて初めて、可能になってくるのであろう。そう考えると、出島で、オランダ語や西洋の武器の技術などを情報収集していながら、何故、操船術というものが、普及しなかったのであろうか?所詮、長い間の鎖国政策に、限界があったのであろうか?それを考えると、快適な船旅というものも、所詮、たかだか、100-150年程度の歴史というところなのであろうか?船に乗っていて、父や叔父達は、戦時中、どんな気持で、次の戦場へと向かっていたのであろうかと思わずにはいられない。今日、豪華クルーズのような旅が、当たり前だが、そういえば、父は、70代半ば過ぎ頃であったであろうか、一人で、香港やベトナム、シンガポール、インドネシアと、まるで、自分の戦争体験を巡るように、最期のクルーズの旅を愉しんだが、今にして思えば、もっと、その時に、どうして、そんな旅に出たのか、どんな気持で、戦場での旅を思っていたのか、尋ねてみるべきだったと、今にして思わざるを得ない。船上の旅は、ゆったりとした時間が流れるモノで、自動車や鉄道、とりわけ、新幹線での慌ただしい旅とは、又、ひとつ、異なる時間の流れがあるようである。若い頃には、そう言えば、未だ、本土復帰が果たせなかった頃の沖縄にも、ビザをもらって、船旅をしたこと、又、結婚間もなく、仕事の関係で、横浜港から、ナホトカまで、青森から、津軽海峡経由、日本海を横切って、繊維製品の輸出の商談で、同じく、船旅をしたものである。記憶などは、曖昧なモノで、考え直して見れば、前回は、青函連絡船ではなくて、こちらのナホトカへの船旅が、もっとも、新しい船旅だった事が、改めて、想い出される。そうすると、新しい順には、ナホトカ航路、青函連絡船の北海道への旅、沖縄への船旅、そして、まだ、子供の頃の大島への船旅だろうか?それ以外は、いつも、飛行機か、車での旅だったことを想い起こす。そうすると、歩き旅とか、自転車での旅というモノは、なかなか、貴重な体験であろう。いよいよ、徳島の港が、翌日の午後Ⅰ時半頃に、見えてきた。天気は芳しくなく、梅雨の長雨の様相である。取りあえず、その日の宿である2番の極楽寺の宿坊を目指して、自転車を漕がなければ、誰も助けてはくれない。そんな当たり前のことをまだ、この時点では、結構、楽観的に、考えていた節がある。

その3:金剛杖のこと

2015年07月13日 | 旅行
四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その3:金剛杖のこと :

徳島港の階段を何とか、一番最後の乗客として、地上に降り立てば、既に、自家用車達は、とうの昔に、埠頭を後にしていた。誰一人居ない切符売り場前で、手荷物を荷台に、据え付けて、安全ヘルメットを被り、透明ゴーグルを装着して、いよいよ準備、完了である。(雨の日のゴーグルは、すぐに、曇ってしまい、視界不良になりやすい。)当面、一番の霊山寺までのナビを再確認である。しかしながら、事前に購入して置いたこの防水ケースのスマホのホルダーというものが、実に、いい加減なモノであることが、既に、この時点で、分かっていたのは、誠に、皮肉なことである。まず、防水が完全ではないということ、又、更には、ホルダーに装着しても、走行中に、突然、何度も、落下してしまうのである。その防止策として、成る程、落下防止の紐がついているわけである。ましてや、雨の中、表示は、曇ってしまい、全く、画面が見えなくなってしまう。この後、結局、ジップロック袋に入れて、都度、見る方式に、変更する。考えてみれば、2000円の投資が空しく、消え去るのみである。ユーザー・レビューにも、出ていたが、大して気にも止めていなかったが、否定的なレビューは、尊重すべきであろう。
まずは、徳島県庁を目指して、走り出すが、既に、雨は、容赦なく、無常に降ってくる。当面、藍住町、板東を目指して、ひたすら、大きな道に沿って、29号線から、192号線へそして、徳島大を右折してⅠ号線を北上、一路、板東目指して、自転車を漕ぐことにした。徳島の道は、自転車には、結構優しいモノである。車道とは別に、自転車専用道路ではないが、実質的に、自転車しか通っていないのである。もっとも、夏草が道半分を蔽っているから、狭まっていることには変わりはない。そんな夏草を払いながら、進んでゆく。道路の整備・管理とは、大変な事であるとつくづく感じる。それにしても、藍住町付近までくると、流石に、疲労感が増してくる。何せ、高校生の自転車にも抜かれるくらいのスピードだから、推して知るべしである。東京でのデータの分析の結果、坂をどのくらい、距離に反映させるかが、ポイントであると考え始める。徳島港から、計算上では、18km程度であるものの、実質的には、2時間以上要した。とりわけ、河というのが、もっとも、それは、言い換えれば、橋なのである。地図上では、フラットな表示であるから、河を渡るのだと、頭では分かっていても、手前から見ると、何と、これが、まずは、長い上り坂である。ギヤーを一番軽くしても、荷物と自分の体重のせいなのだろうか、一挙に登坂することは出来ない。途中で、休み休み、結局、100m自転車を押しながら、休み、又、これを繰り返し、繰り返し、反復して、二つの大きな長い橋を越えることになる。雨が降り続いていると、今度は、登りから、下りに差し掛かると、ブレーキの効きが悪くなり、思い切って、スピードを挙げて下るという訳にはゆかないことが、改めて、実感することになる。高速道路の高架下は、雨よけと小休止には、最適な場所である。途中、道を間違えて、地元の住民に、道を尋ねて、1-2キロのロスは、あったであろうか?昔の人は、地図はどうしていたのであろうか?喘ぎ喘ぎ乍ら、自転車を漕いでいると、目の前を悠然として、白鷺がⅠ羽、右から左前方へ、静かに、緑の穂に蔽われた一面の田んぼの上を飛び去って行った。思わず、一句、浮かんだ。「白鷺の 翼うらやむ 青田かな」こういう心境でした。未だ、目的にも辿り着いていないのに、既に、出発から、2時間ばかり、漕ぎ続けているのに、一番の霊山寺の標識は、見えてこない。しかしながら、程なく、12号線との合流地点で、霊山寺への表示板が眼に入ってくる。遂に、写真で見たことのある一番札所、霊山寺である。作法に従って、山門で、一礼、手水場で、手口を濯ぎ、本堂へ、もっとも、ポシェットに入れてあった線香・蝋燭の箱は、ポンチョの内部の汗と雨のために、湿気ている。おまけに、ライターは、具合悪くて、なかなか、蝋燭や線香に、火が付かない。それでも、何とか、無事に、般若心経を唱えるも、経典はこれ又、湿気ている。こんな雨の日に、しかも、遅い時間だから、参拝者も少ない。大半は、車での巡礼者で、ましてや、自転車や歩き遍路は、ほとんどいない。写真等は、撮る暇もないし、とにかく、宿に着きたい一心である。納経所へ立ちより、山門を出るときに、再び、有り難う御座いますと一礼して、退去する。次の2番である極楽寺の宿坊までは、もう、目と鼻の先である。結局、西へ、自転車で、10分程である。同様に、作法を実行するも、本堂の手前の階段が急峻である。巡礼品の売り場に入ろうとすると、ヤモリが、一緒に、土産店の中に、入ってきた。不殺生を尤もとする以上、踏むことなく、やり過ごして、「金剛杖」を購入することにした。何せ、境内の中でも、歩く場所が、結構、広くて、石の急な階段もあったりで、足許不如意の私には、普段から、念の為に、ノルディック・ポールを杖替わりに、ついているので、今回は、階段で、転けないように、金剛杖をつくことにしたのである。般若心経が、4面に細かく墨字で、書かれた杖を購入することにした。杖は、「同行二人」の意味で、常に、お大師様が、一緒に、傍に連れ添っているという意味があるが、この時点では、そんな意味合いが再認識されようとは、全く想像だにしていなかった。この後、それは、山中で、思い知らせようとは、、、、、、。今回は、残念乍ら、「菅笠」は、安全ヘルメットを被っているので、荷物が多くなるので、購入は見送った経緯がある。従って、死に装束を意味する白い半袖ベスト・タイプと輪袈裟と100円ショップで購入した透明のポンチョを参拝時に、着用することにした。雨に濡れると云うこと、顔を濡らすと云うことの恐れは、既に、この時点では、消滅していた。何と言うこともない訳である。車は、余りに、便利すぎるのかも知れない。雨に濡れないし、群れないし、車内エアコンで、汗で、びしょびしょになることもない。有難い話である。そういうことも、この経験から、学んだ訳である。又、アクセルを踏み込むだけで、急峻な坂道も、苦もなく、登ってしまう。実に大した文明の利器である。
びしょびしょになりながらも、最終的に、2番極楽寺の宿坊へ、五時前には、到着した。宿泊客は、私一人だけであった。金剛杖を洗って、チェック・インである。翌朝は、五時半起床の勤行体験である。不殺生の割には、宿坊内は、蚊取り線香とべープマット完備であった。デング熱も怖いから、ここは、文明の利器に守って貰うこととするか?食事の前には、合掌して、「一滴の水にも天地の恵みが籠もっております。一粒の米にも、萬人の力が加わっております」と合唱して、「戴きます」として、食事を摂取することになる。野菜と刺身のカルパッチョ中心の精進料理は、実に一日2食の身には、実に、贅沢な満腹感をもたらすことになった。「ご馳走様でした、合掌」、久しぶりの一人旅での巡礼は、なかなか、その苦労の割には、様々な日常生活で気が付かないことを、改めて、気づかせて貰えることになる。まだ、旅は、始まったばかりである。余裕がなかったので、一番から二番途中にある、第一次大戦時のドイツ人捕虜収容所跡の記念公園やその当時初めて歌われた第九の里、賀川豊彦記念館に立ち寄れなかったのが、至極残念であった。又、次回にするか?

四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その1:地名には要注意である!

2015年07月11日 | 旅行
=四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その1:地名には要注意である!
88箇所を一挙に、歩いて廻ることなど、初めから、脊柱管狭窄症の手術を3年前に、受けて、足許不如意の自分には、無理であることは承知の上で、自転車でなら、何とか、足慣らしの意味で宜しかろうと思って、取りあえず、1番から17番まで、トライすることにしてみたわけである。まずは、自宅から、オーシャンフェリー乗り場のある有明埠頭までの約23Kmの行程である。一応、既に、予行演習しているから、道順とおおよその時間は、頭に、入っている。しかしながら、旅行用のリュックを背負っての本番は、思っていた以上に、身体に、重くのし掛かるものである。そもそも、地図上やスマホのナビの距離表示には、高低差は、加味されていない。自転車やサイクリストの専門ナビには、高低差や坂道回避のコースの選択と時間もあるが、実際には、それどころの話ではなかったのが、正直なところである。そもそも、出発自体が、晴天ではなくて、梅雨空の雨具を被ってのいきなりの行軍である。地名というのは、よくよく、目を懲らして、吟味すべきものである。そのことは、後日、山中で、イヤと云うほど、思い知らされることになるとは、この出発時点では、つゆ知らずであった。(荻)窪と言う地名自体、そもそも、荻の自生していた窪地である。(中野)坂上、まさに、坂の上である。(成子天神)坂下、字の如く、坂の一番下で、これから先は、再び、下りて、登ってである。(四)谷に至っては、四つの谷が、合わさったところなのか?半蔵門下から、警視庁の前を、皇居沿いのマラソンコースに沿って、桜田門から、銀座のソニービルを目指して、ひたすら、今度は、フラットになる前に、下りである。もっとも、この時点では、既に、梅雨空は、お構いなしに、梅雨のしとしと雨を容赦なく、ポンチョの上に、浴びせかけて来て、体力を消耗する。三越前から、歌舞伎座、東銀座を過ぎて、築地に出ると、今度は、勝ちどき橋である、意外に、この橋というのが、難物であることが、後日、吉野川を何度も渡る時に、感じようとは、この時点では、漠然と予想はしていたものの、まだ、実感は湧かない。人生とは、時計を逆廻しにしてからでないと、案外、分からないものなのであろうか?困ったことである。その先、橋を渡ると、再び、今度は、巨大な晴海大橋という巨大な行く手を遮るような坂道の橋が眼に入ってくる。予行演習では、この坂は、途中まで、漕いで渡れたのに、本番では、荷物が、重すぎる。想定外である。途中から、橋の中程まで、雨に濡れながら、結局、自転車を押すしかなかった。(誰も助けてくれないのである。もっとも、そんなことは、合点承知の介であるが、、、、、)新豊洲を右折して、今度は、ゆりかもめの市場前駅を左折、この辺りは、既に、新しい魚市場の移転の為なのか、道幅が、広い上に、突貫工事現場が多くて、自転車の道が整備されていて、入りやすい。ベイブリッジの良い眺めが愉しめる場所だが、雨で、それどころではない。それでも、アップ&ダウンを繰り返しながら、もう、この辺になると、大型トラックやトレイラーが、数多く見受けられるようになり、有明フェリー埠頭までの大きな道路標識も出てきたので、一安心というところであろうか?距離感を肌で感じることは、大切なことである。人間、これも、後から、感じたことであるが、目的地という目標を目指して、後何キロとか、距離感が、つかめないと、人間というモノは、全く、精神的に弱い動物であることが、後に、山中で、ひとりぼっちの中で、実感した。しかも、後で、地名を確認したら、猪頭、とか、鬼龍野(オンロと読むそうである)、どちらも、成る程、凄い名前である。昔の人は、確かに、そんな名前を命名した事自体、後で、納得である。トンネルや隊道も、又、鬼門である。要するに、山をぶち抜いたということは、如何に、急峻であるかということが、窺われる。考えてみれば、峠という字は、山の中を上に、登り、下に、下るのであるということを身体で、初めて知ることになる。又、峰とか、谷とか、沢とか、坂、窪、など、目的地の地名の漢字を迂闊に、読んではならない。何故、地元の人が、そんな名前を命名したのか、一考してみた方が、宜しいかと思いますね。帰りには、淀橋というところで、休んでいたら、歴史的な経緯を記した石碑があって、、実は、元来、「姿見ずの橋」と云われ、中野長者が、資産を隠すために、人足に、頼んだのに、これを殺害したので、「行ったきり、帰ってこない」という不吉な橋の名前を、家光が、淀川に似ていることから、改名命名したそうである。そう言えば、15番の国分寺でも、お年寄りから、源 義経の登った山とか、近江源氏の石碑とか、様々な名所旧跡の石碑を見たり、聞いたり出来たことも、又、旅の一興であった。旅の印象を、続けます。今度は、いよいよ、船旅です。

準備完了なるも、天気が心配である:

2015年07月02日 | 旅行
準備完了なるも、天気が心配である:
はてさて、どうなることやら、四国お遍路88箇所のうち、取りあえず、歩けないから、サイクリングで、足慣らしの意味で、18番くらいまでを目標にして、出掛けてみたいと考えている。何せ、海外旅行は、散々、慣れ親しんで云っているが、一人での国内旅行、しかも、サイクリングでは、学生時代の卒業旅行に、カニ族で、周遊券を使って、列車と駅舎の中で、野宿して以来だろうか?阿波国くらいは、取りあえず、サイクリングで、後もう一度ほど、残りを廻ってみて、後は、軽自動車で、廻ってみようかと、今から、本音が、垣間見られる。若い時は、結構、晴れ男を辞任していたが、結婚してからは、何故か、どうも、天気に、恵まれない。もっとも、ゴルフの時は、大概が、天気に恵まれ、雨合羽を着てプレイしたのは、数えるほどしかないが、、、、、、。今年は、空梅雨と踏んでいたのに、存外、長梅雨のようである。まぁ、一日や二日は、多少ぬ得れても仕方ないとも考えるモノの、出来れば、天気が良いに越したことはない。残りは、天気の回復する秋口にでも、敢行することにしようか?道中のブログは、記録を纏めて、アップするとして、暫く、1週間程は、お休みです。どんなことを巡礼(?)のあいだに、感じるか、楽しみです。暫く、テレビ、新聞、PCとも、お別れですが、取りあえず、スマホで、情報と連絡は、とりたいと思います。では又、、、、、。台風に遭いませんように、、、、、、。フェリーが、揺れないようにと、

新幹線は、どこまで、悪意を防ぎきれるのか?:

2015年07月01日 | 社会戯評
新幹線は、どこまで、悪意を防ぎきれるのか?:
航空機には、元々、フェイル・セイフという設計段階からのそういう思想があるそうであるが、長い歴史を有する鉄道などでは、これまでの事故の経験から、世界に誇るATMを始め、様々な工夫が施されている。しかしながら、そもそも、初めから悪意を持った車内焼身自殺の対策などは、考えてもいないことだろう。毎日、40万人もの人々が、利用するいつでも、ヒョイと跳び乗れる利便性この上ない、しかも、時刻表通りにやってくる新幹線は、今更、手荷物検査などを行ったら、間違いなく、乗り遅れることは必至であろう。そうはいっても、今回の事故を教訓として、少なくとも、緊急時でのドア・コックとか、車内機密性の課題解決とか、難燃性素材やスプリンクラーとか、何らかの対策を、講じる必要性は、乗客の安全確保の観点からも、可及的速やかに、求められよう。それにしても、うかうか、車内でも、居眠りなどはしていられない時代である。昔、新宿駅のバス放火事件があったが、いつ何時、不慮の事故に、巻き込まれる危険性が、何処にでも、転がっていることが、これからも、分かろう。日本は、安全であるという神話に、惑わされずに、改めて、廻りも、着席したら、きょろきょろと見廻しておかなければいけない時代なのでろうか?何とも、困った時代になったものである。それにしても、逃げ遅れて、亡くなられた方は、本当に、お気の毒としか、云いようがない。テロでなくて、本当に良かった。警察官による車内巡回も、必要となろうか?それにしても、ジャンボ機をはるかに凌ぐ人数の乗客が、利用していることにも、改めて、驚かされる。