ゆく年くる年。
亥年1911年、明治44年の年賀状です。
どちらも製造元は同じです。
製造元は違いますが、翌1912年、明治45年子年の年賀状です。
使用されていますが、モノクロ印刷で電報のデザインでもあり、めでたさが半減する雰囲気です。
予感していたかの様に、この年明治天皇は崩御されました。
ゆく年くる年。
亥年1911年、明治44年の年賀状です。
どちらも製造元は同じです。
製造元は違いますが、翌1912年、明治45年子年の年賀状です。
使用されていますが、モノクロ印刷で電報のデザインでもあり、めでたさが半減する雰囲気です。
予感していたかの様に、この年明治天皇は崩御されました。
受話器を外すと交換手が出る。
相手を伝えるとつないでくれる。
そんな時代の東京三越呉服店の絵はがきです。
「お急ぎの場合はお電話で」。交換手の女性が並ぶ写真と、発送のため荷造りしている写真です。
我が家の押し入れには最後の頃の黒電話が眠る。
ある日のこと、電電公社から「電話機を2000円で買い取りませんか?」と電話があった。
聞けば、毎月基本料金に200円のレンタル料が付随しているとの事。
10か月で元が取れる。買いますと即答した。
交換手を経なくても相手の番号のダイヤルを回すと直接つながる時代になると、爆発的に加入者が増えた。
しかし10年償還の債権を買って加入しなければならないので、電話を設置する事はちょっとかこいい?
転居する場合は電話機を引き取りに来て、転宅先では新しい番号と電話機が来た。
買い取ってからは、転居するときは電話を外して持って行った。
そのため電話機は掃除をしても次第に汚れてきた。
FAXや留守電機能でプッシュ式、電電公社もNTT、電話機は電機店で買う時代。
光回線にした現在、もうこの電話機は我が家では使えない。
明治43年、瓜哇スラバヤへ。
瓜哇 この字ジャワと読むそうです。インドネシアです。
日本から港の絵の絵はがきを送りました。
1920年あちらから、同じく港の絵はがきが届きました。
1920年は大正9年です。
双方の消印から判断しました。
赴任地ジャワへ届いた絵はがきを持ち帰った。
日本にいる家族もジャワから送られてきたものを大事にしていました。
金子常光画「神都高千穂峡」昭和5年4月15日発行。
2015年6月13日、私も行きました。
上流で観光バスを下車して、渓谷を徒歩で見学しながら水の流れに沿って下り、待っていたバスに乗って再び上まで戻って昼食をとりました。
軍事郵便の絵はがきです。
それぞれに男の子と女の子、支那風俗と書いてあります。
支那とは中国のことで戦前まではこう呼ばれていたそうです。
平成元年に逝った祖母は生涯、支那人とか、支那そば(ラーメン)と言っていました。
シナも、チャイナも語源は同じだそうです。
中国に置かれていた日本の機関から兵士に支給された絵はがきを、退役の折、持ち帰ったものと推察します。
1918年(大正7年)11月11日、ドイツ休戦条約調印、翌1919年6月28日ベルサイユ講和条約成立で、第一次世界大戦が終結して、平和が回復したのを記念して同年7月1日、逓信省より袋入り2枚組10銭で発行されました。
袋、各絵はがきは別々に入手してセットにしました。
少年少女と鳩、鏑木清方画。
収穫の図 南薫画。
記念切手とスタンプです。
当時、中国領土内の日本郵便や朝鮮管内の朝鮮総督府発行銘でも発売されました。
記念切手は1銭5厘、3銭、4銭、10銭の4種発行されました。上の切手は1銭5厘です。
当時、はがきは1銭5厘、手紙は3銭、海外へのはがきは4銭でした。