以前ちらっと予告してましたが、心理分析システムの交流分析、その中の「構造分析」について、ちょいとしたお話をば・・・・、
交流分析を説明しだすと、とてもブログでは書ききれないのですが、心療内科や精神科などで、心の状態を分析するための手法で、精神医学系の病院に行った事がある方なら経験があると思いますが、初診の時、何ページもある、短いけど膨大な問診票にチェックを入れるやつがありますよね?あれによって、エコグラムというグラフで数値化し、心の状態を把握するのが「構造分析」というやつだそうです。
私も、ほんとの専門家ではないので、詳しくは、以下のリンク(右のリンクにも入れてますが)を参照くださいませ。
『澄んだ眸』http://www.dokidoki.ne.jp/home2/ramirezi/restructure/ta/index.htm
この構造分析では、心の自我を大きく3つに分けて捉えます。親の自我(Parrent)大人の自我(Adult)子供の自我(Child)の3つで、そのうち「親の自我」は、支配的な親"CP"(Controlling Parent)と保護的な親"NP"(Nurturing Parent)の2つに、そして「子供の自我」は、自由な子供"FC"(Free Child )と順応した子供"AC"(Adapted Child)の2つに分かれます。図にしてみると・・
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こんなイメージです。"A" 「大人の自我」が、自我コントロールの中心、というイメージです。
で、最近読んだ「メンタルヘルスマネジメント」という本の中にあった情報なのですが、A,P,C の3つでは、不十分である、とし、"S"「セルフ」という概念をプラスし、"S"=「我々の存在全体を後ろから静かに見据える目」=「全身眼」を中心として、その周りに"A""P""C"を配置するような概念を、日本人の医師が提唱した、というのです。
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本によると上の"A"を自己コントロールの中心に据えたものを"アメリカ式"、”S”を中心に据えたものを東洋的、という表現をしていたのですが・・・・、
-------------------------
これ以降、わたくし加藤が勝手な想像と妄想で、勝手な論理を展開いたします。(^_^;)。
私が注目したのは、最初の「大人の自我」で十分自己コントロールが出来るとした手法を作り出したのは、アメリカ人であるという事。そして、それでは不十分と考え「セルフ」を中心に据えたのが日本人であるという事。
自由の国アメリカ・・・、しかしこの国、大統領の就任式でも、裁判の宣誓でも、聖書を使う事が当たり前の国だったりします。キース・エリソンというイスラム教徒の人が議員に当選して、コーランで宣誓を行おうとしたら、大問題になったとか・・、わりと最近の事です。こんな文書もありました・・。
http://www.asyura2.com/2003/dispute8/msg/859.html
また、ウィキペディアのアメリカ合衆国のページには、とある調査では、「アメリカ人は、「神を信じる」と答えた人が86%、「天国を信じる」と答えた人が81%という結果が出た。」ともあります。
そして、日本はご存知の通りの無宗教国家。宗教の無い民族というのは、おそらく地球上では少数派と思われます。つまり日本の精神医学者が「足りない」と思って追加した「セルフ」とは、宗教によるものが大きいのでは?と、直感的に私は感じました。
アメリカは宗教的にも一応自由でありますが、その文化の根底を支えるものに「キリスト教」というもの無しでは成立しないのでしょう。なにしろ、アメリカにメイフラワー号に乗ってきたのは、清教徒ですからね。
「大人の自我」の裏付けに"宗教"がある。しかしアメリカにおいては、わざわざ文書にするまでもない、無意識下の当たり前の事。いや、本当は宗教があるとわかっているけど、医学的な立場から堂々と「宗教」と書く訳に行かない・・・、そんなところかな?・・と。
さて、無宗教の日本は「セルフ」なる、苦しい言い訳?みたいなものを作る事で、構造分析をなんとか成立させましたが、他の国では・・・・と、考えると、ちょっと恐ろしい感じがしてしまうのですが・・・。
全然表面に記述されていない理論「宗教」が、自我、心の中心となる「大人の自我」を裏付けしているとしたら、イスラム教徒の「大人の自我」、キリスト教徒の「大人の自我」、そしてその他の宗教でも・・・、違う宗教を持っている人の心は、根本的な出発点が、全く違い、相容れないものである、とういことになってしまわないだろうか?宗教の違いとは、心のあり方が全く違う事になり、「正しい大人」の定義も「正義」「道徳」の定義も、互いに全く理解の出来ない、全く違うものになってしまう・・・・。そう考えると、宗教で戦争が起こるのも、納得出来てしまうのだが・・・(>_<)。
私も標準的な日本人でありまして、信仰やら宗教、というのは、正直実感として全くわかりません。でも、心をきちんと分析しようとする医学を突き詰めていって、宗教にぶつかるってのは、なんだか、不思議というべきか、なるほどというべきか・・・?
自分が無宗教の日本に生まれた事は、良かったのか悪かったのか・・・?
無宗教の日本という国は、戦争中には「お国のために命を捧げる事」が正しい大人だったのに、アメリカの支配下になったとたん、180度簡単に信念を変える事が出来てしまう身軽さ・・、そして今、自立した国を求められて、何をしてよいかさっぱりわからん目標の無い国・・・、良い事なのか悪い事なのか?
ま、あくまでも私の勝手な想像ですので・・・、全然的外れかもしれませんけどね!
最近ちょっと気になって考えている事でした。
--追記
「宗教」という概念についてもちょっと考える所があるのですが、そちらはまだ上手く言葉にまとまらないので、そのうちに!
交流分析を説明しだすと、とてもブログでは書ききれないのですが、心療内科や精神科などで、心の状態を分析するための手法で、精神医学系の病院に行った事がある方なら経験があると思いますが、初診の時、何ページもある、短いけど膨大な問診票にチェックを入れるやつがありますよね?あれによって、エコグラムというグラフで数値化し、心の状態を把握するのが「構造分析」というやつだそうです。
私も、ほんとの専門家ではないので、詳しくは、以下のリンク(右のリンクにも入れてますが)を参照くださいませ。
『澄んだ眸』http://www.dokidoki.ne.jp/home2/ramirezi/restructure/ta/index.htm
この構造分析では、心の自我を大きく3つに分けて捉えます。親の自我(Parrent)大人の自我(Adult)子供の自我(Child)の3つで、そのうち「親の自我」は、支配的な親"CP"(Controlling Parent)と保護的な親"NP"(Nurturing Parent)の2つに、そして「子供の自我」は、自由な子供"FC"(Free Child )と順応した子供"AC"(Adapted Child)の2つに分かれます。図にしてみると・・

こんなイメージです。"A" 「大人の自我」が、自我コントロールの中心、というイメージです。
で、最近読んだ「メンタルヘルスマネジメント」という本の中にあった情報なのですが、A,P,C の3つでは、不十分である、とし、"S"「セルフ」という概念をプラスし、"S"=「我々の存在全体を後ろから静かに見据える目」=「全身眼」を中心として、その周りに"A""P""C"を配置するような概念を、日本人の医師が提唱した、というのです。
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本によると上の"A"を自己コントロールの中心に据えたものを"アメリカ式"、”S”を中心に据えたものを東洋的、という表現をしていたのですが・・・・、
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これ以降、わたくし加藤が勝手な想像と妄想で、勝手な論理を展開いたします。(^_^;)。
私が注目したのは、最初の「大人の自我」で十分自己コントロールが出来るとした手法を作り出したのは、アメリカ人であるという事。そして、それでは不十分と考え「セルフ」を中心に据えたのが日本人であるという事。
自由の国アメリカ・・・、しかしこの国、大統領の就任式でも、裁判の宣誓でも、聖書を使う事が当たり前の国だったりします。キース・エリソンというイスラム教徒の人が議員に当選して、コーランで宣誓を行おうとしたら、大問題になったとか・・、わりと最近の事です。こんな文書もありました・・。
http://www.asyura2.com/2003/dispute8/msg/859.html
また、ウィキペディアのアメリカ合衆国のページには、とある調査では、「アメリカ人は、「神を信じる」と答えた人が86%、「天国を信じる」と答えた人が81%という結果が出た。」ともあります。
そして、日本はご存知の通りの無宗教国家。宗教の無い民族というのは、おそらく地球上では少数派と思われます。つまり日本の精神医学者が「足りない」と思って追加した「セルフ」とは、宗教によるものが大きいのでは?と、直感的に私は感じました。
アメリカは宗教的にも一応自由でありますが、その文化の根底を支えるものに「キリスト教」というもの無しでは成立しないのでしょう。なにしろ、アメリカにメイフラワー号に乗ってきたのは、清教徒ですからね。
「大人の自我」の裏付けに"宗教"がある。しかしアメリカにおいては、わざわざ文書にするまでもない、無意識下の当たり前の事。いや、本当は宗教があるとわかっているけど、医学的な立場から堂々と「宗教」と書く訳に行かない・・・、そんなところかな?・・と。
さて、無宗教の日本は「セルフ」なる、苦しい言い訳?みたいなものを作る事で、構造分析をなんとか成立させましたが、他の国では・・・・と、考えると、ちょっと恐ろしい感じがしてしまうのですが・・・。
全然表面に記述されていない理論「宗教」が、自我、心の中心となる「大人の自我」を裏付けしているとしたら、イスラム教徒の「大人の自我」、キリスト教徒の「大人の自我」、そしてその他の宗教でも・・・、違う宗教を持っている人の心は、根本的な出発点が、全く違い、相容れないものである、とういことになってしまわないだろうか?宗教の違いとは、心のあり方が全く違う事になり、「正しい大人」の定義も「正義」「道徳」の定義も、互いに全く理解の出来ない、全く違うものになってしまう・・・・。そう考えると、宗教で戦争が起こるのも、納得出来てしまうのだが・・・(>_<)。
私も標準的な日本人でありまして、信仰やら宗教、というのは、正直実感として全くわかりません。でも、心をきちんと分析しようとする医学を突き詰めていって、宗教にぶつかるってのは、なんだか、不思議というべきか、なるほどというべきか・・・?
自分が無宗教の日本に生まれた事は、良かったのか悪かったのか・・・?
無宗教の日本という国は、戦争中には「お国のために命を捧げる事」が正しい大人だったのに、アメリカの支配下になったとたん、180度簡単に信念を変える事が出来てしまう身軽さ・・、そして今、自立した国を求められて、何をしてよいかさっぱりわからん目標の無い国・・・、良い事なのか悪い事なのか?
ま、あくまでも私の勝手な想像ですので・・・、全然的外れかもしれませんけどね!
最近ちょっと気になって考えている事でした。
--追記
「宗教」という概念についてもちょっと考える所があるのですが、そちらはまだ上手く言葉にまとまらないので、そのうちに!
セルフは(A)の自我に含まれる。
セルフの概念は
「構造分析」「2次的構造分析」「機能分析」に
つながらない話なので
世界的には異端の理論です。
もともとTAは治療理論として
エリックバーンにより確立されました。
その後、米国のキリスト教、
原理主義、福音ルーテル系等の派で演出するための道具として普及しましたね。
要するに洗脳するための道具として使われた経緯があるんですよ。
交流分析の学者にはキリスト教から出てきた御用学者が多く、
それらの人は「人をコントロール」するための理論展開です。
1996年にオウム真理教で交流分析のファシリテーターを
ヘッドハンティングしようとしていた事件が明るみに出ました。
カルト宗教の洗脳の道具として使われてしまう治療理論です。
いけない事ですが事実です。
詳しい解説、ありがとうございます。
私は TA に関してまったくの素人ですが、鬱病をきっかけに、そのての本をいくらかかじり読みするようになりましたが、医学の話のはずなのに、なんだか違和感を感じ、それがなんなのかなぁ~?と考えていました。
で、本には書かれていないけど、キリスト教が土台にあるのかも?と思い、あらためて読み直すと、あ~・・、とすっきりして、TA と宗教は密接に結びついているものなのだな、という自分なりの結論に至りました。
だとしたら、土台となる宗教がキリスト教ではなく、別の宗教だったら、TA の意味はまったく別のものになってしまうのではないか?というのがこの記事の趣旨でありました。私が一人で考えた、勝手な思いつきでしたが、あながち間違ってはいなかったのかしら?(^_^;)。