昭和18年5月28日金曜日、朝日新聞夕刊、戦時中の新聞です。
海軍記念日に恩賞授与の記事。
柳本少尉に功二級。
裏面に、ご遺族の記事。
新聞の広告です。
電話番号は記載されていない。
電話はまだまだ普及には至っていない。
昭和18年5月28日金曜日、朝日新聞夕刊、戦時中の新聞です。
海軍記念日に恩賞授与の記事。
柳本少尉に功二級。
裏面に、ご遺族の記事。
新聞の広告です。
電話番号は記載されていない。
電話はまだまだ普及には至っていない。
昭和17年8月27日木曜日、朝日新聞夕刊、一枚です。
武士魂薫る蒙古将校、軍刀紛失に潔く自決をはかる。
陛下より拝領の軍刀と教えられていて、失くしたら切腹ものだったのでしょうか?
幸い、早期に発見され一命をとりとめた由。
小説は、呂宋(ルソン)助左衛門。
戦時下でも劇場や映画館はそれなりに。
昭和17年9月1日火曜日。
海軍報道班員の丹羽文雄氏が、砲弾で負傷と報じられている。
絵はがきで知ったのですが、献納軍用機は膨大な数にのぼっていたようです。
戦地の報道官の取材でしょうか、当地では夫婦で散髪しています。
昭和17年8月23日 日曜日
アメリカ大統領。
三面。
戦死者の年齢は記載されていないが、遺族の構成と年齢は記載されている。
その父(47)母(42)弟達(16.13.12.10.7.4)日清日露戦争に従軍した祖父(71)祖母(71)の10人家族とある。
左の写真の戦死した彼は長男で18だろうが、いずれも数え年である。
戦死者数は1人と数えないで1柱とするは靖国神社に祭られる神道式。
漫画はフクちゃん、3コマです。
昭和7年12月7日の朝日新聞京都版です。
在郷軍人関西大会。
桃山御陵に参拝。桃山御陵は明治天皇の御陵である。
現在の歳末助け合い募金の当時の記事です。
同情募金週間ですって。
小学生がお小遣いをカタカナの手紙を添えて募金したという記事と、義金の名目で発表された募金額が載っています。
南座では、年末恒例の顔見世興行が開催中で、その諸評を絵と共に植村松皇画伯が述べられている。
画伯は、かの植村松園さんの御子息で100歳の天寿を全うされた方です。
奇しくも昭和の晩年に、京都高島屋の美術品売り場に単身ふらりとお寄りになっているのを見かけた。
近くの夫人が連れの方に「松皇さんや」と話しておられるのを聞いた。
すらりと長身のお方でした。
年末で洋服のお誂えの広告多し。
そごう呉服店ですって。デパートは皆、元は呉服店ですね。
日焼けして、インクが脱色しています。折山にも文字が印刷されています。
東久邇宮様がご成婚の記事、お相手の方名前に「姫」とおくられています。
東久邇宮多嘉王殿下には、叙勲がなされています。
こちらは公爵夫人に扮したドイツの女優リタ・サクセットウです。(ウは要るの?)
西園寺首相が俳優を請待したといって破天荒の如く思っているものもあるが、西洋では・・・・に始まり、俳優の評価云々が書かれています。
川原乞食なる差別用語が堂々と書いてあり、長きにわたって芸能界入りを親に反対された時代が続いたのでしょう。
現代では親がもろ手を挙げて賛成する時代となっているのも面白い。
このフリガナの付け方がわかりにくいです。
大正15年12月25日(土)、大阪朝日新聞。「先帝を偲び奉るの」特集分だけです。
幼かった頃の陛下の御影が載せてあります。
よって、昭和元年は短かった。
高校生の頃、新聞のカットを切り抜きしていました。
ヒマな肥満婆となってから再び始めた。
紙の色の古いのは昔、右上と左下のカラーは今のもので、子供のコーナーです。
敬老の日が9月15日だったころから、現在は第3月曜日。明日17日が今年の敬老の日です。
老人のカットは人物のコーナーにあります。
まず夫婦。
じいちゃん。
ばあちゃん。
同じばあさんが、別の日に掲載されていたパターンを並べました。
お寂しそうな、がんばって~
私の持ってる一番古い新聞は大正3年12月2日附です。
折山にも記事が書かれています。
大正4年4月2日附です。枠外の日附欄に(休み知らず)と書いてあるのは休刊日は無かったのでしょう。
4月1日の前年度最後の日卒業式があったようです。
4月2日の新聞には優秀なる卒業生を写真と氏名を発表してあります。
プライバシー問題で揺れる現在からは隔世の感ありです。
学期終了日に、5段階評価の通知表を持ち帰ります。
大正11年生まれの父が、笑いながら言いました。
父の小学生時代は昭和初期です。
「わしらの頃は『5な者』と氏名を書いた紙が廊下に張り出されていた」
ロクな者ではないという意味の成績の悪い生徒の公表だったそうです。
同じ大正4年4月2日の朝日新聞京都附録の一枚物です。地域版はこうだったのですね。