軍服や学生服のボタンは、校章記章が別誂えで作成されました。
陸軍海軍、師範学校、商業学校、男子中学校、どれも優れたデザインです。
下段右より2番目、大阪 福井組製と書かれたボタンの表です。
制服製造所には、お得意さんの学校のボタンが供えてあったのでしょうか。
戦局が悪化すると、金属類は使用が制限され代用品でまかなわれました。
陶器のボタンです。
ガラス製です。
陸軍? 木製で、金色に染めてあります。
軍服や学生服のボタンは、校章記章が別誂えで作成されました。
陸軍海軍、師範学校、商業学校、男子中学校、どれも優れたデザインです。
下段右より2番目、大阪 福井組製と書かれたボタンの表です。
制服製造所には、お得意さんの学校のボタンが供えてあったのでしょうか。
戦局が悪化すると、金属類は使用が制限され代用品でまかなわれました。
陶器のボタンです。
ガラス製です。
陸軍? 木製で、金色に染めてあります。
アイロンは露店で許可を得て写真を撮らせて頂きました。
中に炭火を入れて熱して使います。
内部です。
鉄全体が熱くなりますから、持ち手を握る指の熱さ予防に上部に付けられた舟形の鉄ですが、やがては熱が伝わるのではないかと心配します。
後部です。
内部です。
この形は戦後まで残っていました。
昭和のお初めには電気アイロンが出来ていましたが、天井から下がる電球を外して、丸いコンセントをねじ込んでアイロンをつないで使いました。
こちらはコテのように全体を火に入れて温めて使うモノらしいです。
古くから火でシワをのばすので「火のし」という、ひしゃく型の物がありました。
オモチャですが「火のし」と「コテ」です。
竹で作られています。袖の丸みの型取りに使ったのでしょう。
裏に「選科い組」と持ち主の名前があります。
昔の学校制度では本科に準じて、科を選んで学べたので選科と言ったのだそうです。
洋服を選んだ?
ポケットは大きく分けて貼りポケットと切りポケットがあります。
貼りポケットはカッターシャツの胸の様にぺたんと貼り付けます。
これは切りポケットの見本です。
生地を切って、上と下2枚のポケット布を縫い付け内側に入れ込みます。
内側です。
蚊帳のミニチュアです。
蚊帳を家庭で仕立てる事があったのかどうかは、わかりません。
日本家屋では蚊帳を吊って寝ました。
部屋の四隅に吊り手がぶら下がっていて、蚊帳も六畳用は長方形でした。
蛍を捕ってきて蚊帳の中に放して寝ました。
朝、学校に遅れる~と蚊帳をたたむ時は蛍のことはすっかり忘れていました。
女性の着物は日常着ですから普通に仕立てる事ができました。
女性との違いを把握するために、衽(おくみ)を省略した男性の着物です。
着物の上に道中着と呼ばれたコートを着て出かけます。
衿の縫い方が分かる様に片方は仕上げてありません。
11月から3月まではコートを着て出かけます。
その季節にコートを着ないで外出すると帯が見えるので「帯はだか」と嘲笑されました。
現代は暑いのと外国の方々の着物姿はコートを着ていません。
コートを着ている方は着物に精通した方です。
4月から10月までは透けて見える絽や紗の羽織、またはレースのショールを着用する場合もありました。
飾り結びした紐は、縫い付けてあります。
丈の短い半コートです。
女性の着物にはバチ衿と広衿があります。
バチ衿は普段着に用います。
広衿の縫い方です。
首のあたりは二つ折りにして着ます。
動いても着くずれしにくいです。
裾や袖は比翼仕立てになっています。
寒い冬、浮世絵に見られるように重ね着をしていました。
2月を如月(きさらぎ)というのは、着てさらに着るの意味があるのだとか。
動くと裾が開いて重ねて着ているように見える仕立てが比翼仕立てです。
絽の着物にも見られます。
図書館の和裁の本の1ページです。
袴の型見本です。
袴のミニチュアはたくさん存在しました。
男性の袴は大きく分けて2種類です。
スカート状のものを行燈袴と言って儀式用です。七五三、結婚式、卒業式、表彰式などがこの形です、
マチの深いものを高マチ袴といって乗馬用です。
マチとはマタガミのことで、深いもの浅いもの用途に合わせて作られました。
季節によって裏地の付いた袷物があります。
女性用の袴は行燈型のみです。
猿股は、マチの入れ方と足首のデザインに違いがあります。
現在の様に市販品が無かった時代ですから、下着は妻や母の手作りでしょう。
こちらはズポン型でボタンを付けるようになっています。
後ろです。
数校、数人の作品です。
型紙なので実際のサイズです。新聞紙の日付は大正7年1月です。
自身の後日用の縫製見本として作られたミニチュアですから、サイズは各人の自由で一定していません。
綿の入った冬用、赤ちゃんのおくるみです。
生まれてすぐ用は袖が無く、腕もろとも包んでいたようです。
赤ちゃんが爪で自分の顔へのひっかき傷の予防にはなるでしょうが、窮屈そうです。
白い襟が首にきます。
首が座ると袖付きで抱っこ。それとも掻い巻き布団でしょうか。
小さい方の一方は裏布付きで冬用です。
布オムツの時代ですから、どれもオムツ替えたりトイレ訓練しやすいように、お腹は冷やさないようにと工夫されています。
後ろです。
女児のドレス、お出かけ用?
男の子用です。人形に着せたいくらいです。
女学校生徒の作品の中には生活文化の変化で活用目的が不明な物もあります。
押し絵と同じつくりの着物の後ろ姿で、吊るすように紐がつけてあります。
ここに入るのは帯結びでしょうか。
裏面です。
観音開きで、片方の紐は失せていますが、左右の紐を中央で結んで収納したのでしょう。
開いた中です。
贈答品やお祝い品など、その折々の包装法だったのかもしれません。
左右の端には大小のタトウがあり、それを開いたところです。
現在でも着物は一枚づつ和紙のタトウ紙に包まれていますので、産着や七五三の衣類のお祝いの贈り物に飾り物造りの見本かも知れません。
中央のものは上下違う折り方です。
実際の場合は、両端の折り方のどちらか一方に上下とも揃えて折りますが、2種類の飾り折りがあるという意味の見本ではないでしょうか。
贈答品の包装に心を配る国柄ですから、地域だけの特徴なのか、身分階級によるものなのかはわかりません
私が小学生まで生活したススキを使った草葺きの生家の鴨居には、親戚縁者から贈られた同形に折った和紙の祝儀袋がズラーーっと貼られていました。
農協の売店にのし袋が並ぶようになると、もう誰も和紙で折らなくなりました。
明治時代の義務教育は小学校4年間でスタートし,数年後6年間になりました。
義務教育終了後、家庭事情の許されたお嬢様は女学校へ進学しました。
学校で教えるのでしょう。レース編みの作品です。
こちらは立体的に編まれています。
毛糸編みの作品はは風化が進んでいます。
女学校では、日常の衣服全般について教えられ、家庭に入ってから困らないようにミニチュア版にして、長持ちに入れて嫁いだのでしょうか。
残されたその作品を、日を追って紹介します。
日本刺繍です。赤ちゃんのよだれかけで、実物大です。
飾り紐結びと房つくり、こちらも実用向けの実物大です。
デパートの中国物産展で買ったのは1970年(昭和45年)頃だったでしょうか。
辮髪で同じ顔した10人。
2000年(平成12)頃、小さなお店で発見した12人の唐子。
価格は210円。消費税5%で10円は税。裏に価格シールを残しています。
10人のと比較すると布の光沢が少し落ちます。
わきの下をくすぐると「きゃ~」とくすぐったがってみんな落ちる、ということは無い。
ある日の縁日、露店で女店主が並べていました。
「私が中国のデパートで買ったのよ」
昔のセレブっぽい風情が漂う人でした。
「へー、もしかして1ドル360円の時代?」「かもね、忘れたわ」ですって。
そして次に出会ったコレは、色が顔に移っていました。
足の開き方が少な目な感じがします。
誰かの手づくりらしい。誰かは中国の人?日本の人?少しお顔が雑ね。
蓋がとれます。
先日露店で5人のを見ましたが、日焼けして脱色していたのでパス。
今日2017-11-21発見。
一人のもの。
そして今日2018年2月4日、カボチャを囲む6人。
シェアーハウスなんです。
編み物用のかぎ針です。右の金色の3本は毛糸用です。
中ほどの金属製はレース編み用で上にある2本はそのキャップです。
右の金色の物は毛糸編み用です。「クローバ」「スキー」というメイカーでした。
糸の太さによってかぎ針にも号数がありました。
一番左の物は刺繍針でした。
特許番号が入っていましたので、特許庁のホームページで検索しましたが、申請用に提出された使用法は理解が出来ず、また普及もしなかったようです。
木や象牙や鉄で作られています。
かぎには糸の太さ(番手)によってサイズがあり、一本に大小両方のかぎが付いています。
下の黒くなった金属製のカギ針は、祖母亡きあと祖母の裁縫箱で発見しました。
少女時代の私のレース編みです。