年々夏の暑さが増してきます。
明治時代の海辺の絵葉書です。
当時の最高気温は30度になっていたでしょうか?
こちらの絵は手書きです。
1912年7月24日、京都から海外へ赴任している子息宛てに送られています。
セレベス島とは現在のインドネシアの一部です。
陛下が御病気の由と書いてあります。陛下とは明治天皇です。
明治天皇は1912年7月30日崩御されました。
すなわち、本日は御命日です。
この美人絵葉書は大正2年の日付けです。
この時代の水着はシマウマと呼ばれました。
年々夏の暑さが増してきます。
明治時代の海辺の絵葉書です。
当時の最高気温は30度になっていたでしょうか?
こちらの絵は手書きです。
1912年7月24日、京都から海外へ赴任している子息宛てに送られています。
セレベス島とは現在のインドネシアの一部です。
陛下が御病気の由と書いてあります。陛下とは明治天皇です。
明治天皇は1912年7月30日崩御されました。
すなわち、本日は御命日です。
この美人絵葉書は大正2年の日付けです。
この時代の水着はシマウマと呼ばれました。
陶器の透かし、高さ10㎝で5㎝角、4面です。
菊の花みたいなのに杉の葉の様な絵付け。
量産で注意散漫だったのか「喉ちんこ」がある。
子供の頃どこかのうどん屋さんで見かけたような、それとも映画の中だったかしら?
夫の独身時代からの持ち物だった、この扇風機。
今は無いサンヨーの製品です。
夏が終わると、解体して拭いて箱に仕舞い込む。
ストーブに子供達の手を近づけて「熱い熱い、火傷する」熱くて手を引っ込めた。
扇風機には「噛むよ、痛い痛い」と教えた。
ガードを立てなくても、カバーしなくてもどの子もケガすることはなかった。
近年古い扇風機が火を吹くというニュースがあった。
今年は特に暑いが、つけっぱなしにする習慣がない我々なので、ドラゴンにならずにいる。
いい横顔しています。
セーラーインクはビンの形が変化して来ました。
これが一番古そうです。
ラベルの無い菱形が2番目で、箱のあるのがその次ですが、この後も新製品が出ています。
私製はがきの許可がされたのは明治33年(1900年)でした。
たくさんの絵葉書が発売されました。
達磨7枚綴り、手描きの絵葉書です。
私製はがきは、切手を購入する必要があります。
営業上多くの年賀状を必要とする場合、官製はがきに印刷するのが合理的でしょう。
この中の一枚が正体を現しました。
大正10年の年賀用に印刷したハガキの残りを絵葉書としたものでした。
昭和24年の年末、翌25年(1950)の迎春用に「お年玉くじ付き年賀はがき」が発売されました。
昭和42年(1967)8月1日、デザインが飛天に変わりました。
往復はがきです。9月1日発行。
翌、昭和43年(1968)7月1日郵便番号に伴い6月1日発行されました。
昭和44年(1969)には差出人にも郵便番号の記載枠が設けられました。
往復はがきです。返信用は同じ絵で緑のインクです。
昭和47年(1972)2月より、10円になりました。
往復はがきです。
昭和51年(1976)20円になりました。
往復はがきです。
昭和56年(1981)1月30円になりました。
往復はがきです。
昭和56年(1981)4月、40円。
平成元年(1989)4月消費税導入。41円です。
平成6年(1994)1月税込み50円。
平成10年(1998)郵便番号4桁に。
平成12年(2000)2月1日、朱鷺(トキ)発行。
インクジェット紙も出ました。
平成19年(2007)10月1日トキがスズメに変わりました。
平成24年(2012)10月1日、郵政民営化で(株)日本郵便となりました。窓口でいただいた記念はがきです。
昭和24年(1949)1月10日往復はがきが発売されました。
昭和25年(1950)5月22日、インクの色が変わりました。
昭和26年(1931)12月1日、はがきが5円になりました。
12月15日往復はがきが発行されました。インクの色は往復とも同じです。
昭和29年(1954)6月21日議事堂の角度が変わりました。
翌、昭和30年6月20日往復はがき発行。
昭和36年8月1日料額印面のデザインが法隆寺の夢殿に変わり、同日往復はがきも発行されました。
昭和41年(1967)7月1日、7円になりました。
昭和5年(1930) 価格は同じく1銭5厘、デザインを楠公像で発売されました。
昭和8年(1933)2月15日、「はかき」表示が「はがき」に改正されました。
昭和12年(1937)4月1日2銭になりました。
8月1日、枠のデザインが変わりました。
往復はがきです。
昭和19年(1944)5月8日、3銭になりました。
往復はがきです。一度に双方の料額印面を印刷して手間を省いています。
昭和20年(1945)4月1日より5銭となります。はがきは3月31日発行されました。
昭和20年は震災はがきの時のようにサイズが小さくなりました。
料額印面もサイズ変更されています。
昭和21年(1946)7月20日、桜です。
同年8月25日、3倍に値上がりして15銭になりました。
往復はがきです。
昭和22年(1947)5月15日、料額印面が稲穂の図柄、50銭になりました。
同8月10日発行の往復はがきから、元のサイズに戻りました。
第2次大戦中から戦後にかけて、歴史上例を見ない価格高騰、耐えて乗り切った我慢強い先人たち。
昭和23年(1948)貨幣が改正され、銭以下は使用されなくなり9月10日、はがきは2円、手紙は5円となりました。
国会議事堂のデザインが登場しました。
左は、昭和25年4月20日、郵政記念日制定記念 大坂 のスタンプです。
往復はがきは翌年発売されます、それは次回。
明治32年(1899)1月、手紙3銭 はがき1銭5厘となりました。
明治39年(1906)7月5日発行のはがきです。
明治44年(1911)料額印面に七宝の一つである「分銅」をあしらって、後に分銅はがきと呼ばれました。
往復はがきです。
初期には発信用と表記されたものが、往信の表記に変わりました。
返信用は返信と変わりました。大正11年の日付です。
大正12年(1923)関東大震災、縮小されたはがきが11月15日発行されました。
往復はがきです。往信面。
返信面。
大正14年(1925)5月1日元のサイズの分銅はがきに戻りましたが、下段の逓信省発行、印刷局製造の文字は消えました。
次回から昭和に入ります。
明治16年(1883)1月、現在の様に全国均一料金に決められ、はがきは1銭、手紙は2銭になりました。
左のはがきは、右の1銭はがきを模して、薄い紙にガリ版印刷したような感じです。
授業で使うために作られ、滋賀縣商業學校實習用とあります。
商業学校でないものもは、作文はがきとして作られています。
フラッシュの有無で載せます。
明治20年(1887)2月19日 逓信省のマークが〒と決まりました。
明治31年12月1日発行の新デザインの1銭はがきです。
明治32年5月25日料金改正により、手紙3銭、はがき1銭5厘となりました。
はがきに似せてあり、ガリ版印刷のようで、裁断がズレています。
枠に「作文はかき」料額印面には菊の御紋を避けてデザインして「大日本生徒用紙」
大日本帝国學校用紙と印字されています。
家族の誰かが下書きに使ったのでしょうか?
反古を利用した手製封筒に入っていました。
同封されていた切手は手紙用の3銭のものでした。