当方見聞記

旅と舞台・ライブ話を気ままに書いてます

また(><)

2011年04月08日 | 日記
地震、また大きなのがありましたね

静岡はそんなに揺れてはいませんが、長かったんで『また同じのきた』と一瞬慌ててしまった
津波は起きましたが、さすがに前回のような規模ではなかったのでそれに関してはちょっとほっとしました。
原発もとりあえず被害大きくなってないみたいだし…
ま、明るくならないと被害がはっきりわからないんでしょうが、大きな問題が起きていないことを祈ります。

被災地の方は、夜だし怖いことになってるんだろうな…足元には十分気を付けてください

しかし地震速報がテレビもネットも、いつもに比べてすぐに出なかったのはなぜだろう…ちょっと不安になりましたよ

崇福寺

2011年04月08日 | 日記
また新たに信長様の墓参りに行ってきました

岐阜城のふもとにある崇福寺です


岐阜と言えばね~やっぱり道三に信長でしょう
この崇福寺は、一説では土岐成頼・斎藤利安によって建立され、後に織田家菩提寺と有栖川宮家祈願所になっています。
快川国師が信玄に甲斐へ招かれる前までいたお寺でもあります。(快川国師は「心頭滅却すれば火自ずから涼し」の名言残したお坊さんです)

信長は斎藤龍興を滅ぼして岐阜に移ると、すぐに禁制を出してこの崇福寺を菩提所として特別に保護をしたんだそうです。
本能寺で信長が討たれると、信長の側室のお鍋の方が、岐阜城から崇福寺へ信長と信忠の遺品を持ち込み、それを埋めて位牌を安置させました。
この時のお鍋の方の書状が今もこのお寺に残っています。


庭も綺麗に整備されています

この梵鐘は稲葉一鉄の寄贈の品。一鉄は幼少時代、このお寺に預けられていたんだそうです。

本堂の中には貴重な展示物が
お鍋の方の書状はもちろん、信長や信玄、家光などの書状、信長が愛用していたとされるポルトガル人から寄贈されたと言う櫓時計、肖像画…などなど、わりと大雑把に展示されています
家光の書状があるのは、春日局の縁によるもの。やっぱ斎藤家だしね。そんなわけで家光はかなりこのお寺を保護していたようです

そしてこの本堂の見どころと言えばやっぱり『血天井』。
関ヶ原合戦の直前、岐阜城が落城した際、織田秀信(三法師)の家臣38名が切腹した場所の床板を、供養の為に天井に張ったものです。
ちなみに秀信は、自刃しようとしたのを東軍の池田輝政に説得され、高野山に落ち延びています。
この血天井、なかなか生々しいです
京都の養源院みたいな不気味さはありませんが(養源院は伏見城の血天井)、鎧の跡とかは見てわかります。

本堂を見終わったら、庭を抜けて本堂裏の墓所へ。

庭から見た本堂。
 
この門と土壁(2枚目は外から見た門)は一条兼良寄贈のもの。
斎藤家と一条家はかなり密なお付き合いだったようです

そして裏へ。

これは斎藤一族のお墓。なんだかちょこちょこしてます

 
信長・信忠の位牌を安置した位牌堂。
なかなか立派な彫刻です
この左側に廟所があります。

石牌は位牌型で、ひとつの石牌を左右にわけて(真ん中に線がある)信長・信忠の法名がそれぞれ刻まれています。
お客さんも少なかったので、ゆっくりお墓詣りしてしまいました

個人的には、以前岐阜来た時にはこのお寺の存在をまったく知らなかったので、今回はちゃんと寄れてよかったです
御朱印もいただけたし良かった良かった