いろいろと雑事に追われて肝心の物をアップできずにいます。
加藤典洋の「敗戦後論」などをもとに構想は出来ているのですがまとめて書く時間が出来てから取り掛かろうと思っています。
ちょっと、前ふりとして、戦争責任について軽く述べます。これは、自由にともなう責任を考える際に役立つと思われるからです。
先の大戦で、何百万ものアジアの無辜の民が、日本の侵略戦争によって惨殺されました。
でも、侵略戦争に行き悲惨な死を遂げた日本の兵隊たちは無駄死にであって永久に浮かばれないのでしょうか。私たちが、先の大戦が、日本の侵略戦争であって、アジアの人々に多大な迷惑をかけたと謝罪するとき本当に自分のこととして謝罪しているのでしょうか。どこか他人事のような感覚がないでしょうか。ではどうしたら、過去の日本人がやったことを私たちの痛みとして共有し、真に心の底からアジアの人々に謝罪することが出来るのでしょうか。「敗戦後論」は、このことを取り上げて論じています。
加藤典洋さんは、浮かばれない無駄死にをした日本の兵隊の追悼を、犠牲になったアジアの民よりも先に行い、過去の日本人たちと同一化することが大事だ、という趣旨のことを述べています。これに対しては、アジアの人々の追悼を先にすべきだ、侵略戦争をやった日本人を先に追悼するとは何事だ、という批判が大きく展開されました。加藤さんはこれに対し、自国の兵隊の追悼をすることによって我々は彼らと一体化し、真に戦争責任を引き受けることが出来る主体となるのだ、といっています。過去の日本人は、悪い奴らで今の僕たちとは違うんだと言う態度では、真の追悼は出来ないといっているのです。
このことは、戦後から現代までを通して問題となる、「ノンモラル」の状態、つまり、「俺とは関係ないし、俺は悪くないもん」という態度とも関係していて、非常に重要なところです。また詳しくアップします。
加藤典洋の「敗戦後論」などをもとに構想は出来ているのですがまとめて書く時間が出来てから取り掛かろうと思っています。
ちょっと、前ふりとして、戦争責任について軽く述べます。これは、自由にともなう責任を考える際に役立つと思われるからです。
先の大戦で、何百万ものアジアの無辜の民が、日本の侵略戦争によって惨殺されました。
でも、侵略戦争に行き悲惨な死を遂げた日本の兵隊たちは無駄死にであって永久に浮かばれないのでしょうか。私たちが、先の大戦が、日本の侵略戦争であって、アジアの人々に多大な迷惑をかけたと謝罪するとき本当に自分のこととして謝罪しているのでしょうか。どこか他人事のような感覚がないでしょうか。ではどうしたら、過去の日本人がやったことを私たちの痛みとして共有し、真に心の底からアジアの人々に謝罪することが出来るのでしょうか。「敗戦後論」は、このことを取り上げて論じています。
加藤典洋さんは、浮かばれない無駄死にをした日本の兵隊の追悼を、犠牲になったアジアの民よりも先に行い、過去の日本人たちと同一化することが大事だ、という趣旨のことを述べています。これに対しては、アジアの人々の追悼を先にすべきだ、侵略戦争をやった日本人を先に追悼するとは何事だ、という批判が大きく展開されました。加藤さんはこれに対し、自国の兵隊の追悼をすることによって我々は彼らと一体化し、真に戦争責任を引き受けることが出来る主体となるのだ、といっています。過去の日本人は、悪い奴らで今の僕たちとは違うんだと言う態度では、真の追悼は出来ないといっているのです。
このことは、戦後から現代までを通して問題となる、「ノンモラル」の状態、つまり、「俺とは関係ないし、俺は悪くないもん」という態度とも関係していて、非常に重要なところです。また詳しくアップします。