








※このレビューは物語の結末に触れています※
さぁ、新たなステージの始まりだ。
エイミー・シャーマン・パラディーノによる『マーベラス・ミセス・メイゼル』シーズン1はあらゆる賞を独占し、ついにはエミー賞で計8個のトロフィーを獲得する大成功を収めた。山の手の若奥様からお笑い芸人へ転身した主人公ミリアム・メイゼルことミッジよろしく、華々しいデビュー飾ったこの作品に誰もが首ったけになったのだ。賢明な製作Amazonはシーズン1のOAを待たずにシリーズの続行を発表、現時点でシーズン3までの製作が決定している。
【大大大快作のシーズン1】
舞台は1958年のニューヨーク。裕福な生活を送っていた主人公ミッジは夫の不倫によって全てを失ってしまう。傷心と泥酔からフラリと上がった舞台で身の上を話すと客席は大笑い。小屋付きのスージーに「アンタは売れる」と見初められたミッジは、スタンドアップコメディアンとして新たな人生のスタートを切る事となる。
まず目を引くのが50年代アメリカの時代風俗を再現したプロダクションデザインの緻密さだ。カラフルな衣装、煙草の紫煙と人息で満ちた猥雑なライブハウス、そして当時人気を博した実在の芸人達の登場…その間をめくるめく長回しでカメラが駆け抜け、僕達を当時のNYへと誘う。ミッジにお笑いの薫陶を授けるのが伝説的お笑い芸人レニー・ブルースという作劇の妙も見所だ(ルーク・カービーが芸人やくざとでも呼びたくなるニヒルな風情で演じていて、いい)。ブルースは政治や宗教、セックスなど当時では過激とされるネタを多数扱い、公然わいせつ罪で何度も逮捕された先駆的異端児。この笑いでタブーをぶち破る、という精神が本作の根幹にもなっている。
ミッジは良妻賢母に務めてきたが、夫が不貞を働いて出ていけば責任は彼女にあると両親からも責め立てられる。本作の描く女性差別は決して大昔の出来事ではない。男に並んでお笑いをやれば自分の容姿をイジらないとネタにはならず、常に男達から“女のくせに”とマウンティングされてしまうのだ。下ネタとdisり芸から始まった彼女が世の中の"非常識”を槍玉に挙げるシーズン1第7話はハイライトだ。「なぜ女は困っていないのに困ったふりを、わかっているのにわからないふりを、お腹が空いてないのに空いたふりをしなくちゃならないの?」演じるレイチェル・ブロズナハンは凄まじい早回しで才気煥発なミッジを好演。漫談シーンはカットを割っているのにまるでライブを見ているような緊迫感と高揚感だ。
シーズン1最終回、ついにミッジは「ミセス・メイゼル」という芸名を名乗り、芸人としてのアイデンティティを手に入れる。拍手喝采ガッツポーズ、大団円の幕切れだった。
【高みへと登る道】
シーズン2はちょっとテンポが異なる。自らの"声”を見つけたミッジがより高みへと登るため、その道の在り処を探っていく物語だ。ステージアクトの描写は抑えられ、彼女を囲む人々のドラマにも多くの時間が割かれていく。家庭に居場所を見い出せなくなったママはフランスへ出奔。パパは永久就職していた大学から無期休暇を勧められ、やりがいを失ってしまう。縁故入社していたジュールは会社を辞め、実家の洋裁業の立て直しを始める…といった具合に各々が今一度、自分の人生を見つめ直していくのだ。中盤のキャッツキル編はプロットがやや停滞気味、シーズン1のサクセスを期待していた身としてはもどかしくスージーよろしく「早く舞台に立ってくれ」と言いたくなってしまうが、これは後の物語のために必要な"前座”だ。
見逃してはならないのが第7話。ミッジはたまたま知り合った画家のアトリエへ赴く。そこには誰の目にも触れることなく、素晴らしい絵画が1枚だけ置かれている。画家もその昔、穏やかな家庭生活を営んでいたが、それを捨て、己の魂を削るような想いでこの生涯最高の傑作を描き上げたのだと言う。「そんな作品を誰かに売ることはできない」
そして第10話。レニー・ブルースに誘われてミッジはTV収録を見学する。レニーはピアノにあわせて歌う「女房は出ていったが、オレは幸せ」。その過激なパフォーマンスからまたしても警察に逮捕された彼は活動を制限され、困窮していた。この7年後の1966年、レニーは自宅を差し押さえられたその日にドラッグのオーバードーズでこの世を去る。寂し気に舞台を去る彼にはそんな悲惨な晩年の影が射していた。
真の芸術とは大きな喪失から生まれる。ついに大舞台に立つ機会を得たミッジは両親も子供も、そしてジョールのことも全く考えずツアーに出ることを決断する。何の迷いもない。さらなる高みへと登るためには振り返っている暇はないのだ。そんな自身の気持ちを確かめるようにジョールと刹那の時を過ごすミッジ。過酷な道のりだが、彼女は既に足を踏み入れた。ドラマは第3シーズンで大きく動くことだろう。行け、ミッジ!
『マーベラス・ミセス・メイゼル シーズン2』18・米
監督 エイミー・シャーマン・パラディーノ、他
出演 レイチェル・ブロズナハン、アレックス・ボースタイン、マイケル・ゼゲン、トニー・シャルーブ、マリン・ヒンクル、ケヴィン・ポラック
『マニアック』はマジメに見ていても、第5話くらいまで話がさっぱりわからない。毎話、始まる度に主演ジョナ・ヒルとエマ・ストーンの置かれている状況が何の説明もなく変わっているからだ。時には希少動物を盗もうとするカップル、時には謎の鍵を盗もうとする泥棒、時にはエルフで、時にはギャング、そして時には『ジ・アメリカンズ』も真っ青のスパイコンビになる。その度にドラマのスタイルもコロコロ変わる。ウェス・アンダーソン風だったり、スコセッシ風だったり、『ロード・オブ・ザ・リング』風にもなるし、さらにはゴダールの『はなればなれに』まで引用されて、長回しの凄まじい銃撃戦まで出てくる。いったい何だこりゃ?
それもムリはない。『マニアック』の舞台は人間の精神世界だからだ。ジョナ・ヒルとエマ・ストーンは製薬メーカーの治験に参加、実験の度に己の心の奥底へ冒険し、自身のトラウマと向き合う事になる(そういう話でいいんだよね!?)。心に障害を抱えた2人にとってそれは本当の幸せを追い求める旅だ。
『マニアック』は007監督にも内定したキャリー・ジョージ・フクナガによるハリウッドへのエントリーシートみたいな作品だ。もともと『ジェーン・エア』と『トゥルー・ディテクティブ』が同じフィルモグラフィに並ぶ万能型監督である。いずれのスタイルも単なる模倣に留まらず、ジャンルへの偏愛にあふれ、長編映画でも十分に通用する映画的ルックだ。本作にはこれまで見られなかったレトロフューチャーな美術セットや、ヘンテコ日本描写などオフビートな楽しさがあり、予想外の魅力も発揮。もちろん、007ファンには『トゥルー・ディテクティブ』でも話題を呼んだ長回し銃撃戦が安心材料となるだろう(とは言え、アクションがまるで似合わないエマ・ストーンにやらせてギャグとして撮っている)。
俳優への演出力もより磨きがかかっている。終始ボソボソ喋り、心配になってしまうくらいの大幅減量をしたジョナ・ヒルはこれまでにない物悲しさを見せており、名優への階段をまた一歩上がった印象だ。
女優の趣味もいい。エマ・ストーンの妹役には『オザークへようこそ』での奮闘も記憶に新しいジュリア・ガーナーを起用。気鋭の若手グレース・ヴァン・パタンも印象的な使われ方をしている。そして今年は『アナイアレイション』『クレイジー・リッチ!』と連投したソノヤ・ミズノが美貌も身体能力も封印して演技に専念、新たな魅力を発揮してブレイクスルーだ。若手だけに偏重せず、大女優サリー・フィールドから思いがけないコメディ演技を引き出しているのもフクナガの演出力によるものだろう。
正直、劇映画のフォーマットにまとめられた感もあるが、次世代スター監督候補ともいえるフクナガの実力を十二分に堪能できる1本として映画ファンは押さえておきたい作品だ。真の主役は監督フクナガその人である。
『マニアック』18・米
監督 キャリー・ジョージ・フクナガ
出演 ジョナ・ヒル、エマ・ストーン、ジャスティン・セロー、ソノヤ・ミズノ、ジュリア・ガーナー、サリー・フィールド、グレース・ヴァン・パタン
※Netflix独占配信

グレイス・マークスは殺人罪で15年の服役中にあった。貧しいアイルランド系移民の彼女は奉公先で下男と共謀し、主人と女中頭を殺害したのだという。事件当時の記憶の多くが欠落しており、極刑を免れた彼女はその後、模範囚となって監長邸宅で家事手伝いに従事していた。
世間にはグレイスの冤罪を訴える気運が高まり、精神分析を行うべくアメリカからジョーダン医師がやって来る。
実在の事件に材を取った同名小説の映像化である本作はジョーダン医師とグレイスの面談を軸に回想形式で進行していく。同時期に配信されたNetlix製作『マインドハンター』よろしく殺人犯の心理に潜り込んでいく構成だが、同時にグレイスのモノローグも挿入される。シニカルで厭世観に満ちた彼女の語り口からは真実そのままを告げていない事が伺い知れる。果たしてグレイスはおそるべき妖婦なのか、それとも時代の犠牲者なのか。

ドラマはグレイスを演じるサラ・ガドンのワンマンショーだ。
回想シーンの世間知らずな少女時代(おそらく15歳くらいの設定)と、15年後の謎めいた殺人犯を演じ分ける緻密なパフォーマンスは2017年最高の演技と言っていい。時に乙女、時に妖婦とあらゆる表情を使い分け、僕たちは幻惑され、慄く。同郷カナダの鬼才デヴィッド・クローネンバーグ(本作ではゲスト出演)作品で注目を浴びた彼女は元来、妖気に満ちた役柄は持ち役であり、本作ではそこに厭世的なペシミズムをにじませて、原作の持つ男性性への批評精神を体現している。本作最大の見所はサラ・ガドンであり、ついに代表作を手に入れたのだ。
グレイスに魅せられた男たちは運命を狂わせていく。
ある者は殺人に手を染め、ある者は悔恨の念を背負い、そしてジョーダンは日ごと彼女への欲情を募らせていく。謎めいた女に男達が翻弄されていく所謂“ファムファタル”ものだが、物語は事件の真相究明を主眼にはしていない。
原作は今年のエミー賞を席巻した『侍女の物語』のマーガレット・アトウッド。
フェミニズム文学の巨匠が描き出すのは謎めいた美女に“燃える(萌える?)”男性性への批評だ。グレイスは気丈さや可愛らしさ、儚さ、妖しさといったあらゆる表情を相手の求めるように使い分ける。労働的にも性的にも搾取され続けてきたグレイスは男が女へ求める都合の良い願望を満たす事で男尊女卑の時代を乗り切ってきたのだ。
だが、これは過ぎ去った過去の出来事だろうか?
この間、僕は男性がある女性を「儚げな所がイイ」と評している場面に出くわした。だが、僕が知る限り彼女はとても芯の通った人だし、力強い人だ。“女性は弱く、庇護すべき存在”という一方的な思い込み、決めつけの男性優位主義的な思想は今も全く変わっていないのかも知れない。
終幕、グレイスが見せる微笑はいったい何を意味するのか。
誰かの欲望のために自分を偽る事でしか居場所を得られなかった人生の非情。グレイスの青い瞳は時を越え、今を生きる僕たちを見据えている。